肉の限界 | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

霊的なことに興味を持たれた方でも、肉の限界についてはピンとこられないようです。

何度も書かせて頂いているように人という霊的生命体の本来の住処は幽質界ですし、僕たちは、霊的カルマの解消のために、幽質界にいる自分の本体の一部が物質界に再生したという存在です。

物質界の生活など霊的生命体としては、ほんのわずかな期間の極めて例外的なものです。

ところが、霊的生命体であっても、肉を着るとまさに本物のバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界に入ってしまいます。

例えなので分かりやすく書きますが、物質界というのは、僕たちの日常生活の感覚でいえば、パソコンによるバーチャルリアリティの究極版のようなものです。

幽質界が本当の世界で、物質界というのは神霊が作られた、極めて精密なバーチャルリアリティのようなものと考えて頂ければ分かりやすいのではないでしょうか。


但し、物質界での生活は単なるゲームではないので、リセットが出来ません。

このバーチャルリアリティの世界で、何をしたか、どのような生き方をしたかが、本来の世界である幽質界に戻った時に、法則によって露骨にその結果が示されるのです。

しかしながら、いやそうだからこそ、物質界に生まれると、過去世の記憶も幽質界のことも、己の肉体に幽体が重なって存在していることさえも、忘れてしまっているのです。

肉体がアバターに過ぎないことすら気がつかないのです。


人は地上では、肉の脳を使って生活します。

肉の脳はまず肉の維持ありきですし、肉特有の欲望があります。

そのようにプログラミングされて物質界に再生されているのですから、どうしようもありません。

キリストという偉大な魂、神霊であられた存在であっても、その神性は極限まで小さくなり肉に閉じ込められてしまいます。どんなに高貴な存在であっても、まさに地上の人間として生まれたら、もう人間として生きていく他ないのです。

イエス師は、逃げられるにも関わらず、血の禊のためにあえて磔になることを拒まれなかったようですが、キリストであられても地上では人間であるために、地上の人間の権力者が、当時のその場所の倫理や道徳、法律に照らし合わせて、「こんな極悪人は死刑にしなければ、世の中が乱れてしまう。」と決めたら、実際にそうなってしまうのです。


ところで、霊能力者とか超能力者と呼ばれる方々が、テレビの視聴率を取れる時には、マスコミはお金儲けの手段としてその方々を使い、旬が過ぎたらポイ捨てします。

マスコミは、最終的には金のなる木を探し続けることが仕事だからです。

視聴率の取れない番組はすぐに打ち切られ、売れない雑誌は廃刊になります。

そのサイクルにおられる霊能力者や超能力者の方々は、本物偽物が入り乱れているのでしょうが、いずれにしても、最終的には、タレントとしての寿命を延ばすために、家族を養うために、設立した組織、或いは事務所で働く人の生活を維持するために、テレビ側が要求するものを提供せざるを得なくなり、いつしかインチキをしなければならなくなるのです。

なぜか。

理由は簡単です。

霊的事実というのは、面白くないからです。

エンターテイメントにはならないからです。

地上の人間は、自分にとって都合の良いものを常に求めているのであって、霊的な事実など求めていないからです。

むしろ、霊的真実などという物質界の価値感を覆すようなものは、知りたくもないのです。

肉の脳は、肉のことしか考えません。

どんなに修行を積み重ねても、至上稀に見るというほどまで進歩向上した霊的修行者であっても、表面意識によって、言動をコントロールしていますので、地上での自由意思の行使は、表面意識が絶大な権力を握っています。

肉の脳や肉の身体を使う以上、どうあがいても地上では肉が絶対的な権力者なのです。


さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学霊を知るために 霊魂イエス ムーの大神人 弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。


ここで、一つ大切なことを書いておかなければなりません。

僕たちは、肉の身体と幽の身体の両方持って地上で生きていますから、実は、己の幽体は、自分以外の幽体を見ていますし、知っています。

幽の脳が考えたことや幽の目が見たもの、幽の耳が聞いたことを、単に肉の脳が知らないだけなのです。

肉の身体は、自分以外の肉の身体と交流していますが、同様に幽体同士も当然ながら交流しています。

肉と幽が重なっているからです。

霊能力者や超能力者に憧れる方がいらっしゃいますが、その方が例え本物であったとしても、それは、単に物質界の基準で考えて、霊能力者だの超能力者だのと地上の人間が勝手に言っているだけで、地上に生きるあらゆる人達は、その霊能力やら超能力やらを普段から使っているのです。幽体と幽体は普通に交流しているのですから。

ただ、そのように呼ばれる方は、通常は、ご自身の霊的な不調や未熟な霊魂の関与によって、肉の脳が、幽の脳が感じたこと、見たこと、聞いたことの一部をあくまで物質界のレベルにおいて感じたり、見たり聞いたりしているだけなのです。

要するに肉を着ている限界というのは、結局はどんな霊的なことも最終的には肉の脳がその現象をどう捉えて、どう表現しているかということに過ぎないところにあるのです。

すなわち、霊的なビジュアルがあり、目の前にまぶしい光に包まれた天使様が立っていても、最終的にはその映像をそのような映像として捉えているのはあくまでも肉の脳です。

だから、見えると感じるのです。

ということは、未熟な霊魂が、肉の脳に関与出来る霊的な状態の人に対して、テクニックによって、好きなように映像を見せることが出来れば、神や仏や天使や菩薩や何たらやかんたらや、何でも霊能力で見ているとその方の肉の脳に感じさせることが出来るのです。


本当に肉の脳が見たり、聞いたりしていると感じたとしても、本物を正確に捉えているということはまずありませんので、その視点で判断すると、本物の霊能力者と偽物の霊能力者と本質的な違いがあるのかという話なります。

もし、違いがあるとすれば、ご本人も本当に霊能力だと思い込まれているか、インチキをやっていると認識しているかという点でしょう。

倫理、道徳、法律で考えれば、それこそが決定的な違いと言えるのかも知れませんが、霊的にはどちらも同じです。

むしろ、未熟な霊魂に関与されている、いわゆる本物の方が、霊的に危ないので、その霊的障害を排除しなければならないという話になるでしょう。


地上で使うのはあくまでも肉ですので、そこには物質界らしく当然、限界があります。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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