人はつい何をやりたいかを考えがちだと思う。少なくとも私はそうだ。なにをやりたいかを考えるのは「Doing」である。

 しかし本当必要なのはもしかしたら自分はどう在りたいかを問う「Being」かもしれない。


 私はいま専門学校に通ってあん摩マッサージ指圧師の勉強をしているが、最近マッサージは「人を救う」ことができるものだと分かってきた。昨今の世の中では「モノ」ばかりにスポットがあたり、自分の心とゆっくり向き合う時間が少ないように思う。

 我々人は、本来自然の中に生きる「生きモノ」だから、自分の内側を大切にして健全に保つことはとても重要である。それができないというのが今の世の中ではないだろうか。

 そんな状況の中で、人が人に触れて行うマッサージの類はとても有益である。触れられるだけで気持ちがいい。

 なぜだろうか。それは自然物のヒトが自然物であるヒトに触れられるからである。簡単に言えば自然に触れたから気持ち良く感じるのである。これがマッサージに対して「人を救う」と感じた理由である。


 私はいま会社を休職して専門学校に通っている。私の会社はマッサージの仕事とは無縁の会社で、私自身もマッサージの仕事とは無縁でここまできた。それなのにマッサージの専門学校に通いたいと思った理由は、この専門学校が持っている独特の空間で「学び」がしたいと思ったからだ。そんな感じだから、マッサージ師になろうとして専門学校に通い始めたのではない。これは揺るぎがない事実である。

 しかし今の私の心は揺れている。マッサージの仕事をするという選択肢も出てきた。元々いまの会社で今後どうしていきたいかを悩んでいたのもあるせいか、これをご縁に思い切って仕事を変えてみるのも手かなと感じるようになった。

 仕事を思い切って変えてみたいと思う一方で、経済的な観点から不安もある。私には生後10ヶ月になる娘がいる。妻もいる。つまり家族がある。マッサージの仕事を選んだ場合、収入がガクっと落ちる。これで家族を養っていけるのか不安なのである。


 今の会社に復職しても辛そうだ。でもマッサージの仕事を選んだ場合、収入が不安だ。


 こんな感じで私の心は揺れている。


 こんなことを悩んでいる時、異業種交流のオンライン勉強会にて「Doing」と「Being」の考え方を聞いた。

 「Doing」は、やりたいこと。

 「Being」は、どう在りたいか。

 このような意味らしい。そして本当に必要なのは「Being」らしい。

 Beingさえあれば、極論仕事はなんでもいいとなるそうだ。


 確かにDoingは表にあるものだ。しかし表にあるものはいつか変わる。自分も常に変わっている。つまりその時にいいと思っても、必ずいつかお互いに変わっていくから、あの時にいいと感じたものは存在しなくなる。Doingだけで判断をしていると、自分が自分と外界に振り回されることになる。またDoingが優位になっていると「飽き」がきて長続きしない。私達は必ず飽きる生き物である。これは「慣れ」と表裏の関係だと思うが、Doingでは「飽き」に対処できない。

 一方でBeingは変わらない。物事全てに通ずるような、非常に純度の高い抽象的な部分にあるモノというか、そんな感じの価値観である。全ての物事に通ずるのだから、自分や対象が変化しても関係ない。一本の軸が通った人生を歩むには必要なモノだろう。また「飽き」は仮にあったとしても関係がない。Beingは在り方の追求なのだから、「飽き」は関係ない。それよりももっと対象の奥深くに潜っていこうとするだろう。故に「飽き」が来ないとも表現できそうだ。


 なるほど。僕には「Being」が足りないのかな?これがあれば今の会社でも積極的にやっていけるのだろうか。いやまてよ、ちょっと考えてみよう。

 例えばスポーツの陸上で言えば様々な種目がある。長距離走が得意な人もいれば短距離が得意な人もいるだろう。では長距離走が得意な人が、わざわざ短距離走をやるだろうか。もしくは短距離走でやってきた人が、実は自分は長距離向きなのではないかと気づき始めているのに、わざわざ意固地に短距離走を続けるだろうか。陸上選手としての在り方を考えれば短距離走も長距離走もなんでもいいとなるのだからと言って、他の種目をやらないということになるのだろうか。

 これは感覚的に違和感を感じるかもしれない。間違いなくその人の「適性」は存在すると思う。上記の例で言えば長距離走と短距離走では筋肉のつき方もその質も異なる。後天的に鍛えられてきたものもあれば、先天的な向き不向きもあるだろう。これは「適性」である。いくら在り方を追求したところで「適性」は間違いなく存在する。

 どうせやるなら自分の「適性」はおさえておきたい。こう考えると次のように整理できないか。


 どう生きるか(仕事も含めて)

 ・在り方を追求する

 ・自分の適性を知る


 在り方の追求は自分勝手に決めるモノではなく、様々なツールから自分が学びとった材料をもとに判断するべきであろう。また自分の適性は「適性検査」のようなものから、様々な経験を通して自分がどう感じたかということ、さらには周りの人から自分に対して今までどのようなフィードバックをもらってきたかなど、総合的に判断したいところである。

 

 自分自身のことに戻る。自分はどうありたいか。私は哲学が好きだ。私は哲学は、世の中を正しく見るための試みだと思っている。そして仏教などの考え方にも惹かれている。この世の真理に自分の努力で近づくことができるかもしれないと希望を抱かせてくれるからだ。

 そもそも哲学はなんで好きなのか。この辺りに私の根源があるように感じる。でも未だしっくり来る言語化には至っていない。この世の仕組みを知りたい?現象に振り回されたくない?楽に生きたい?一体なんだろうか。

 一つ言語化できるとしたら、自分が今まで「これってこういうことだよな〜」と当たり前のように理解していたものが、覆される時の感覚が快感であるということだ。

 また聖書の一説にあるようだが、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8章32節)の言葉通り、正しくものを見ることは、私たちの思い込み(概念)による行動や思考の制限から解放させてくれる。もしかしたら、私は未だ見ぬ新しい領域を見つけたいのかもしれない。自分だけの価値の世界で、悠々自適に暮らしたいのかもしれない。俗の価値に引っ張られることなく、自分の尺度を確立させたいのかもしれない。

 こう書くと独りよがりの価値の世界に閉じこもる気かなと感じるかもしれないが、決してそうではない。

 常に自分の存在とその外側とは繋がっておく必要がある。自分の存在だけ分離するのは健全とは言えない。なぜなら我々は例外なくこの世の、この自然の中において相対的な関係性の中で生きているからだ。相対的な関係性とはつまり、他者がいるから自分が成り立つことを意味する。故に外界との繋がりは絶ってはいけない。

 では自分だけの価値観、自分だけの尺度の確立は何を言っているのか。それは外界のものを自分の中に取り入れる時に使うフィルターを指している。このフィルター如何で自分の中にどのような世界観を作り上げるかが決まってくる。我々は外界のものをそのまま取り入れているわけではなく、必ず自分のフィルターを通して外界を自分のなかに組み立て、自分の中に組み立てたものに基づいて行動していると私は考えている。

 つまり同じ現象だったとしても、フィルターの違いで個々の中に作り上げられる世界はだいぶ異なる。ここが重要なポイントだと思う。勿論、穏やかな世界を築きたいと私は願っている。

 私の日々の試みはこれをやっているのかもしれない。


 これが私の在り方なのか。自分のやっていることは自分自身のフィルターをこしらえる作業だったのか。仕事もそのためなのか。今の会社ではもはや、そういう意味で学べることはないと私は直観しているのか。

 でもとにかく今最大のテーマである仕事については、あと1年半以内には一旦、一応の決着をつけなくてはいけない。

 その時に心掛けたいのは、Doに囚われて「やってみたけど、こんなことをやりたかったのではない」ということなのか、それとも適性の観点でそう感じるのか、はたまた自分の在り方がその仕事の環境では叶わないのか、このあたりはしっかり区別をつけて判断したいところである。