ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

金川から、今度は東に向かいます。

コンビニで昼食を購入して、基本、岡山らしい丘陵地帯を走らせます。

途中、グーグルマップさんが謎のナビをした事もありましたが

次の目的地の駐車場に到着しました。

和気の美しい森と言う、キャンプ場の駐車場です。

この施設の尾根伝いに、目的地があるのですが、そこには二つの城郭が

あるのです。

以前なら訪れた順で、写真を撮っていたのですが、今回は先ずは

後で訪れた城までシャッターを押すのを我慢して、レポをし易いように

したのですが、そのレポを書くまで3年以上待ったので、そうした事すら

忘れていましたアセアセ

レポ前に、画像のフォルダを見て思い出した次第です。

という事で、その後で訪れた城のレポから開始します。

その城の名は 天神山城 です。

 

 

チラ見レポ

 

 

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見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー

名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル

現存建築物(移築建築物も含む)はピンク

再現建築物(模擬建築物も含む)はオレンジ

跡地(天守跡や門跡など)はグリーン

その他の見所(像など)はブラックで表示します。

 

 

 鳥瞰図

 

 

 こちらも鳥瞰図

 

 

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先の通った城砦と境い目までやってきました。

ここまで、ゴツゴツした岩や石がかなりあったので、ここほんまに城砦かという

疑念を抱きながら。

そんな場所を歩いて、やってきたここは 堀切 があります。

 

 ここも岩が露出しています。

 

 

 

両肌とも岩盤が僅かに残っていますね。

全面岩盤ではないのですが、この堀切を穿つのはなかなか苦労したでしょう。

堀底は、そう深くないのですが、城域側の方の 切岸 が反り立っているので

十分、敵に侵攻を防げそうですね。

 

 ただ、案内板がなければ堀切と判るかは…いや判るって。

 

 

 

切岸を登りきると 南の段 と呼ばれる 削平地 に辿り着きます。

先端が、少し高くなっているように見えますが、土塁とかではないようです。

 

 その疑いがあったから撮ったのでしょうけどね。

 

 

 説明…南櫓になっているが。

 

 

 

この曲輪ですが、幅がめっちゃ狭いです。

両サイドは断崖となっていて、端に寄る事はできませんでした。

 

 チキンを発動。

 

 

 

チキンと言えば、我が街では『揚げ足鳥』という焼き鳥が有名です。

『もも肉』を揚げているのですが、これがかなり旨いんです。

と言っても、あまり頼まないけど…。

代わりに、私は『もものオーブン焼き』をよく食します。

なお、讃岐に行くと、焼き鳥と言えば、もも肉を焼いているのが出ますし

今治に行くと、鉄板焼きとなります。

何時もの様に、全く城とは関係ない話しをぶち込みましたがご了承ください。

話しを天神山城に戻します。

この南の段の背後には、切岸 が見られますが、この上が 南櫓台 となります。

 

 南の段を睥睨しています。

 

 

 説明…なんでこんな遠くから撮ったもやもや

 

 

 

この 櫓台 の下には『石』が落ちていました。

また、癖が出たと自分自身も感じていますが、まだこれが岩が割れたものか

それとも、石積が崩れたものかは、判断できません。

櫓台にも岩盤がへばりついていましたし、その上の方を見ると、割れている様な

岩(石かもしれんが)もありましたしね。

 

 岩がある城は本当に難解です。

 

 

 

でも、当初は中世城郭には『石』はないと思っていたので、ことごとく

これは石積の痕跡ではないと見向きもしませんでしたが、今ではその概念は

完全に消え去っており、石が岩かの判別に苦労している次第です。

 

 「そななんどうでもええやろ」という言われそうですが。

 

 

 

そんな石が岩か騒動(自分の中でのみ)はさておき、南櫓台を見ます。

 

 高い櫓台だなぁ~。

 

 

 

横に回り込んでいきます。

今、歩いている場所は、恐らくですが、登城路だと思うのですが

そこに横矢を掛ける形にもなっているのが、南櫓台です。

 

 この城では、滅茶苦茶、案内板が役に立っています。

 

 

 

南櫓台の背後に回り込んできました。

その櫓台に向かう為に 土塁 が繋がっていました。

守備兵に優しい、仕組みになっています。

 

 梯子で登るよりはマシなのではないでしょうか。

 

 

 

先程登ってきた登城路と、南櫓台の関係性を真後ろから見ます。

上でも言いましたが、滅茶苦茶、横矢掛かってますね。

さらに、今、立っている場所の方が高いので、登城路を抜けてくるのも

かなり苦心しそうです。

土塁の脇は、狭いですが 曲輪 になっています。

 

 この曲輪は、桝形スペースでとも言えそうです。

 

 

 

振り向きます。

ここも細長い 曲輪 になっていますが、ここは 馬屋の段 と呼ばれています。

細長いから削平地というのは『馬場』と名前が付けらえる事が多いのですが

この曲輪は『馬屋』と名付けられています。

で、足元には『石』があります。

これは岩ではなく、石積の痕跡ではと思います。

でも、どこからやってきたのかは…。

 

 ここに何かが建っていた可能性もありますよね。

 

 

 説明

 

 

 

馬屋の段の画にも写っていましたが、その奥の、飛騨の丸の切岸 が見えます。

 

 切岸というには低いですが。

 

 

 

近づきましたが、この切岸内にも『石』が見られました。

これは岩ではなく、石積 の痕跡ではないかと考えます。

 

 ハッキリとした姿ではないですが、切岸にしがみついています。

 

 

 

飛騨の丸 に登ってきました。

説明を読むと、明石飛騨守景親が居住していたとか。

 

明石景親は、信長の野望でも登場しますが、明石行雄というのが本当の

名前だそうです。

明石氏は戦国期に浦上氏に属すようになり、浦上宗景と浦上政宗の兄弟が

対立した際には、宗景に属し、彼の老臣として活躍するようになります。

しかし、宇喜多直家がこの天神山城を攻めると、宗景を城の一部に火の手を

挙げて裏切り、この城が陥落する手助けをしています。

その後は、宇喜多直家、そしてその子の宇喜多秀家に属します。

1588年には、伊予守を叙任しています。

 

 という事はここで火の手を挙げて裏切ったのでしょうか。

 

 

 説明…かなり重要な事を書いています。

 

 

 

この飛騨の丸は上下段に分かれているのですが、その境い目には、説明には

野面積の石垣と書かれている 石積 が存在するのです。

これには、狂喜乱舞したと思われます(もう3年以上前なので覚えてない)。

また、この 土壇 の両サイドには 土塁 が見られ、上の段にスムーズに移動

できる形になっています。

 

 遠目では鉢巻土塁の様に見えます。

 

 

 

近づいてみますと、下部はほぼ残っていますが、上部は崩されたような気配が

ありますね。

 

 だから鉢巻土塁に見えた訳です。

 

 

 

ここの石積は、石自体が大きい訳ではないですが、この城を築き

備前に覇を唱えた、浦上宗景の権威を示していたのでしょう。

 

 彼については、またお話しする予定です。

 

 

 

三石城レポの際にもお約束していますから(よく覚えていたな)。

でも、そこまで期待しないでください。

全く詳しくないのでアセアセ

さて、石積 の痕跡は、土塁側にもありました。

 

 僅かに残っていました。

 

 

 

こちらからも石積を狙いましたが、手前が木々の影になっちゃってる。

冬というのは、城巡りに際しては(雪が降らない限り)最高の時期だと

思っています。

ただ、冬は太陽が低い位置にいるので、どうしても影が長くなりますし

光も黄色っぽくなっちゃうんですよね。

しかも、太陽が出ている時間が短いというのは辛いもんです。

でも、それを判って活動していますし、最近は色んなデメリットを判って

写真を撮っているので、そう苦にはならなくなりました。

 

 本来の目的は、写真ではなく目で見て感じる事だと思ってます。

 

 

 

この石積の上が、飛騨の丸の上段 になります。

飛騨の丸が主郭の背後にあるという事は明石行雄(景親)が浦上宗景から

信頼されていた証だと言えるでしょう。

 

 しかし、彼は裏切ってしまいました。

 

 

 

飛騨の丸の北西にあるのが、本丸の切岸 です。

早くも主郭手前なのですが、歩いてきたルートが往時の搦手側からだったのも

あるでしょう。

この切岸にも、石積が崩れたような『石』が見受けられます。

 

 これが岩盤ではない事は流石に判ります。

 

 

 

この切岸をじっくり見て回ると、やはり 石積 が残っていました。

 

 木々の隙間から見える石積。

 

 

 

この 石積 なんか、イイ感じで残っているじゃないですか。

こういうのを見れるからこそ、城巡りは辞められないのです(言い過ぎ)。

 

 言い過ぎかもしれませんが、城を訪れる原動力にはなっています。

 

 

 

この石積の上にも、木々に隠れていますが、石積が見られました。

それにしても、飛騨の丸の石積の石より大きい石が使われてますね。

これは主郭という事も関係しているんでしょうね。

 

 上の石積の痕跡は見え難いですが、見えますか?

 

 

 

では、この切岸内の石積の痕跡を見てください。

 

 

 

 

 

 隠れていたり、見えていたり、してますがスゴイです。

 

 

 

鳥瞰図を見ると、この城は総石垣の城に描かれていますが、流石にこれは

ナンセンスでしょう。

しかし、この切岸は石積に覆われていたのではと、思うほど『石』の量が

多いです。

 

 これも浦上宗景の威信を示していたのでしょう。

 

 

 

切岸内には石段の様なモノも見られましたが、これは遺構ではないのではと

思いました。

でも、撮ってますが…。

 

 真相はその2で。

 

 

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真相はって刑事ドラマじゃねぇ~んだから。

という事で、その1はここまで。

次回も読んで頂ければ幸いです。

金川城から降りてきて、車を停めた御津支所まで戻ってきたのですが

この支所こそ、江戸期の陣屋跡なのです。

その名こそ、金川陣屋 です。

 

 

チラ見レポ

 

 

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見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー

名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル

現存建築物(移築建築物も含む)はピンク

再現建築物(模擬建築物も含む)はオレンジ

跡地(天守跡や門跡など)はグリーン

その他の見所(像など)はブラックで表示します。

 

 

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車に戻る前に、この金川陣屋の石垣を見る事に。

御津支所庁舎の南に降りてみると、そこには 野面接の石垣 が道路に沿って

走っていました。

尚、この金川陣屋に入ったのは、池田恒興以来、池田氏家臣となっていた

日置氏です。

金川城も、日置氏が改修をしていたようですので、廃城後はこの陣屋を構え

統治していたのでしょう。

 

 一直線に伸びています。

 

 

 

この石垣の石材ですが、もしかすると金川城で使われた石をもってきた可能性も

あるのではないかと思いますし、金川城から見た、石の採掘場も近くにあるなど

新たな石を運び込んだ可能性もあるような気がします。

結論を言うと、判らんという事です(無責任)。

東面にも石垣が残っているようですが、そこまで歩いていく事なく

この南側の石垣だけ見て、車に戻り、次の目的地に向かっていきました。

 

 短いかい(仕方ない)ですが、金川陣屋レポ終了です。

 

 

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久々に超短いレポでした。

感想も殆どありませんが、この時代まで石垣が残っているのはスゴイ事です。

しかも、民家も林立していますから。

役所だった事、そしてその役所の基礎部分であるから残ったのでしょう。

後世に、残していってほしいものです。

 

 

金川城のレポの際にも書きましたが、御津支所の駐車場に車を停めました。

この支所の南側に石垣が残っています。

お手洗いは周辺にはありません。

探訪時間は数分です。

 

 

 駐車場

金川城 レポ第3弾です。

 

 

その2のレポ

 

 

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見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー

名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル

現存建築物(移築建築物も含む)はピンク

再現建築物(模擬建築物も含む)はオレンジ

跡地(天守跡や門跡など)はグリーン

その他の見所(像など)はブラックで表示します。

 

 

 縄張図

 

 

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本丸 に登ってきました。

でも、削平地 というより『石』が目立つ場所でした。

 

 登った先、かなりの数が見られました。

 

 

 

そんな本丸の北側を見ると、かなり低いのですが 土塁 が残っています。

左端に、天守の井戸と書かれた案内板が写っていますが、この矢印に

従って降りていく事はありませんでした。

 

 見とけばよかったかなと今となって思いますが…。

 

 

 

後の祭りですわな。

さて、この 土塁 は、恐らくですけど、本丸の南東側についているモノです。

あくまでも恐らくです。

 

 もしかすると違うかもしれませんが、今となっては不明。

 

 

 

これは、恐らく上の画の左奥、土塁 の延長戦を狙ったモノだと思われます。

しかし、土塁より『石』の存在感が強いですね。

前日訪れた、三石城同様に、石がゴロゴロしています。

これも破城の痕跡なのかもしれませんが、何故に曲輪内に放置しているのか。

三石城だけかと思ったら、この城でも見られたので、この備前などで

見られるモノなんでしょうか。

その備前に、入封したのが、小早川氏と池田氏。

未だ混沌としていた関ヶ原以降ではなく、一国一城令の時期にこの城が

廃城になったと考えると、池田氏がこの城を破城にしたハズ。

という事は、池田氏の破城の仕方がこの様な形だったのかと推測してしまいますが。

 

 実際はどうなんでしょうかね。

 

 

 

そんな難しい話し(かなりの確率でしてますが)は、ここまでにして

本丸 を紹介していない事に気づきました。

この本丸は長方形の形をした 曲輪 です。

 

 えらいザックリとした説明です。

 

 

 

本丸は南西面にも 土塁 があります。

もしかすると往時は、本丸は土塁で囲まれていたのかもしれませんね。

 

 あくまでも推測です。

 

 

 

さて、本丸の南側。

ここには魅力的な遺構が残っています。

喰違虎口 です。

本丸南東の土塁と、南西の土塁が、喰違いになっており、その開口部が虎口に

なっています。

 

 綺麗な喰違虎口です。

 

 

 

国吉城の時に喰違虎口について熱く(熱すぎた)語ったので、ここではパス。

そんな事より、ここも『石』がゴロゴロと落ちていました。

この虎口は『石』で固められていたのでは想像しても恥ずかしくないハズです。

『石』は加工が施されており、織豊期もしくは、江戸初期のモノではないかと

推測できます。

 

 推測の範囲が広い。

 

 

 

虎口を正面から見てみます。

間口はそう広くはありませんね。

 

 木が鬱蒼としてるので、余計にそう見えるのかも。

 

 

 

虎口を違う角度で狙ってみました。

本丸の土塁が、変な状態で残っています。

石を剥がした痕跡なのか、それとも経年の劣化なのかは判りませんが。

 

 後者でしょうけどね。

 

 

 

この劣化した土塁の西に視線を移すと、本丸の南隅が視界に入ります。

何となくですが 櫓台 に様にも見えます。

確証はありませんが、ここにあったとしてもおかしくないポジションです。

 

 縄張図を見ると確信に近くなりました。

 

 

 

虎口の外側に出ると、石積 の痕跡が見られました。

この虎口自体、それに固められたのを確信しました。

 

 これは明らかに石積があったという証拠ですね。

 

 

 

隅石の様な、明らかに加工がされた『石』も見てとれました。

 

 隅石じゃないかもしれませんけどね。

 

 

 

ここが本丸の大手。

従って、石積をもって、威信を示していたのでしょうね。

 

 破城で、この様な形になっていますが、往時の威容は感じます。

 

 

 

この虎口の外(南)は小さな 曲輪 になっています。

見ようによっては、ここが 桝形スペース と言えないでもないですが。

そして、この虎口の南西と南東にも 土塁 が見られ、さらにその間には

開口部があります。

 

 そしてここにも。

 

 

 

『石』が散乱していますね。

それも、まぁまぁデカイ『石』が。

 

 最初の虎口にあったのと同等の大きさです。

 

 

 

そして、この虎口を外側から見ると、こちらも 喰違虎口 になっています。

連続喰違虎口 とでも言うのでしょうか。

この虎口には 石積 の残骸でしょうか、石列 が見られます。

 

 連続した喰違虎口を見るのは、たぶん初めてです。

 

 

 

少し引き気味でもう一度。

 

 何度撮っても、絵になる喰違虎口。

 

 

 

そして、この虎口の外側にも、多くの『石』とはいきませんでしたが

これまた隅石の残骸の様な『石』が残っていました。

 

 一個だけ残っているのも不思議ですね。

 

 

 

土塁のてっぺん辺りにも、『石』が残っていました。

 

 冷静に考えて、石だけの画は需要があるんか?

 

 

 

撮ってる本人は、そんな事は考えずに、本能のまま撮ってるんですよね。

でも『石』に執着し過ぎている気が…。

その『石』があった喰違虎口の南側の 土塁 です。

右側に映り込む案内板が邪魔の様な気がする…。

 

 でも位置情報が判るのでレポを書くには重宝したりします。

 

 

 

虎口内に戻り、そこにある 石列 を。

 

 見事に並んでいます。

 

 

 

コメントがかなり惰弱な感じですが…。

こちらが喰違虎口、内側の 土塁 ですが、これも明らかに 櫓台 ですね。

 

 最初の虎口と同様の形になっています。

 

 

 

二の丸に入りました。

先程の標柱がここで役立ちます。

そんな事はさておき、この 曲輪 の北側には、幅広の 土塁 が備わっています。

 

 鬱蒼としている奥に土塁が見えます。

 

 

 

この土塁の奥は尾根が連なっており、そこには曲輪が展開しているようです。

 

 見にはいきませんでしたが。

 

 

 

ここまで来ているので、見れば良かったのにと思いますが…。

もしかすると、木々に邪魔されて見れなかったのかもしれません。

 

 今となっては真相は闇です。

 

 

 

この土塁の対角線上、二の丸の南側に 石積 を持つ 井戸 がありました。

 

 見た目は、かなりインパクトがあります。

 

 

 

近づいてみると、内部も 石組 されていました。

ただ、けっこう埋まっちゃってるよなぁ~。

 

 石組も僅かしか見れない状況。

 

 

 

今度は、二の丸と本丸の南に走る、帯曲輪を通っていきます。

喰違虎口の南辺りに、石列 が走っていました。

石積があったのでしょう。

 

 ここでも『石』に執着しとる。

 

 

 

矢穴 のついた『石』が残っていました。

これは、この石積が、新しい時代に積まれた証左と言えるでしょう。

上の方で、池田氏時代のモノではないかと語っていましたが

岡山県中世城館跡総合調査報告書(長い)によると、やはり池田氏時代に

この城が改修されたと書かれていました。

 

 私の推測が当たった!!

 

 

 

これらの『石』がある 帯曲輪 なのですが、何故か縦方向でしか撮ってません。

横方向の方が帯曲輪を見るにはイイと思うのですが、そうしていませんでした。

恐らくですが、雑木林化しており、撮れなかったのだと思います。

 

 あくまでも推測です。

 

 

 

帯曲輪の南面には、竪堀 と思しきモノがあります。

ただ、その竪堀の長さは尋常じゃなく短いです。

 

 

 

 この辺りでは珍しい短い竪堀です。

 

 

 

しかもこの 竪堀 は、やや間隔を開けて、数条走っています。

この画でそれが判る方は殆どおらんでしょうが。

 

 この地域は長い竪堀がマストだと思ってましたが。

 

 

 

もしかすると、埋められた可能性もあるかと思いましたが、全部が全部短いから

そうではなさそうですね。

 

 ここまで短い竪堀が数条並んでいる城は初めてです。

 

 

 

上越なんか行くと、短い、竪堀が連続している城なんかあるらしいですね。

訪れた事がないので、その目で見た事もないのですが。

 

 ただ、こちらは少し間隔が空いているので、同じ造りとは言い難いですが。

 

 

 

それにしても、その 竪堀 を遠巻きでしか撮ってないって雑だなぁ~。

 

 近づけなかったのか、近寄らなかったのか。

 

 

 

レポ自体も雑になっちゃったかもしれませんが、最後に 竪堀 を見て

金川城から撤収します。

 

 下山します。

 

 

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最初から、綺麗な石積が登場し、かなり期待した金川城。

中世城郭のそれの特長も残っており、北の丸の連続堀切はなかなか見応えが

ありました。

さらに本丸での石の散乱、そして、連続していた喰違虎口は、そうそう見られる

モノではないので、かなりテンションがあがりましたね。

そして何より、城域が広大。

行けない場所もあったりと、全域を見た訳ではないのですが、廻れた範囲でも

かなりの大きさを誇っていました。

松田氏、宇喜多氏、小早川氏、そして池田氏と城主が変遷していますが

城を治める氏族が変わる度に、この城の改修が加わったのでしょうが

その姿を今でも垣間見れる金川城でした。

 

 

車は北区役所御津支所の駐車場をお借りました。

ただ、支所が開いている平日に車を停めるのは難儀しそうですね。

登城口は御津歴史博物館の前の道を挟んで反対側にあります。

お手洗いは近辺にありませんでした。

探訪時間は2時間強でした。

 

 駐車場の位置

 

 

 

 登山口の位置