Officeで描く御朱印帳アート」
 
MS-Office Wordでイラストを作り、御朱印帳アートにしています。


 
   大河ドラマでは、豊臣秀吉が死に、
次の展開に入りそうました。
その会のラストで、秀吉のお墓が紹介されていました。
結構知らない方が、多いみたいです。

   織田信長は、死体が発見されていないので、
お墓はありません。
幾つかの縁の寺に、供養塔が有るのみで、
墓ではありません。
 
徳川家康は、皆さんご存知、日光東照宮の眠り猫から
すこし登った所。
 
では豊臣秀吉はというと、大坂と勘違いしている方が
多そうですが、終焉の地は伏見城で、
墓は京都に有ります。

 
秀吉は、京都を政権の場所として、全国支配しました。
武家関白となり、京都を改造しています。
 
有名なところでは、土塁と堀で京都を要塞都市にしました。
「お土居」と呼ばれるもので、現在も部分的に残っています。
 
寺院を集め「寺町」を作り、応仁の乱で荒廃していた地区では、南北の通りを作り、碁盤の目から短冊状に、町割りを変えました。
 
そして、奈良の大仏に勝る「京の大仏」を建立しました。
日本一のこの大仏は、現在消失して存在しないので、
京都人でも知らない人が多いようです。
 
正面通大和大路の、現在の豊國神社・国立京都博物館
などの場所にありました。
博物館の周りの巨大な石垣が、名残です。
 
この大仏は、不運な仏様で、初代が完成間近に地震で倒壊、二代目三代目四代目も火災で消失しています。
 
今回、初代大仏殿を描いてみました。
 
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豊臣秀吉が亡くなると、この大仏殿を中心に、
東山阿弥陀ヶ峰にかけての一体が、
秀吉霊廟として整備されます。
 
お墓は、阿弥陀ヶ峰の山頂に造られ、神道に則った霊廟は、
中腹の今日には太閤坦 ( たいこうだいら )と呼ばれる場所に、作られました。
 
「豊国大明神」として神となった秀吉は、豊国廟の神として、
京都の町を・西方極楽浄土を見ながら眠っています。
 
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さてここからが、秀吉の墓が人に知られなくなっていく、
理由なのですが、豊臣家滅亡後、徳川家によって
豊国廟は破却され、広い敷地は妙法院や、
智積院に与えられます。
 
さらに阿弥陀ヶ峰への登り口には、新日吉神宮が移され、
実質的に、墓所への参道は封鎖されました。
このため、しだいに忘れられていったのです。
 
再び墓参ができるようになるのは、明治になってからです。
 
明治天皇の命により、旧大仏殿跡地に豊國神社が
再建され、有志によって、
豊国廟跡地の太閤坦の整備がなされ、
参道を塞いでいた新日吉神宮の移転も、実現しました。
 
現在は、東大路通の妙法院と智積院の間の道
通称「女坂」を
登って行くと、太閤坦をへて山頂の墓所へたどり着けます。


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大仏殿は、その後方広寺の寺名を与えられて存在して
いましたが、明治には、豊国神社に大仏殿跡地を譲り、
境内地の多くも、
博物館に譲り、現在は豊国神社北側にこじんまり残って
います。
 
もちろんあの有名な梵鐘は健在です。
 
日光徳川パークのように、京都阿弥陀ヶ峰山麓
豊臣パークを、歴史散策するのも楽しいものです。

京都国立博物館・三十三間堂も方広寺でした。
女坂の京女(京都女子学園)も豊国廟でした。
後白河法皇の御陵も有ります。
 
 
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