![大相撲は日本の国技?](https://stat.ameba.jp/common_style/img/home_common/home/ameba/allskin/ico_kuchikomi2.gif)
私は思う! 派!
なぜか、知らないけれど、相撲は奈良時代から開始されたとの話だが、これ、相撲は本質的に
神事である事を忘れた内容だ。相撲は、神代の時代から始まっている神話から来ている内容だ。
テレビでは、この部分を消しているが、だから国技ではないと思わせている。
日本の建国から繋がっている神事の一つとして相撲がある。だから、国技の内容だ。
古代 [編集
]
相撲の起源は非常に古く、古墳時代 の埴輪 ・須恵器 にもその様子が描写されている。
- 『古事記 』の神代 (日本神話 )においては、建御雷神 (タケミカヅチ)の派遣(葦原中国平定 )の際、出雲の建御名方神 (タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写 がある。その際タケミカヅチが手を氷柱 へ、また氷柱から剣 (つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。
弥生時代
- 『日本書紀 』には、神ではなく、人間としての力士 同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇 7年(紀元前23年 )7月7日 (旧暦) にある野見宿禰 と「當麻蹶速」(当麻蹴速 )の「捔力」(「すまひとらしむ・スマヰ」または「すまひ・スマヰ」と訓す)での戦いである(これは柔道 でも柔道の起源とされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技 の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸 ・武術 であったことは明確である。
宿禰・蹶速は相撲の始祖として祭られている。
さらに
- 『古事記 』の垂仁記には、「ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。」とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。
古墳時代
- 記紀 には、景行天皇 40年(110年 )に日本武尊 が、大和国 (現在の奈良県)の息吹山 の神(豪族の長?)を素手で倒そうと、草薙剣 を持たずに、素手で山に入ったことが記されている。
- 『日本書紀 』の雄略天皇 13年(469年 )には、秋九月、雄略天皇が二人の采女 (女官)に命じて褌 を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根 の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲である
飛鳥時代
- 『日本書紀 』の皇極天皇 元年(642年 )7月12日 (旧暦) 「乙亥 饗百濟使人大佐平智積等於朝 或本云 百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善乃命健兒相撲於翹岐前」にあるとおり百済 の王族 の使者をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせたことが書かれている。
- 『日本書紀』の天智天皇 7年(668年 )秋7月「于時近江國講武」すなわち近江国 で武術を講じたとある。
- 『古事記』『日本書紀』以外にも『続日本紀 』『日本後紀 』『続日本後紀 』『日本文徳天皇実録 』『日本三代実録 』『類聚国史 』『日本紀略 』『小右記 』『中右記 』等にも、相撲の記述が見られる。