夏至です、新月です。
昨日までで結構な切り替えと改革を個人的にやって、無理やりこの日に合わせて脱皮したような感覚な、
朝から少しけだるい私です。
私の話を少し・・・・
基本的に、個人的な闇の部分を、ひとにさらけ出すことはしません。
誰かを信用・信頼していないから?ということを、自問自答することも多かったのですが、どうやらそういう心情でもなさそう(自分自身を探った結果)
まあ…かなりグロいのですよ、単純にw
そして、破壊力が半端ないとわかっているため、出さない。
というのも、一理あります。
稀~に、ありますが、一部から「怒り心頭」だと思われるだけで終わりますw
頭がよくなりたい。というより、回転が速く、話についていけるヒトでありたい。
と小さいころから思っていて、いろんな人の話を、物理的にも精神的にもいろんな角度から観るコト、聴くことをクセにしてきました。
そうでないと生きていけない。と思う環境だったわけではないのですが、そうでないと生きていけないと思っていたのでしょう。
蔑ろにされ、さげすまれ、嫌な目で見られ、子どもながらな育ち方でなかったことはたしかですが、おかげでそれらは今に活かされている。
さまざまな無知感・無価値観・無能感を味わいました。
そのたびに、感じることは「やはり自分は、まだまだ何も知らない」ということです。
本当にまだまだ何も知らなくて、自分自身も何かを学びたいと思っているということも、そのために感じます。
学ぶことが好きなのでしょうね・・・・勉強の面じゃなくw
そして、それらをすべてでもいいので、誰かに伝えていきたい。
得たことが、誰かに役立つことなら、それを自分が得られたことは、とても喜ばしいことだ。
自分の中は、いつでも空っぽである。
それを、感じている毎日だが、
それでもそれは大きな空の世界において、大きな可能性だと思っています。
不満や疑念などのわだかまりがなく、聖なる真理などないと悟ること。 「廓然」は心が広々としていて、わだかまりなどなにもないこと。 「無聖」は凡人と聖者の差がないという意味。 仏教の言葉で、古代中国の南北朝時代の梁の国の武帝が、インドから来た達磨に聖諦第一義のことを尋ねたという故事から。
頭がよくなりたい、とおもうなら、
地頭がよくなりたい。と思うなら、
「自分は空っぽだ」とどこまで思えるかなんだと思います。
最近学ぶことが多い、空の世界は「すべては空である」
そうなんだよ‥‥無じゃなくて空なんです。
いくらでもなんでも、空の器に入れようと思う。
いっぱいだと感じたら断捨離する・人に譲る。でもいいわけです。
自分の真の中を観られるかどうかができないと、やはり人の真の中は観られない。
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6月は盛り上がりました。
7月もやります。
日々是好日
ありがとう。