ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

津和野城 レポ第8弾となります。

 

 

その7のレポ

 

 

 
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見所となる遺構 (土塁など)はブルー

名前のある場所 (本丸など)はパープル
現存建築物 (移築建築物含む)はピンク

再現建築物 (模擬建築物含む)はオレンジ
跡地 (櫓跡など)はグリーン

その他 (銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 本城縄張図

 

 

 中心部縄張図

 

 

 全体縄張図

 

 

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この城の主郭でもある、三十間台 に入ってきました。

今迄は、その石垣だけを見ていましたが、遂に突入しました。

非常に広い 曲輪 で、この城最大の削平地でしょう。

そして、ここも眺望が効くので、椅子が設置されていました。

 

 人がいないというのが素晴らしい爆  笑

 

 

 

ただ、遠景は結構見て来たので、ここではパス(たぶん)。

モミジが滅茶苦茶、邪魔なのですが、西下に 天守台 があります。

この天守台から三重台へ入る、虎口もあるんですが、何故か撮ってませんアセアセ

 

 足元が虎口なんだけどなぁ~ガーン

 

 

 

その下には、三の丸 が見る事ができます。

光が当たっている場所がそうです。

 

 またもや、ここで巨体の影を見る事ができましたガーン

 

 

 

場所は移動して、三十間台の南へ。

そこから、人質郭二の丸 を眺めます。

二之丸から人質郭、そして三重間台までは高低差がかなりあります。

ちなみに、この構図、我ながら素晴らしいのではと思っています。

 

 久々の自画自賛爆  笑

 

 

 

今度は人質郭の真上から…で撮ったら遠景も撮る形になってしまいました。

遠く水が張られた田んぼが多くありますが、休耕地もありますね。

田舎では、やり手がおらず、休耕地になっている箇所が多いですよね。

我が街では稲を植えない田んぼも結構増えています。

かといって、他の作物を栽培する訳でもなく…。

特に『米』が特産地という場所でもないから余計なのかもしれません。

ちなみに我が街は、遅場米がメインの様です。

で、今年は在庫が少ないとマスコミが少し騒いでいましたが、在庫は

まだ結構あるようですね。

確かに、マスコミは有益な部分もあるんですが、最近は意図がよく判らない

報道が多い様な気がするのは気のせいではないと思います。

 

 城の話しから大きく脱線してしまいました。

 

 

 

城下を見てみると、かなり古くからありそうな建物も散見されます。

立派な蔵なんかも見られます。

 

 ただその屋根は当たり前の様に石州瓦です。

 

 

 

視線を城域に戻します(この発言も多い)。

三の丸の塁壁を見てみますと、その 石垣 は荒々しい 野面積

積まれているのが判ります。

この三の丸の先端には、南門 跡の開口部も見れます。

さらにその脇には 石塁 であったであろう箇所もあります。

ちなみに三の丸なのですが、台所などを含む、西側の部分から天守台の

南の腰曲輪を通って、この南側の曲輪の範囲がそうだそうです。

(津和野城跡保存管理計画書参照)

 

 でも、津和野城を訪れた時には、この書類の事を失念しておりましたガーン

 

 

 

振り返ってもう一度、三十間台を。

右奥(北)には、ここに入って来るのに通った鉄門跡があります。

 

 判り難いですが…。

 

 

 

遠景は撮ってないハズと上で書きましたが、そんな事はなかったアセアセ

撮りまくっていたアセアセ

中央に流れているのが津和野川です。

 

 その説明は既にしてるかもしれませんが…。

 

 

 

この方角には、僕が車を停めた駐車場…ではなく、太鼓谷稲成神社が

あります。

その真上(北)にこんもりした山があるのですが、そこには陣城が

あったという事を、上の全体の縄張図が教えてくれます。

さらに、その縄張図には、西にも陣城が描かれています。

これら陣城こそ、まだ三本松城と呼ばれていた時代、この城の城主であった

吉見正頼が、主君である大内嘉隆を大寧寺の変で討った、陶晴隆を迎え撃つ為

この三本松城に立て籠もった戦いの才に、陶側が築いたモノではないかと

思います。

ちなみにこの籠城戦を三本松城の戦いと呼ぶそうですが、この城を陶晴隆

が包囲している間に、かの安芸の毛利元就が晴隆に対して挙兵。

吉見氏と急遽、和睦して元就に挑んだ晴隆だったのですが、最終的に

厳島合戦で、敗死してしまいます。

尚、三本松城時代の主郭は、もっと北にあったそうです。

 

 その陣城があった場所が、木に隠れているのは御愛嬌という事でアセアセ

 

 

 

では城に話しを戻して。

三十間台の北は、鉄門跡があるのですが、その脇(西)には

既に登場はしていますが、突出部があります。

この場所は、鉄門は抑えていますし、さらに左に見える 太鼓丸の虎口

の脇にもあたるので、主郭を守る要衝の様な形になっています。

ただ場所的には非常に狭いので、人員はそう配せなさそうですが。

 

 主郭防衛の要…言い過ぎではないですね。

 

 

 

突出部から見た、鉄門 跡です。

その鉄門に対して、ビッシビシ横矢を掛けています。

で、見てみると、鉄門は 石敷き であったのか、石が敷きられていますね。

通った時は気づいていませんでしたアセアセ

 

 その手前のエグイ凹みも気になりますが…。

 

 

 

間口が広くはないこの虎口ですが、石段 もあり、石敷きもありますし

野面積の石垣 もイカツイ感じなので、何となく威厳を感じるのは

私だけでしょうか。

 

 勝手に感じてろとは言わないでくださいm(_ _)m

 

 

 

太鼓丸に降りて、先程登っていた突出部を。

ここでUターンさせて、主郭に登らせるという、なかなか素晴らしい

導線です。

既に書いていますが、ハンマ技巧的ですわ。

 

 技巧的な導線は見ていて楽しい爆  笑

 

 

 

そして、この突出部から突き進む、三十間台の石垣

既に、ここは載せているので、コメントはなしで。

 

 この石垣が木陰に隠れてしまいます。

 

 

 

下に降りている途中で見られるのが、連続枡形

キャットウォークや木などで、見難いかもしれませんが、何度も

折れ曲がらせているのは、判ると思います。

 

 ここも既に何度も登場しているのでは詳しくは割愛します。

 

 

 

でも、新しく出てくる場所は詳しく…と書きたいのだが、ここが一体

何処なのか、判らん様になっとる。

既に、2年以上経っているから(何時もの言い訳)。

たぶんこれは、天守台の石垣 を狙ったモノでしょう。

 

 他人事の様な言いぐさ。

 

 

 

これなんかもっと判らんアセアセ

もしかして、三段櫓跡脇から見た、三の丸の石垣 なんだろうか…。

 

 でも、何故あそこまで降りたのかは不明ですが…。

 

 

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そんなアヤフヤな画が最後になりましすが、その8はここで終了。

次回、その9でお会いしましょう。

津和野城 レポ第7弾となります。

 

 

その6のレポ

 

 
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見所となる遺構 (土塁など)はブルー

名前のある場所 (本丸など)はパープル
現存建築物 (移築建築物含む)はピンク

再現建築物 (模擬建築物含む)はオレンジ
跡地 (櫓跡など)はグリーン

その他 (銅像など)はブラックで表記します。

 

 本城縄張図

 

 

 中心部縄張図

 

 

 全体縄張図

 

 

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人質郭の上部に見えるのが、三十間台の石垣 です。

ちなみに三十間は約55mですが、『三十間』の長さがある曲輪なのかな?

それとも、それだけ長く大きい曲輪だという事を示しているのか?

 

 日陰となっていますし、高い場所にあるので、少し判り難いですがもやもや

 

 

 

場所を離れて、三の丸 を上から見てみます。

その場にいても実感はしていましたが、かなり細長い曲輪ですね。

そして、右(南)には南門跡から続く 連続枡形 が入り込んできています。

ここから見てみると、虎口脇には 石垣 の残欠が残っています。

ただ、その三の丸の南面には、石垣が見られません。

崩れてしまったんでしょうか。

さらに三の丸へと登る、石段 も見られます。

 

 その場に居た時には、気づかなかった事ばかりの様な…アセアセ

 

 

 

連続枡形 の核(と書いて見たがそれは何ぞや?)となる部分を見てみると

キャットウォークが堂々と正面に走っていましたガーン

それはそうと、三段櫓初段の石垣 に網が張ってあったのは

崩落しそうな感じなんですねアセアセ

何と言っても、伐採はされていますが、木の根が残っていますもんね。

 

 キャットウォークも少々くたびれている感じがするなぁ~。

 

 

 

次に撮った画は、非常にボケていたのでパス(わざわざ書く必要がない)。

その次の撮った画は、何でこんな構図?と悩んでしまう様なモノです。

しかも、いったい何処?って感じになってしまうのですが、恐らく

三十間台の南にある、太鼓丸の石垣 ではないかと推測されます。

ただ、緑が強く『石垣』が見栄えしなくなってしまっていますが…ガーン

 

 しかも暗くなってしまっているし…。

 

 

 

やはり上は太鼓丸の石垣だと確定しました。

それが判ったのが、今回の画。

逆行で悪戦苦闘して暗くなてしまっていますが、太鼓丸の虎口 です。

 

 何となく開口部が判りますが…。

 

 

 

この虎口は、喰違虎 になっています。

また、太鼓丸からの横矢が掛かる形になっています。

さらに、坂虎口 でもあるので、なかなか難易度が高いです。

見てる方には楽しいですけどね爆  笑

 

 上の画より虎口感が出ているとは思います。

 

 

 

虎口を抜ける前に、太鼓丸の石垣 を。

少々怪しさはありますが、野面積の石垣 に様に見えます。

ちなみに、ここまで落し積以外は、野面積の石垣しか登場していません。

 

 基本的には、こういう専門用語はどうでもイイとは思っていますが…。

 

 

 

以前にも同じこと言ってました。

まぁ、また言いそうですけど。

でも、説明する際『石垣』だけでは味気ない気がするんですよね。

今でも、野面積と打込接の間がよく判りません。

さて、話しは戻りまして、太鼓丸に登ってきました。

先程の太鼓丸の虎口からほぼUターンした場所には、三十間台の虎口である

鉄門 跡があります。

平入虎口 ではあるのですが、右(東)から飛び出した、太鼓丸虎口脇の

石垣が横矢を掛けている形になっています。

非常に狭い場所ではあるのですが、ちょっとした工夫で、技巧的な虎口に

しているのは、なかなかニクイですね。

 

 虎口の間口も滅茶苦茶狭いです。

 

 

 

上の画でもチラっと見えている 三十間台の石垣 を。

打込接の石垣 っぽくは見えますが、野面積だと言う方もいらっしゃる

でしょうけど。

だからこういう境目みたいな石垣が出現するから判断するのが難しいん

ですよね。

なお背後に山が、しかも至近距離で見える景色。

なかなかスゴイと思ってしまうのは僕だけでしょうか。


 何気に山の中にアンテナ的なモノがあります。

 

 

 

もう一度、鉄門跡と共に、太鼓丸の虎口を見てみます。

一旦太鼓丸に入っても、見ての通り、360度回答しないと三十間台に

向わなければならないという、非常にトリッキーな導線になっています。

こんな感じの技巧的な導線、大好きです爆  笑

 

 上でも書きましたが、狭い場所ですが、有効活用しまくりです。

 

 

 

太鼓丸 なのですが、あまり広くない曲輪です。

ただし遠望はめっちゃ利きます。

 

 だから椅子なんかも置いているんでしょうね。

 

 

 

ここからだと、津和野の市街地も見る事ができます。

津和野駅の辺りは、見る事は叶いませんが、狭い場所に、住宅がビッシリと

集まっていますね。

そして、この住宅街の屋根も当たり前の様に石州瓦が乗っています。

 

 高い建物が一棟だけですね。

 

 

 

朝早く見た、馬場先櫓 もここから見る事ができました。

でも、木に隠れてしまっているとも言えますが…アセアセ

 

 判りますか?

 

 

 

鉄門から、いよいよ三十間台に入ります。

この鉄門は櫓門だった様です。

とは言っても、間口が狭いので、そこまでの威容は誇っていなかったのでは

ないでしょうか。

尚、この虎口、上では平入虎口と書きましたが宇和島城の本丸虎口である

櫛形門や、小谷城の黒金門同様平入の 枡形虎口 と言えるかもしれません。

 

 両者より、非常に狭いですけどね。

 

 

宇和島城櫛形門のレポ

 

 

 

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少々短いですが、今回はここまでに致します。

次回も読んで頂ければ幸いです。

津和野城 レポ第6弾となります。

 

 

その5のレポ

 

 
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見所となる遺構 (土塁など)はブルー

名前のある場所 (本丸など)はパープル
現存建築物 (移築建築物含む)はピンク

再現建築物 (模擬建築物含む)はオレンジ
跡地 (櫓跡など)はグリーン

その他 (銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 本城縄張図

 

 

 中心部縄張図

 

 

 全体縄張図

 

 

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この画はどこなんだろう?

あの 三重櫓 台のどこかだろうか?

何となく、三の丸の北端にある、その5で撮りまくっていた、最上段の

櫓台の様な気がしますが…自信なしアセアセ

そんな疑問はさておき、野面積の石垣 に目がいってしまいます。

 

 疑問を解決させたのは下の画です。

 

 

 

場所は移動して、真下を見てみると、石垣の間が開口しています。

ここが 東門 跡になります。

その東門跡の左(西)に、最下段の 三重櫓 台へと登れる 雁木 

が見えます。

そしてさらに西には、二段目の 櫓台 もありますね。 

多分(あまり自信ないけど)、また間近で見た画が後々、登場すると

思いますが、ここは 連続枡形 になっています。

で、その連続枡形を登り切った場所が、上の画の部分になるのです

(やっと上の画のコメントが繋がった)。

 

 大手側の守りは固い。

 

 

 

角度を変えて、この連続枡形を見てみると、こちらの方が枡形スペースが

ハッキリ判りますし、それが高所から睨めている形になっています。

尚、遠くからだと判り難かったですが、一段目の三重櫓台は、金網に

覆われています。

かなり孕んだり、歪んだりしていますね。

 

 ただ、一段目の櫓からの脱出路は枡形スペースとは…。

 

 

 

場所は一気(という程でもないかも)に移動。

今度は、西門 跡に立ちました。

ここは標柱にもありますが、櫓門だった様ですね。

 

 緑がモリモリし過ぎているのが難点。

 

 

 

城外側から見ると、緑で暗くなってしまっていて、雰囲気があります。

足元には、瓦が散乱しています。

ただ、三の丸側(左)の 石垣 は崩れて積み直しがされているのか

落し積の様な積み方になってしまってます。

 

 瓦葺きの櫓門だった事が、瓦の散乱で判ります。

 

 

 

西門跡の南側の石垣の隅部は、これまた 算木積となっています。

 

 でも、モミジの主張が強すぎて、上部がよぉ~判らんガーン

 

 

 

北側の石垣は、三の丸の南面の石垣 へと続いています。

ただ、伐採されてはいますが、木が張り付いている非常に危うさを感じる

野面積の石垣 です。

 

 ここも、石垣より緑の主張が強すぎるガーン

 

 

 

またまた、西門跡を正面から(城外側ですが)狙います。

上から生い茂るモミジ意外にも、下草も生えているから、余計に緑が主役に

なってしまっていますが、この中のメインは、西門跡の石垣 です。

 

 モミジが入ってしまい、アングルにはかなり苦戦しました。

 

 

 

先程はスルーした足元の の残骸です。

非常に多くの瓦が散乱しています。

こんだけ多いのは初めて見た様な気がします。

しかし、他で見られないのがもう一つ。

赤い瓦が混ざっているのです。

もしかして、これは石州瓦なのかな?

ちなみに石州瓦は、後日訪れる、浜田城の天守に葺かれてた事が

始まりとされており、寒さに強い瓦です。

ただ当時の製法は、現在とは少々違うようです。

 

 散乱し過ぎですわ。

 

 

 

西門を潜ると、正面は 天守台 があります。

その5でも語りましたが、城の最高所にない天守台。

威容を誇っていた期間は短かったようですが、三重の天守がここに乗っていた

そうです。

ちなみに、天守台の石垣も基本 野面積 の様ですが、目の前に見える部分は

落し積の様な恰好をしています。

江戸期だけでも260年ですから、その間にも修復をしなければならない

状態になる事はあったでしょう。

逆に、築城当時から残っているのは、本当にスゴイ事だという事を

最近になって(やっと)実感しています。

 

 天守は落雷で焼失したとか。

 

 

 

隅部です。

またもや 算木積 を狙っていました。

この城では、もはや恒例行事と化しているので、詳しくは割愛です。

 

 詳しくなくても割愛です。

 

 

 

天守台から南へ廻りこんで行くと、腰曲輪 がありますが、勿論この曲輪も

石垣 で支えられています。

そしてここの石垣も 野面積

途中で 横矢 を掛けていますね。

 

 緑の主張がやや強いですが、石垣が主役ですよ。

 

 

 

この腰曲輪から、見上げる場所にあるのが、人質郭と三十間台です。

その中でも 人質郭の野面積の高石垣 は本当に迫力があります。

ちなみに、ここからこの画を撮るのには、もろ逆光だった事は鮮明に

覚えています。

 

 人質郭をこの角度から狙った画ってあまり見た事がありません。

 

 

 

腰曲輪を逆方向から狙います。

先程、掛かっていた横矢はこちらからだと、主張が弱いですな。

そして人質郭側の土の部分の最下部には、土留めの石垣 がついています。

で、その石垣の前には栗石の様な小さな石が散乱していました。

 

 順光なので、色がハッキリ出ています。

 

 

 

では、皆さんお待ちかね(ではないハズ)。

津和野城と言えばココと言えるような場所にやってきました。

先程は斜めからでしたが、人質郭の真正面です。

そして奥には三十間台。

 

 津和野城の案内でよく見る構図です。

 

 

 

ここで、光を相手に苦戦しながら、数枚、ほぼ同じアングルで

人質郭と三十間台を狙っていたので、宜しければ見て下さい。

 

 

 

 

 

 場所を微調整しながら撮ってみました。

 

 

 

今度は、西側に少しばかり移動して。

こう見ると、石垣が奥まで続いているので、三十間台は広そうに見えます。

 

 こちらからでも人質郭の高石垣の主張が強いですね。

 

 

 

この辺りから眼下に広がる城下を。

こちらは津和野の街外れとなっていて、田園が広がっています。

ただ狭い盆地の為、直ぐに傾斜地になっているので、棚田が広がっています。

また、赤い石州瓦が葺かれた民家も見えます。

 

 長閑ですなぁ~。

 

 

 

その6の最後は、主張が強かった人質郭の石垣の画で締め括ります。

と言っても、2枚あるんですが。

まずは、算木積 となっている隅部を。

ここの石は上部行くほど、小さい石を使用していますね。

算木積の石って、まぁまぁデカイ石を使っている多い印象があるので

ある意味特異な、算木積と言えるのではないでしょうか。

 

 下部の石もそこまでの大きさではありません。

 

 

 

最後は、人質郭の南面を全面撮りたかったですが、近すぎて、こんな画に。

ただ、その高さは実感できますね。

 

 ここの石垣も修復されている感じを受けますが、どうなんでしょう。

 

 

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その6はここまでにします。

次回、その7へと続きます。