さて前回の続きですが、マスコミの鳩山中期目標に対してのバッシングが少し落ち着きを見せ、若干ポジティブに翼賛色が出て来ているのはなぜだろう?という問題を書こうと思います。これは原因がこれだと断定して言いたいのではなく、出てくる情報を整理して行くと、何となくそういう風に見えてしまうという事であって、本当にそうかどうかは自分にはわかりません。ただそういう可能性がわずかでもあるのならキッチリチェックして行かないと、特に民主党を支持している方々は必ず後悔する事になる。そういう意味で書いているという事を誤解無きように。
まず一番簡単な所から言えば小沢環境大臣が原発容認発言をしたという話が一時期話題になって、社民党なんかが噛み付いていた。これは要するに環境省が経産省の方向性を支持するという意味が含まれています。現行の電事連の既得権擁護の方向性とも取れる。民主党の環境政策に対して、もっとも反発している連中の既得権益を守ると言っているのだから、民主党へのバッシングが弱まるのも道理です。
そして直嶋経産大臣が、インチキだから絶対の止めないとマズいよとまわりから散々言われていて、本人もわかったと言っていたにもかかわらず、大臣に就任したとたんに、固定価格買い取り制度(フィードインタリフ)はもう止められないね、なんて役人に言わされちゃっている。
これを許してしまうと経産省の利権になってしまうので、引きはがすのにまた一苦労が生じるし、こっそり抜け穴を掘ってあるので、民主党が掲げる政策を貫徹出来なくなる。悪質なトラップがいくつも儲けてある。ここの所はかなり厄介な問題が含まれている、民主党の環境政策が単なる空念仏と化す恐れのある爆弾が仕組まれています。
民主党が掲げる環境政策が単に人気取りとして言っているだけで、実効性なんてどうでもいいと民主党政権が思っているのなら、これはどうにもなりませんが、仮に真面目に環境政策に取り組んで、これまでのレジームを変えようと思っているのなら、厄介な楔を打ち込まれてしまったと言える。
2000年前後に固定価格買い取り制度を導入しようという動きがあったものの、経産省や電力会社と、二人羽織的にコントロールされている政治家達によってこれはつぶされてしまう。代わりに導入されたのがRPS法(電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法)というインチキ制度。
自らの既得権を脅かされた経産省にとって、フィードインタリフというのは禁句になる。洞爺湖サミットの福田ビジョンのときに、さすがに何かやらなきゃマズいだろというのと、太陽光がドイツに抜かれたというのもあって、経産省と電力会社が多少譲って太陽光の補助金を復活させ、少し太陽光は推進しましょうというポーズをとる。
福田ビジョンには明記されなかったものの、自民党の再生エネルギーワーキングチームが出した温暖化対策の中間報告にフィードインタリフという言葉が出てくる。これに経産省の次官なんかが激怒する。
しかし公明党もフィードインタリフを導入せよとせまり、社民党もそれを言う。民主党も少し遅れて、マニフェストの中に全量全種のフィードインタリフ導入を掲げる。自民党の中にも法律の試案が出来ていて、環境省もフィードインタリフの導入は必要だと言う。
このまま放置しておくと、議員立法によって法案が通り、尚かつ所管が環境省になりかねないと慌てた経産省が自分達の権益を奪われてなるものかと最後の土壇場で豹変して、自分達のテリトリーを侵されるくらいなら丸呑みした方がマシだという事で、自民党試案を骨抜きにして、太陽光のみのフィードインタリフ導入に舵を切り替える。中身が何も決まってない段階で当時の二階経産大臣が導入を会見で発表する。
ここから骨抜きが始まる。全種ではなく太陽光だけだと、全量ではなく余剰だけだと、ちゃんと制度設計すればこの差は大差ないのですが、ここに誤摩化しが入り、権益をガードするプロテクションを構築する。
電力会社が余剰電力購入メニューというのを92年から続けていて、電力会社にとってこれは結構な負担だった。これをフィードインタリフの導入に託つけて国民負担に付け替える。電力会社としては負担の軽減になる。
全量というのは発電したものをすべて買い取るという仕組みであり、家庭で使い切らなかった余剰を買う事を義務づけているのが余剰。余剰の方が買う量は明らかに少なくて済む。今までの制度もつかえるので、電力会社と経産省は丁度折り合いもつく。
それにこれには事業用は排除している。ビジネスとしてやってはいかんと。家庭用だけなら多少権益が減ったとしても独占構造は護持出来る。10キロワットを超えた分は買い取り価格がぐんと下がるので、たいして儲からなければやる奴もいないだろうと、ビジネスとしての売電事業は排除している。
なのでドイツのように爆発的に普及する可能性をしょっぱなから摘み取っている。太陽光を普及させる為ではなくて、普及させないためのもの、もしくは仮に普及したとしても既得権益はガッチリプロテクトしている。やらないよりはやった方がマシというトラップに引っかかると、この先の可能性をすべて摘み取る事になりかねない。
民主党は全量で、太陽光だけではなく全種を謳っている。しかし政権交代の直前に駆け込みで導入が決まり、役人主導で制度設計が進む。
これは不完全なものでも一応導入するという旗は立つのだから、後から見直して行けばいいと、甘く見ていったん導入してしまうと、引き返す事も出来なければ手直しも出来ない状態になりかねないトラップがいくつも巧妙に仕組まれている。こういう事を考える時の役人の巧みさは尋常じゃない。
経産省が総選挙の間、異常な早さで突っ走って連日審議会を繰り返し一気に畳み掛けて来た。民主党の公約とは違うものを役人ごときが勝手に決めてしまった。11月1日にはスタートする。
今太陽光を設置している家庭は50万件ある。この家庭にはキャッシュバックが毎月入る事となる。元々今設置している人達というのはこのキャッシュバックを期待して設置したわけではない。当然そこに一律に分配するかどうかは慎重に決める必要があるのだけれど、経産省は議論をすっ飛ばして、全員に払うと最初から決めてしまっている。
そうするとどういう帰結が起こるのかと言えば、いったん50万件の家庭が毎月お金が戻ってくるとなると、それは既得権となり、制度の見直しとか変更が出来難くなる。50万件の家庭を敵に回す事になりかねないのだから、政治家も発言し難くなる。
それに民主党の謳う全種の買い取りを事実上阻止するような、太陽光以外に関しては、送電線に電力を流してはいけないという条項をこっそり忍ばせてある。風力などの発電を普及させない為のトラップが仕掛けられている。
原理的には政治家が変えようと決めれば決まるのだけれど、それが出来ないのがこの国の政治家。いったん50万件に配分が始まってしまった制度に手を突っ込んで是正するとなると、マスコミや野党の攻撃対象になり、不満が煽られて、不人気を誘発しかねないのだから、それを一番恐れる政治家としてみれば是正出来難いプロテクションを構築させてしまう事となる。
おそらく直嶋経産大臣は、キャッシュバックを期待している50万件の家庭というプレッシャーを官僚からそそのかされて、後で是正すればいいやと先延ばし的に導入を止められないと発言したのかもしれませんが(単にバカでやる気が無いだけって事もありますけれど)、最初に出来なければどんどん増えて行くわけだから、益々出来なくなる。結果民主党の公約は実施出来なくなり、CO2の削減目標も空念仏となりかねない。
民主党の環境政策の肝は電力会社や経産省の既得権にいかにして手を突っ込むのか?という事がかなり重要な鍵になっている。そこの所に手を付けずに末端の一般市民にエコを押し付けるくらいでは彼らの掲げる目標には届かない。
そこを引きはがすかどうかで、環境対策が経済成長のモーターとして化ける可能性を潰してしまうかどうか、環境対策が単に末端への負担増でしかなくなるかどうかも変わってくる。全力を挙げてなるべく早い時期にグリットパリティを目指し達成出来るかどうかも、この辺の構造に手を突っ込めるかどうかで違ってくるでしょう。そして一番の問題は、この構造を是正出来ないという事が何を意味するのかと言えば、脱官僚というのは単なるかけ声で、実態は官僚支配の状態の自民党政権からクビがすげ変わっただけという事を意味している。
表に出てくるこれらの情報を考慮すると、既得権を何が何でも守りたいと考えている連中にとっての大事な所は、すでにプロテクトが完了したから、表面上の政治家の人気取りとしての友愛路線や環境政策重視を擁護し始めているのではないかという見方も出来る。政治家にとって重要なのは本音を言えば政策よりも人気でしょう。サブスタンスが無くたって、人気さえ獲得出来れば構わないと考えている人だって多いはず。既得権益を握っている連中にとっては政治家が何々党の誰々が大臣かどうかなんてのはどうでもいい話で、ようは既得権益を護持出来ればいいわけだから、そこさえ守れれば後は何だって構わないでしょう。
なので今重要な事は、我々はこういった骨抜きが起こっていないかをチェックする必要があるという事です。単なる人気主義であり妥協の産物でしかないものをサブスタンスがあるかのように振る舞っている政治家には釘を刺さなきゃならない。そのチェックだけが人気さえ獲得出来れば構わないと思っている政治家の行動をサブスタンシャルなものに変える。これは政治家を信頼するかどうかとは関係ない。それが市民政治だからです。それがほんのわずかな可能性であったとしても、サブスタンスの無い人気主義であるかのような振る舞いが見えているのであれば、今チェックして徹底的に潰しておかないと、また失われた10年を繰り返す事になってからでは手遅れです。
まして仮にやる気が無くてすでに官僚に取り込まれているのなら、これはマニフェストを実行するつもりが無いという事ですから、徹底的にバッシングして引きずりおろす必要があります。政権党としての資格は無い。更に、これも一応仮にとつけておきますが、バカで無能なだけであるのなら、もう何も言いますまい。どうすればよいかは言うまでもないでしょう。
例えば少し話は変わりますが、捜査過程の可視化を民主党はマニフェストで謳った。具体的に言うと、取り調べの録音録画の事をさします。代用監獄の問題や弁護士立ち会いの問題は本来ならマニフェストに掲げるべき政策だったのだけれど、これが抜け落ちている。
早速、中井国家公安委員長が、可視化を進めるのであれば司法取引や囮捜査の導入が必要だという話をしている。この人がバカなのか、官僚の落とし穴に落ちたのか、一例としてわかりやすいので例にとって行きます。
可視化を進めていけば自白偏重主義の日本の捜査体系を考えると、自白が取り難くなる。自白偏重主義ではなく証拠偏重主義へとシフトする為には司法取引や囮捜査を駆使して証拠を集める必要があるという事を言ってしまっている。
この話は全くのでたらめで、それこそ役人が多用するタクティクスを表している。それをまんまと言っちゃっている。代用監獄問題を是正するという話であれば、これは自白を引き出す為の手段なので、その代わりに権限を拡張しろ、というのは(もちろんブラックボックス化させない為に、最小化措置は絶対に必要と言う大前提込みで)わかるけれど、捜査の可視化というのは当然の前提話であって、可視化したから自白を取れないという話は、こんなでたらめな話は無い。どこの国でも、それなりに可視化した上で、取り調べをして自白を引き出している。
言ってみればこの発言は、可視化したら困るような取り調べをしている事を事実上認めてしまっている。見られちゃ困るような自白の引き出し方をしているから自白を引き出せないと言っている事になる。そこに突っ込みを入れられないのが、記者クラブ体制のインチキ会見であり、事実上会見の体をなしていない事のあらわれですが、最近のクラブのバカ記者達はこういった事に疑問も感じていなければ気付いてもいないふしがある。これで知る権利とかほざいているのだから、手が付けられません。
これも官僚のよくやる手で、全く別の話を、素人なら騙せると思ってさりげなく利権を忍ばせながら、これまでの利権を護持し、最悪これまでの利権が奪われたとしても、それ以上の利権を上手く引き出す。よくわかっていない政治家はそういうもんかと簡単に取り込まれてしまう。
気をつけなければならないのは、まず可視化と引き換えに、囮捜査や司法取引のセットというでたらめな話である事がまず第一ですが、囮捜査と司法取引とセットと言ってしまった手前、囮捜査や司法取引を実現しない事には可視化の話も進まなくなる。不用意な発言によって嘘つきと言われる事を恐れる政治家が、可視化を先送りして誤摩化す。ぶれが始まる。このトラップに政治家はよく引っかかる。例えば舛添前厚労大臣が大臣になった瞬間にぶれ始めた一番の理由もそこにあります。意味を深く考えずに問題ないと錯覚し、官僚の作文をまんまと読まされちゃってトラップに引っかかる。
嘘つきであるという事を叩かれたくない大臣は、自分が発言した言葉が足を引っ張って身動きが取れなくなる。私がバカでした。官僚の作文を読んでしまって深く意味を考えずに発言してしまいましたと、自らが愚かで、役人の手のひらで踊らされているという事を、政治家という人種は認められない人が多い。特に自分が優秀だと勘違いしている舛添のような男はその事を中々認められない。学者としてやテレビタレントとして仮に優秀であったとしても、政治家として優秀であるかどうかとは関係がない事を認める事が出来ない。その矛盾を隠す為にどんどん言っている事が曖昧になってくる。そういう所を役人は突いてくる。その結果、大臣になる前は意気軒昂に拳を振り上げていたのに、あっという間にまるで族議員のように省庁に取り込まれてしまう。
そしてもっとも厄介な絶望的なシナリオは、可視化とセットにして、囮捜査や司法取引を盛り込もうと話が進んで行き、必ず土壇場で、可視化をすると、検挙率が下がるとか、治安が悪化するという類いのでたらめ話を、記者クラブのバカ記者達を使って国民を煽動する。恣意的な数字を列挙し、国民もまんまと引っかかる。そうすると、世論に媚びる政治家が可視化を先送りしてしまう。しかし囮捜査や司法取引はいったんその制度の導入の為に動き始めちゃったという事で、それはそのまま導入される。このパターンに気をつけなきゃならない。散々こういう戦法でデタラメな事を繰り返し、それを国民も政治家も許し続けて来た。
可視化というのは、囮捜査や司法取引とは関係なく、近代国家としてはまず大前提の話です。これはセットにすべき話ではない。自白主義だろうが、証拠主義だろうが、公正な捜査のもとでの証拠であるという事を証明する為に不可欠であって、可視化は何かと引き換えにするべきものではない。
その上で、代用監獄問題や弁護士立ち会いと、囮捜査や司法取引などの捜査権限の拡張、こちらをセットにすべき話で、まんまと役人のコントロールとバカメディアの情報操作によって、可視化をたてに取ってそれ以上の権限を引き出そうと楔を打ち込まれてしまっている。
とこんな感じで、各省大臣の発言を聞いていると、官僚に踊らされちゃっているなと思える要素が結構あります。単純に言うと、批判が飛び交っているような案件というのはまだ取り込まれていない、逆に翼賛が始まっているような案件は政治家は落とし穴に落っこちてしまっている、くらいの厳しい目で見ていて丁度いいのではないかと思えます。
外務省は会見をオープンにしましたが、これに対して霞クラブのクソ野郎共が変な方向からケチを付けている。原理主義者の岡田さんはよくも悪くも頑固一徹のロボコップですし、会見がオープンになっているという事によって問題が見えやすくなっています。
岡田は会見を週に二回、外務省の本庁の方で行うと言っている。閣議後の会見は、これまで国会の廊下とか食堂を暫定的な会見場にして会見を行って来た。先進国の大臣の記者会見がそれでいいのか?という問題はあるけれど、今までがそうだった。
岡田は外務省に帰ってから午後にやると言っている。これに対しての批判は、要するに昼のニュース番組や夕刊の締め切りに間に合わないとバカ記者達が騒いでいる。
これは外務省での会見はオープンにしたけれど、国会内での記者会見であれば、記者クラブ以外のメディアはまだ入れませんので、なんとかしてオープンな記者会見を阻止しようと抵抗している。本当困った連中です。読売なんかがボイコットを叫んで騒いでいるなんて話もありますし、亀井大臣の会見も記者クラブが騒いで、記者クラブ用の会見と、非記者クラブ用の会見を行ったりもしています。まさにゾンビのような連中で困ったもんですが、各閣僚の中にはその構造を是正しようと言う動きも見られますけれど、官邸がやる気が無い。なので我々がバックアップしないと、この問題も骨抜きになってしまいかねない。ここの所を是正出来ない以上、本当は民主党には期待するだけ無駄だと言っても言い過ぎではない。
外務省の会見で言えば、ネット系のマスコミから、各省庁内の記者クラブが利用している部屋というのは家賃が支払われているのか?という質問も笑っちゃった。番記者達は会社に出勤するのではなく、各省庁に出勤する。そこの記者クラブに詰めてあれこれやっているのですが、当然そこは公共の建物ですので、我々の税金でまかなわれているものであるわけです。それに対して、各省庁は記者クラブという特定の団体にしか貸さないと言ってはおらず、記者達が取材する為の空間を貸しているわけですから、記者クラブに所属している記者にしか貸さないとは言っていない。勝手に談合マスコミが我々の税金をまさに横領して独り占め占拠している。それを政治家も各省役人も許し続けて来た。マスコミ自身がそれを報じるわけも無いので、殆どの国民もそれを疑問に感じてこなかった。これに答えている時の岡田さんは若干笑ってましたが、こういう質問が出来るのも、開放している故にです。
ちょっと前に「民主党議員立法原則禁止」と報じていたバカマスコミもありましたね。これは議員立法する時は個人で上げて行くのではなくて、内閣から提出するという形にしなさいと、野党時代に議員立法はNC(ネクスト・キャビネット)を通して法案を提出していた構造を、そのままシフトさせただけの話です。文脈を極端にはしょれば「議員立法原則禁止」と言えない事も無いけれど、そこには悪意を感じる。
要するに政治主導で法案なんかを通されたら、役人にとっても、そこと談合しているマスコミにとっても、従来の既得権者にとっても、厄介な事態に陥りかねない。だから民主党の出している法案に対して、ネガティブな意識を植え付けようと言う魂胆で、議員立法を妨げる民主党幹部の独善性みたいな悪意を込めて文脈をはしょってねじ曲げて報じている。これはそれをされちゃ困るからこういう風に書くのでしょう。「官僚会見原則禁止!!」と騒ぎ立てた構図にも通じる所がある。文脈をねじ曲げて、国民を煽り目的を妨害する。マスコミの批判はチェックではなくて、自らの既得権益を守る為に妨害しているだけです。そういうものとは別に、きちんと徹底的にチェックして批判にさらす必要がある。逆にマスコミが翼賛し始めているという事ほど怪しい所は無い。
なのでいちゃもんが出ている所はまだ腐っちゃいないと見ていていいと思いますが(もちろん政策的に不合理だからいちゃもんが出ている所もあるので、この辺の見極めは重要でしょうけれど)、ポジティブに翼賛している所には目を光らせておく必要があります。ここを呑気に構えていると、小泉政権時代と同じように、サブスタンスが何にも無いスッカラカンの人気主義政権となってしまうでしょう。その事に我々は懲りているはずです。
またマニフェストを頑に守るのも如何なものか的言説もありますが、そういう声は無視しましょう。マニフェストがすべてであってそれを変えるのであればもう一度総選挙をやれって事です。これは我々との約束を守るかどうかであって、これは民主主義の原理原則です。正しいかどうかは関係ない。自民党があまりにもその辺の事に対して不誠実だったので、我々は感覚が狂っていますが、勝手に政治家が国民との約束を変えてしまえば、彼らのやりたい放題を許す事となる。
マニフェストなんてよく読んでない!!みたいな事を言っている連中は無視しましょう。興味が無いなら興味を持たなくてよい。よく読んでもいないのに、バカマスコミや御用学者の煽動に乗せられて、マニフェストだけが大切じゃない!!みたいに吹き上がっている連中は全体性の事なんて考えちゃいないわけで、俺に分け前をよこせと言っているだけです。しかも分け前はそこを反対したって増えないのに。必ずそういう所を感情の政治で取りにくる輩が、与党にも野党にも出現するし、バカマスコミやクソ役人は問題点をズラす為にそういう事を利用する。
もちろん民主党を支持していない人は好きなように言って構わない。好きなだけ批判してボロクソに叩けばいい。しかしマニフェストを掲げて政権を握ったからには、マニフェストの実現に全力を傾けるのが政権党の責務です。民主党を支持した人はその事を理解する必要がある。それが民主主義というものです。
マニフェストがきちんと啓蒙されていない最大の原因はマスコミがきちんと報じないからです。時間はいくらでもあったはずなのに、都合のいい所だけを取り上げてコンテクストをねじ曲げて批評していたりした。都合の悪い所は絶対に報じない。ちゃんと啓蒙していないにもかかわらず、マニフェストだけが大切ではないと言ったお門違いな言説を広めようとしたりする。
確かにマニフェストの中には実行不可能な空約束っぽいものもありますから、実行出来ないものもあるでしょう。自分も賛成出来ない政策もある。しかしマニフェストはマニフェストです。時間も限られていますから、優先順位によって実現出来ないものもある。それはしょうがないというか出来ないものは出来ないのだから、出来なかった事を、それぞれ一人一人が次の選挙の選択の際に考慮すればいい。優先順位が低いものであれば後回しにするのは仕方が無い所もある。問題はマニフェストに書いてある事と関係ない事や全く違う方向性を打ち出す事は許されないという事です。
ましてマニフェストも読んでいないのに支持しておきながら、政権党がマニフェストの方向性に進む事に文句を言うなど論外です。支持した奴が悪い。おそらくこう言うでしょう。そんな暇はないと。その事は尊重しますし、啓蒙の足りなさにも確かに問題がある。しかし読む時間がないほどお忙しい方であるのなら、読んでいないのだから何が問題かもわかっていないはずです。誰かがそう言っているからそう思っている、何かによってそう思い込まされている、これは意見ではない。何かの力学によって動員されているだけです。
おそらくこうも言うかもしれません。選択肢が無いじゃないかと。確かにそうかもしれませんが、しかしその事もひっくるめて我々の側にも問題はある。少なくともマニフェストだけが大切ではないなんて言っているから、民主主義が機能せず、政治家達が無能である事を許し続け、勝手に我々との約束を踏みにじって政権に居座るような輩を生み出している原因のいったんであるわけです。単なる人気取りの実現不可能な空約束をマニフェストに書いてしまうような行動作法は、守らなくても誤摩化せると思っているからに他なりません。そういうものを何の理念も無く書く事が、次の選挙で結果となって跳ね返れば、そういう事を書けなくなる。
民主党を支持したものの、読み返してよく考えたらマニフェストは不合理だったと後悔している人は、その不合理を徹底的に叩けばいい。しかし政権党はマニフェストの実現に全力を傾けるのが政権党の責務なのです。
勝手に国民がこう思っていると選挙もやっていないのに、マニフェストとは全く別の方向性を取る事を許してしまえば、政治家の暴走を許す事となります。国民のため、景気のため、国益のため、環境のため、何でもいい、何らかの言い訳を駆使すれば、いくらでも勝手に約束を変える事を許す事になる。それがこの国の政治家達の最大の問題だったわけですから。したがって不合理な政策を掲げている政党を支持してしまった人々に問題がある。次の選挙で意志を表明するしかない。
いずれにせよ骨抜きを許し、人気主義に陥ってしまえば、政権交代の意味はなくなる。民主主義のスタートラインにもまだ立てない。市民政治も根付かない。何も変わらなくなります。民主党に一回政権交代したくらいではこの国の問題点を是正出来るとは思いませんが、せめて我々は民主主義という欠陥だらけの制度を選択し、市民政治によるチェックが必要不可欠であるという事くらいは学びたいものです。
この話題はまだまだ書く事が山ほどありますが、とりあえずここまで。
まず一番簡単な所から言えば小沢環境大臣が原発容認発言をしたという話が一時期話題になって、社民党なんかが噛み付いていた。これは要するに環境省が経産省の方向性を支持するという意味が含まれています。現行の電事連の既得権擁護の方向性とも取れる。民主党の環境政策に対して、もっとも反発している連中の既得権益を守ると言っているのだから、民主党へのバッシングが弱まるのも道理です。
そして直嶋経産大臣が、インチキだから絶対の止めないとマズいよとまわりから散々言われていて、本人もわかったと言っていたにもかかわらず、大臣に就任したとたんに、固定価格買い取り制度(フィードインタリフ)はもう止められないね、なんて役人に言わされちゃっている。
これを許してしまうと経産省の利権になってしまうので、引きはがすのにまた一苦労が生じるし、こっそり抜け穴を掘ってあるので、民主党が掲げる政策を貫徹出来なくなる。悪質なトラップがいくつも儲けてある。ここの所はかなり厄介な問題が含まれている、民主党の環境政策が単なる空念仏と化す恐れのある爆弾が仕組まれています。
民主党が掲げる環境政策が単に人気取りとして言っているだけで、実効性なんてどうでもいいと民主党政権が思っているのなら、これはどうにもなりませんが、仮に真面目に環境政策に取り組んで、これまでのレジームを変えようと思っているのなら、厄介な楔を打ち込まれてしまったと言える。
2000年前後に固定価格買い取り制度を導入しようという動きがあったものの、経産省や電力会社と、二人羽織的にコントロールされている政治家達によってこれはつぶされてしまう。代わりに導入されたのがRPS法(電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法)というインチキ制度。
自らの既得権を脅かされた経産省にとって、フィードインタリフというのは禁句になる。洞爺湖サミットの福田ビジョンのときに、さすがに何かやらなきゃマズいだろというのと、太陽光がドイツに抜かれたというのもあって、経産省と電力会社が多少譲って太陽光の補助金を復活させ、少し太陽光は推進しましょうというポーズをとる。
福田ビジョンには明記されなかったものの、自民党の再生エネルギーワーキングチームが出した温暖化対策の中間報告にフィードインタリフという言葉が出てくる。これに経産省の次官なんかが激怒する。
しかし公明党もフィードインタリフを導入せよとせまり、社民党もそれを言う。民主党も少し遅れて、マニフェストの中に全量全種のフィードインタリフ導入を掲げる。自民党の中にも法律の試案が出来ていて、環境省もフィードインタリフの導入は必要だと言う。
このまま放置しておくと、議員立法によって法案が通り、尚かつ所管が環境省になりかねないと慌てた経産省が自分達の権益を奪われてなるものかと最後の土壇場で豹変して、自分達のテリトリーを侵されるくらいなら丸呑みした方がマシだという事で、自民党試案を骨抜きにして、太陽光のみのフィードインタリフ導入に舵を切り替える。中身が何も決まってない段階で当時の二階経産大臣が導入を会見で発表する。
ここから骨抜きが始まる。全種ではなく太陽光だけだと、全量ではなく余剰だけだと、ちゃんと制度設計すればこの差は大差ないのですが、ここに誤摩化しが入り、権益をガードするプロテクションを構築する。
電力会社が余剰電力購入メニューというのを92年から続けていて、電力会社にとってこれは結構な負担だった。これをフィードインタリフの導入に託つけて国民負担に付け替える。電力会社としては負担の軽減になる。
全量というのは発電したものをすべて買い取るという仕組みであり、家庭で使い切らなかった余剰を買う事を義務づけているのが余剰。余剰の方が買う量は明らかに少なくて済む。今までの制度もつかえるので、電力会社と経産省は丁度折り合いもつく。
それにこれには事業用は排除している。ビジネスとしてやってはいかんと。家庭用だけなら多少権益が減ったとしても独占構造は護持出来る。10キロワットを超えた分は買い取り価格がぐんと下がるので、たいして儲からなければやる奴もいないだろうと、ビジネスとしての売電事業は排除している。
なのでドイツのように爆発的に普及する可能性をしょっぱなから摘み取っている。太陽光を普及させる為ではなくて、普及させないためのもの、もしくは仮に普及したとしても既得権益はガッチリプロテクトしている。やらないよりはやった方がマシというトラップに引っかかると、この先の可能性をすべて摘み取る事になりかねない。
民主党は全量で、太陽光だけではなく全種を謳っている。しかし政権交代の直前に駆け込みで導入が決まり、役人主導で制度設計が進む。
これは不完全なものでも一応導入するという旗は立つのだから、後から見直して行けばいいと、甘く見ていったん導入してしまうと、引き返す事も出来なければ手直しも出来ない状態になりかねないトラップがいくつも巧妙に仕組まれている。こういう事を考える時の役人の巧みさは尋常じゃない。
経産省が総選挙の間、異常な早さで突っ走って連日審議会を繰り返し一気に畳み掛けて来た。民主党の公約とは違うものを役人ごときが勝手に決めてしまった。11月1日にはスタートする。
今太陽光を設置している家庭は50万件ある。この家庭にはキャッシュバックが毎月入る事となる。元々今設置している人達というのはこのキャッシュバックを期待して設置したわけではない。当然そこに一律に分配するかどうかは慎重に決める必要があるのだけれど、経産省は議論をすっ飛ばして、全員に払うと最初から決めてしまっている。
そうするとどういう帰結が起こるのかと言えば、いったん50万件の家庭が毎月お金が戻ってくるとなると、それは既得権となり、制度の見直しとか変更が出来難くなる。50万件の家庭を敵に回す事になりかねないのだから、政治家も発言し難くなる。
それに民主党の謳う全種の買い取りを事実上阻止するような、太陽光以外に関しては、送電線に電力を流してはいけないという条項をこっそり忍ばせてある。風力などの発電を普及させない為のトラップが仕掛けられている。
原理的には政治家が変えようと決めれば決まるのだけれど、それが出来ないのがこの国の政治家。いったん50万件に配分が始まってしまった制度に手を突っ込んで是正するとなると、マスコミや野党の攻撃対象になり、不満が煽られて、不人気を誘発しかねないのだから、それを一番恐れる政治家としてみれば是正出来難いプロテクションを構築させてしまう事となる。
おそらく直嶋経産大臣は、キャッシュバックを期待している50万件の家庭というプレッシャーを官僚からそそのかされて、後で是正すればいいやと先延ばし的に導入を止められないと発言したのかもしれませんが(単にバカでやる気が無いだけって事もありますけれど)、最初に出来なければどんどん増えて行くわけだから、益々出来なくなる。結果民主党の公約は実施出来なくなり、CO2の削減目標も空念仏となりかねない。
民主党の環境政策の肝は電力会社や経産省の既得権にいかにして手を突っ込むのか?という事がかなり重要な鍵になっている。そこの所に手を付けずに末端の一般市民にエコを押し付けるくらいでは彼らの掲げる目標には届かない。
そこを引きはがすかどうかで、環境対策が経済成長のモーターとして化ける可能性を潰してしまうかどうか、環境対策が単に末端への負担増でしかなくなるかどうかも変わってくる。全力を挙げてなるべく早い時期にグリットパリティを目指し達成出来るかどうかも、この辺の構造に手を突っ込めるかどうかで違ってくるでしょう。そして一番の問題は、この構造を是正出来ないという事が何を意味するのかと言えば、脱官僚というのは単なるかけ声で、実態は官僚支配の状態の自民党政権からクビがすげ変わっただけという事を意味している。
表に出てくるこれらの情報を考慮すると、既得権を何が何でも守りたいと考えている連中にとっての大事な所は、すでにプロテクトが完了したから、表面上の政治家の人気取りとしての友愛路線や環境政策重視を擁護し始めているのではないかという見方も出来る。政治家にとって重要なのは本音を言えば政策よりも人気でしょう。サブスタンスが無くたって、人気さえ獲得出来れば構わないと考えている人だって多いはず。既得権益を握っている連中にとっては政治家が何々党の誰々が大臣かどうかなんてのはどうでもいい話で、ようは既得権益を護持出来ればいいわけだから、そこさえ守れれば後は何だって構わないでしょう。
なので今重要な事は、我々はこういった骨抜きが起こっていないかをチェックする必要があるという事です。単なる人気主義であり妥協の産物でしかないものをサブスタンスがあるかのように振る舞っている政治家には釘を刺さなきゃならない。そのチェックだけが人気さえ獲得出来れば構わないと思っている政治家の行動をサブスタンシャルなものに変える。これは政治家を信頼するかどうかとは関係ない。それが市民政治だからです。それがほんのわずかな可能性であったとしても、サブスタンスの無い人気主義であるかのような振る舞いが見えているのであれば、今チェックして徹底的に潰しておかないと、また失われた10年を繰り返す事になってからでは手遅れです。
まして仮にやる気が無くてすでに官僚に取り込まれているのなら、これはマニフェストを実行するつもりが無いという事ですから、徹底的にバッシングして引きずりおろす必要があります。政権党としての資格は無い。更に、これも一応仮にとつけておきますが、バカで無能なだけであるのなら、もう何も言いますまい。どうすればよいかは言うまでもないでしょう。
例えば少し話は変わりますが、捜査過程の可視化を民主党はマニフェストで謳った。具体的に言うと、取り調べの録音録画の事をさします。代用監獄の問題や弁護士立ち会いの問題は本来ならマニフェストに掲げるべき政策だったのだけれど、これが抜け落ちている。
早速、中井国家公安委員長が、可視化を進めるのであれば司法取引や囮捜査の導入が必要だという話をしている。この人がバカなのか、官僚の落とし穴に落ちたのか、一例としてわかりやすいので例にとって行きます。
可視化を進めていけば自白偏重主義の日本の捜査体系を考えると、自白が取り難くなる。自白偏重主義ではなく証拠偏重主義へとシフトする為には司法取引や囮捜査を駆使して証拠を集める必要があるという事を言ってしまっている。
この話は全くのでたらめで、それこそ役人が多用するタクティクスを表している。それをまんまと言っちゃっている。代用監獄問題を是正するという話であれば、これは自白を引き出す為の手段なので、その代わりに権限を拡張しろ、というのは(もちろんブラックボックス化させない為に、最小化措置は絶対に必要と言う大前提込みで)わかるけれど、捜査の可視化というのは当然の前提話であって、可視化したから自白を取れないという話は、こんなでたらめな話は無い。どこの国でも、それなりに可視化した上で、取り調べをして自白を引き出している。
言ってみればこの発言は、可視化したら困るような取り調べをしている事を事実上認めてしまっている。見られちゃ困るような自白の引き出し方をしているから自白を引き出せないと言っている事になる。そこに突っ込みを入れられないのが、記者クラブ体制のインチキ会見であり、事実上会見の体をなしていない事のあらわれですが、最近のクラブのバカ記者達はこういった事に疑問も感じていなければ気付いてもいないふしがある。これで知る権利とかほざいているのだから、手が付けられません。
これも官僚のよくやる手で、全く別の話を、素人なら騙せると思ってさりげなく利権を忍ばせながら、これまでの利権を護持し、最悪これまでの利権が奪われたとしても、それ以上の利権を上手く引き出す。よくわかっていない政治家はそういうもんかと簡単に取り込まれてしまう。
気をつけなければならないのは、まず可視化と引き換えに、囮捜査や司法取引のセットというでたらめな話である事がまず第一ですが、囮捜査と司法取引とセットと言ってしまった手前、囮捜査や司法取引を実現しない事には可視化の話も進まなくなる。不用意な発言によって嘘つきと言われる事を恐れる政治家が、可視化を先送りして誤摩化す。ぶれが始まる。このトラップに政治家はよく引っかかる。例えば舛添前厚労大臣が大臣になった瞬間にぶれ始めた一番の理由もそこにあります。意味を深く考えずに問題ないと錯覚し、官僚の作文をまんまと読まされちゃってトラップに引っかかる。
嘘つきであるという事を叩かれたくない大臣は、自分が発言した言葉が足を引っ張って身動きが取れなくなる。私がバカでした。官僚の作文を読んでしまって深く意味を考えずに発言してしまいましたと、自らが愚かで、役人の手のひらで踊らされているという事を、政治家という人種は認められない人が多い。特に自分が優秀だと勘違いしている舛添のような男はその事を中々認められない。学者としてやテレビタレントとして仮に優秀であったとしても、政治家として優秀であるかどうかとは関係がない事を認める事が出来ない。その矛盾を隠す為にどんどん言っている事が曖昧になってくる。そういう所を役人は突いてくる。その結果、大臣になる前は意気軒昂に拳を振り上げていたのに、あっという間にまるで族議員のように省庁に取り込まれてしまう。
そしてもっとも厄介な絶望的なシナリオは、可視化とセットにして、囮捜査や司法取引を盛り込もうと話が進んで行き、必ず土壇場で、可視化をすると、検挙率が下がるとか、治安が悪化するという類いのでたらめ話を、記者クラブのバカ記者達を使って国民を煽動する。恣意的な数字を列挙し、国民もまんまと引っかかる。そうすると、世論に媚びる政治家が可視化を先送りしてしまう。しかし囮捜査や司法取引はいったんその制度の導入の為に動き始めちゃったという事で、それはそのまま導入される。このパターンに気をつけなきゃならない。散々こういう戦法でデタラメな事を繰り返し、それを国民も政治家も許し続けて来た。
可視化というのは、囮捜査や司法取引とは関係なく、近代国家としてはまず大前提の話です。これはセットにすべき話ではない。自白主義だろうが、証拠主義だろうが、公正な捜査のもとでの証拠であるという事を証明する為に不可欠であって、可視化は何かと引き換えにするべきものではない。
その上で、代用監獄問題や弁護士立ち会いと、囮捜査や司法取引などの捜査権限の拡張、こちらをセットにすべき話で、まんまと役人のコントロールとバカメディアの情報操作によって、可視化をたてに取ってそれ以上の権限を引き出そうと楔を打ち込まれてしまっている。
とこんな感じで、各省大臣の発言を聞いていると、官僚に踊らされちゃっているなと思える要素が結構あります。単純に言うと、批判が飛び交っているような案件というのはまだ取り込まれていない、逆に翼賛が始まっているような案件は政治家は落とし穴に落っこちてしまっている、くらいの厳しい目で見ていて丁度いいのではないかと思えます。
外務省は会見をオープンにしましたが、これに対して霞クラブのクソ野郎共が変な方向からケチを付けている。原理主義者の岡田さんはよくも悪くも頑固一徹のロボコップですし、会見がオープンになっているという事によって問題が見えやすくなっています。
岡田は会見を週に二回、外務省の本庁の方で行うと言っている。閣議後の会見は、これまで国会の廊下とか食堂を暫定的な会見場にして会見を行って来た。先進国の大臣の記者会見がそれでいいのか?という問題はあるけれど、今までがそうだった。
岡田は外務省に帰ってから午後にやると言っている。これに対しての批判は、要するに昼のニュース番組や夕刊の締め切りに間に合わないとバカ記者達が騒いでいる。
これは外務省での会見はオープンにしたけれど、国会内での記者会見であれば、記者クラブ以外のメディアはまだ入れませんので、なんとかしてオープンな記者会見を阻止しようと抵抗している。本当困った連中です。読売なんかがボイコットを叫んで騒いでいるなんて話もありますし、亀井大臣の会見も記者クラブが騒いで、記者クラブ用の会見と、非記者クラブ用の会見を行ったりもしています。まさにゾンビのような連中で困ったもんですが、各閣僚の中にはその構造を是正しようと言う動きも見られますけれど、官邸がやる気が無い。なので我々がバックアップしないと、この問題も骨抜きになってしまいかねない。ここの所を是正出来ない以上、本当は民主党には期待するだけ無駄だと言っても言い過ぎではない。
外務省の会見で言えば、ネット系のマスコミから、各省庁内の記者クラブが利用している部屋というのは家賃が支払われているのか?という質問も笑っちゃった。番記者達は会社に出勤するのではなく、各省庁に出勤する。そこの記者クラブに詰めてあれこれやっているのですが、当然そこは公共の建物ですので、我々の税金でまかなわれているものであるわけです。それに対して、各省庁は記者クラブという特定の団体にしか貸さないと言ってはおらず、記者達が取材する為の空間を貸しているわけですから、記者クラブに所属している記者にしか貸さないとは言っていない。勝手に談合マスコミが我々の税金をまさに横領して独り占め占拠している。それを政治家も各省役人も許し続けて来た。マスコミ自身がそれを報じるわけも無いので、殆どの国民もそれを疑問に感じてこなかった。これに答えている時の岡田さんは若干笑ってましたが、こういう質問が出来るのも、開放している故にです。
ちょっと前に「民主党議員立法原則禁止」と報じていたバカマスコミもありましたね。これは議員立法する時は個人で上げて行くのではなくて、内閣から提出するという形にしなさいと、野党時代に議員立法はNC(ネクスト・キャビネット)を通して法案を提出していた構造を、そのままシフトさせただけの話です。文脈を極端にはしょれば「議員立法原則禁止」と言えない事も無いけれど、そこには悪意を感じる。
要するに政治主導で法案なんかを通されたら、役人にとっても、そこと談合しているマスコミにとっても、従来の既得権者にとっても、厄介な事態に陥りかねない。だから民主党の出している法案に対して、ネガティブな意識を植え付けようと言う魂胆で、議員立法を妨げる民主党幹部の独善性みたいな悪意を込めて文脈をはしょってねじ曲げて報じている。これはそれをされちゃ困るからこういう風に書くのでしょう。「官僚会見原則禁止!!」と騒ぎ立てた構図にも通じる所がある。文脈をねじ曲げて、国民を煽り目的を妨害する。マスコミの批判はチェックではなくて、自らの既得権益を守る為に妨害しているだけです。そういうものとは別に、きちんと徹底的にチェックして批判にさらす必要がある。逆にマスコミが翼賛し始めているという事ほど怪しい所は無い。
なのでいちゃもんが出ている所はまだ腐っちゃいないと見ていていいと思いますが(もちろん政策的に不合理だからいちゃもんが出ている所もあるので、この辺の見極めは重要でしょうけれど)、ポジティブに翼賛している所には目を光らせておく必要があります。ここを呑気に構えていると、小泉政権時代と同じように、サブスタンスが何にも無いスッカラカンの人気主義政権となってしまうでしょう。その事に我々は懲りているはずです。
またマニフェストを頑に守るのも如何なものか的言説もありますが、そういう声は無視しましょう。マニフェストがすべてであってそれを変えるのであればもう一度総選挙をやれって事です。これは我々との約束を守るかどうかであって、これは民主主義の原理原則です。正しいかどうかは関係ない。自民党があまりにもその辺の事に対して不誠実だったので、我々は感覚が狂っていますが、勝手に政治家が国民との約束を変えてしまえば、彼らのやりたい放題を許す事となる。
マニフェストなんてよく読んでない!!みたいな事を言っている連中は無視しましょう。興味が無いなら興味を持たなくてよい。よく読んでもいないのに、バカマスコミや御用学者の煽動に乗せられて、マニフェストだけが大切じゃない!!みたいに吹き上がっている連中は全体性の事なんて考えちゃいないわけで、俺に分け前をよこせと言っているだけです。しかも分け前はそこを反対したって増えないのに。必ずそういう所を感情の政治で取りにくる輩が、与党にも野党にも出現するし、バカマスコミやクソ役人は問題点をズラす為にそういう事を利用する。
もちろん民主党を支持していない人は好きなように言って構わない。好きなだけ批判してボロクソに叩けばいい。しかしマニフェストを掲げて政権を握ったからには、マニフェストの実現に全力を傾けるのが政権党の責務です。民主党を支持した人はその事を理解する必要がある。それが民主主義というものです。
マニフェストがきちんと啓蒙されていない最大の原因はマスコミがきちんと報じないからです。時間はいくらでもあったはずなのに、都合のいい所だけを取り上げてコンテクストをねじ曲げて批評していたりした。都合の悪い所は絶対に報じない。ちゃんと啓蒙していないにもかかわらず、マニフェストだけが大切ではないと言ったお門違いな言説を広めようとしたりする。
確かにマニフェストの中には実行不可能な空約束っぽいものもありますから、実行出来ないものもあるでしょう。自分も賛成出来ない政策もある。しかしマニフェストはマニフェストです。時間も限られていますから、優先順位によって実現出来ないものもある。それはしょうがないというか出来ないものは出来ないのだから、出来なかった事を、それぞれ一人一人が次の選挙の選択の際に考慮すればいい。優先順位が低いものであれば後回しにするのは仕方が無い所もある。問題はマニフェストに書いてある事と関係ない事や全く違う方向性を打ち出す事は許されないという事です。
ましてマニフェストも読んでいないのに支持しておきながら、政権党がマニフェストの方向性に進む事に文句を言うなど論外です。支持した奴が悪い。おそらくこう言うでしょう。そんな暇はないと。その事は尊重しますし、啓蒙の足りなさにも確かに問題がある。しかし読む時間がないほどお忙しい方であるのなら、読んでいないのだから何が問題かもわかっていないはずです。誰かがそう言っているからそう思っている、何かによってそう思い込まされている、これは意見ではない。何かの力学によって動員されているだけです。
おそらくこうも言うかもしれません。選択肢が無いじゃないかと。確かにそうかもしれませんが、しかしその事もひっくるめて我々の側にも問題はある。少なくともマニフェストだけが大切ではないなんて言っているから、民主主義が機能せず、政治家達が無能である事を許し続け、勝手に我々との約束を踏みにじって政権に居座るような輩を生み出している原因のいったんであるわけです。単なる人気取りの実現不可能な空約束をマニフェストに書いてしまうような行動作法は、守らなくても誤摩化せると思っているからに他なりません。そういうものを何の理念も無く書く事が、次の選挙で結果となって跳ね返れば、そういう事を書けなくなる。
民主党を支持したものの、読み返してよく考えたらマニフェストは不合理だったと後悔している人は、その不合理を徹底的に叩けばいい。しかし政権党はマニフェストの実現に全力を傾けるのが政権党の責務なのです。
勝手に国民がこう思っていると選挙もやっていないのに、マニフェストとは全く別の方向性を取る事を許してしまえば、政治家の暴走を許す事となります。国民のため、景気のため、国益のため、環境のため、何でもいい、何らかの言い訳を駆使すれば、いくらでも勝手に約束を変える事を許す事になる。それがこの国の政治家達の最大の問題だったわけですから。したがって不合理な政策を掲げている政党を支持してしまった人々に問題がある。次の選挙で意志を表明するしかない。
いずれにせよ骨抜きを許し、人気主義に陥ってしまえば、政権交代の意味はなくなる。民主主義のスタートラインにもまだ立てない。市民政治も根付かない。何も変わらなくなります。民主党に一回政権交代したくらいではこの国の問題点を是正出来るとは思いませんが、せめて我々は民主主義という欠陥だらけの制度を選択し、市民政治によるチェックが必要不可欠であるという事くらいは学びたいものです。
この話題はまだまだ書く事が山ほどありますが、とりあえずここまで。