ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館に来ました。
何時も前を通るだけで、もう何年も素通りしている所です。
西暦700年代、高麗郡が出来た頃で、和同開珎が秩父から献上された頃、ふじみ野市一帯にもたくさんの人が暮らしていたようでたくさんの遺跡が発見されています。
このような展示は何処でも似たようなものです。
ここにも板碑がありましたが、この一帯で一番古いものだそうです。
そして、ふじみ野市と云えばやはり座敷箒です。
途轍もなく大きい座敷箒です。一体何畳の部屋を掃除するのでしょうか。
この地の特徴は、やはり1647年、松平伊豆の守によって行われた、新河岸の舟運です。
世界一の人口を有した江戸との交易は、莫大な冨をもたらしたに違いがないからです。
その、結果、新河岸の廻船問屋福田屋の力が増し、星野仙蔵氏のような人物が登場、1914年に鉄道まで引いて、上福岡駅まで作ってしまうのですからすごいものです。
船と共にあるのは、奉納されたお面です。
僕が行っている病院の先、200mほどの所にあるお堂に奉納されていたお面で、当時は、多くの船頭さんたちの信仰をあつめていたようです。
それにしても江戸や千葉、茨城方面の船頭さんまで関係を持って建てられたらしいのですが、びっくりします。
確かに川を通しては繋がってはいますが・・・・。
きっと僕の行っている病院の土地一帯にもたくさんの、船頭さんたちの家が立ち並んでいたのかもしれません。
今はそんな家の陰さえ残って無く、舟運の運命と共に消えたのでしょう。
これは新河岸川の河岸の模型です。
福田屋もあります。
浅草の花川戸から川越まで、多くの河岸があったようです。
当時はこんな景色だったのでしょうか
本格的な学校がこの地区にもできました。福岡を始めとした福が付く3つの村で作ったので三福学校だそうです。
そして1927年、東京陸軍造兵廠が出来ます。
新河岸川河岸と上福岡駅の間にある膨大な一帯に広がる武器工場です。
写真は下手ですがその広さは実感出来ると思います。
そして1945年、戦争に負け、東京陸軍造兵廠の敷地は、破壊され占領軍が駐屯する事になりました。
そして、1959年に霞が丘団地が、翌年の1960年に上野台団地が出来ます。
そして、最近残っていた跡地に、イオンタウンふじみ野が出来て、一層この界隈は、発展したように感じます。
尚、この一角に新日本無線株式会社が存在します。
今では集積回路や特徴のあるICを製作しており、僕も色々とお世話になっていますが、元々は、社名のように無線が主体の会社です。
何か日本陸軍の武器工場ともなれば、無線関係は必要なもの、何か関係があったのかもなんて思ってしまいます。
こんなものも展示されていました。メンコにおはじき、おてだまと懐かしいものばかりです。
ソノシートも少年雑誌の付録で聞きました。当時は、手で回す蓄音機も付録で付いてきました。
トンボ取りは、良くやりましたが、ここに書かれているようなことは初めて知りました。
こんな取り方でとっていた子供たちもいたのですね。
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