分厚い見えない壁があった。

 

 みんながいた。


 ストレッチをやっていた。


 そこは広い空間だった。


 頭では『学び』がありそうだし、自分にとってプラスだろうから、参加したいと考えた。


 でも心は横に首を振った。


 見えない壁があった。


 心は言った。


 「壁があるのに、どうやってその向こうに行くの?」


 頭は黙り込んでしまった。 


 心の意見が通った。


 私は踵を帰した。


 その壁はいつからあるのだろう。


 きっと昔からある壁だった。


 その壁の正体はなんだろう。


 壁の正体まではわからなかった。


 壁に触れることを心が拒んだ。


 壁に触ると沁みるから嫌だと拒んでいる。


 やはりそうか。


 心が作り上げた壁だったか。


 心の機嫌がいいときに触れてみよう。


 その壁に。


 心が痛みに耐えられそうなときに触れてみよう。


 なぜ痛いのが分かっているのに触れるのかって?


 私の好奇心がそうさせるのである。

 親だから何をしていいわけでもない。

 一歩間違えると、子の人生において、一生心に傷を残しかねない。

 友人との会話で、こんなことに気がついた。


 私は親との関係の中で、家から閉め出されそうになった記憶がある。

 今でも結構鮮明に覚えている。

 僕が何をしでかしてそうなったのかは覚えていないのだが。

 とりあえず僕の心に残っているのは、「恐怖」感である。

 本当に怖い思いをした。


 家を閉め出されそうになって、何に恐怖を抱いたのか。

 多分「存在の否定」だと思う。

 「おまえはウチにはいらない」

 こんな風に小さい時の僕は感じたのではないだろうか。

 幼稚園に入るか入らないかぐらいの頃である。

 家に入れないことは、生きていけない、生命の危機である。


 こういう経験をした僕だから、当然しつけだろうが、家から締め出すような真似をしてはいけないというのが僕の考えだ。

 しかし他の人の意見を聞くと意外とそうではない意見もあった。

 家から閉め出された経験はあるがそれが今、必ずしも自分に悪い作用を与えているとは思えないという意見だ。

 私とは真逆。

 どうして同じような現象なのに、こうも受け取り方が違うんだ?

 話をよく聞くと、このパターンの人は、親との関係性が良いということだった。

 なるほど。親との関係性か。


 当時の私を締め出そうとしたのは父である。

 父に対しては怖いイメージしかなかった。

 僕がテレビを見ていて、父が夕方に帰ってくると、母は「パパが帰ってきたよ。テレビをゆずりなさい」と決まって諭された。

 家の中では父がいつでも優先。これは小さいころからこれが世の中の当たり前だと信じて疑わなかった。

 何かあると「またパパに怒られるよ!」と母は決め台詞のように言っていた。

 父には逆らってはいけないのだ。

 僕にとっては恐怖の対象だった。

 別に執拗な暴力を受けたりしたことはないし、最終的には僕の望みは聞いてくれた。

 悪い親ではなかったように思う。

 しかし、その反面僕の心に、傷を残していった。

 いま一番困っている傷は、「怒られることへの恐怖」である。

 怒られるとまた閉め出される。

 閉め出されることは、存在の否定である。

 存在を否定されてしまっては、僕は生きていけない。

 故に、僕にとって怒られるとは、死を意味する。

 ・・・と、僕は無意識に感じているのではないだろうか?

 だから、怒られることに、ここまで恐怖を抱くのではないだろうか。

 35歳になった今、痛烈に実感する親子関係の大切さ。


 僕の両親は、僕のことを大切に考えてくれているに違いない・・・と思う。

 しかし、なんでも画一的にやりすぎたのかもしれない。

 子は親の言うことを聞いて当然。

 親なんだから、子を従わせないといけない。

 両親は「私たちのやっていることは、大きく間違っていない」と思っているだろう。


 

 特に父はコミュニケーションが上手い人ではなかったし、口下手な人だ。

 当時の父の僕に対するコミュニケーションは、不足があったのかもしれない。

 信頼関係が不足していたのかもしれない。

 その状態で締め出そうとした結果が、今の私である。


 私には娘がいる。

 自分の娘にどう接していくのか。

 親から学んだ反面教師的部分を、存分に活かしていきたいと思った。

 自分は正しい

 自分は無意識のうちに非の打ち所のない完璧な人間であることを確かめている。

 自分の外側に対して、「自分は完璧な人間ですよね?」と確かめている。


 完璧を求める心を捨てよう。


 なぜこう思ったか?

 友人との会話で、目の前の友人が僕の言った主張に同意しなかったことについて心がモヤッとしたからだ。


 自分が思っていることを、肯定してほしかった。

 他者からの肯定は、自分が完璧でありつづけていることの証明である。


 私は外に対して『答え』を求めている。