21.10.17 松山城[最も新しい現存天守を持つ城]その2 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

松山城 レポの第2弾です。

 

 

その1のレポ

 

 

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見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル

現存建築物(移築建築物含む)はピンク、再現建築物(模擬建築物含む)はオレンジ

跡地(櫓跡など)はグリーン、その他(銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 縄張図

 

 

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槻門跡を潜り、二之丸に侵入です。

右(南)に折れ曲がると、緩やかな坂になっていますが、この辺りに 埋門

あったとの事です。

坂の途中に埋門があるというのは、大洲城の本丸虎口である、暗り御門と同じような

形態だったのかもしれません。

規模は全然違うと思いますが。

 

 上りきる手前辺りにあったのかと推測しています。

 

 

大洲城レポ

 

 

 

ここから振り返ると、西大砲台 と呼ばれる、高石垣 が睥睨しています。

決して、大砲が乗っていた訳ではないと思いますが(以前のレポにも同じような事

書いた気がします)、幕末、佐幕派であった松山藩は、土佐藩に攻められる訳ですが

その際に、ここに大砲を乗せていたのかもしれません。

 

 勝手な推測ですので悪しからず。

 

 

 

この西大砲台の真下に、雁木 が見えます。

槻門へ続く、多聞櫓に入る為の雁木なのでしょうが、この雁木は今回、初めて

気づきました。

ただその手前の 犬走り になっている部分にはどうやって登るのかは?です。

 

 梯子か何か使うんでしょうか?

 

 

 

この西大砲台の真下では、高石垣 によって直進するのを阻まれ、右(東)に折れ

曲がっています。

連続枡形は既に終了していますが、ここでも直進させない様にしている工夫が

なされています。

 

 高い石垣背後は、山になっているので、地形を巧みに使っています。

 

 

 

既に1年半前の話しをレポしているので、失念しましたが、まだ二之丸庭園は開門

していませんでした。

開門時間前だったのでしょうが、この日は二之丸庭園内には入らずスルーしました。

 

 関係者らしき方は脇門から入っていましたが。

 

 

 

この二之丸は、多聞櫓 が再現されています。

忠実に再現されたのかは判らないのですが、ここに多聞櫓が乗っていた事は

古地図などからも判っています。

 

 右上が見切れているのが痛恨ガーン

 

 

 

この多聞櫓が途切れて、東に 打込接の石垣 が伸び、その上には が続いています。

 

 右に降りる道はその1で紹介した、イカガワシイ道です。

 

 

 

そんなイカガワシイ道の脇に、二之丸の主郭内に入る坂があるのですが、そこには

南門 が座っています。

ほんまにここに門があったのか?と、以前まで思っていましたが、どうやらここに

門があったのは確実の様です。

 

 ただし、ここから一般客は入れないようです。

 

 

 

二之丸の大手である 多門 です。

渡櫓門 の形状になっていて、かなり威圧感があります。

脇に『恋人の聖地』という幟がありますが、日露戦争時に、ロシア人捕虜の男性と

日本人看護師の女性のお二方の名前が刻まれた10ルーブル金貨が出土した事が由縁で

恋人の聖地認定がされたそうですよ。

結婚式の前撮りなんかでも、使われているとか。

 

 確か、ローカルニュースにもなっていたような(うる覚え)。

 

 

 周辺図

 

 

 

西大砲台を見ながら、今度は、二之丸の北面へ廻っていきます。

 

 えらい斜めに撮ってしまっていますが…。

 

 

 

北に廻りこむと、持弓櫓 が二之丸を睨むような形で鎮座していたようです。

それにしても、打込接の石垣 の上に乗っていた様ですが、えらい幅が狭い場所

なんですよね。

恐らく単層の櫓だったんでしょうが…狭すぎます。

 

 ここから登る道を監視する役目もあったのかと。

 

 

 

この持弓櫓脇から登るのは、大手道 です。

この先は少しばかりクランクしていますが(後程紹介します)、さらに登っていくと

本丸の大手門に辿り着きます。

で、この城の築城当時の大手門はどこだったのかというのが疑問になっているそうです。

僕は、勝手に三之丸の東御門や北御門がそうだったとおもっていましたが

一説には、東側に造ろうとしていたのではと考えられているそうです。

今回は、疲労困憊になってしまい、見に行く事が叶いませんでしたが、城の東の市街地に

砂土手という土塁の痕跡が残されています。

その砂土手は、加藤嘉明が造ろうとした、惣構の痕跡で、古地図などにも描かれています。

しかし、城の真東部分は完成していますが、それより南の部分にはそれが描かれておらず

大坂の役の後、工事は中断し未完に終わっています。。

その惣構は城の東…その1でも書きましたが、湯築城のある方向ですね。

従って、大手を領内の仮想敵を睨む形で置こうとしたのでしょうね。

 

 念斎堀と呼ばれる惣構の堀が古い写真に残されています。

 

 

 

大手道の入口辺りに 横矢 が掛かった石垣があります。

この上は土蔵群があったようですが、そこの隅部は 算木積 になっていました。

 

 高さはそこまでではありません。

 

 

 

二之丸には四つの開口部がありますが、その一つである 四脚門 です。

もう一つ、奥門がありますが、今回は撮っていません。

何度も見ているので、撮る気もなかったんですよね。

尚、二之丸御殿は、1872年に焼失してしまいます。

2年前には三之丸御殿も焼失してしまっており、これにより、松山藩の重要書類は

残っておりません。

 

 その後、二之丸、三之丸は陸軍管轄となります。

 

 

 

大手道は、侵入して直ぐに直角に曲がります。

 

 北に折れ曲がります。

 

 

 

反対(西)側の石垣は恐らく、陸軍によって撤去されているのでしょうが、この先に

尾谷門 があったそうです。

上で書きましたが、土蔵群が曲輪の様な場所にあったので、それの 虎口 なのでしょう。

門の背後は、今度は東に折れ曲がっているので、枡形虎口 と言っていいのでは

ないでしょうか。

 

 ここでも、何度も屈曲させています。

 

 

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それではその2はここまでにします。

次回も読んで頂ければ幸いです。