46歳になった翌日の富山・氷見の海。
今年は、ちょうど初雪が12月14日でした。

 

 

 

わたしにとっての、長い春が終わろうとしています。

いまのわたし自身は、

「これまで何をやってきたんだろう。」と思わないようにすることで、必死でだったりもします。

 

6年。季節が過ぎました。

そんなに時間が経ったのに、

叶わなかったことが多々あります。

 

叶える勇気も、努力も足りなかったのだろうとおもっています。

 

悔いはないか?と問われたら、悔いしかない。

やれてないことしかない。

まだやれるとすら時々思う自分に苦しんでしまう。

 

カウンセラー、セラピストとは因果なものです。

まだやれちゃうし、まだやろうとしちゃう。

 

そして、なにより

自分のことでも、客観的に悩みを観る癖がつき過ぎたせいか

今はもう、自分自身の

見える化された悩みが見つけられない。

 

視えない潜在的なものは分かるのに、

顕在化されたものが分からない。

 

こんな副作用的なことになるのか。

知らなかったなぁと思いつつ、

人体実験のように自分を扱ってしまう。

 

久しぶりに湧き起こる、消えたい衝動は、主観で悩みを考えることがなくなるという恐怖感の裏返しでもありました。

 

大切な人がいるということは、

私にとって唯一、主観で悩んでいい相手。という関係性が築けるんだと思っていました。

 

それは今も変わらないし、地獄のように辛い日々も年内または誕生日ぐらいまでだろうと思って必死になって過ごしてきました。

 

46歳になって感じることは、区切りを作ることとそれによって新しい関係性が見えてくること。

 

自分との関係性や人との関係性を、あたらめて考えることをするために、私は自分の誕生日に休暇をとります。

 

リセットされる意識と、再認識する意識と。

 

ここ数日でも、いろんなことが動いていて、

ここ数日でも、まとまり始めていることが多々あります。

 

いつか、はたまた来年、これでよかった。と思える選択肢であればいいな。と思いつつ、今ある流れに身を任せつつ、

新しい考えやアイディアに身を委ねています。

 

苦しいことから生み出されるものは、未来を輝かせるものだと知っているので、いつまでも向き合い続ける耐性を持ち続けようと思っています。

 

それでもやはり「いままでなにをやってきたんだろう」と思わない人生でありたいと日々感じます。

 

それにしても、どぎつい、苦しい、しんどい、期間を過ごすことになりました。

 

日々是好日。