553th  人を憎む | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

人を憎むことなど誰もしたくないはずです。

そして、憎しみは、憎いと感じさせた言動はもちろんのこと、人を憎みたくもないのに、憎むようにさせたことが更に憎いと、日々憎しみが薄らぐどころか増していくということもあるようです。

その思いには根深いものがあり、それがあの世にいっても強く残ってしまっていて、霊的カルマとして霊的進歩向上を妨げることもあるようです。

家族全員を皆殺しにされたとか、無実の罪で死刑にされたというような極端なパターンだけが強い憎しみになるわけではないようです。

地上に再生された人という霊的生命体は必ずいくつかの霊的カルマがあるわけですから、ほんとにちょっとしたことがその霊的カルマを刺激して、家族を全員皆殺しにされた如くの憎しみが沸き起こることもあるでしょう。

しかも、それを何らかの原因で我慢してしまったら、更に激しい憎悪を生み、更に根深い霊的カルマを生むこともあるでしょう。


僕はそのようなことが日常茶飯事で起きていることが悲しくてしょうがありません。

自分とは関係ないことであっても悲しいのです。

なぜ、そんなことになってしまうのか。

不用意な言動が、相手も自分もどんどん底なし沼へと引きずり込んでいっていると想像するだけでも、ひどく気持が落ち込むのです。

せめて全ての霊魂が上層幽界にいて、霊的進歩向上を目指していたら、このような生き地獄のような思いをしないで済んだものをなぜ物質界に降りてしまったのかと思わずにはいられません。


さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」)霊を知るために 弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。


人という霊的生命体は、地上に降りてしまうと霊的修行者として霊的な進歩向上を真剣に目指していても、人を憎む、人から憎まれるということが皆無になることはないようです。

もちろん、逆恨みもありますし、不用意な発言が想像を絶するような憎悪を生むこともあります。

神伝禊法も神伝鎮魂法も修行を極め秘伝を習得するようになれば話は別なのかも知れませんが、そうでなければこのような人間関係の呪縛から逃れることは出来ないのかも知れません。

だからこそ、日々の生活における修行において、試行錯誤を繰り返しながらも、自らの努力で修正し、改善するしかないのでしょう。

それがなければ、どんなに霊的トレーニングを積んでも、大きな大きな壁にぶち当たってしまって、ちょっと油断すると何かの拍子に邪霊につけ込まれてしまうのだろうと思っています。

日々の生活における修行には、霊的トレーニングやトオゥ・ライ・シェイのように作法がないため、全てが己の努力によるしかありませんし、修行の段階を上げていくことはとても難しいのかも知れませんが、逆にそのような難しい修行をやり抜くことによって、本物の霊的修行者、本物の霊的指導者として、己の思いを遂げることが出来るようになるのだと思います。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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