暗黙の了解や「こうあるべき」を丁寧に守っていれば、それは周りの人から「分かっている人だ」と評価を受けるだろう。

 しかしそれは、誰かが敷いた範囲内に収まっているということだ。

 範囲以上の学びは期待できない。

 

 本当の学びや自分が求める学びを追求したければ、お行儀良くしている暇や時間は我々に無いのではないか・・・

 ということを事あるごとに思う。


 血肉になる学びを得たいと本気で思うなら、ルールなんて無視するくらいの貪欲さが自然と出てくるように思う。

 分かれた瞬間。

 概念が分かれた瞬間。
 例えばAさん。喜怒哀楽を持ち合わせている。
 当たり前だろう。人間なのだから。
 Aさんが怒れば私は『恐い』と感じる。
 そしてAさんの全体が苦手となる。
 怒るAさんは、Aさんのほんの一部なのに。
 これが今までの私。

 しかし分かれたのである。
 私のなかで概念が分かれたのである。
 怒るAさんに引っ張られなくなった。
 怒ったAさんは、Aさんのほんの一部であると、僕の中で分かれた。
 だからAさんが怒ったとして、もうAさん全体が苦手になったりしない。
 この感覚が腑に落ちた。
 いきなり腑に落ちた。
 最近勉強しまくっていて、『分ける』という作業をやりまくったせいかな。
 分かれまくった先にはなにがあるだろう。
 分ける作業は西洋の考え方に近いと私は思っている。
 一方で東洋の考え方は、自分の主観を混ぜるが故に、いかに全体を捉えるかだと思う。
 ざっくり言えば両者は真逆の営みをしている。
 しかし東洋的に言えば、「陽極まって陰と為す」である。逆も然りである。
 私はどうやら「分けたい」側の人間かもしれない。
 しかし全体として考える東洋の思想も非常に興味がある。
 これらが極まった先に、陰陽転化が起こることを期待したい。
得るのは楽しい。
もっと得たいと思う。
 
だが、得たら必ず失うときが来る。
 
得たものを失うのは辛い。
 
『友達』もそうだ。
自分と一緒ではないことに気づいた瞬間に感じる寂しさ。
 
『友達』がいなくなるのはやっぱりイヤだな~と感じている自分。
私にとって『友達』とは、「自分と一緒」ということなのかもしれない。
 
しかしそれはどうしても叶わぬ願いである。
この世に『一緒』など存在しない。
 
それでも最初の一瞬、「自分と一緒かも」と淡い期待を抱く自分がいる。
その期待は時間の経過と共に失われていく。
そして『友達』がいなくなっていく。
 
友達がいなくなるとき、頭に浮かぶイメージは、広い空間に自分一人がポツン…といる画。
 
その時の自分は「一人で寂しい」と感じている。
 
『友達』がいなくなるとイヤだなと感じるのは、寂しいから。
寂しいと、みじめに感じる自分。
 
なんか、いつの間にか周りのみんなから、後ろ指を指されている自分がいる。
そして気づく。
「そうか、私は寂しがり屋なのか」
 
うつむいて下を向いている自分。
 
なんともやるせない。
 
その状況では360°、どこから妨害があるかわからない。
 
やりたいこともやれない自分。
 
もはや自分の発する言葉は、外に届かない。
言葉が通じない。
意志疎通ができない。
 
世界と自分が切り離された感覚。
 
感覚がない。
 
真っ暗。
 
もはや、私は、存在するのかも分からない。