菅谷館レポ第2弾です。その1 はからリンクしています
※現存物(移築含む)は青、再現物(模擬含む)はピンク、跡地(櫓跡、門跡など)は緑、その他の見所(遺構)は紫の其々太字にしています。
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この砂利道。二の郭と三の郭の間を走っています。もしかして往時は空堀だったのかもという妄想をしてしまいました。
凹んでいるからそう見えても仕方ないですよね。
二の郭です。三の郭に比べると歩きやすい…というか、犬がここで遊んでました。
犬を遊ばすには持って来いですね。
二の郭の土塁です。ちなみにこの土塁は虎口脇の土塁のようですが…。虎口は撮ってないぞぉ~
階段がついていますよ。
この階段を登っていきますと、畠山重忠像が立っています。この畠山重忠からは、室町期に三管領の一角に数えられた河内畠山氏、能登に君臨した能登畠山氏、また伊達政宗の父の輝宗を拉致して政宗に討たれた二本松義継などの奥州畠山氏と系譜を広げています。
表情が窺う事ができない状態ですが
土塁の上から見た二の郭の西部分。こちらでも犬の散歩をされていましたよ。ちなみに、斜め切りになってますが、二の郭虎口が僅かに見えます。
撮った当初は判っていなかったですけどね
三の郭の出枡形も俯瞰で見る事ができます。手前には空堀が出枡形に沿って走っています。
右手前に突き出ています。
本郭の高さも実感できます。
この構図の方が高さの違いを実感しますね。右(南)が本郭で、左(北)が二の郭。間の空堀が深く感じてしまいます。
高低差を生かしていますね。
本郭に入ると、二の郭側(北)には高い土塁が聳え立っています。
青空が壮絶に映えている。
こちらはメンディーカットになっています。
本郭ですが、ここでは虎口を内部、しかも遠くから撮るハメに。ほぼ正面の土塁の切れ目が生門と呼ばれる本丸虎口にあたります。
またもや痛恨のミス
本郭の空堀は、先程の北側から西を通って、この南側まだ廻りこんできています。
先程よりは浅くなっています。
この空堀の下に、腰曲輪である南郭が東西に広がっています。この南郭があるから空堀もそう深くする必要もなさそうです。そしてそこそこ高い本郭の切岸も続いています。
しかしこの切岸…。
西にいくほど高くなっているのです。決して南郭自体が西に行くほど低くなっている訳ではないのです。
この上に空堀があるとは、敵兵も思わないでしょう。
この開口部を南郭の虎口と思って撮ってますが…。どうなんでしょうか
不自然さは感じませんでしたけどね。
この南郭の下には都幾川が流れており、天然の堀となっているのですが、その南面にも土塁が盛られています。
渡河してくる敵を警戒したのでしょう。
南郭に西側にやってきました。そこに階段があり、本郭の空堀脇を通って二の郭に到達します。
ここでも高低差を感じました。
南郭を下に見ます。細長いのですが、この曲輪もかなりの広さでした。
しかも西にいくほど幅広になっていました。
説明
でも、レポ前はなかなかこの場所の意味が判りませんでした。
一個一個の曲輪がデカイのが特徴ですね。
逆光に悩ませてしまってますけど…。
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非常に広大な城ですね。先程も書きましたが、一つの曲輪が非常にデカイ 今迄見てきた、土の城とは一線を画す感じを受けました。しかも山城じゃないので余計に。何となく、兵の駐屯地だったんじゃないかと感じてしまいます。そんな事から僕なんか、縄張の巧妙さからも後北条氏が、北関東出兵の際に陣として改修されたんではと予測をしてしまうのですが、この城からは後北条時代の遺物は発掘されていないそうで、杉山城同様に謎に包まれています。さて、この後、それがハッキリする事がくるのか、興味があります。
嵐山史跡博物館の駐車場 を使うのがスタンダードですが、閉館日でもスペースは残っていました。お手洗いはその1の案内板に載ってますが、城内に2か所ありました。探訪時間は約1時間です。