17.05.04 荒神山城[宇喜多家臣花房職秀の城]その2 @岡山県津山市 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

荒神山城 レポ第2弾です。

その1押左矢印からリンクしています。

 

 

 

見所となる遺構 (土塁など)はブルー、名前のある場所 (本丸など)はパープル

現存建築物 (移築建築物含む)はピンク、再現建築物 (模擬建築物含む)はオレンジ

そして跡地 (櫓跡など)はグリーンで表記します。

 

 

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枡形虎口、横矢が掛かった曲輪の東にある、一段高い曲輪 にやってきました。

 

 木々が覆ってますが、ヤブ化してないので、まずまずの見栄えです。

 

 

 

この曲輪の北側に降り坂がある(行先の標柱もありますが)ので、そこを降っていくと、金蔵の段

と呼ばれる削平地にやってきました。

 

 入る気はしませんでしたが…。

 

 

 

この金蔵の段の脇は石垣 で固められていました…と言っても超絶ヤブで

判り難かったんですがもやもや

 

 判り難いですが、見えますよね。

 

 

 

金蔵の段から、まだ道が続いているので、向かっていきますと、竪堀を二条 発見!

と言っても、縄張図があったから判ったようなものですが…。

 

 御多分に漏れず、超絶ヤブでした。

 

 

 しかもこの辺りは暑かったアセアセ

 

 

 

歩いて行くと、数段の曲輪 を見つけました。

全部の曲輪の中には入りませんでしたが、見た目、なかなかの広さでした。

駐屯地として活用されていたのではと思います。

 

 

 

 

 

 ここらは明るい光がよく入ってました。

 

 

 

曲輪の切岸 は比較的傾斜が緩かったですね。

自然地形かもしれませんけどね。

 

 先程までと違い、ヤブじゃない!

 

 

 

ここの曲輪群の東に畝状竪堀 が落ちていますが、残念ながら一条しか見つけれませんでしたアセアセ

ただ数ではないのです。

宇喜多氏の美作の拠点の城に畝状竪堀。

緩斜面に畝状竪堀というのは、毛利氏の築城術だと僕は思っているのですが、宇喜多氏も同じように

畝状竪堀を使っていたのか?

宇喜多氏の城というのをあまり知らないのですが、疑問を感じた部分です。

 

 宇喜多氏の城にもっと行く必要がありそうですな。

 

 

 

再び、金蔵の段の上の曲輪に戻り、そこからまた南にある腰曲輪に降りていきます。

その途中にあるのがこの竪堀 です。

 

 かなり下まで落ちています。

 

 

 

そして腰曲輪

ちなみに、曲輪名はありませんが、枡形虎口がある曲輪部分からこの城の主要部分だと思います。

あの曲輪の南にも腰曲輪がありましたが、主要部の南側には腰曲輪が展開しています。

 

 さらに下にも。

 

 

 そして…。

 

 

 

一番上段の腰曲輪には石垣 がついています。

石垣が多く点在。

宇喜多氏で重きをなした花房職秀の城だけありますね。

 

 花房職秀の逸話についてはまた後ほど。

 

 

 

主郭の帯曲輪の切岸 です。

 

 

 

 ここも石垣で固められていたのか?

 

 

 

これ…どっかの曲輪 でしょうね。

 

 見慣れた茫々感…。

 

 

 

曲輪の名前が判らないんですが、やはり一番高い場所が主郭でしょう。

で、その主郭の切岸 です。

 

 そしてこの切岸の中に…。

 

 

 

石垣の残欠 が見られました。

 

 それにしてもかなりの破却ぶり。

 

 

 石垣になっている箇所が殆ど皆無。

 

 

 誰によって破却されたのかも気になりますね。

 

 

 

そして主郭 です。

太陽も当たりやすいので、下草こそ生えていますが、非常に明るい場所でした。

 

 

 

 標柱も僅かに写っています。

 

 

 

最後に、主郭切岸に残る、石垣の残欠 を見て、麓に降りました。

 

 織豊系城郭だった訳ですね。

 

 

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テンションの上がり下がりが激しい城でした。

超絶ヤブだった時は非常にやる気がない感じでしたが、枡形虎口や横矢の掛かる土塁を見てからは

豹変したという言葉がピッタリで、テンションが急上昇しました上矢印

なかなか技巧的な城が、こんなひっそりとした状態であるとは…。

 

 

ちなみにこの城の城主である花房職秀宇喜多直家の時代から活躍していたようで、最初にも

書きましたが、美作の経営を任されています。

小田原征伐の際には、秀吉の陣前を下馬せず通り過ぎ、『腰抜けの大将に下馬する必要はない』と

言い放ち、攻城戦を仕掛けない秀吉を揶揄しています

秀吉は怒り、切り捨てられそうになりますが、宇喜多秀家の取りなしもあり、その後加増されます。

その後、宇喜多秀家に諫言すると殺されそうになり、秀吉取りなりし、そして徳川家康の斡旋もあり

佐竹義宣の許に預けられます。

そして関ヶ原の合戦の際、家康に佐竹の去就を聞かれた際、『佐竹は動かない』と答え、それを

起請文に書けと言われた際に『男が言った事ゆえ、文章にしたためる必要はない』と返答。

家康は職秀が空気が読めぬ男として、大名には取り立てませんでした。

大坂の陣には輿に乗って参陣。

冬の陣の際には、後藤又兵衛の伏兵を見破っています。

又兵衛は敵方の陣中に職秀がいた事で、伏兵が見破られたと感づいていたそうです。

とにかく、武辺者で、媚びない性格だったのでしょう。

しかし時代が変化する中で、彼の出世を自分自身で閉ざしてしまったんでしょうね。

 

 

荒神山集会場の前押に車を停めさせて頂きました。

その近くにある標柱を頼りに、登城しました。

探訪時間は1時間半程度だったと思います。

お手洗いは周辺にはありませんでした。