ボンボン文化からの脱却 | bisui.nihon 美粋書房

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『日本文化原論 真なる調和への道 神からのブラボォー』
(著 横山俊一)販売中

ボンボン文化からの脱却

インターネット空間は、リアルな感覚や感性を喪失して、安易に他者の表現を伺い、自己のもののように解して、活用する行為が生まれる。一度や二度程度ならまだしも、継続して特定の表現者からの感性を伺い、自己のもの様にして、活用する態度などへ及ぶ。自分の考えが乏しく、人の感性や人の発見を自己のもののようにして、外界からの評価を受け糧を得るような行為には、根本的な性質の劣化と破綻と見做して妥当に思われる。これが、NHKなどのマスごみの一部に見られ、現代社会の悪性を象徴するかの現象と映し出される。自己の体験を土台に、問題や好感を抱き、事実と特定して物事が認識される。その事実を明示して、どんな感性から善し悪しが生じたのか、自己の基準や理念について自己へ問い価値を整理して自己を知ることになる。表現者は、この事実と価値を明瞭に表す事において、生滅不可分と最良の生を表す意識が伺える。外界へ何某かの表現を起こし、自己の直接的な糧を得る意識が強いと、外界への利益作り上げる態度を欠いて、安易に他者の感性を盗み、自己の得点を挙げるような精神の破綻症が作られる。物理性に依存して力を暴走と用い、他者の資産を盗み略奪する感覚が起こらず、慢性的な愚図気質による犯行が常識のように広がる事について、感覚と感性と観念の分断的な生産の規則性による人間性の劣化や悪性という心象が強まる。大きな報道の装置を備え独占的に用いる上では、社会の利益を追求する事が求められる。個々人の資産を安易に盗み、自己の利得にする行為と解され、これではとても、大きな権限や責任を担えるだけの資質は不十分であり、愚図な肥満症に力を与える弊害面が上回る。リアルな感覚や感性が遠のいて、物理的な力の活用に適正を欠き、悪性の常識を広げる個々人や集団は、健全な主体性による市場の原理から見ると特殊な性質を顕在化し、寡占構造に依存した力の暴走と解される。人間形成過程に欠陥があるように思われます。机上の学習に偏して体や感性の交流が不足して真面な基準と自律へ及ばず、不十分な精神性のままに大きな力の配置に就いて、暴走を起こす事態と映る。これへの改良の視点が教育面に反映されて、知育と徳育と体育のバランスよい人間形成に標準が合わされて、人間を測定し、大局的な社会観や社会システム上の要路に求められる資質や要件が算定される。この基準の不適正の改良と更新と適用において、良好な力の好循環が促進される。人格面での欠落という自覚に至らず、過剰ストックで肥満な体質のまま外界へ悪性を齎せる個々人や集団は、構造的な改良に狭まれる。この内部システムの根源性からの変化がミクロ的な改良策を指し、良質な力の持続的な発生を生む主体性を構築することが、基礎基盤の良性に資する。遠くの事ばかりへ視線が及んで足元の健全性が弱いと、安易な拡大策を進めて、略奪的な利益の搾取という現象を出現させる。これに至っては、正よりも負を与え、過剰な欲求と力の過剰と責任の不足した個々人や集団による歪性と映しだされる。哲学不在の受動的な物理体質は、真面な工程を経て考えを自ら作り上げ行為に反映されるように至らないと、病理的な精神と欲求を出現させ、慢性的な盗み症が治らない。このようなインフラの監視と適正を果たす事が政治行政の主たる役割に映り、政治行政自体が悪性の下になるような節が見られるならば、そこをまずもって、見直す事が自己改良策に相当し、それを欠いて何か外界へ求めるような態度が強いと、一方向性の歪んだ欲求過多の性質と認識される。未だに、バカが金も払わず、サイバー犯罪をやり続けます。NHKや政治家や、物理依存の激しい財界人の仕業と推察される。愚図を放置しては、良き文化は守られない。こいつらをどうにかしないと、いつまでも愚図が中心に居座り、悪性を垂れ流し、真面な主体性を妨げる。ボンボンのお坊ちゃんの感性や精神性は、成長過程の欠陥を思われる。まずもって、愚図の対処が急務であり、そして教育面からの良性策をプログラム化し実践する長期的な文化政策の導入に、有用性が生まれるものと思います。いつまで勘違いしているのか、一向に根源性を伺い真面な体質へ改める兆しが映らず、自律的な制御性に及ばない受動的な物理の力で支配される主体性には、適当な権力によって、操作すること以外には方法がない。虫けらの自覚が生まれない慢性化した盗み症と特定される。このような問題認識を備えられる健全な主導者へ力を集めて、構造的欠陥へ切り込む事が、経済成長の一丁目一番に相当する。安易な小手先の施策に逃げて、一過的な人気取りに走ることなく、問題の根源性を掴み、堂々と原因と改良の発想に向かうような強い気質のリーダーが望まれる。遠くばかりに視線が及び足元へ視線が至らず、安易な物理策に逃れる発想の文化では、長く良質な精神の形成と伝承に及ばず、お飾りの形骸化の文化に嵌り、醜態感が上回る。同じ様な問題意識の人々も少なくないように思われます。本当に迷惑な虫けらだ。