先日、オンラインでコーチングを受けました。

 コーチングは、何かを教えてもらうのではなく、自分自身の思いに気づくことが目的です。コーチングを受ける人は、コーチングをする人の問いかけ等によって、考えを自分自身に向け、自分の心に入っていくのです。

 自分自身の思いに気づくなんて自分一人でも出来るじゃんと思ったそこの方、意外と一人では限界があります。やはり他者から「問いかけ」というサポートを受けることで、自分一人では気づけなかった自分自身の思いにたどり着けるのです。

 私にコーチングをしてくださった方は、とても道案内が上手い方でした。そして、私は今まで片手で数えるほどしかないであろう、衝撃的な気づきを得ることが出来ました。

 

ひとまず、コーチングを受けていて学びや気づきがあったのですが、それらを箇条書きにしたいと思います。

 

①他者とのコミュニケーションにおける「承認」とは、youメッセージとIメッセージからなる。

 →例)「あなたの行動のお陰で、私は嬉しくなった」 

    「あなたの言葉で、私は悲しくなった」

 意外だと思ったが、2つ目も承認らしいです。相手の行動を認めた上での私の感情を表現することは、どうやら承認のコミュニケーションみたいです。

 

②言語化はとても大切。そして声に出そう。そのためのコーチング。

 →言語化することで、自分自身の気持ちに気づくことができる。そして言葉にすることで脳に刺激を与えることが出来る。可能であれば他者と対話した方がいい。そのためにコーチングはある。

 

③私はつい陰に注目しがち。

 →もしかしたら、私の根底には「褒めてもらいたい」という欲求があるからかもしれない。褒めてもらいたいから、あえて陰にスポットをあてて、他者には光の部分に注目してもらい、そのフィードバックを受けたいということかもしれない。

 

④自己認知とは

 →「あ〜、また自分同じことやってるなぁ」とただ見ること。

 

⑤過去に思いを馳せない

 →「あ〜、また自分同じことやってるなぁ・・・なんで同じことを繰り返してしまうのだろう・・」という思考は、「なんで〜」と入った瞬間、過去に対して思考を回すことになる。これは堂々巡りの入り口でもある。「〜やってるなぁ・・・次はこうしよう!」とここできっぱり終えること。次に同じシチュエーションが来たら「こう行動する」と頭にセットしたら、そこでおしまいにする。

 

⑥「ダルマ」という表現は、私にとってメタファーとなる

 →転んでも、何度でも立ち上がる。立ち上がってしまうということ。

 

⑦自分はガンジーみたいだった(かもしれない)

 →「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」という部分において。

 

⑧交通事故の経験が、私の力の源

 

※会社は私にとって、自分の「在り方」を体現する場だった

 

※※「転職」をすることによって、「転職が出来る自由」を手に入れたい

 

(※、※※は、コーチングではなく、妻と話していて気づいたこと。コーチングの話と繋がるので、ここに記載しました。)

 

 以上が学び、気づきのピックアップですが、そもそも私はコーチングを受けることで自分自身の何に気づきたかったのかというと、それは「今の自分の原動力」です。私はいま会社を休職して、マッサージの専門学校に通っています。私の仕事がマッサージに関係するのかといえば、それはNOです。全くかすりもしません。ではマッサージの仕事にスイッチしたいから学校に通い始めたのか。それもNOです。私がマッサージの専門学校に通い始めたのは、この専門学校の空間で学びをしたかったからです。私の専門学校は、仏教の世界観がある空間です。私は仏教に人間性を高めることができる可能性を感じていて、どうしてもこの専門学校で学びをしたかったのです。

 しかし、冷静に考えてみればそれだけの理由で会社を休職し、300万円以上の学費も払い、妻も説得し、両親の反対を押し切ってまでやるでしょうか。まぁ、私は実際「やった」のですが、一歩引いて考えてみれば中々の訳のわからなさかもしれません。実際に将来の仕事について、色々モヤモヤ考えていたのは事実ですが、一体この行動力の源泉はどこなのでしょうか。自分自身のことなのですが、これが分からず、それを探し求めてコーチングを受けました。

 これはそのまま私自身の今後の身の振り方にも直結することでした。今の仕事を定年まで続けるか、それとも思い切って飛び出すか。私にとってはとても重大なことです。今の会社に留まれば安定的な収入は約束されます。家族を持った私にとってはありがたいことです。しかし一方で今の会社の環境で、仕事を定年までやると想像すると、とても嫌になります。人生の大半は仕事に費やされます。果たして経済的な安定は守られるからといって、何も考えず定年まで今の会社にいていいものか。

 反対に会社を飛び出すとしたらどうでしょうか。収入は落ちる。仕事を変えたからといって、必ずしも次の仕事が自分にはまるとは限らない。新しい環境になじめるのか。といった不安がいっぱいあります。冷静に考えると、今の会社に留まった方が明らかにリスクは少なそうです。しかし、心は死んだままです。果たして自分はどうしたいのか・・・

 私は全く何も行動していないわけではない。むしろ行動している。でも仕事のことになると煮え切らない。これは一体なんだろうか。このモヤモヤを私は解消したいと願っていました。

 コーチングの中で色々話しました。話していく中で20歳のときに起こしたバイク事故のことに話題がいきました。この事故は私の前方不注意なのですが、高速道路でバイクに乗っていた私は、80km/hぐらいのスピードで渋滞で止まっていた車に突っ込んでしまったのです。そのとき私は臨死体験みたいなことを経験しました。気絶をして夢を見ました。夢は2層になっていて、初めは事故を起こした夢を見ました。でも夢の中の私は事故を起こした現実を拒否しました。そしたらその夢から覚めて「事故を起こしていない夢」を見ました。この階層では渋滞にはまって寝落ちしていた私がいました。正直、安心しました。事故を起こしていなくて安堵しました。でも次の瞬間背後から「生きたい」という欲求が迫ってきました。身体の細胞は事故を起こしたことを知っています。私の細胞は「生きたい」と言っていました。夢の中の私もそれに呼応して、「生きたい」と念じました。「現実と向き合うから生きたい」と念じました。そうしたら次の瞬間「フッ」とその夢が終わり、本当の現実に戻ってきました。

 最初に見た景色は、真っ赤な世界でした。私はフルフェイスのヘルメットをしていましたので、前の車に突っ込んだときに、頭ごと前の車のリヤガラスに突っ込んだときに、顎の下をガラスで切っていたのです。その自分の血がヘルメットのシールドに赤い色をつけ、まるで色眼鏡をしているかの如く、真っ赤にそのシールドは染まっていました。

 ヘルメットをかぶったまま、私は事故を起こしたことを認識し、覚悟をしました。「やってしまった・・・」とうなだれました。その後救急車で病因に運ばれましたが、とくに命に別状はなく、入院も必要ないとのことで、顎の下の傷を10針程度縫っただけで済みました。

 私はこの事故で1つの確信を得ました。それは「『死』は常に隣にいる」という「事実」です。それまで「死」は頭では知っていましたが、自分には縁のないもの。おとぎ話の世界のことのように感じていたのです。しかし現実は違いました。「死」は常に隣にいたのです。このときから私は「明日死ぬかもしれないのだから、常に後悔のない人生を送りたい」と強く思いました。この瞬間私の人生は1度か2度、方向を変え始めました。その後私は気づかぬうちに走ってきました。そして気づいたら「今」の地点にいました。

 

 と言うようなことにコーチングで気づいたのです。つまり私の行動力の源泉は、交通事故によって得た「『死』は常に隣にいる」という気づき、直観でした。だからこそ、後悔のない人生を送りたいと願い、その気持ちが私の価値観のベースとなっていたのです。

 コーチングを受ける前ももちろん頭では知っていました。しかし、身体では分かっていなかったのです。それがコーチングを受けたことによって、身体も分かったのです。腹に「ストン」と落ちた感覚を明確に感じました。

 そしてこの気づきによって、私の中で、私に行動を起こす動機、意欲、考え方に奥行きが出来てきました。先程の転職の話も、後悔のない人生を送りたいという気持ちがベースとなって、私に転職の価値観がやってきたのでした。花で言ったら花壇や土が交通事故によって得た価値観です。その上に咲いた私の色んな価値観は、言うまでもなく交通事故で得た価値観によって育てられたのです。ヒトはつい土の上に咲いている花に目がいきがちですが、源は土です。これを私は奥行きが分かってきたと表現しました。

 このことに気づくまでは、私の中にある全ての価値観が平面上にバラバラに存在していました。しかし奥行きがついたことで立体的に捉えられるようになりました。

 

 今、私は迷っています。悩んでいます。特に今後、仕事をどうするか迷っています。迷ったらどうするか、それは「原点に戻る」です。私の原点は「後悔のない人生を送る」ということです。常に全力疾走することです。この価値観は私の核です。その価値観に沿ったとき、どのような選択を私はするのか。引き続き自分と対話しながらやっていきたいと思います。

 

「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」