日常で「分かった」とか「理解した」という言葉を誰しもが使うと思う。では、その意味を問われたとき、論理立てて説明できるだろうか。

 私も今までこの概念を何となく使っていた。でも最近「こういうことかもなぁ」と閃いたことがあったから書き記しておこうと思う。

 まず「分かる」とはなんだろうか。それは「分ける」「分けられる」ということである。つまり、混沌としたものを「分ける」ことができるようになったことを「分かった」と表現していると言える。ここで混沌とはなんだろうか。それは「分からない」ということだ。我々は何かを分かる前は、その対象が「混沌としていて癒着している物体X」に感じている。つまり、掴みどころがなく、表現もままならない状態だ。その対象を「分ける」ことができるように、日頃からなにかしらを対象に努力しているわけである。

 「分かった」と「理解した」はほぼイコールで考えて良いと思うが、個人的には「分かる」は分けられるようになった状態を指し、「理解した」とはその分けられるようになった対象を今度は自分のコントロール下に置き、くっつけたり(癒着≒混沌状態)、離したり(分ける)出来るようになることだと整理しており、言い換えれば分けたパーツを順番に並べたり、又は並べ替えたりすることが出来るようになるということだ。

 これらを別のものに例えるなら、三大栄養素を身体が体内に取り込んでいく機序に似ていると思う。私は今、医療系の専門学校に通っているので、どうしてもこのような例えを出したがってしまうが何卒ご容赦頂きたい。例えば、白飯を食べた場合、身体はグリコーゲンをグルコースに変えないと体内に取り込むことができない。これは簡単にいうと、物そのものの大きさが、グリコーゲン>グルコースということだ。つまり、大きさを小さくしないと身体は栄養を取り込むことができない。その大きさを小さくする現象を我々は「消化」と表現している。身体は大きい塊で入ってきた栄養を消化し、小さくしたところで体内に取り込んでいくのである。この体内に取り込むという現象は「吸収」と表現している。

 我々が物事を理解するという営みと栄養の消化・吸収という現象はぴったりとその本質が一致する。どういうことかというと、我々の存在の中に何かしらを取り込む場合は、外界にあるそのままの姿では取り込むことができず、必ず細かくする作業が必要だということだ。物事を理解する場合は、混沌とした大きな塊を、頭の中に取り込める大きさに「分け(分かる)」、少しずつ取り込んでいくのである。そして取り込んだ後に頭の中ではその取り込んだパーツ(断片)に筋道を立て(理解)、外にあった状態に復元するのである。実は先ほどの栄養の話も同様で、細かく分けて取り込んだ栄養を、体内でまた組み立て直したりしているのだから、尚更栄養の話と分かる・理解するという両者はその現象が重なるであろう。

 よく「頭がいいね」という表現を聞いたり、又は自分自身がそういう表現を他者に対して使ったりすることがある。この「頭がいい」とは何を言っているのだろうか。この「頭がいい」ということについて、上記の切り口から考えてみた。

 結論から言えば、頭がいいとは「混沌としているものをどこまで細かく分けることができるか」ということだと思う。これはつまり、めちゃくちゃ細かいスケールで境界を引くことができたり、その境界を知ることができるということを意味しているのだと私は考えている。

 境界というからにはそれまでは一つと「見えていた」ものについて、「この部分とこっちの部分は〇〇というフィルターを通すとコントラストがある。そしてそのコントラストはこの部分で変わっている」と知るということだ。コントラストが変わる部分が境界である。その変わり具合は急に変わるかもしれないし、緩やかに変わるかもしれない。緩やかに変わる場合は明確に境界を引くことは難しいかもしれないが、マクロにみたときには「こっちとあっちでは明らかに違いがある」と分かる。更にコントラストは「色差」と言い換えることも可能だろう。色差とはWikipediaによると、『色彩科学において、色差(しきさ)あるいは 色の距離 (いろのきょり)は、2つのの間に定義される指標の一つである。色差が大きいほど区別しやすく、色差が小さいほど区別しにくくなる。』ということである。このことから、境界をはっきりと知る(明確に分かる)ためには、どれほどその色差が大きいのかが大切だと理解できるだろう。

 また小さいものを分けるためには、それよりも大きいものが分けられていないと出来ない。つまり、1や2をすっとばして3ができることはない。必ず段階があると理解したほうがいい。つまり、小さいものが分けられる人は、それまで沢山のものを分けてきた人だ。

 ところで分けるためには何が道具として必要だろうか。それは「知識」である。知識こそ分けるための道具である。だからこそ学びが必要だ。そして、学びはさらなる学びを誘う。なぜなら、学ぶ→分ける→結果的に学びがある→結果的には分かれてしまう・・・というような循環になるからだ。合わせ鏡のように終わりのない永遠の学びスパイラルである。合わせ鏡の法則は、私はこの宇宙の法則だと思っている。この連鎖と止めたければ、自分の意思で止めれば良い。

 しかし誤解してはならないのが、知識はあくまで分けるための道具であり、それ以上でもそれ以下でもないということだ。分けた後との理解は、知識のみでは進まないだろう。理解は自分自身で考えることができる力が必要だ。つまり、知識は自分自身の外側にあったものをそのまま利用して分けられるが、理解は自分自身でその道具を作らなければならない。こう考えると、分けるときは道具を使うスキルが必要で、理解のフェーズでは道具を使うスキルに加えて、作るスキルが必要になってくる。これは非常に創造的な営みである。クリエイティブな人はそうでない人と比べて高いレベルでの理解が期待できるといえるだろう。

 しかし理解まではあくまで自分の内側で起こっているだけで、外側に対しては何も影響を与えていないということだ。つまり、ここまでは自己完結で終わっている。もし、理解したことを外側に影響を与える目的で使いこなしたければ、今度は理解した事柄を肉体の動作に紐づけていかなくてはならない。これは時には運動神経が必要かもしれないし、時にはそれが達成できるような場が必要かもしれない。ここまでくると非常に具体的なものになり外から見てわかりやすいものになっているだろう。しかし、必ず共通した必要なものがある。それは「忍耐」である。諦めない心は必要だ。紐づける作業には時間がかかるのである。なにか影響をあたえる存在になるためには、その時間を耐え忍ぶことが必要だ。

 以上説明してきた「分ける「理解する」という営みは、何も物質的な世界観だけで行われているものではなく、精神的な世界でも同様であると私は理解している。その理由は、例えば仏教におけるヴィパッサナー瞑想がそうであると私は思っているからだ。

 瞑想というと、何かと一体になるというように、くっついていくイメージを持つかもしれない。瞑想の目的を「分ける」作業とは真逆の営みに感じるかもしれない。しかし、釈迦が実践したヴィパッサナー瞑想においては一体になるのではなく、寧ろ分ける作業を自分自身の内側、精神的なレベルで行なっているのではないかと思う。

 釈迦はなにを分けていたのか。それは「事実」と「事実でないもの」の仕分けである。

 我々人間は事実と事実でないものをごっちゃ混ぜにして、それに常に反応し、自分自身の肉体を動かしている。この状態を無明と表現している。ここで事実とは、私に正しく起こった事実。実在。反対に事実でないものとは、頭で思い浮かぶ妄想(ストーリー)である。

 ヴィパッサナー瞑想の先にある解脱とは、事実と事実でないものを分けていって、この作業がどんどん細かく精密になっていくと、いずれは人間という生命体にプリインストールされたプログラムといった感じの領域に達していき、「あ〜、そういうことだったのか・・・」と言葉の通り「悟って」、これらが自分の中で明らかになると自分の心に振り回されることなく、心を統御できるようになり、訳が分からないままの得体がしれない恐怖や不安から脱した状態である。

 物質的にも精神的にも我々人間には分ける作業が重要な仕事である。つまりこれが、宇宙が我々に与えた究極的な仕事なのだ。

 前に作家の「さとうみつろう」さんが出版した『悪魔とのおしゃべり』(サンマーク出版)の中で、宇宙のビックバンは、宇宙自身が経験を欲して起こしたものだというような世界観の話がその本に書かれてあった。その本によれば経験は1つでは成り立たない。必ず2つ必要だ。つまり、する側とされる側といったような構造のことである。宇宙において本当はこの2つで良かったのだが、予期せず3つ目を作ってしまった。それがする側とされる側という構造を成立させる現象や影響、働きかけといったようなものだ。故にこの宇宙におけるキーワードは「3」ということになる。「3」でバランスが安定する…というようなことであった(少なくとも私はその本を読んで、このように理解した)。

 つまり、宇宙が我々にして欲しいことは「分ける」ことなのだ。宇宙は経験が欲しいのだから、そのために分ける必要がある。その役割を宇宙は人間に与えたのかもしれない。人間の存在意義は宇宙のために分けまくること。それだけ。こう考えると我々は宇宙における善玉菌のような存在なのかもしれない。その反面我々の宇宙(地球)における副作用は環境破壊である。環境破壊は宇宙自身の破壊を意味する可能性がある。このことから物事は常に表裏一体というのもこの宇宙の法則だといえるかもしれない。

 宇宙は自分自身の欲望のために、自分自身に寿命を与えたのかもしれない。