宇陀松山城探訪後、我々はみゆかちゃんと合流。そのまま昼ご飯を食べようと思っていたのですが、なかなか見つからず 結局コンビニで物色して、次の目的地近いの公園で昼食。しばし休憩も含めていよいよこの日最後の目的地、龍王山城に向かいました。
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※現存物(移築含む)は青、再現物(模擬含む)はピンク、跡地は緑、その他の見所は黒の其々太字にしています。
<縄張図>
<北城縄張図>
<北城縄張図>
<南城縄張図>
<説明>
<説明>
<十市遠忠説明>
二本城郭大計によりますと、龍王山城は十市氏の居城でした。十市氏は貞和3年(1347)当時、十市郡諸庄を押領した十市新次郎入道以来、史料的に確かめられる大乗院方の国民で、春日若宮祭勤仕の為に編成された国民の組織では長谷川党の領袖でした。室町、戦国期を通じて、筒井、越智氏に次ぎ、古市、箸尾氏と並ぶ五大豪族の一員でありました。
大和永享の乱では井戸氏を支援して筒井氏と組み、越智、箸尾氏と戦っています。以後、戦国初期まで筒井氏との盟約が続きます。十市郡を越えて、城上、山辺両郡に及ぶ広域の十市郷が形成されたのは、応仁の乱中、十市遠清の代です。同時に山内の小夫、都祁の小山戸一帯も勢力圏になり、遠清の子、遠相の代に国中の領地を越智方に奪われ、山内の小夫、小山戸などに退くことが多かったようです。その子遠治の代の永正2年(1505)に赤沢朝経の乱入に対抗して舞訳した国衆が国中周辺の山々に篝火を焚いて立て籠もったのが、その中に『釜口ノ上』すなわち、龍王山城が登場します。その後、長年の盟友だった筒井氏と対立しますが、永正17年(1520)に国衆が再び和議します。その時に盟約から排除されて勢力を後退させます。
遠治の子、遠忠が天文2年(1533)に家を継いだ時は、河内から乱入してきた木沢長政が筒井氏と結んだので、十市氏は孤立の状態でした。遠忠の十河家再興の業は、木沢長政のとの争覇戦という性格にならざるをえませんでした。長政が信貴山城に入ったのは天文5年(1536)で、遠忠が龍王山に本格的な城郭を築きだしたのもほぼ同じ頃でしょう。天文9年(1540)に筒井氏と和議がなってから十市氏の勢力は急成長します。特に木沢長政が敗死した天文11年(1542)以後は筒井氏をしのぎます。十市氏は衆徒身分ではなかったのですが、当時は官符衆徒の制が崩れて、永正3年(1506)以後は俗に国判衆と呼ばれる国衆の代表十二氏が守護の権限を分掌する形になっていたので、遠忠はかつての筒井氏(一時は古市氏)の官符衆徒棟梁に相当する地位についていたといえます。天文12年(1543)から翌年にかけて、しばしば興福寺の使が訪れた『山ノ城』は龍王山城の事です。遠忠は和歌、連歌、書をよくし、京の公家とも交流し、文人としても名を馳せます。しかし天文14年(1545)に遠忠が急死。十市氏の大名化の道は挫折します。
永禄2年(1559)に松永久秀が大和に入って翌年中に大和の大半を征服します。遠忠の跡を遠勝は永禄5年(1562)頃までは筒井氏と共に松永氏に抵抗していましたが、やがて抗しきれず松永方に降り、娘の御料(おなへ)を人質として多聞山城に入れます。しかし永禄8年(1565)、松永久秀が三好三人衆と対立し、筒井氏が三人衆と結びます。この事が影響して十市家中に対立が生じ、同年10月、龍王山城内で謀叛が起こり、城衆の一部が退城します。さらに国中に進出してきた宇陀の秋山氏と所領争いが激化します。永禄11年(1568)3月、三好三人衆に寝返りますが、松永方に人質を取られているので、はかばかしい働きもできないまま、秋山氏に山内を制圧されると、同年7月に秋山軍の来攻を恐れ、龍王山城を放棄、十市平城に移ります。しばらく龍王山城には秋山氏が居城し、9月には龍王山城から十市郷を刈田、放火しています。
ちょうどこの頃、織田信長が入京し、松永久秀がその軍門に下って、信長軍の来援により筒井氏を圧倒します。急変した事態に応じて十市氏も再び松永方に降ります。永禄12年(1569)10月、遠勝が死去し正統が途絶えると、遠勝の後室と娘おなへを奉じる松永派と、一族常陸介(のちの遠高)を擁する筒井派に分裂してしまいます。十市氏の大勢は松永派で、龍王山城、十市城は共に松永派の手にありました。元亀2年(1571)8月、筒井順慶は松永軍に大勝すると、その年末に十市城を攻撃しますが、落とせませんでした。信長政権下で筒井氏は松永方を圧倒します。松永久秀は天正元年(1573)に信長の背きますが失敗し、多聞山城を明け渡します。
永禄3年(1575)3月、多聞山城に在番して、大和を管理していた原田備中守の反対を押し切り、松永久秀の甥、金吾が龍王山城でおなへと祝言を挙げたのは、大勢を挽回する為に十市氏の残存兵力を結集して龍王山城を確保する必要があったからでしょう。永禄5年(1577)10月松永一族は信貴山城に滅び、無主となった龍王山城は翌年、破却されます。
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さぁ、今回の最大の目的と言ってよい、龍王山城の登城開始です。まずは北城です。ちなみに、この城は南北に分かれており、北城は詰の城であったと言われています。さてまずは太鼓丸の切岸を見ながら坂を上っていきます。
<杉の木がスっと伸びる…山城ではよく見る光景>
<いわゆる竪土塁と言えましょう>
そしてその土塁の奥にあるのが、南虎口です。この虎口の登り口と登り切った場所は筋違虎口になっていたようですが、欠損している箇所もあります。
<登ってきた道よりかなり過酷そうな道でした>
太鼓丸とその横にある曲輪の間を断ち切っている堀切。この緑の鮮やかさ、仕方ないとはいえ、城巡りの身分としては少し残念なんですよね。
<これ以上奥に行く勇気がありませんでした>
<山城登るのもやはり晴れていると楽しい>
その1はここまで。その2に続きますm(_ _)m