アダルトチルドレンであろうと、トラウマがあろうと、ASD/ADHDであろうと・・・
やっちゃいけないと感じていることがあります。
それは・・・諦めること、開き直ること、何かのせいや誰かのせいにして、進もうとしないこと。
私は、そう考えて何かを話したり、動いたりしています。
開き直りは、時間を止めるし、成長を止める。
そんな人が周囲にいると・・・誰かに影響がいくし、誰かに皺寄せがいく。
それを、実の親子関係で見ることや、夫婦関係や仕事仲間で見ることがあり、少しずつでもいいから進んで欲しいといつも思ってしまいます。
開き直ってることは、時間が止まる。
これは、過去のお客さまの実例なのですが、
あまりに印象に残っていることなので、書かせてもらおうと思いました。
50代で、子供のままな雰囲気を残した、一人のお母お母さんAさんがいました。
Aさんには、20代後半の娘さんBさんと、
お孫さんのCちゃん2歳がいました。
Aさんは、
ご主人のことを悩んだり、近所付き合いに悩んだり、何かが急に嫌になったりすると、離れたところにいる娘さんBさんの元にやってきて何日も過ごし、娘に甘えてしまう。
初めてその3世代の女性に会ったとき、
娘さんがAさんの母親に見えた。
娘の方が母親だった。
娘さんの精神は、40ー50歳ぐらいだった。
おちついた、むしろ更年期にでも入りそうなぐらいの雰囲気がBさんには出ていた。
母親であるAさんが、精神年齢がいわば10代。
キャピキャピの女子高生のようだった。
「成長したくないし、娘も受け入れてくれるから、子供のままでいいの」そんな雰囲気だった。
Bさんは、そういう母親だからしかたないって思ってた。
「だから、私がしっかりしなきゃ。でも、なんのためにいきているのだろう?」
そんな疑問を持って私の元に母親と自分の娘を連れてきたのだ。
私に会った時、お母さんは、
「子供のままで何が悪いの?」
のニュアンスで言ったけど、悪いよ。
娘が苦しんでるんだから。
子供になれない、急に大人にならなければ行けなかったんだから。周囲が困ってるんだから。
Aさんは、50代になっても、
辛いことや、向き合わなきゃ行けないことから逃げたくて、成長する勇気がなかった。
いつか、成長できると思う。と言ったけれど、
1年で10年分成長するわけないのだ。
成長したはずのいつかの時に、退化を選択した。
そうしたら、成長を止めて、そこからは1年ずつ年を取っていく。
そんなところに、伸びしろなんて、ない。
わたしは、酷なようだが、そのお母さんに
「娘のために、親になって欲しい」
と伝えた。
娘さんには、
「お母さんのために、娘になって欲しい」
と伝えた。
それから、お母さんAさんは、
その3年後ほどに急に亡くなり、
娘は途方にくれて、私の元にやってきてくれた。
自分の子を亡くしたような雰囲気だった。
「私が娘になる努力をしたから、母はそれが嫌だったのでしょうか。」
と涙ながらに聞かれた。辛い思いだ。そんなわけは、ない。
残されたもの、気にしているとのこと、周囲のことを考えてほしい、すこしでいいから。こちらはお母さんにそれを伝えた。伝わったはずだ。
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意識が子どもでも、好奇心があってもいいけど、
精神年齢は、実年齢と一緒をめざそう。
と、言いたい。
娘であるBさんは、自分の娘Cちゃんのおかげで、
ほんの少し生きる気力が湧いた姿を取り戻してくれた。
でも、それでも・・・
「何のために生きるのか、自分の長所も短所も見いだせない。ただ、毎日生きてみます。」
そう言っていました。
切ないけれど、生きようとする姿を、後押しするしかありませんでした。
誰かが悪いという話ではない。
子供は、こどものものだ。
それが、どんな諸症状があってもだ。
大人が、子供なことは強みでも伸びしろでもない。
1年に1年成長するしかないものを、1年で10年分成長するわけもないのだ。
急に伸びしろがつくわけがない。
だって、それまで放棄してきたのだから。
いくら年だけ取っても、文字通り「年だけ取った大人に、子供たちは大いに困るのだ」
目の前で困られてみて欲しい。とおもうが、
そういう子供たちは、まずそう言う大人を相手にしない。
なぜなら、「時間の無駄」だと感じているから。
50代なら、若い子の生きる希望になって欲しいのに。
なぜ、必死に生きようと思っている若者が、そんなことを思わなければならないのだ。
そしてなぜ、大人が理不尽な理由で我儘を通そうとするのだ。
そんな自分に納得している。という大人を眺めて、「どうしたらいいのだ」と悩む若者を見て、そういう悩みの根源にどう向きあっていくかを考えることになる。
いかなる理由でも、大人は大人になる。ならなければならないのだ。肉体を持って歳をとり、成長するのだから。
子供は、子供である。権利だと言われるぐらいのものを、大人が奪ってはいけない。
歪めて表記されているものには、どうか惑わされないで欲しいし、相談して欲しい。