今朝、何気に見ていたNHK『「とと姉ちゃん」と、あの雑誌』で、
『「暮しの手帖」戦争中の暮しの記録』と制作秘話を知った。
そこには、「どうして言いなりになってしまったんだ」と、戦後生まれの声。
戦争のつらい記憶なんか、誰だって忘れてしまいたいだろう。
でも、戦争を知らない世代に、戦争という日常を伝えなければ、同じ過ちを繰り返してしまう。
暮らしの手帳社
「暮しの手帖」戦争中の暮しの記録
【この戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって生きてきた人達が、何を苦しみ、なにを食べ、なにを着て、どんなふうに暮してきたか、どんなふうに死んでいったか、その数少ない記録がここにある。これが戦争なのだ。それを知ってもらいたくて、この一冊をのこしてゆく。君もまた後に生まれる者のために、この一冊をどんなにぼろぼろになっても残しておいてほしい。(あとがきより)】
「戦争中の暮しの記録」制作秘話―「暮しの手帖」の戦後70年
「とと姉ちゃん」と同じNHK朝ドラ
ごちそうさん 137話 どないしたらこんなふう(戦争)にならんかったんやろか?
gooテレビ番組・NHK総合
「とと姉ちゃん」と、あの雑誌
【とと姉ちゃんの主人公のモデルとなった大橋鎭子。大橋鎭子の雑誌づくりを支えたのが花森安治である。そんな2人が作り上げたのが雑誌が「暮しの手帖」である。雑誌は100万部に迫る人気となったが、今回はその人気のヒミツに迫る。
「とと姉ちゃん」に出演している片桐はいりが登場。とと姉ちゃんの主人公のモデルとなった大橋鎭子。大橋鎭子の雑誌づくりを支えたのが花森安治である。そんな2人が作り上げたのが雑誌が1948年創刊の「暮しの手帖」。創刊号の表紙を飾ったイラストは花森安治が手がけた。雑誌は空襲で焼けた家具の代わりになる壁掛け収納など、厳しい暮らしに快適さや楽しさをもたらす知恵があふれていた。そんな雑誌の原点には、大橋鎭子が防空壕に避難している時に温めていたアイデアだった。
創刊号にはブラジャーパッドの作り方が掲載されている。創刊号が出た1948年には、戦後初のファッションショーが行われた。もんぺを余儀なくされた女性たちの間では、オシャレな洋服への憧れが高まっていたが、当時のブラジャーにはパッドが入っていなかった。そこで雑誌は身近な材料で作るパッドを提案した。
大橋鎭子が66年前に書いた「暮しの手帖」のレシピ通りに作ったホットケーキを試食した。大橋は父 武雄さんが肺結核で子供の頃がつらかったので、病気にならないためには食べる物をおいしく食べることが大事だと考えるようになった。
またいかに安いものでもおいしく食べられるかも研究した。
「ホットケーキ」のレシピには文章だけが掲載されていた当時(画像 婦人倶楽部)では革命的だった、プロセス写真を導入した。「料理店にまけないカレーライス」なども綿密に過程が掲載されていた。暮しの手帖社OBは原稿の書き方には非常に厳格だったという。大橋は徹子の部屋で「雑誌を買った時にすぐに目の前で作れる」ことを目標にしていたと語っている。
「暮しの手帖」には「戦争中の暮らしの記録」(1968年)という異色の号がある。元編集員 小榑雅章さんに当時の原稿を見せてもらった。この号は読者の書いた、おやつがわりの食塩、どろどろの銭湯など、戦争中の暮らしについての手記139通だけで構成されている。
評論家 樋口恵子は当時高度経済成長期の当時、いかに豊かになるのかという本が積まれている中でこの内容は衝撃だったと語った。この号はそれまでで最大の売り上げとなった。番組は花森安治のこの言葉で締められた。「毎日我々が生きておること これが暮らしだ。これを立派にしなきゃならん」】一部抜粋
『「暮しの手帖」戦争中の暮しの記録』と制作秘話を知った。
そこには、「どうして言いなりになってしまったんだ」と、戦後生まれの声。
戦争のつらい記憶なんか、誰だって忘れてしまいたいだろう。
でも、戦争を知らない世代に、戦争という日常を伝えなければ、同じ過ちを繰り返してしまう。
暮らしの手帳社
「暮しの手帖」戦争中の暮しの記録
【この戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって生きてきた人達が、何を苦しみ、なにを食べ、なにを着て、どんなふうに暮してきたか、どんなふうに死んでいったか、その数少ない記録がここにある。これが戦争なのだ。それを知ってもらいたくて、この一冊をのこしてゆく。君もまた後に生まれる者のために、この一冊をどんなにぼろぼろになっても残しておいてほしい。(あとがきより)】
「戦争中の暮しの記録」制作秘話―「暮しの手帖」の戦後70年
「とと姉ちゃん」と同じNHK朝ドラ
ごちそうさん 137話 どないしたらこんなふう(戦争)にならんかったんやろか?
gooテレビ番組・NHK総合
「とと姉ちゃん」と、あの雑誌
【とと姉ちゃんの主人公のモデルとなった大橋鎭子。大橋鎭子の雑誌づくりを支えたのが花森安治である。そんな2人が作り上げたのが雑誌が「暮しの手帖」である。雑誌は100万部に迫る人気となったが、今回はその人気のヒミツに迫る。
「とと姉ちゃん」に出演している片桐はいりが登場。とと姉ちゃんの主人公のモデルとなった大橋鎭子。大橋鎭子の雑誌づくりを支えたのが花森安治である。そんな2人が作り上げたのが雑誌が1948年創刊の「暮しの手帖」。創刊号の表紙を飾ったイラストは花森安治が手がけた。雑誌は空襲で焼けた家具の代わりになる壁掛け収納など、厳しい暮らしに快適さや楽しさをもたらす知恵があふれていた。そんな雑誌の原点には、大橋鎭子が防空壕に避難している時に温めていたアイデアだった。
創刊号にはブラジャーパッドの作り方が掲載されている。創刊号が出た1948年には、戦後初のファッションショーが行われた。もんぺを余儀なくされた女性たちの間では、オシャレな洋服への憧れが高まっていたが、当時のブラジャーにはパッドが入っていなかった。そこで雑誌は身近な材料で作るパッドを提案した。
大橋鎭子が66年前に書いた「暮しの手帖」のレシピ通りに作ったホットケーキを試食した。大橋は父 武雄さんが肺結核で子供の頃がつらかったので、病気にならないためには食べる物をおいしく食べることが大事だと考えるようになった。
またいかに安いものでもおいしく食べられるかも研究した。
「ホットケーキ」のレシピには文章だけが掲載されていた当時(画像 婦人倶楽部)では革命的だった、プロセス写真を導入した。「料理店にまけないカレーライス」なども綿密に過程が掲載されていた。暮しの手帖社OBは原稿の書き方には非常に厳格だったという。大橋は徹子の部屋で「雑誌を買った時にすぐに目の前で作れる」ことを目標にしていたと語っている。
「暮しの手帖」には「戦争中の暮らしの記録」(1968年)という異色の号がある。元編集員 小榑雅章さんに当時の原稿を見せてもらった。この号は読者の書いた、おやつがわりの食塩、どろどろの銭湯など、戦争中の暮らしについての手記139通だけで構成されている。
評論家 樋口恵子は当時高度経済成長期の当時、いかに豊かになるのかという本が積まれている中でこの内容は衝撃だったと語った。この号はそれまでで最大の売り上げとなった。番組は花森安治のこの言葉で締められた。「毎日我々が生きておること これが暮らしだ。これを立派にしなきゃならん」】一部抜粋