人間も弱肉強食の動物と本能的な性格は変わらない面を備える。しかし、生命を奪い自己の生存を果たす行為への戸惑い感が多少なりとも起こり、動植物に対して無思慮的に物理性をもって生命を奪うという事には至らず、生命平等の感受性が備わり、命を奪う事への重みを抱いて、乱獲的な行為を制御し、共存的な発想へ意識が向かう態度に健全性の根が映し出される。
そして再生産という共存志向の創造力が投じられ、相手方の生誕からの仕組みへと探求を注ぎ、全滅に及ばせる事のない自己の制御性と他者の持続的生存の作為を進めて、自他との共存世界を作り上げようというエネルギーが進められる。生物の仕組みへ関心が深まり、自己の性格を知ると同時に他生物の仕組みを解明し、互いの生存をもって自己の生存と持続へと連なる。このような人間性が人間像の中枢に浮かべられて根源の感性や原理と浮かび上がり、この性格の崩れに及ばぬような欲求と創造性を投じる態度に「正しい」という判断が生まれる。
共存の感受性をベースにして自他との共存と成長や繁栄の発想が進められて、自他の幸福感を広げる創造性において、利益となり、その利益の実現や貢献に応じて配分も回るシステムを作る力が進み、エネルギーの好循環体系が作られる。根は感受性の善し悪しが問われる。
物理的な力を先んじる発想に、こうした健全な感受性と外れた性質が進行する。これが酷くなるほどに物理的力を根拠にした生産や制度、仕組みやシステムが作り出され根源的な感受性の良性を喪失する。その流れにおいては、エネルギーの好循環には至らず、一過的物理的欲求を遂げる短絡システムに嵌り持続しないというエネルギーが各所から起こされて、健全な軌道が制御される。
自己ばかりの生命へ執着して、外界の生命を破滅させる様な生産性には、根源的な不快感が自然に発生し、適当な反発や対処が起こされて、根の良性を保つような自浄システムが生きる事において、「正しい」という判断が生まれる。
グローバルやローカル等という国家と国際性の概念についても、根源の原理や感性が抑えられて、どんな発想からの創造力であるかを精査して本質を掴み、正しい原理から外れていないか、比較して現象を掴む事へ及ぶ。二次三次的な側面からの現象化を起点にする事では、物事の本質は掴みきれず、上述のような一次現象面を把握の下に、多様な現象や抽象概念の見極めをもって、現象の性格を間違えない視座が生まれる。
「抽象的な概念と論理の中で、何となく言いたいことは伝わる」話しぶりが見られるものの、根源の確信性が確かに抑えられないと、雲を掴むような心象で留まる。どこに確信性があるか、この問いが哲学の思索と範疇になり、本書なりには上述のような面に人間の良性が映し出され不動の原理と固まる。
「沢山、人よりも富を欲しい」という本能的な欲求は自然に人間に内蔵する事であり、一方で、他の生命への重みを抱く感性も内蔵する。この二面的な性格から後者の性格が強まり、それを遂げるようなエネルギーが強まるほどに、両面の矛盾は解消へ進み好循環の軌道が生まれる。自己のみならず他者の利益を意図して、それを遂げる事において自己の利益に回り多くの富が結果的に回るという論理体系を構成し、不動的な秩序と固める事において、二次三次の発想や生産へ応用される因果性によって、根と幹の健全性が生まれる。
国境がどうのこうのという点は根源の原理から見てどんな作用を持つかと精査して、根源の感性を崩さない施策を作り投じる態度に、間違えの少ない判断が導出される。「根源性を変えない」という事へ利益を浮かべ、それを伸ばす態度と、阻害する事への予防という発想を持ち、不動性と二次三次の創造性の相関を組む事において、人間の良性の維持と向上へ至る。「富が欲しい」という本能的欲求と人間の良性という面の整合あるシステムを作る事が肝要に思います。良き精神性は塞ぎ込む事はなく、その質をもって多くの量を出現させる事に制限を課す理由はない。
自己優位性を求めて、真実を歪めるような態度に、物理依存の欲求の根が映り、根源性が崩れる。