重見 通昭(しげみみちあき) | ぬるま湯に浸かった状態

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今回は戦国期に活躍した人物です。当たり前と言えばそれまでなんですが、戦国期の国人は戦だけした訳でなく、政治が重要な仕事の一つですね。この方はその事をうなずかせてくれる方です。

 

 

主役は赤太字。関係人物は青太字。主役に関係のある出来事(戦いなど)には緑太字。主役に関係ある場所には黒太字で記します。また、今までに紹介している人物は人物名でリンクしております。

 

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重見通昭(?~?)

 

重見氏は河野氏の庶家である、得能氏の出てあると言われています。越智郡石井山(明神山)と、風早郡日高城を居城したと伝えられます。

 

重見通昭は15世紀後半に家督です。系図では、重見通勝(しげみみちかつ)の子とされています。古文書などには一世代前の人物としては、重見通実(しげみみちざね)や重見通煕(しげみみちあき)の名が見られます。

 

重昭はこの頃の伊予守護である、河野教通 (こうののりみち)の女を娶っており、教通の時代に河野氏の奉行人として大きな役割を果たしています。

 

文明13年(1481)には、三島宮の祭礼について、先例に従うよう教通の命を伝え、同16年(1484)には、越智郡能寂寺の寺領を安堵しています。また翌文明17年(1485)には、三島宮大祝に三島神領を、文明18年(1486)には風早郡二神島の二神氏の惣領職をそれぞれ安堵しています。

 

子孫には、享禄3年(1530)に河野氏に叛いた重見通種(しげみみちたね)。その後、河野家臣団に復帰して、種々の勲功を挙げたという、重見通次(しげみみちつぐ)や重見通俊(しげみみちとし)がいます。

 

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寺領や神領の安堵。さらには惣領職に対しての裁定など、色んな政治的な事をされている人物ですね。奉行人というのはこういう地味ではありますが、非常に重要な仕事をしていたと思います。

 

ただ、この時期の伊予は真っ二つに分かれていたので、ある意味人気取りの面もあったのでははてなマークと歪んだ考えをしてしまいます。ただ家の死活問題ですから、必死だったと思います。今の政党のように、選挙の為に色々と国民にいい顔をするのとは訳が違うと思います。

 

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