基本に立ち返れ | 欧州野球狂の詩

欧州野球狂の詩

日本生まれイギリス育ちの野球マニアが、第2の故郷ヨーロッパの野球や自分の好きな音楽などについて、ざっくばらんな口調で熱く語ります♪

 今年もまた、球児たちの暑い夏がやってきた。今日、夏の甲子園が予定から2日遅れて開幕したことは周知のとおり。今年は、俺の地元である千葉からは東海大望洋が夏の大会では初めて出場する。140㎞カルテットを擁する東海大相模など、東海大系列からは計4校が参戦するという珍しいケース。世間でも注目されているけれど、是非選手たちには頂点目指して頑張ってもらいたいと思っている。


 一方で、もう一つ高校野球絡みで最近話題になったテーマがある。それは、既にWBCなどでは導入されているタイブレークの導入を検討するというもの。延長に入ってから、攻撃を無死満塁や無死一、二塁などの場面から始めるというこのルールは、試合全体のイニング数を短縮することから投手への負担を軽減し、球児たちの身体を守るという観点から導入が議論されているという。他にも球数やイニング数、連投の制限など、こうした特別ルールを新たに策定する必要があるのではという風潮が生まれてきたことは、俺自身は非常にポジティブなことだと感じている。


 とはいえ、この手の話はファンの間で議論こそされてはいるものの、じゃあ本当に果たして導入されるのか、導入されるとしたらそれは具体的に第何回大会からなのかといった道筋は、外から見ている限りどうも今一つはっきりしないように見える。様々な人が様々な意見を表明して、非常に活発に物事が動いているようには見えるけど、どうも現場が今一つそれに呼応して変わっていっていない印象があるというか。これは一体何が原因なんだろう?


 色々と俺なりに考えてみて行きついた俺の答え、それは自分たちファンや協会、メディア、そして現場の指導者や選手まで含めた高校野球を取り巻く人々が、「日本の高校野球」という物をあまりに重く特別なものとして意識しすぎてきた結果、「現在の高校野球の在り方」の原型をなるべく壊さないという暗黙の大前提に、いつまでも囚われ続けていることなんじゃないかと思う。全国の高校野球ファンに対して、真っ向から喧嘩を売るような発言をするようで申し訳ないけれど、今の高校野球が抱えている負の側面を解消するためには、もっと根本的な部分から問い直していく必要があるんじゃないかと思うんだ。


 例えば、今大会の開幕が予定よりも2日遅れたのはもちろん台風11号が直接的な原因ではあるけれど、根本的にはセントラル集中開催方式(全チームを1つのスタジアム、この場合は甲子園球場に集めて試合をする方法)で日程を組んでいることが、全ての試合が後ろにずれ込んだ原因とは言えないだろうか。1試合の中でマウンドに野手が集まれる回数に制限を設けているのも、1つの会場でしか試合をしない(後のチームの登場に備えて試合を間延びさせないよう、早くゲームを終わらせたい)ことに起因していると言える。


 これが複数球場を使って並行的に同時開催する方式だったら、おそらくこういう事態は回避できたはずだ。極端な話、仮に甲子園が水没して試合ができなかったとしても、その間に他球場ではある程度予定通りに日程を消化することだってできただろう。こういう言い方をすると、「甲子園は聖地だから」と反論するファンが絶対に出てくると思うけど、では何故それが「春と夏の全国大会は、甲子園で全ての試合をプレーしなければならない」という理論に直結するんだろう?そもそも第1回からずっと変わらずに会場であり続けてきたわけではない甲子園が、聖地とみなされること自体にも個人的には違和感があるんだけどね。


 考えてもみてほしい。同じ高校生のスポーツであるサッカーやラグビーは、それぞれ旧国立や花園を聖地としているけれど、だからと言って全ての試合をその両スタジアムで消化しているかと言ったら、決してそんなことはないじゃないか。俺は仕事柄、高校サッカーの選手たちの姿をかなり間近で見る機会がこれまであったけれど、彼らの多くは全国大会に出場を果たした強豪チームであっても、憧れの舞台に足を踏み入れる前に大会を去るのが普通だったよ。今は総体ですら、南関東という都道府県を超えたレベルで開催しているのに、高校野球だけがいまだに甲子園セントラル開催にこだわり続けているのは不可思議に思える(もちろん、高野連と高体連が別組織であることは重々承知したうえで主張している)。


 これに限らず、高校野球にはあまりにも「重すぎる」問題がたくさんある。指導者がチームの目先の勝利の為にエースに連投を強いることもそうだし、教育が目的であると謳いながらも実態は強豪校の広告塔になってしまっていることもそう。結局どれも、本来は高校生の一部活動に過ぎないものを、俺たち大人が勝手に特別な存在として祭り上げてしまったことが原因なんじゃないだろうか。一方では「教育が目的なのだから、興業が目的のプロと接触したり指導を受けたりするなんてもってのほかだ」と言いながら(それでも昔よりは緩やかになってはいるけれど)、もう一方では大会を巡る一連の事象がある種のエンターテイメントとして世の中に提示され、あるいは「大会で勝つためなら、後の人生を棒に振ったって無理していいんだ」なんていう誤った風潮が流布することも許容される。こんなダブルスタンダードが平然と成立していること自体、そもそもおかしいんじゃないだろうか。


 本当に「青少年の健全な教育」を目的として掲げるのであれば、少なくとも怪我を助長するような指導はそれこそもってのほかだろう。それが残念ながら根づいてしまったのは、高校野球界の伝統みたいなところがあるのかもしれないけど、「伝統だから」といって何でもかんでもそのまま放置しておくのはただの思考停止だ。例えば気候にしてもかつてとはまるっきり変わってしまっている以上、昔のやり方を踏襲するだけではだめだと俺は思う。スポーツ科学も進化して、常識そのものが全く別物になってしまってるんだからね。


 今の高校野球を、現在のこの世界の環境により適合したものにしていく作業は、最早小手先のテクニックだけでどうにかなるような簡単なものではないだろう。大事なのは、まずシンプルに考えることなんじゃないだろうか。今までの伝統とか、利権とか、そういうダブついたものを全部一度根こそぎ引っぺがして、「高校野球とは高校生による部活動の大会である」「部活である以上は、所属選手の怪我を助長するような指導は現に慎まなければならない」という基本に今一度立ち返ること。その基本的な事項に沿う形で大会を行うためには、どんな形がベストなのかをゼロベースで考えること。そして、その結果生まれてきたものがたとえ今までの高校野球とは良くも悪くも全く別物であったとしても、それを受け入れるという覚悟を持つこと。どれも口で言うだけなら簡単だけど、それこそが今の高校野球関係者に必要なことじゃないだろうか。


 もちろん、俺は今までの高校野球にも好きな部分はたくさんある。1998年夏、横浜-PLの延長17回の死闘を筆頭に、心から痺れさせられた試合は数えきれないほどだ。中でも、2009年夏の決勝で日本文理が中京大中京相手に見せた、あの9回表の伝説的な大反撃には今でも涙が出そうになるくらい感動させられる。でもだからと言って、「これからもずっとこのままでいいのか」と問われたら、それに対してイエスとは素直に言いきれない。好きだからこそ、一方で伝わってくる影の部分には怒りや不条理さをも感じるんだ。日本高校野球文化の設計図、そろそろ全面的にアップデートが必要なんじゃないだろうか。新たな大会が始まった今、この記事が小さくとも何かしらの1つのきっかけになってくれれば何よりだ。