たまには、、ほんのすこし。
すこしだけ、風習とか慣わしとか、迷信とか、信じます。
ほんの少しだけ、よりしろにすることもあります。
神様、仏様、霊も、守護霊も、鬼も、いわゆるいろんな宇宙に存在するものも
生きとし生けるものというもののすべての力を借りて生き、
そこで得たものを、自分が生きている間にどこまでできるかを考えて生きています。
だから、本当に本当に、毎日が毎日が恋しい。
そして、人に対しては、もっとです。
もっと大きな思いと感情が出ます。
ほんとにほんとに大きくて、自分が持っているいろんなものを
ときどき手のひらに置いてみながら、滑稽になるぐらいです。
人という存在が恋しいなんて・・・これは生まれてきて、かなりの重症ってやつ。
そんなことをふと考える今日は、今年のうちでもかなりのレアな日だという。
一粒万倍日+天赦日+神吉日
トリプルでいいことが絡む日?だそうで・・・
一粒万倍日
一粒の籾(もみ)が万倍にも実る稲穂になるという意味で、一粒万倍日は何事を始めるにも良い日
天赦日
天(神様)が、いままでの様々な罪を赦(ゆる)す日だそうです。
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ちょっとした大事なことがある日で、
私にとっては、いつのまにか、人生の片隅のひとつの重要なことになってる自覚が出始めたそれは・・・
今日ひとつ流れが出る。
それでもそんな日に、私は今日は少し気分がよくなかった。
それこそ、神様に今までのことを懺悔して、
甦らなくてもいい亡霊にまた追われて、久しぶりに感情のコントロールの制御ができなかった。
投げ出しそうなわたしを、神はまだ許しては下さらない。
まだ、やりなさい。とおっしゃる。
どこまで続くのだろう。
いつになったら何か見えるのだろう。
そんな、久しく陥らなかった感情が出てきて、やっと知る。
「何か見えているのに、なぜ見ようとしない」
そう突きつけられていることを。
それでも。一番身近な、大切な者が共に見てくれないのなら、それはいらないものなんじゃないか。と思えてしまう。
そうじゃないのに、自分だけでも見続けたいのに、それでも誰かを何かを、視界に入れておきたくなる。
ただの甘えん坊の馬鹿なやつのすることだ。なんてわかっていながら、誰かに何かを求める。
責任感が足りないのか、自覚が不足しているのか、再三考えるが、どちらかというと分かち合いたいだけだ。
この一回の人生、共に生きていくと決めた相手たちと、やりきるだけやりたいだけだ。
やれなかった今までを、悔いの残るこれまでを、また繰り広げたいわけじゃなく、
やれること、やってのけれること、やりきれること、やり遂げられること、
それを、共に見たいだけだ。
むしろ、それを見せたい、そこに連れて行きたい、そういう思いのほうが強いんだろうなあ。
それはわたしが知っているから、それを分かち合いたいだけ。ただのこちらのエゴだ。
だから、見たいといってくれる人だけ連れて行く。そんな感覚だ。
ただし、見始めると嫌になる人もいる。
そういう人を見ると、悲しくなるんだよなあ・・・。
も少しなのに。って知っているからなのか、あーあ、そうかあ・・・ってなるからなのか・・。
でも、いきすぎている人には、危険を感じる。慌てて、止めに入る。
いてもたってもいられなくなる。
儚いそれらを感じ取ってしまう。わからなくてもイイコト、それでもわかっていたいこと。
自分のとってかけがえのない存在が、次々と現れてくる。
うれしい気持ちと同時にやってくる、赦しを請いたい気持ちを宇宙に伝えて、
今日もまた、何かが動き出す。
たまには急激に、瞬間湯沸しのように、まっさかさまに落ちる感情を持ち合わせ。急浮上する自分を築き上げる。
そうやって、きょうもいろんな感情に揺り動かされて生きている。
日々是好日
つれづれなるままに
ありがとう。