前回の記事で書いた「深海に潜るような深い理解」という話題に関して、ではどのような文章を指して「深度がある文章」とするのか? という部分を少し書いてみます。

 一言で言うと、「送り手の脳の深淵から絞り出された、体系と構造がある文章」がそれに当たると考えます。

 「体系と構造」の一部だけ紹介すると、体系的な文章というものには、連続する文章A、文章B、文章Cの中に、一本筋を通した「芯」が存在します。一見違う事象について語っているA,B,Cが、実は抽象的な芯を持つメッセージ「one」を伝えるために、構造的に編み込まれているのです。

 この「芯」に「シナリオ」を組み込む技術がコピーライティングでは非常に重要ですし、そのシナリオが一般的に読み手の脳内で「納得性」を持って咀嚼される時、その文章は「論理的である」と称されたりもします。

 一方でmixiやブログのコメント欄などは、コメントA、コメントB、コメントCの間に、特にそういった一貫した「芯」が存在しません。AとBとCは、読みやすい反面「断絶」しているというのが、この種の文章の特徴です。新聞社などの商業メディアの記事であっても、WEB上の記事は傾向として、この「断絶」を有しているケースが多いです。

 「深い読解」とは、体系的に編まれた文章から「芯」を抽出して咀嚼する知的運動ですので、読む題材も、「芯があるもの」、「断絶していないもの」、「シナリオが編まれているもの」といった条件があります。これだけではありませんが、上述した「深度がある文章」の条件としては、これらの要素がそのまま当てはまると考えます。

 インプットとアウトプットは表裏一体ですので、「深度がある文章」を読解という形でインプットした経験がある人は、そのまま「深度がある文章」を書ける(アウトプット)能力に繋がっていきます。

 一方で、楽だからとそれぞれが断絶した軽い文章にばかり触れていると(インプット)、自身も断絶した言葉しか喋れなくなってしまいます(アウトプット)。アウトプットが断絶しているとは、極端なケースとしては、最初に話したAの内容と、次に話したBの内容が正反対のようなアウトプットです。一般的に「論理的でない」と言われるアウトプットの例ですが、こういった支離滅裂なアウトプットが行われてしまう背後には、そもそも断絶した文章のインプットにしか触れていないため、なんとなくそれを横流しした借り物のアウトプットで生きているという、WEBメディア時代において溢れている情報の性質が影響しているのかもしれません。

 この話は特にmixi批判とかではなく(笑)、いわゆるメディアリテラシーに関するお話です。mixiやブログのコメント欄も広く情報として理解するためのインプットとしては効率的な面がありますが、その種のインプットだけでも上手くいかないであろうという話です。

 ガンダムSEEDの福田監督がSEED-Club-Mobile内で、表現者志望の方は、長編小説を読み解く経験が必要だという趣旨のコラムを書いておられました。一夏ほど全身全霊をかけて「深度のある文章」を読解するという経験が、アウトプット(表現)を豊饒にするという、一線のクリエイターの方からの示唆ではないかと思います。