第二弾の続きです

 

 「古今相撲評話」296pにこの玉椿の身長(五尺二寸三分・約158.5㎝)、当時の体重(二十一貫三百匁・約79.88㎏)と現在の中学生程の身体で関脇を張っていた事がわかります 

 

 「古今相撲評話」常陸山対玉椿ですが、大熱戦だった明治四十年五月場所について

 

 両者の仕切について式守伊之助(十一代?)が、

「先ず常陸關はグッと後ろに退いて、土俵を三尺許りの所に犬居になりますと、玉關は離れては悪いと、食付いて仕切りましたから、玉關の體は土俵の真中から少し西の方に出て居るので、行司は夫れと注意しましたが、常陸關は其樣な事には一切御構ひなく、玉關も行事の注意に改めませず、其儘ヤッと云って一氣に突掛けましたので…」

 立ち合いについて常陸山は、

「立ち上がる時やつ頭を俺の顔にぶつけたから、鼻血は出るし、夫れ斯の通り、鼻の頭が疵になるほど、ひどい目に遇わせたから、愈〃(いよいよ)立つといふ時に、鳥渡(ちよつと)俺は目をつむつたのが惡かつたのだ。其れにあの玉椿は目を見合って、氣合で立つといふ事をしないのだから、ウッカリすると危ない…」

 

 玉椿の仕切は平蜘蛛仕切という凄く深い仕切で土俵すれすれに仕切っています

 渾名の「ダニ」について相手に食らいついたら離れないという良いふうにも別の視点から見ると悪いふうにも解釈出来ます

 この明治四十、四十五年春の番付はありませんが、

 

明治四十二年夏

 

四十四年春

の番付表、横綱(梅ヶ谷)、大関(太刀山)、関脇(玉椿)と番付上位三役を越中力士で占めているという大変貴重な番付です

 

 尚、この春場所開催直前に新橋倶楽部事件がおきたが、関脇以下で唯一師匠側についた(個人的には真面目な富山県民性が出てると思う)ので、引退後は年寄白玉を襲名したが、不遇で検査役にもなれず、平年寄で終わりました

 

 明治四十四年六月の巡業番付(開催場所不明・おそらく雷一門御一行)では大関(玉椿・最高位関脇)、関脇(緑嶌・最高位小結)の上位三役を越中力士で占めている貴重な巡業バージョンです

 

 武侠世界大正七年五月十五日号には小石川雑司ヶ谷に玉椿相撲道場完成の記事が載っています

 

 この玉椿、44歳の若さで心臓病で亡くなったのですが、稽古のし過ぎだったのだろうか

 

 太刀山の談話として「改造」昭和11年新年号には

 玉椿は熱心で、太刀山が寝ているうちからやってきて、稽古廻しするのを待って十番負かしても一番勝たなければやめない、そうしないと真ん中に座り込んで口惜しいと言って泣いてしまうのです…

 以上、趣多馬コレクションとして手元にあります

 心臓麻痺で44歳で亡くなったのも年寄襲名してから気苦労が絶えなかったり、激しい稽古や原因だったのだろうか

 

 明治四十年五月場所、この場所は2勝5分と負けなしでした

 五日目、対駒ヶ嶽の一番を紹介します(以下画像は角觝畫談より)

  駒ヶ嶽身長六尺二分(約183.6㎝)、当時の体重三十六貫(約135㎏)、もう一度書くが、玉椿身長五尺二寸三分(約158.5㎝)、当時の体重二十一貫三百匁(約79.88㎏)である

 平蜘蛛仕切(1)より玉椿、駒ヶ嶽の懐に飛び込んで咄嗟に左を差して褌を引き、左足を飛ばして内掛けに絡み、右手を前褌から外して左腿を抱え、頭の力と體を寄せかけて「三所攻め」の手法に出る(2)駒ヶ嶽、小手に振りすくめようとすると玉椿は掛投を決めようとする(3)最後は玉椿の掛投が成功して、駒ヶ嶽の堂々たる偉軀は地響きうって土俵の外に倒された

 

 玉椿憲太郎、富山県出身の偉大な力士です