案の定、マスコミは与党の中でのゴタゴタに時間を割き、与党対野党の図式から、与党の中での対立図式にフォーカスをズラそうと必死です。麻生がバカなおかげで、それが自民党にとってネガティブに作用していますが、誰が上に立とうが、自民党は自民党であり、マニフェストをよく吟味して、なんて言ってますが、ちゃんと報道なんてする気もないくせによく言うぜって感じです。だいたいその間に臓器移植法だの、児童ポルノ法だの、一見当然の政策だと思い込みやすい政策の裏に、キッチリ霞ヶ関の権益が盛り込まれている。そういうものの吟味をちゃんとやれよって感じです。そのチェックが作動しない。困った話です。
この手の話題もちょっと飽きたので、今日は切り口を変えて別の所から少し書き始めようと思います。先ず最も最近のニュースでビックリしたのは今更ですが、マイケル・ジャクソンが死んじゃった事です。
忌野清志郎が死んじゃったときもビックリしましたが、彼は癌に冒されていましたので、心のどこかで、もう長くはないのかもしれないという意識が深い所にあったのでしょう。ビックリしましたけれど今回マイケルが死んで感じたのは、それ以上の衝撃でした。
その数日前にプロレスラーの三沢が死んじゃったというニュースを聞いたときも度肝を抜かれて、そんなバカな!!と思いましたが、その後、まさかまたしてもビックリするような、金槌で頭をひっぱたかれたような衝撃が、こう連続するとは、何とも残念な話です。
まあ残念だと思っているのは世界中の人が思っている事でしょうし、三沢や忌野清志郎であれば日本中の人が思っている事でしょうから、残念だと改めて自分がここで書くまでもない事でしょう。しかしマイケルの死に関しては、自分は非常に申し訳ない気持ちでいっぱいなのです。
リアルタイムでスリラーで洗礼を受けて、モータウンの音楽にハマり後追いでジャクソン5を聴いてこれまたやっつけられて、自分の音楽人生の中でそれなりに強烈な影響を与えてくれたにもかかわらず、バッド以降、80年代後半から90年代、そして2000年代にかけて、あまりにも巨大になりすぎて、あまりにも人間離れしてしまい、ちょっと時代とズレている所や様々なスキャンダルなんかもあって嘲笑のネタにされてしまっていた彼に対しては、正直興味を全く失ってしまっていました。
そんな事もあって「マイケル・ジャクソンなんて・・・・」とか、「もう終わってるでしょう」とか、こういった類いの言い方に対して違和感を感じていませんでした。復活すると聞いても関心が無かったし、ゴッパチ組の他の二人、プリンスやマドンナなんかはいろいろと気になるのに比べると、明らかに自分の中では興味も失せていたし、自分より若い年代の人でジャクソン5の活動どころか、マイケルの活動すら知らないし聴いた事も無いのに、彼をダサイ呼ばわりしている人に対して、そんな事無いと反論する事もありませんでした。
同じモータウンでもアル・グリーンとかマーヴィン・ゲイとか、今でも聴いてると言うとオシャレっぽく聞こえそうなものに関しては蘊蓄垂れるくせに、マイケルの功績については評価する事を避けていたような気もするし、好きだったと堂々と表明する事も避けていました。
なのでスキャンダル以降、マイケルを苦しめていた世間の目の側に少なからず自分も加担していたのではないかという事に、反省せざるを得ません。彼に張り付いてしまったスティグマに対して否定して擁護したり、フェアな目線で見ていなかったような気もします。その事は最初に書いておきます。
自分も彼を苦しめた世間の暴力性に加担していたという事は十分承知の上で書きますが、彼が死んで以降の世間の反応というか、報じられ方には違和感を感じざるを得ません。必ずセットになって「マイケル・ジャクソン、その栄光と転落」的な報じられ方がされる。転落させたのは誰なんだ?って話です。彼の幼児に対する性的虐待問題だって、実際裁判で無罪になっているにも関わらず、いまだにまるで彼が有罪であったかのような報じられ方がされる。
チンコぶらぶらさせて公園でパクられたアイドルはすぐに「さん」付けで呼ばれ、簡単に復帰出来るのに、無罪である人間が無罪であるという事が分かった後でも、実際にはやっているかのように報じられたり、当時どのように彼を貶めて叩いていたのか?という検証もなされない。みんな彼の事なんて忘れていて、彼を苦しめていた世間の暴力性に加担していたにもかかわらず、死んだら「彼は凄かった」とか、「素晴らしい」とかって評価をしたりする。一方では彼の無罪になった案件をいまだに掘り起こして、あたかも灰色決着であるかのように平気な顔して報じていたりする。
彼を傷つけて苦しめていた我々側の反省が無い。彼が貶められたのは彼が有名だからで、彼が疑われるような事をしていたからであるとしても、貶めているのは我々の側です。散々あんなに純粋に子供が大好きだった彼を追い込んで傷つけて笑っていたにもかかわらず、どうなんだ?と思うのです。
足利事件の菅家さん問題と同じです。当時推定有罪報道で散々叩いて、多くの国民もそれに乗っかって加担していた。それが冤罪だったと分かると自分達が何をしたのかを忘れ去り、お涙頂戴報道を垂れ流し、一方では反省する事も無く相も変わらず今日も推定有罪報道を繰り返す。冤罪が晴れてよかったねで本質的な冤罪の疑いがあるにもかかわらず17年間ブタ箱にぶち込まれていた構造の問題には届く事も無い。
それに加えて足利事件と同じ自白なしであるにも関わらず、DNA鑑定で有罪になった福岡の飯塚事件というのがある。久間さんという人が捕まっていて、判決は死刑が下されている。東の足利、西の飯塚といって、これも足利と同じように冤罪の疑いがある。足利事件について「DNA再鑑定へ」と報じられた際、飯塚事件の弁護団もそれを喜んだ。久間さんに接見して足利で再鑑定してくれるのだから、希望を持とうという事を言ったとか。
そしたらその数日後に死刑が執行されてしまう。当然、森法務大臣のサインもある。でなければGOサインは出ない。このクソ大臣もバカっぽいけれどまさか新聞に出ているわけだから、法務大臣の立場上知らないわけが無い。法務官僚だって知らないわけが無い。
否認事件で古いDNA鑑定が証拠になって死刑の判決が出ている、普通のオツムがあれば足利事件再鑑定という話が出ているわけだから、同じ手法の古いDNA鑑定が決定的証拠となっているものに対しては、せめて待ったをかけるとかするのが当たり前の話。死刑にしちゃったら取り返しがつかない。無罪にしろとか釈放しろって話じゃなくて、再鑑定の請求があるだろうという事はバカでもわかる。実際に弁護人が接見してそう言っているのを、係官も立ち会ってその事を聞いている。手続きをして準備をしている最中に、証拠隠滅に都合がいいとばかりに死刑を執行してしまった。
本当に目眩がするような怒りを感じます。この外道どもは許しがたい。コイツらこそぶち殺せと思う。死刑くらいじゃ軽過ぎるくらいの非道ぶりです。八つ裂きの刑でも軽過ぎる。ここまで腐っているとは、この国の統治権力にはもう1ミリも擁護する所無い。
死刑にしちゃったら取り返しがつかない。自分はこういう構造を放置したままであれば絶対に死刑は認めるわけにはいかないという立場ですが、死刑反対とか存置とか、そういう次元を遥かに跳躍するような問題外の振る舞いです。
大前提として今の日本の仕組みではどう考えても冤罪であってもそれを隠すような仕組みが回っているので論外ですが。その事をわきにおくと冤罪が生まれる事自体はなくせない。人が裁く事だから、仮にどんなに透明化をしても、どんなにデュープロセスをガチガチに縛っても完全に冤罪を無くすという事は出来ないでしょう。
冤罪が起こってもそれを後からキッチリチェック出来る仕組みがあってできるだけ素早く回復させるようなメカニズムがあれば、冤罪がしょうがないとは言わないけれど、国家の仕組みとしてはそういうものであるしか無い。
しかし殺してしまったらもうどうやったって取り返しがつかないし、それどころか原状回復どころか冤罪を冤罪のまま闇に葬ってしまう裁量を国家が抱えているのだからどうにもならない。そして一番どうにもならないのは、民主国家でありながらそこに手が届かない。バカマスコミが機能していないというのが、先ず第一にあるとしても、我々がその事を受け入れているふしがある。
冤罪は必ずなくせないという事を踏まえた上で、それでも死刑存置、つまり冤罪で死刑が執行されてしまう可能性があったとしても、そんなものは歩留まりだと腹をくくって、我が身に降り掛かったとしても、身内やまわりの人間に降り掛かったとしても、社会の公正さを示して社会を維持する為のコストだと、しょうがない事であると、ある種の覚悟があって死刑に賛成するという立場もあり得るわけだから、こういう前提を踏まえていてそう言っているのなら自分はそうは思えませんが、それはそれで一つの立場としては筋が通っている。
しかしだとしても、現状の統治権力の閉鎖性や司法の劣化を見るにつけ、死刑を存置するとか廃止するとか、そういう対立軸以前の問題のような気がします。冤罪であるという事がわかってそれを回復させるまでに17年もかかるとか、冤罪であるかもしれないという事をわかっていながら死刑を執行して闇に葬ってしまうとか、これでは社会を守るのでも何でも無く、役人や裁判所、そして政治家どものメンツを守る為に市民を犠牲にして隠蔽しているわけです。そんなのは言語道断です。マスコミは殆どこの問題もスルー。
林真須美被告が起こしたとされる和歌山カレー事件の顛末もそう。疑いはあるにしろ断定して死刑にするにはあまりにも証拠が無さ過ぎる。裁判というのはいつも書いてる事ですが被告を裁く場ではありません。原告つまり国家、要するに検察側の証拠を吟味する場です。無実を証明するという事は出来ない。悪魔の証明になる。検察側の証拠に対して合理的な疑いを差し挟む余地があるかどうかを吟味する場です。
検察側の証拠を完全に否定するのでもなくて、僅かでもその証拠に被告が犯人だという事を必ずしも証明出来ないのではないか?という余地があれば無罪。これが近代裁判の原理原則です。ようは、やったかもしれないけれど、完全には証明出来ないのであれば無罪になるという事です。
こういった基本的な所から見て行くと明らかにこの裁判の判決はいかれている。この国の司法はいつもそうだとは言えますが、あまりにも酷い。もちろん御用メディアはそんな事を報じる気配すらない。散々推定有罪報道で血祭りに上げたわけで、もし彼女が和歌山カレー事件について有罪でなければバカマスコミも困るのでしょう。
被害者家族なんかの会見を写して、死刑は妥当だと言っているものを流したり、被害者の感情に寄り添って、あたかも正義が執行されているかのように報じる。被害者家族や被害にあった人々の無念や怒りはわかりますが、その事と人一人を有罪にして死刑で葬り去るという話は別です。犯人だという証拠もいい加減なものしか無いのに、被害者感情に寄り添って誰かを血祭りに上げるのなら魔女裁判と変わらない。一体全体今何世紀だ?って話です。
この事件の証拠と言われるものは、彼女が犯人であると断定出来るものは何一つ無い。彼女が犯人であってもおかしくはないという程度でしかない。疑わしいというだけでしかない。そんな程度で死刑にされたら、誰でも有罪に出来て死刑に出来る国家だという事になる。
日本の判事、裁判所の裁判官は検察側の出して来る調書を鵜呑みにする。本来であれば起訴状だけを見て、事前に予備知識を入れずに白紙の状態で裁判に臨み、原告と被告の言い分を聞いてジャッジするのが鉄則であるはずなのに、検察と裁判所がグルなんだから公正もクソも無い。
実際この事件の最高裁では「合理的疑いの差し挟む余地のない『程度』に証明された」と下している。この『程度』という言葉の中に判決に対するやましさを感じる。
今回の事件は物的証拠が無く、あくまでも状況証拠しか無いという事と、否認のまま判決が下されたという程度は、まあリベラルを装ったメディアからは軽く報じられたりはしましたが、中身を吟味するというのは殆ど無い。
彼女を有罪とする状況証拠というのは、他にこの事件を起こす人がいない。だから彼女であるという背理法での証明が先ず一点。
目撃証言として順番でカレーの鍋の見張りをしていた中に林真須美被告もいて、12時から12時40分の間を彼女が担当していた。その際にゴリラのように行ったり来たりして不審な動きをしていたというのと、蓋を開けたのを見たというのがある。つまりその時に入れていてもおかしくはないという話。入れたのを見たという証言は無い。この証言自体も二転三転しているのだけど、この目撃証言が二点目の証拠。
そしてカレーの中に混入されていたヒ素と、被告である彼女の家にヒ素が残留している容器が見つかって、それが科学的な検査の結果合致したので、彼女が入れたのだろうというのが三点目。元々彼女の家というのは旦那がシロアリ駆除の仕事をしていたので、亜ヒ酸、所謂ヒ素を持っていた。だから目と鼻の先にある現場のカレー鍋にヒ素を混入させるには十分あり得る話であるという事。
そして、彼女の頭髪からもヒ素が検出されたというのが四点目。
決定的なのがヒ素を使って人を殺害しようとした前歴があるので今回もやりかねないというのが五点目。
この程度の話であれば検察のケツを舐めるマスメディアから出て来る話ですし、これだけを聞くと何となく決定的とは言えないにしろ、ほぼ黒っぽいわけだから推定無罪や疑わしきは被告人の利益にはわかるけれど、しょうがない所もあるのではないか?という感覚もあろうかと思います。
しかし実際に細かい話を聞いて行くと、この感覚が覆って行きます。白い紙コップにヒ素を入れて、それを四つある鍋の中の一つにだけ入れた。量としては135g、紙コップの三分の二くらい混入させたとされる。入れようと思えば誰にでも簡単に出来る事だし、当然味付けや味見をする事はあるわけで、その隙に入れる事は動作という所だけを見れば誰にでも出来る。現場にいて見張りをした人全てがやる気になれば出来る。人の目を盗んでやろうと思えば、そんなに難しい動作ではない。
しかし裁判ではその行為自体がそう簡単には出来ない事だから、一人でいる時にしか出来ないとあらかじめ断定している。なぜ断定出来るのか?その根拠無い。単に裁判官の主観です。一人でいた人は誰なのか?そこで林真須美被告が疑われる。しかし林真須美被告は娘さんと一緒にいたので一人ではない。それにまわりにも人がいた。
にもかかわらず裁判所は先ず一人でいないと実行出来ないという前提を作り出し、彼女だけが一人でいたという誤った事実を認定している。そして彼女だけしかヒ素にアクセス出来ないという証明がなされていない。他の人も可能であるのなら決定的な証拠にはならない。
見張りのときの動きが不自然だったという証言は、すぐ近くの家に住む女子高生の証言。カーテン越しに偶々外を見ていたら、林被告が変な動きをしているのを見たという話なんですが、最初の話では一階からカーテン越しに見たという話だった。これが後に二階から見ていたと見ていた場所が変わっている。
そして目撃したという服装が途中で変わる。不審な動きをしていたというのも鍋の周りを回っていたとか、道路の方をチラチラ見ていたとか、そういうのを指しているわけですが、不審な動きと言われれば、怪しいと思えてしまいますが、カレーの見張りをしている人間がカレーの鍋のまわりをうろうろしたり、道路の方をチラチラ見ているからと言って、その動きそのものを不審かどうか言えるのかという問題がある。
不審と感じる人もいるだろうし、そう思わない人もいるでしょう。見た人の主観の問題でしかない。それに蓋を開けたのを見たという証言も、鍋は四つあってそのうちの一つにヒ素が混入されていたわけで、蓋を開けたのを見たとされる鍋にはヒ素は混入されていない。だから当然蓋を開けているのを見たというのは何の説得力もなければ証拠にもならない。しかも弁護団が同じようなカーテン越しに見てみたら見えなかった。さらにその女子高生が見た女性というのが髪の毛の長さとか服装、背格好の話を聞くと、どうも林被告ではなくて娘さんである可能性が高い。
亜ヒ酸が合致というのも、最初は科警研が鑑定をして、被告の家から出た亜ヒ酸とカレーの中に残っていた亜ヒ酸、それから亜ヒ酸を入れたとされる紙コップに残留していたものを調べる。結果科警研は同一性は判断出来ないと言った。
東京理科大学の教授が名乗り出て当時最新鋭の大変大きな野球場ぐらいある分析機械スプリングエイトにかける。その結果、亜ヒ酸の中に含まれる不純物が同じであったという事がわかり、その事によって被告の家にあったもの、カレーに混入されたもの、紙コップに残留していたものの三つが同時期に同じ工場で作られたものであるという鑑定になる。
この亜ヒ酸は中国から輸入されたもので、同じものが3トン輸入されている。それがどこにどのように流れているのかがわからない。しかもどこの工場で作られたのかも出ていない。ただ缶には中国製としか書いていない。
不純物が同じと言っても量が同じわけでもなく亜ヒ酸に混入していたものでしかない。この実験の際にサンプルとして様々な亜ヒ酸と比べて実験されるわけですが、サンプルとして使用された亜ヒ酸は実験用のものであるとか、化学工業の材料であるとかで、和歌山で同時期に殺虫剤としてシロアリ駆除用に使われていたものや、みかんの甘みを増すのに使うものなどをサンプルとして比べているわけではない。
つまり実験の比較が恣意的であるという事です。使用目的の違う亜ヒ酸を持って来て合致しないとか言ったって、そんな事は当たり前の話であり、亜ヒ酸が合致としか報じられませんが亜ヒ酸に混入していた不純物が同じものが入っていたというだけでしかない。しかも量が同じだと言っているのでもない。それを合致を言い切って御用メディアが官報よろしく垂れ流す。
何度も言いますが挙証責任が被告側にあるのではないので、無罪を証明する必要があるわけではない。あくまでもこれらの検察側の証拠の中に合理的な疑いを差し挟む余地があるかどうかを問うているわけです。これで断定出来るのか?という事です。断定出来なければどんなに疑わしくとも無罪。これが近代裁判の原理原則です。
続く!!
この手の話題もちょっと飽きたので、今日は切り口を変えて別の所から少し書き始めようと思います。先ず最も最近のニュースでビックリしたのは今更ですが、マイケル・ジャクソンが死んじゃった事です。
忌野清志郎が死んじゃったときもビックリしましたが、彼は癌に冒されていましたので、心のどこかで、もう長くはないのかもしれないという意識が深い所にあったのでしょう。ビックリしましたけれど今回マイケルが死んで感じたのは、それ以上の衝撃でした。
その数日前にプロレスラーの三沢が死んじゃったというニュースを聞いたときも度肝を抜かれて、そんなバカな!!と思いましたが、その後、まさかまたしてもビックリするような、金槌で頭をひっぱたかれたような衝撃が、こう連続するとは、何とも残念な話です。
まあ残念だと思っているのは世界中の人が思っている事でしょうし、三沢や忌野清志郎であれば日本中の人が思っている事でしょうから、残念だと改めて自分がここで書くまでもない事でしょう。しかしマイケルの死に関しては、自分は非常に申し訳ない気持ちでいっぱいなのです。
リアルタイムでスリラーで洗礼を受けて、モータウンの音楽にハマり後追いでジャクソン5を聴いてこれまたやっつけられて、自分の音楽人生の中でそれなりに強烈な影響を与えてくれたにもかかわらず、バッド以降、80年代後半から90年代、そして2000年代にかけて、あまりにも巨大になりすぎて、あまりにも人間離れしてしまい、ちょっと時代とズレている所や様々なスキャンダルなんかもあって嘲笑のネタにされてしまっていた彼に対しては、正直興味を全く失ってしまっていました。
そんな事もあって「マイケル・ジャクソンなんて・・・・」とか、「もう終わってるでしょう」とか、こういった類いの言い方に対して違和感を感じていませんでした。復活すると聞いても関心が無かったし、ゴッパチ組の他の二人、プリンスやマドンナなんかはいろいろと気になるのに比べると、明らかに自分の中では興味も失せていたし、自分より若い年代の人でジャクソン5の活動どころか、マイケルの活動すら知らないし聴いた事も無いのに、彼をダサイ呼ばわりしている人に対して、そんな事無いと反論する事もありませんでした。
同じモータウンでもアル・グリーンとかマーヴィン・ゲイとか、今でも聴いてると言うとオシャレっぽく聞こえそうなものに関しては蘊蓄垂れるくせに、マイケルの功績については評価する事を避けていたような気もするし、好きだったと堂々と表明する事も避けていました。
なのでスキャンダル以降、マイケルを苦しめていた世間の目の側に少なからず自分も加担していたのではないかという事に、反省せざるを得ません。彼に張り付いてしまったスティグマに対して否定して擁護したり、フェアな目線で見ていなかったような気もします。その事は最初に書いておきます。
自分も彼を苦しめた世間の暴力性に加担していたという事は十分承知の上で書きますが、彼が死んで以降の世間の反応というか、報じられ方には違和感を感じざるを得ません。必ずセットになって「マイケル・ジャクソン、その栄光と転落」的な報じられ方がされる。転落させたのは誰なんだ?って話です。彼の幼児に対する性的虐待問題だって、実際裁判で無罪になっているにも関わらず、いまだにまるで彼が有罪であったかのような報じられ方がされる。
チンコぶらぶらさせて公園でパクられたアイドルはすぐに「さん」付けで呼ばれ、簡単に復帰出来るのに、無罪である人間が無罪であるという事が分かった後でも、実際にはやっているかのように報じられたり、当時どのように彼を貶めて叩いていたのか?という検証もなされない。みんな彼の事なんて忘れていて、彼を苦しめていた世間の暴力性に加担していたにもかかわらず、死んだら「彼は凄かった」とか、「素晴らしい」とかって評価をしたりする。一方では彼の無罪になった案件をいまだに掘り起こして、あたかも灰色決着であるかのように平気な顔して報じていたりする。
彼を傷つけて苦しめていた我々側の反省が無い。彼が貶められたのは彼が有名だからで、彼が疑われるような事をしていたからであるとしても、貶めているのは我々の側です。散々あんなに純粋に子供が大好きだった彼を追い込んで傷つけて笑っていたにもかかわらず、どうなんだ?と思うのです。
足利事件の菅家さん問題と同じです。当時推定有罪報道で散々叩いて、多くの国民もそれに乗っかって加担していた。それが冤罪だったと分かると自分達が何をしたのかを忘れ去り、お涙頂戴報道を垂れ流し、一方では反省する事も無く相も変わらず今日も推定有罪報道を繰り返す。冤罪が晴れてよかったねで本質的な冤罪の疑いがあるにもかかわらず17年間ブタ箱にぶち込まれていた構造の問題には届く事も無い。
それに加えて足利事件と同じ自白なしであるにも関わらず、DNA鑑定で有罪になった福岡の飯塚事件というのがある。久間さんという人が捕まっていて、判決は死刑が下されている。東の足利、西の飯塚といって、これも足利と同じように冤罪の疑いがある。足利事件について「DNA再鑑定へ」と報じられた際、飯塚事件の弁護団もそれを喜んだ。久間さんに接見して足利で再鑑定してくれるのだから、希望を持とうという事を言ったとか。
そしたらその数日後に死刑が執行されてしまう。当然、森法務大臣のサインもある。でなければGOサインは出ない。このクソ大臣もバカっぽいけれどまさか新聞に出ているわけだから、法務大臣の立場上知らないわけが無い。法務官僚だって知らないわけが無い。
否認事件で古いDNA鑑定が証拠になって死刑の判決が出ている、普通のオツムがあれば足利事件再鑑定という話が出ているわけだから、同じ手法の古いDNA鑑定が決定的証拠となっているものに対しては、せめて待ったをかけるとかするのが当たり前の話。死刑にしちゃったら取り返しがつかない。無罪にしろとか釈放しろって話じゃなくて、再鑑定の請求があるだろうという事はバカでもわかる。実際に弁護人が接見してそう言っているのを、係官も立ち会ってその事を聞いている。手続きをして準備をしている最中に、証拠隠滅に都合がいいとばかりに死刑を執行してしまった。
本当に目眩がするような怒りを感じます。この外道どもは許しがたい。コイツらこそぶち殺せと思う。死刑くらいじゃ軽過ぎるくらいの非道ぶりです。八つ裂きの刑でも軽過ぎる。ここまで腐っているとは、この国の統治権力にはもう1ミリも擁護する所無い。
死刑にしちゃったら取り返しがつかない。自分はこういう構造を放置したままであれば絶対に死刑は認めるわけにはいかないという立場ですが、死刑反対とか存置とか、そういう次元を遥かに跳躍するような問題外の振る舞いです。
大前提として今の日本の仕組みではどう考えても冤罪であってもそれを隠すような仕組みが回っているので論外ですが。その事をわきにおくと冤罪が生まれる事自体はなくせない。人が裁く事だから、仮にどんなに透明化をしても、どんなにデュープロセスをガチガチに縛っても完全に冤罪を無くすという事は出来ないでしょう。
冤罪が起こってもそれを後からキッチリチェック出来る仕組みがあってできるだけ素早く回復させるようなメカニズムがあれば、冤罪がしょうがないとは言わないけれど、国家の仕組みとしてはそういうものであるしか無い。
しかし殺してしまったらもうどうやったって取り返しがつかないし、それどころか原状回復どころか冤罪を冤罪のまま闇に葬ってしまう裁量を国家が抱えているのだからどうにもならない。そして一番どうにもならないのは、民主国家でありながらそこに手が届かない。バカマスコミが機能していないというのが、先ず第一にあるとしても、我々がその事を受け入れているふしがある。
冤罪は必ずなくせないという事を踏まえた上で、それでも死刑存置、つまり冤罪で死刑が執行されてしまう可能性があったとしても、そんなものは歩留まりだと腹をくくって、我が身に降り掛かったとしても、身内やまわりの人間に降り掛かったとしても、社会の公正さを示して社会を維持する為のコストだと、しょうがない事であると、ある種の覚悟があって死刑に賛成するという立場もあり得るわけだから、こういう前提を踏まえていてそう言っているのなら自分はそうは思えませんが、それはそれで一つの立場としては筋が通っている。
しかしだとしても、現状の統治権力の閉鎖性や司法の劣化を見るにつけ、死刑を存置するとか廃止するとか、そういう対立軸以前の問題のような気がします。冤罪であるという事がわかってそれを回復させるまでに17年もかかるとか、冤罪であるかもしれないという事をわかっていながら死刑を執行して闇に葬ってしまうとか、これでは社会を守るのでも何でも無く、役人や裁判所、そして政治家どものメンツを守る為に市民を犠牲にして隠蔽しているわけです。そんなのは言語道断です。マスコミは殆どこの問題もスルー。
林真須美被告が起こしたとされる和歌山カレー事件の顛末もそう。疑いはあるにしろ断定して死刑にするにはあまりにも証拠が無さ過ぎる。裁判というのはいつも書いてる事ですが被告を裁く場ではありません。原告つまり国家、要するに検察側の証拠を吟味する場です。無実を証明するという事は出来ない。悪魔の証明になる。検察側の証拠に対して合理的な疑いを差し挟む余地があるかどうかを吟味する場です。
検察側の証拠を完全に否定するのでもなくて、僅かでもその証拠に被告が犯人だという事を必ずしも証明出来ないのではないか?という余地があれば無罪。これが近代裁判の原理原則です。ようは、やったかもしれないけれど、完全には証明出来ないのであれば無罪になるという事です。
こういった基本的な所から見て行くと明らかにこの裁判の判決はいかれている。この国の司法はいつもそうだとは言えますが、あまりにも酷い。もちろん御用メディアはそんな事を報じる気配すらない。散々推定有罪報道で血祭りに上げたわけで、もし彼女が和歌山カレー事件について有罪でなければバカマスコミも困るのでしょう。
被害者家族なんかの会見を写して、死刑は妥当だと言っているものを流したり、被害者の感情に寄り添って、あたかも正義が執行されているかのように報じる。被害者家族や被害にあった人々の無念や怒りはわかりますが、その事と人一人を有罪にして死刑で葬り去るという話は別です。犯人だという証拠もいい加減なものしか無いのに、被害者感情に寄り添って誰かを血祭りに上げるのなら魔女裁判と変わらない。一体全体今何世紀だ?って話です。
この事件の証拠と言われるものは、彼女が犯人であると断定出来るものは何一つ無い。彼女が犯人であってもおかしくはないという程度でしかない。疑わしいというだけでしかない。そんな程度で死刑にされたら、誰でも有罪に出来て死刑に出来る国家だという事になる。
日本の判事、裁判所の裁判官は検察側の出して来る調書を鵜呑みにする。本来であれば起訴状だけを見て、事前に予備知識を入れずに白紙の状態で裁判に臨み、原告と被告の言い分を聞いてジャッジするのが鉄則であるはずなのに、検察と裁判所がグルなんだから公正もクソも無い。
実際この事件の最高裁では「合理的疑いの差し挟む余地のない『程度』に証明された」と下している。この『程度』という言葉の中に判決に対するやましさを感じる。
今回の事件は物的証拠が無く、あくまでも状況証拠しか無いという事と、否認のまま判決が下されたという程度は、まあリベラルを装ったメディアからは軽く報じられたりはしましたが、中身を吟味するというのは殆ど無い。
彼女を有罪とする状況証拠というのは、他にこの事件を起こす人がいない。だから彼女であるという背理法での証明が先ず一点。
目撃証言として順番でカレーの鍋の見張りをしていた中に林真須美被告もいて、12時から12時40分の間を彼女が担当していた。その際にゴリラのように行ったり来たりして不審な動きをしていたというのと、蓋を開けたのを見たというのがある。つまりその時に入れていてもおかしくはないという話。入れたのを見たという証言は無い。この証言自体も二転三転しているのだけど、この目撃証言が二点目の証拠。
そしてカレーの中に混入されていたヒ素と、被告である彼女の家にヒ素が残留している容器が見つかって、それが科学的な検査の結果合致したので、彼女が入れたのだろうというのが三点目。元々彼女の家というのは旦那がシロアリ駆除の仕事をしていたので、亜ヒ酸、所謂ヒ素を持っていた。だから目と鼻の先にある現場のカレー鍋にヒ素を混入させるには十分あり得る話であるという事。
そして、彼女の頭髪からもヒ素が検出されたというのが四点目。
決定的なのがヒ素を使って人を殺害しようとした前歴があるので今回もやりかねないというのが五点目。
この程度の話であれば検察のケツを舐めるマスメディアから出て来る話ですし、これだけを聞くと何となく決定的とは言えないにしろ、ほぼ黒っぽいわけだから推定無罪や疑わしきは被告人の利益にはわかるけれど、しょうがない所もあるのではないか?という感覚もあろうかと思います。
しかし実際に細かい話を聞いて行くと、この感覚が覆って行きます。白い紙コップにヒ素を入れて、それを四つある鍋の中の一つにだけ入れた。量としては135g、紙コップの三分の二くらい混入させたとされる。入れようと思えば誰にでも簡単に出来る事だし、当然味付けや味見をする事はあるわけで、その隙に入れる事は動作という所だけを見れば誰にでも出来る。現場にいて見張りをした人全てがやる気になれば出来る。人の目を盗んでやろうと思えば、そんなに難しい動作ではない。
しかし裁判ではその行為自体がそう簡単には出来ない事だから、一人でいる時にしか出来ないとあらかじめ断定している。なぜ断定出来るのか?その根拠無い。単に裁判官の主観です。一人でいた人は誰なのか?そこで林真須美被告が疑われる。しかし林真須美被告は娘さんと一緒にいたので一人ではない。それにまわりにも人がいた。
にもかかわらず裁判所は先ず一人でいないと実行出来ないという前提を作り出し、彼女だけが一人でいたという誤った事実を認定している。そして彼女だけしかヒ素にアクセス出来ないという証明がなされていない。他の人も可能であるのなら決定的な証拠にはならない。
見張りのときの動きが不自然だったという証言は、すぐ近くの家に住む女子高生の証言。カーテン越しに偶々外を見ていたら、林被告が変な動きをしているのを見たという話なんですが、最初の話では一階からカーテン越しに見たという話だった。これが後に二階から見ていたと見ていた場所が変わっている。
そして目撃したという服装が途中で変わる。不審な動きをしていたというのも鍋の周りを回っていたとか、道路の方をチラチラ見ていたとか、そういうのを指しているわけですが、不審な動きと言われれば、怪しいと思えてしまいますが、カレーの見張りをしている人間がカレーの鍋のまわりをうろうろしたり、道路の方をチラチラ見ているからと言って、その動きそのものを不審かどうか言えるのかという問題がある。
不審と感じる人もいるだろうし、そう思わない人もいるでしょう。見た人の主観の問題でしかない。それに蓋を開けたのを見たという証言も、鍋は四つあってそのうちの一つにヒ素が混入されていたわけで、蓋を開けたのを見たとされる鍋にはヒ素は混入されていない。だから当然蓋を開けているのを見たというのは何の説得力もなければ証拠にもならない。しかも弁護団が同じようなカーテン越しに見てみたら見えなかった。さらにその女子高生が見た女性というのが髪の毛の長さとか服装、背格好の話を聞くと、どうも林被告ではなくて娘さんである可能性が高い。
亜ヒ酸が合致というのも、最初は科警研が鑑定をして、被告の家から出た亜ヒ酸とカレーの中に残っていた亜ヒ酸、それから亜ヒ酸を入れたとされる紙コップに残留していたものを調べる。結果科警研は同一性は判断出来ないと言った。
東京理科大学の教授が名乗り出て当時最新鋭の大変大きな野球場ぐらいある分析機械スプリングエイトにかける。その結果、亜ヒ酸の中に含まれる不純物が同じであったという事がわかり、その事によって被告の家にあったもの、カレーに混入されたもの、紙コップに残留していたものの三つが同時期に同じ工場で作られたものであるという鑑定になる。
この亜ヒ酸は中国から輸入されたもので、同じものが3トン輸入されている。それがどこにどのように流れているのかがわからない。しかもどこの工場で作られたのかも出ていない。ただ缶には中国製としか書いていない。
不純物が同じと言っても量が同じわけでもなく亜ヒ酸に混入していたものでしかない。この実験の際にサンプルとして様々な亜ヒ酸と比べて実験されるわけですが、サンプルとして使用された亜ヒ酸は実験用のものであるとか、化学工業の材料であるとかで、和歌山で同時期に殺虫剤としてシロアリ駆除用に使われていたものや、みかんの甘みを増すのに使うものなどをサンプルとして比べているわけではない。
つまり実験の比較が恣意的であるという事です。使用目的の違う亜ヒ酸を持って来て合致しないとか言ったって、そんな事は当たり前の話であり、亜ヒ酸が合致としか報じられませんが亜ヒ酸に混入していた不純物が同じものが入っていたというだけでしかない。しかも量が同じだと言っているのでもない。それを合致を言い切って御用メディアが官報よろしく垂れ流す。
何度も言いますが挙証責任が被告側にあるのではないので、無罪を証明する必要があるわけではない。あくまでもこれらの検察側の証拠の中に合理的な疑いを差し挟む余地があるかどうかを問うているわけです。これで断定出来るのか?という事です。断定出来なければどんなに疑わしくとも無罪。これが近代裁判の原理原則です。
続く!!