「数学という世界で行われている営みは、外側にある混沌とした対象を成り立たせているたった一つの実体を探し求めるようなものである」

 このような話を散歩をしながら妻とした。

 話の発端は養老孟司氏のYouTubeで見たことを私が妻に話したことだった。

 2X=6において、X=3である。私はこの数式に疑いを持たない。なぜなら学校でそう習ったからだ。続いて3a-a=2aである。これも私は疑いを持たない。なぜなら学校でそう習ったからである。しかしYouTubeの中で養老氏はこう言う。

 「なぜ3a-a=3ではないのか?」

 私は「確かに言われてみればその通りだな」と感じた。

 今の養老氏の話は非常に部分的に切り取ったもので、これだけでは養老氏が何を言いたいのかはわからない。養老氏が話す内容について詳しく知りたい方は養老氏のYouTubeチャンネルをご覧いただきたい。

 いずれにしても我々は学校で「ルール」を教えられ、その通りに考え、行動することで世の中から逸脱することなく日々を過ごせている。そしてその「ルール」は普遍であり、疑うまでもなく元々そうだったといつの間にか思い込む。世の中は思い込みによって成り立っている。

 しかし私が今回書こうとする内容はちょっと違う。上記の数式で言うところの「=(イコール)」とは何か。このことについて少し考えたいと思う。

 イコールとは「見做す」ということだと私は思う。見做すとは、それが真理かどうかはさておき、その場合における「事実」を便宜上「確定する」行為であると私は認識している。またイコールは論理の繋がりとも言える。点と点を結ぶ「線」の役割を果たすと言うことだ。イコールと結べるものが多くなるとどうなるか。一見違うように見えるモノ同士がイコールで結べるようになると、それは普遍性があるのではないかと思えてくる。それは抽象的なものに近づく。そしてその抽象的なものが具体的なものを成立させている実体なのではないかと考えたくなる。このような仕組みで数学の世界では巨大な混沌としたものに対して、法則などの現在わかっている抽象的なものを武器に切り刻んでいき、混沌としたものの一番深層にあると推定されるたった一つの実体を見つけ出す宝探しなのではないかと私は考えたくなるのだ。

 イコールは数学の世界だけに使われるわけではない。実は無意識のうちに我々も日常生活の中で使っている。つまり、無意識のうちに論理的な思考を使っている。例えば大学を卒業した新入社員がいたとしよう。その新入社員を見て我々はどう思うだろうか。例えば「大学を卒業したと言うことは、少なくとも一般教養(大学レベル)は理解しているだろう」とか、その新入社員が心理学を専攻していたと知ったら「心理学を専攻していたのなら、ユングの、アドラーの、フロイトの、〇〇という考え方や理論については理解しているだろう」と思うだろう。そして、それを理解していることを前提として接するだろう。これは紛れもなく「イコール」を使っている。つまり論理的思考が働いている。それは次のような公式だ。「大学を卒業した人=〇〇は理解している」という繋がりだ。言い換えると、大学を卒業したのだから〇〇は理解していると『見做されている』のである。実際は〇〇を理解していなかったとしてもそんなのは関係ない。その論理の繋がりがあるからこそ、会社は大学卒の人材に対して期待をするのではないか。だからこそ高卒よりも高い初任給を与えるのではないか。ただ単に大卒というだけで給料が高いのは理にかなわない。給料が高いのにはそれなりの理由があるはずだ。そしてこれは資格保有者に対しても同じ理屈が使われているように思う。こう考えるとむやみやたらに学歴を高くしたり、資格を取りまくったりすると自分自身の首がしまることもあるだろう。なにせ周りは「イコール」で責めてくるのだ。中身は見ない。もし中身がない場合は急いで中身を埋める必要がある。それは想像するだけでも大変そうだ。

 「私は〇〇という大学を卒業しました!」とか「こんな資格をたくさん持っています!」とか、そういうものが増えれば増えるほどイコールで結ばれるものが多くなっていく。どんどん見做されていく。どんどん普遍的な存在になっていく。つまりこれらは何を意味するか。それはどんどん「没個性化」していくことを意味している。その人のオリジナリティが薄くなっていく。なにせ何者にもなれるのだ。その人をその人たらしめる要素に欠けることになる。つまりアイデンティティ、自我に関わる。これでは機械やコンピュータと同じではないか。最初の話に戻って数学におけるたった一つの実体とは、実はオリジナリティは皆無でそれは極めて没個性的であると思うのである。

 ではオリジナリティ、個性的とはなにか。なにがその人をその人たらしめるのか。この問いには妻がいいことを言っていた。

 「私は『周りの人は出来るのに、(私だけが)どうしても出来ないこと』がその人の個性やオリジナリティになるのではいか。その人をその人たらしめるのではないか」

 この話は私にとっては目から鱗だった。なぜなら私は盲目的に「出来ることをどんどん増やそう」と思い込んでいたからである。そう思い込んでいた理由はもしかしたら周りの人間よりも出来る存在でありたいとか、勝ちたいとか、そういう欲に囚われていたからだと思う。個性だって、出来るようになっていく自分そのものが個性だし、この姿勢が自分を自分たらしめていると思っていたからかもしれないのだ。どんどん出来ることが増えていく自分という現象が私自身を満足させ、同時にそれが私のアイデンティティを支えているかもしれないということだ。

 しかし妻の話によると私の考えとは全くの真逆に聞こえた。むしろ、「どうしても出来ないこと」が私を私たらしめている、それがアイデンティティを支えるというのだ。たしかに出来ないことというのは「イコール」では結べない。数式で言ったら『3a-a=2a』ではなく、『3a-a=3』と答えるようなものか。この数式のルールを知っている人なら「なんでそうなるんだよ」と馬鹿にするかもしれない。またはさっきの大学卒業の例で言ったら、「私以外の大卒の人は掛け算ができて当たり前ですが、私はどうしても掛け算ができません」と言うようなものだろう。これを聞けば周りは「大学卒業したのになんで掛け算も出来ないんだ!!」と反応するに違いない。しかし、これこそがその人のオリジナリティを作っているというのが妻の話を聞いた私の理解なのだ。

 これらの話は言い換えれば具体性と抽象性にも関わってくるだろう。こう考えると抽象的な領域から具体的な領域に移った時点で、相互に変換不可能な、もっといえばある具体的なものが出来ないものが必ずあるはずであるということになる。『具体』と『抽象』の違いはここの部分なのかもしれない。

 最後にここまで書いて気づいた。やはり私もこのことを書いているうちに色んなものを「イコール」で結んでしまっている。人間の思考という営みの難しさをたった今感じた。