自分は話したいことのどれぐらいを話せているのだろう。
と自分自身に感じることが多々あります。
そして、私は人の話を聴いていて、「これを本当に選択したかったのか」と考える癖が、定期的についてしまっています。
話したいことを話すのは、とてもとても難しい。
話したいことのほんの少しでも、読み取ってくれる人が現れると、いつも「救世主」だと感じてしまいます。
その救世主の存在も、いつも長くは続かないとなぜか知っていてもハマりこみます。
知っているからこそ、その時の最大限まで、のめりこむのだろうと思っています。
いつもいつもとてもありがたいと感じつつ、それが始まると、その「救世主」との別れの日々を考えることも同時にスタートして、自分の体内には、常に2.3パターン以上の縮図が連想されて過ごしています。
結局は、また言葉にせずに終わっていく。という・・・「文字たち」がたくさんあるのを、いつも弔う毎日です。
話せるようになろう。とは、もう思わなくなっているのか、
もしかしてそこに希望を持っていないのか、
「弔うこと」「弔い忘れがないように」とかを考えることに余念がありません。
だからこそ、お越しいただく関係したことがあるだれかには「弔う文字が少ないように」とか思いながら、
聴くという役割を、そして「読み取る」というより「汲み取る」に近い動きをしている生業の自分が、今生では存在しています。
ただ、聴く役割が自分でなくてもいい。と思うことはしょっちゅうであるし、もっとよい方に弔ってもらえばいいのに。とか感じる自分もいたりするときは、
相手が私を指名してくださったはずなのに、申し訳ない気持ちになってしまうこともあります。
自分自身への猜疑心や自信のなさ、なだけなのに、申し訳ない連鎖。
では何もかもやめてしまえばいいのに。と、客観的にいつも感じているのですが・・・自己防衛と、保身が働きます。
それでも、投げ出せない性分と、自分の中にあるその方から派生する関係筋への「責任」をつい思ってしまうと、
それらの呪縛から逃れられなくなり、「投げ出す。」「切り捨てる。」という連想になれません。
自分の厄介に働く性分が、時にひどく自分を危め、また弔いが増え、
自分自身を意識的に干渉しながらの「不感症」に落とし込む。
それでも、この道をまだ進みたいと思う間は、私はこういう選択をする日々であるんだろう。と思っていて、
その辺の自分としての舵取りに努めつつ、やりすぎない自分でいたいな。と、思っています。
といっても、やりすぎる自分。
そして、いつの間にか不干渉に陥りそうになる前に、
子どもたちの存在がたくさんのことを教えてくれる。
今回もそういうことがありました。
やはり子どもたちは、すごいです。
そして、男女で遊ぶようになった長男に、
成長を感じつつ、ほんのり寂しくもあり、それでも喜ばしく、後ろ姿を見送りました。
日々是好日
ありがとう。