20.10.04 学芸員リレー講座『能島城・湯築城・河後森城の「守り」を知る』 能島城編その1 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

講座、シンポジウムはお早目にという、自分への戒めを行う為にも、この10月に行われた講座と

シンポジウムを立て続けに書き上がようと思います。

 

現在、愛媛県歴史文化博物館で行われいる特別展『戦国乱世の伊予と城 -国史跡 能島城

湯築城・河後森城の世界-』の一環として、開催された、歴史講座『能島城・湯築城・河後森城の

「守り」を知る』を、これまた、同県人の方と一緒に話しを聞いてまいりました。

 

ちなみに、こ歴文に行く前に、我々は、愛媛の西の端にある佐田岬半島は旧三崎町まで向い

早めの昼食を取りに、『佐田岬はなはな』の中にある『しらす食堂』へ。

以前から、行きたい場所だったのですが、この春に、川之浜からこの三崎へ移転しました。

その時はしらすパークという名前だったんですよね。

話しは長くなるのですが…毎週土曜の5時から、FM愛媛で『井上侑 しらすラジオ』という番組が

あるんです。

その協賛がこの『しらすパーク』です。

そして、この番組のテーマ曲が井上侑さんが歌う、『釜揚げしらす』なんですよ。

 

 

最初にこの曲を聞いた時の衝撃は、半端なかったですね。

ちなみに井上侑さんは松山生まれでして、東京の練馬育ちだそうで、おじいさんは現在は西予市の

明浜にお住まいとか。

そんな番組で『しらすパーク』の情報が流されているのですが、ガキの頃から『しらす』が好きな男

であるsyunpatusryoku1号は垂涎の眼差しで見ていたのですが、遂にその時がやってきました。

 

で、私が食したのは釜揚げしらすと生しらすの二色丼です。

残念ながら一眼で撮る事はしなかったのですが、滅茶苦茶旨そうでしたし、実際に食べて

ほんまに感動してしまいました。

特に釜揚げしらす。

今迄食べていたスーパーの釜揚げしらすには失礼ですが、各段の違いでした。

絶妙な味で、また訪れたくなった事は言うまでもありません。

ネックは、川之江が愛媛の東の端に対して、三崎は愛媛の西の端という事。

しかも大洲からは(今回は伊予灘沿いを走りましたが)、地道で行かねばならない事ですかね。

 

 

 

 

しらすを堪能した後は、西予市宇和へ。

何度も訪れている愛媛県歴史文化博物館。

そこで、今回は約2時間、ミッチリとお話しを聞かせて頂きました。

では、その話しの内容をレジュメを丸写し状態で、紹介していきます。

 

先ずは、能島城の事を村上海賊ミュージアムの田中謙学芸員から。

ちなみに田中さんは、今や我々、愛媛では(多分)有名人です。

何せ、『村上海賊』関連が地方局で放送されると、必ずと言っていいほど、出演されますし

先だってもラジオにも出演されていました。

また、僕は知らなかったのですが、先だってNHKBSで放送された、ザ・プロファイラーなどに

出演していたとか。

少し自慢そうに挨拶時に言ってらっしゃいました。

ちなみに2013年に田中さんの講演を聞いていますね。

それ以来の拝聴となりました。

 

 

 

 

村上海賊とは、因島能島そして来島に本拠を置いた海賊衆村上氏の総称です。

彼らは、海の武士団で、彼らの支配海域を通る船舶の海上交通の安全を保障する代わりに

海上公事を徴収しています。

また、見近島などの発掘調査から判る様に物流へも関与し、漁民でもあったと考えられます。

 

この村上海賊の支配地でもある芸予諸島の中世城郭の特徴ですが、基本は海峡瀬戸および灘を

望む位置にある事です。

そして細分化していくと3つになります。

 

小島全体を城郭化した島城

  この形態は全国的に見て特異で、芸予諸島に密集し、接岸施設が見られます。

  例としては来島城などが挙げられます。

 

 

鼻や三崎湾に突き出た丘陵の頂部に築かれた鼻城岬城

  A:その中でも接岸施設の遺構を持つモノと

  B:接岸施設の遺構に確認できないモノ。

  例としては岩城島の亀山城が挙げられます。

 

③直接、海と接していませんが、海を臨む山の上や丘陵上にある、海を意識した山城です。

  例としては因島の青影城です。

 

ちなみに、能島村上氏の城郭は①と②-Aが該当します。

 

 

で、今回の主役である能島城島城です。

面積は、能島と対岸の鯛崎島を合わせると、17,829㎡の面積を誇り、周囲は約1,102mです。

小さい島にあるのですが、城域は大きな部類に入るとの事。

確かに、2つの島が丸々城なのですから、デカい訳です。

 

 

従来の能島城の評価としては

・戦前の研究者の鵜久森先生は『堅固な関門城塞』で『海軍要港部又は鎮守府の起源』と評価

 していました。

・村上海賊の研究者として、多くの著書を出されている山内譲先生は1994年

 『縄張図に現れない防御施設』で『海面が土塁、潮流が堀』と論じています。

 また鵜久森先生の採取遺物より『日常生活の場』でもあるとおっしゃっています。

・同じく2002年に採取遺物の組成と量の分析から、柴田圭子先生は『生活の場として機能』していた

 とおっしゃっています。

・2005年福川一徳先生は『出城的な役割に過ぎない』や『見張り場や船たまり』と論じています。

 その反面、立地や陸地部の拠点の存在想定から『瀬戸内海支配のシンボル的存在』としています。

・同じ年、中井均先生は立地から『詰城部分であって、居住性はなかった』としています。

・柴田龍司先生は2008年『海関機能が実行されていた特異な海城』と論じました。

 

 

戦国期にあの有名な宣教師ルイスフロイスが、『フロイス日本史』の中で、能島城の事が

書かれています。

田中先生が日本語訳して頂いているのすが、それをここに書きますと

 

 副管区長師は『室』を出発して旅を続け、やがて我ら一行はあるに到着した。

 その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や地所や船舶を有し

 それらの船は絶えず獲物を襲っていた。

 この海賊は『能島殿』と言い、強大な勢力を有していた。

 

とあります。

この大きな城の事こそ、能島城と考えられます。

 

 

では能島城の歴史についてです。

・能島村上氏の初見は貞和5年1349)で、『野嶋』と書かれています。

・ただし『城』の記述は、現存するもので16世紀中ごろまで遡ります。

・出土遺物でみると築城時期は幅が14世紀中頃以降15世紀前半以前です。

16世紀前葉から中頃にかけて改修されて、現在の姿になったようです。

・能島城は1541年大内氏からと、1571~1572年にかけて毛利氏から攻められています。

 ちなみに後者は、同じ村上一族である、来島村上氏、因島村上氏も毛利方となって能島を

 攻めています。

1587年頃、小早川隆景が伊予から筑前へと国替えとなった際に、能島村上氏が城を退去します。

 

 

平時の活動の様子は、ルイスフロイスによって書かれています。

 

 我ら同僚司祭や修道士達は、この辺りが多数の島嶼である為に絶えず、船で通行せねば

 ならなかったし、常に海賊の手に陥る危険に曝されていたので、副管区長の司祭は

 その人物から通行保障状を貰えないものかと交渉したいと考えた。

 すなわち、それが得られれば、例え、彼らの手下の海賊に捕えらる事があっても、略奪されたり

 危害を加えたりする事なしの住むからであった…。

 能島殿に対して、我らがその交付する署名によって自由に通行できるよう、好意ある寛大な

 処置を求めた…。

 彼は怪しい船に出会った時に見せるがよいとて、自分の紋章が入った絹の旗と署名を渡した。

 それは海賊が司祭に対してなしえた、最大の好意であった。

 

と書かれています。

 

 

 

少々、話しが長くなりそうなので、ここで一旦切りまして、能島城編その2を次回、書いていきます。