久しぶりのブログ更新となりました。なんとなく文章を書くのが億劫で避けてましたが、また書いてみようかなという気持ちになりました。

 今回のお話は「対象と繋がる感覚」についてです。対象と繋がるためには次の3つの観点が重要だと気づきました。

 ①自分の意識が対象にあること

 ②思考が働いていないこと

 ③集中力と注意力の適切なバランス

 

【①自分の意識が対象にあること】

 私はいまマッサージ師を養成する専門学校に通っていますが、授業の中で患者が気持ちいいと感じるときは、自分の意識が相手にあるときだと先生から言われました。まぁ、よくありがちな指摘だと思います。何も意識しなければ「相手に意識を集中して・・・」という感じのありふれた捉え方で終わってしまうかもしれません。しかし私はそのとき気づきました。その気づきとは、相手に意識があるときと、自分に意識があるときの『差』です。僕の好きな言葉で言えばその2つの『境界』が分かったと言うことです。文字通り僕の中でははっきり『分かれ』ました。

 授業中は手技の練習なので、どちらかと言えば意識が自分にあることのほうが多いです。しかし、相手が気持ちいい感じるときはこの意識の時ではありません。自分ではなく相手にあるときです。もっと具体的に言えば、自分のフォームや身体の使い方を気にしているときは自分に意識がある状態です。一方で、相手の筋肉の状態や相手の反応に注意を払っているときは、相手に自分の意識がある状態です。そしてこの相手に自分の意識がある状態こそ、対象と繋がる感覚の入り口だと思ったのです。

 こう考えると、技術を磨くときと相手を満足させるときの自分の意識は使い分けることが大切そうです。

 

【②思考が働いていないこと】

 授業では技術向上を目的として、練習相手をくじ引きで決めて、いつも同じ人と組むことがないように配慮されています。技術向上には色んな人の身体を触って知ることが大切だからです。

 先日たまたまペアになった方と練習をしていて、そのときは僕が患者役としてその方の手技を受けていました。目をつむってその方のマッサージを受けていたのですが、明確に一瞬だけ「堅さ」を感じました。恐らくその人の指の硬さというか、動きの堅さというか・・・みたいな感じです。それまでは柔らかくマッサージをしていたので、その堅さは一瞬でもよく分かりました。

 私は直観しました。

 「思考によって筋肉が固くなるってこのことかな?」

 あとでその方に聞いてみたら、確かにそれまでは自由に揉んでいたが、そのときだけは「あっ、あれやってみよー」っていう感じで頭が働いたと言っていました。「あっ、あれやってみよー」というのは、ある意味『型』にはまったことをやろうということで、その瞬間『自然な動き』がなくなって人工的になったのでしょう。人間は自然物(自然の一部)としての存在ですから、人間の思考を使った人工的なことの違和感にはよく気づくみたいでした。

 

【③集中力と注意力の適切なバランス】

 過去のブログにも書きましたが、集中力と注意力は別のものでありながら、相互に深く関係していると思います。

 集中力は『深さ×早さ×長さ』で決定し、イメージとしては、車に例えればエンジンが作り出す『加速力(エネルギー)』みたいなものでしょう。

 一方で注意力とは以下の4つを指します。

 ①持続的注意力

 ②選択的注意力

 ③配分的注意力

 ④注意の転換

 これらは作り出した集中力をどう配分するかという、出力先のコントロールを示していると思います。車で例えればハンドルみたいものでしょう。

 車はエンジンで作り出した『加速力(エネルギー)』を外に出し、ハンドルはそのエネルギーの向かう先をコントロールします。集中力と注意力にもこの関係が当てはまるのではないでしょうか。

 対象と一つになるためには、集中力を持続的注意力に注ぎ込む必要があるように思いました。

 これの気づきの基になったのは、先日の飲み会でたまたま隣に座ったクラスメイトの所作でした。

 そのクラスメイトはみんなのために、おでんの盛り合わせの中にあったコンニャクを4等分?くらいに切り分けようとしていました。その時に私が話しかけたのですが、どうやら集中していたみたいで反応がありませんでした。この瞬間に私はそのクラスメイトが、何というのでしょう・・・言葉では説明しづらいのですが、同じ空間にいるにも関わらず、『別』という感じを受けたのです。別の例えを使えば、飲み会に参加したみんなは『青色』なのに、さっきまで同じ『青色』だったそのクラスメイトが、コンニャクを切り分けているときだけ『赤色』だった・・・みたいな感じです。(因みに『色』はあくまで例えなので、色自体に意味はありません)

 その姿を隣で見ていた私は、「あっ、この空間ではない別の世界と繋がっている」と感じました。そのクラスメイトとコンニャクの周りだけ薄い結界が張られているような感じでした。

 私は再度そのクラスメイトの名前を口にして話しかけました。そうしたら間髪入れず反応がありました。もしかしたら本人も「はっ!!」としたのかもしれません。

 私はこの一連を見て、感じて、「あ〜、『繋がる』ってこのことか〜」と腑に落ちました。同時に、「俺、この『繋がる』って感覚、実はしってるわ〜」とも思いました。過去に経験したこともある確信もありました。

 元々僕は集中力は高い方みたいで、よく学校の先生から集中力が素晴らしいと言われていました。今振り返ってみるとその集中力を注意力①の持続的注意力に向けていたように思います。これを発揮しているときは、僕の場合は他のことはどうでもよくなるし、それこそ文字通り寝食忘れて没頭していたように思います。そんな頻繁にこのような状態にはならないのですが、しかしたまにどでかい集中力を発揮することがあったように思います。もしかしたらそのときは僕は、そのときの対象物と繋がって一つになっていたのかもしれません。そのときの自分の意識は自分自身にはなく、その対象物の中に自分の意識がある、もっと言えば同化している状態だと思います。

 こんにゃくを切り分けていたときのクラスメイトも、きっとこんな感じだったのだろうか・・・と思った次第です。

 

 以上3つの要素がそろうと対象物と一つになれるのではないか、もとい「なってしまう」のではないかと気づいた次第でして、このことをブログに書いてみようと思いました。

 最後に一つ注意した方がいいと思ったことを書きたいと思います。

 それは対象と繋がるときは無防備ではいけないということです。無防備とは、自分の軸がない状態のことです。

 例えば繋がる対象が人間であった場合、自分の軸がないままに相手に同化すると、きっと相手に振り回されて自分が疲れてしまう結果になりそうです。言わずもがな、精神的な疲れが顕著だと思います。それでは自分自身が破滅してしまいます。

 そこで自分の軸をしっかり作っておく必要があると思います。自分の軸とは、普段からの、生きる上での自分なりの心構えです。他者との距離感(肉体的、精神的問わず)について持論を持つ、現象や事象など、この宇宙のことについて自分の言葉で語ることができる、更にそれを実行している等々・・・つまり持論は大切だということです。

 何故大切かというと自分自身をコントロールするためです。対象と繋がるとは、方向が決まっていない360°の世界に飛び込むことで、対象と繋がっているときに方向感覚を失ったら最後です。つまりコンパス的な役割を『自分の軸(持論)』はするのです。または迷ったときにとりあえず引き返すことが出来るように、自分が来た道にマーキングするようなものでもあるでしょう。「あっ、ヤヴァイ・・・」思ったら、引き返すことができるように。

 

 今日はこのくらいで終わりにしたいと思います。私は思考によってここまで到達しました。しかし時には感覚も鋭敏にして身体で感じることをしました。身体で感じるとは、即ち『経験』であり、経験とは、即ち『細胞が何らかの刺激を受けている』ということでしょう。

 思考では脳細胞が刺激を受けています。つまり思考における『経験』とは、『脳』のみで起こっているということです。

 自分が今『経験』していることを正しく把握、認識することは、正しい世の中の見方、正しい宇宙の見方に繋がります。真理に到達するためには『誤認』は許されないのだと思います。