前回の続きです。

さて田原の話に戻りますが、なぜジャーナリストとして彼の方が一枚上手に見えたのかと言うと、田原には誠実さが全然感じられない。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、お前は何がしたいんじゃと多くの人も思っていると思います。しかしであるが故に、立ち位置を自由に取り続ける事が出来たわけです。

彼の言説なんて誰も聞きたくもないだろうし、面白くもクソも無い。信念も感じない。上げ潮派が出てくれば上げ潮派に同調し、財政健全派が出てくればそれに同調する。野党が出てくればそれに、与党が出てくればそれに、公明党にも期待していると言うし、社民党にも頑張ってと言う、共産党にも共産党がしっかりしないと日本の政治はつまらないなんて言う。

言うだけではなくて、そういう人達と話す時は明らかにその人達に媚びて、いろんな言質を引き出そうとする。それが保守主義だろうが右翼だろうが、左翼だろうが、市場原理主義者であろうが、彼の主観を挟んでも彼自身の主観の話はたいして面白くもクソも無いので、全然気にならない。しかしゲストの言いたい事はダイレクトに伝わる。

正論的な質問はするものの、筑紫さんのような腰の据わった言い方ではなくて、オツムも筑紫さん程明晰にも見えないので、吹けば簡単に蹴散らせるようなヌルい言い方しかしない。しかしそのことによって、田原に対してはみんな嫌悪感を持つかもしれませんが、不人気である人達にも一定の言い分があるのだという事を世の中に啓蒙出来る。彼の番組などは彼が好きだから見ている人は殆どいないと思います。ゲストの人の話を聞きたいから多くの人がみる。その事が凄いわけです。

彼の物言いも筑紫さんの慎重さから考えると、軽はずみな挑戦的な物言いが多い。しかし何を拠り所にしているのか、何を信じているのかというのが殆ど表に出て来ない。結局何がしたくてそういう事をやってんだかもわからない。だから多くの人達からも嫌われる。筑紫さんの番組というのは、彼の色が出ている。ゲストが出て来ても、筑紫氏がしっかり前に出て来るのと比べると、田原の番組はハッキリ言って、田原の存在は殆どメインではありません。彼の言葉にも殆どの人が期待をしていないでしょう。

自分が田原が嫌いだけれど、彼が凄いなと思ったのは、社民党の辻本議員が秘書給与の問題でバッシングに遭っている際、サンプロだったと思うのですが、辻本をゲストに招いて、あたかも俺は辻本さんの味方ですという雰囲気を装って、彼女の赤裸々な心情を引き出していました。ホリエモンが叩かれているとき、竹中平蔵が叩かれているとき、森元首相と、不人気な人を呼んで来て、あえて貴方の気持ちはわかる。私は応援してますと装って、彼らの心情を上手く引き出す。

もちろん彼のそのスタンスは時に逸脱して見える。中川秀直の事務所開きに駆けつけて、私が政治家で一番信用している人は中川秀直さんですなんつってゴマをすったりしている。全国紙には出て来ない話ですが、そういうコウモリ的な軽さをみていると嫌悪感も感じますし、そうやって一定の立場を表明する事がいいのか?という疑問もあります。しかしそういう活動によって、何らかのネタを引き出そうとしている。それが凄いと思えるわけです。もちろん彼が今拠り所にしている方向性が、中川秀直的方向性だからかもしれませんが、少なくともそういう事が信念なんだという風に表に出て来ない。それを言ったとしても、彼の軽さがそれを吹き飛ばしてしまう。

もちろんそこには誠実さは微塵も感じられませんし、彼の信念みたいなものも感じない。おそらく話もたいして聞いていないようにも見える。しかし嫌われても構わないと思っているのかどうかは知りませんが、少なくともジャーナリズムという観点からすると、彼の手法というのは非常に優れていると思うのです。

なぜなら田原の思想なんて誰も興味が無い分だけ、対象の言っている事が比較的バイアスが少ない状態で伝わるからです。筑紫さんの番組だとそうはいかなかった。彼が信念に対して誠実であるが故に、彼が彼の目線から一定の解答を出してしまう。それに同意出来る人と出来ない人でわかれてしまう。

田原の仕事でもう一つ大きな柱としてある朝生の彼の手法も多分人気がない。この問題も考えねばなりません。民主主義を無視するかのような、強権を発動し、出演者を恫喝し、一定の話をとっとと切り捨てて、彼の趣味的な方向性へと進んでしまう。

これもおそらく彼の不人気の原因なんだろうと思えますが、あれだけの出演者が出てくれば、それを仕切ってある程度話を進めていかなければならないわけで、正論とか建前論的な物言いをどうしてもしてしまいがちなバカリベラル、バカ保守の話をぶった切って話を前に進めてしまうというやり方をしないと、話がまとまらない。

そもそもこういった二元論では世の中は切れない。だから話を広げてしまうと、論点がぼやけてしまう。そういう意味であれだけの識者を集めて、あれだけエゴをぶつけ合いながら、それを前に進めていくというのは、気に食わないけれど彼の仕切りによる手法が功を奏しているとも思えるのです。

田原がその事を自覚しているのかどうかは知りませんのでわかりませんが、信念とか建て前をいったんわきにおいて話そうぜというスタイルは、今のこの国では非常に重要な所ではないかと思えます。

例えば外国の討論番組なんかであるパターンというのは、番組の討論の部分は徹底的にやり合う。真剣勝負のファイトに見える。しかし討論が一通り終わると、出演者が和気あいあいと、さっきのお前の言い方、俺の意見取りやがったな、なんて話をしていたりする。

ようするに自分の思想信条とは別に、一方がAという言説を取っていれば、それに反するBという言説を一方が取る。役割を演じているわけです。世の中の論点にはこういう問題があってこういう立場があるという事を見せる。クロストークはパンチの応酬で徹底的にやる。

しかしそれはあくまで、その場の立ち位置として演じている。ようするにそういう戦闘モードのクロストークは一種のショウであって、本当のところ賛成であっても、戦う姿を演じている。自分の信念と切り離して議論しているわけです。

討論が終わると、仲の良い所をしっかりと見せて、そういう問題点で対立しても敵ってわけではない。よりよい方向性を模索する為の討議であるわけです。そして番組の最後に、さて飯でも食いに行こうと、さっきまでけんけんがくがくにやり合っていた出演者が言って終わる番組もあったりする。

要するにこの論点ではこういう意見の相違がありますが、これはあくまで議論であると終わったらちゃんと握手をするわけです。

こういう見せ方というのは基本的に日本ではありえません。不誠実であるという風に見えてしまいかねない。思想信条と言っている事が矛盾していると叩かれるわけです。日本の議論は議論じゃなくてケンカです。

思想信条やその人のパーソナリティと、その人の口からでてくる言説を一体化して捉えるので、出る方も見る方も勝ち負けにこだわるし、終わった後もモヤモヤしか残らない。朝生なんてとくにそうです。散々爆撃して荒れ野はらになったあげく、ようするに何も問題は解決していないし、簡単な話ではないという諦めだけを植え付けて終わってしまう。

勝ち負けというのは本当は関係ない。そんな事は当事者の自意識の問題というだけで、社会の問題を代表しているからにはそんな事はどうだっていい話であるはずです。例えば官僚の構造をどうするのか?という問題があり、それに対して擁護と解体というのがある。しかしこれは答えがわかっている話でもある。今のまま擁護は出来ないし、ある程度解体しなきゃどうしようもない。

これを擁護か解体かで切る事自体まず無理がある。しかし擁護には擁護の、解体には解体の論理がありえて、合理だけでは割り切れない問題というのもあり得る。なので擁護か?解体か?と言った二元論で戦って勝ち負けを競う事が重要なのではなくて、擁護すべき所、解体しなきゃならない所というのがそれぞれあって、どの変に着地点を探すのかという問題を模索する為には、それぞれの論理を聞かなきゃならない。そういう意味でこの二元論が必要なわけです。どっちが勝つとか負けるとかはどうだっていい話です。

これをちょっと論点をズラして、官僚の力量無しに現状の統治権力の能力で外交や国の舵取りは上手く機能するのか?という論点になるだけで、擁護と解体の優位性も全然違って見えてくるし、解体した方がいいとは思うが、現状の統治権力を見ていれば擁護せざるを得ないという人だっているでしょう。ようするに論点とはアドホックでしか無く、その論点だからこの二元論が必要であるというだけの話でしかないにもかかわらず、官僚を擁護なんてしてしまうと、あの野郎は官僚の手先だ、矛盾していやがるとなってしまうので、解体派は解体を言い続けるしか無くなってしまう。

アメリカとの付き合い方にしたってそうです。親米と反米に分かれて議論していても、結局は親米路線を踏み外すという事はまず不可能です。なので答えはわかっている。

しかしアメリカのやり方を無前提に擁護するわけには行かない。その親米の枠組みの中でいかに戦略的に付き合うかの話であって、そういう意味で反米派の意見が必要であるという話なだけで、親米か反米かという対立軸では本当は無いはずです。

勝ち負けの問題ではなくて、負ける方の意見も聞くべき所があるからそっちの意見も必要なわけで、負けるわけには行かない絶対に勝つといって議論されても困るわけです。

日本のそういった言論空間というのは、この勝ち負けにこだわる、アドルノ・ホルクハイマー的に言えば、権威主義的パーソナリティ満々の連中が多過ぎます。ようするに自信が無いから勝ち負けにこだわらないと前に進めないというパターンです。それは視聴者側にももちろん問題があるわけですが、そういう所まで啓蒙しなきゃ意味がない。

信念とか建て前と、その場の議論を切り離して考えるという事が出来ないし、みている人もそう言うのは不誠実だと感じてしまうので、徹底的に分断するだけで、打開策が全く見えない。負けるべきと言っちゃ語弊があるかもしれませんが、負ける側を演じる人の意見というのは、勝つ為にというより、負ける側の論理を負けたからと言って一方的に投げ捨てる事がないように、そういう声が必要なわけで、負ける事を受け入れて議論する必要がある場面もあるわけです。

負けるべき言説をあえて言うなんて話になると、茶番とかヤラセって話にもなってしまう。そういう事でもない。

丸山眞男が言った「主体性」の問題もあります。そんな意見誰々がすでに言っているじゃん、そんなのどこどこに載っていたじゃん、みたいな言い方が多い。丸山もその事を言っていて、日本はそんな話ばっかりだと。戦前からそうなのですからどうにもなりません。

誰かが言ったなんて事は重要じゃない。それを言い出したら殆どの事はすでに誰かが言っている事でしかないわけで、誰かが言った事を言ったとしても、その人の主体的なコミットメントが高ければ価値のある事でサブスタンシャルであるとも言える。

誰かがすでに言った事じゃん、そんな事はどうでもいい。俺の方が先に言ったんだ、そんな事もどうでもいい。だから反対していたんだ、そんな事もどうでもいい。そんな事は問題じゃなくて、その問題そのものにどれだけ主体的にコミットメント出来るのかが重要で、そこに向けてどれだけ距離を縮められるかがリテラシーの問題でもある。

つづく!!