なぜか某有名なかつて社長が捕まっちゃったポータルサイトのトップページに、ここ数日、当ブログがなんの断りも無しにリンクされておりまして、異様にヒット数が伸びていてビックリたまげました。しかもなんか自分の過激な言説を切り取られて貼付けてあるので、勘違いされそうな感じもします。別にコメントが来てるわけでも何でも無いので気にする必要も無いのですが・・・・・・
わざと過激な書き方をしている自分が悪いのですが、これほど多くの人の目にさらされるとなるとちょっと戸惑いを覚えてしまいました。
そろそろまとめるぞと前回書きましたが、ここからが本題だとも言えますので、そう簡単には終わらないような予感が・・・・・・
しかしそれにしてももう少し短くなんねえのかよとつくづく思います。本当お付き合いしていただいている方々には申し訳ありません。しかし今更今日の出来事とか、今日の晩飯とか、そういう事を書くのもどうかと思うので、しばらくはこのスタイルで行かせてもらいます。
それでは懲りずに前回の続きです。
さて前回、どこもかしこも立ち位置系にしか見えなくなる?それが問題だと書きましたが、同時にこれがだからこそ相対化、そして多様性の許容の為には最大のチャンスでもある。確かにリベラル派のバカ共はそればっかりで話になりませんが、彼らが何より話にならないのは、立ち位置系のくせに立ち位置系ではないと振る舞っている所にある。もしくは少なくともそういう風に見えてしまうという所に最大の問題がある。
もちろんそれに拍車をかけて、ポコチン保守は更に話になりません。断固決然?だったら、てめえで北朝鮮に乗り込んで取り返して来いよ。中国韓国気に食わねえというのなら、ゴチャゴチャ言ってねえで、行ってやって来いよ。戦争がやりたいのならてめえが最前線に行って戦って来いよ。とっとと死刑にしろ?まどろっこしいこと言ってねえで自分で自力救済しろよ、やれるもんならやってみろ!!出来もしねえくせに、ヘタレのもやしが吹いてんじゃねえよ。これが普段自分が彼らに感じる感覚です。
多分こういうバカ保守系の断固決然野郎に対して、多くの人も自分のように過激ではないにしろ、そういった感覚を多少は持っているのではないかと思います。
ケンカもした事無いような学者のもやしが、断固対処だなんだと言ったって、社会というプラットフォームがあるから、そこに甘えて偉そうなことを言っているわけです。
自己責任とか弱者救済を否定するような輩もそうです。それを本当に肯定するなら、だったら好都合だぜ、と思う人は大勢いると思います。そういったもやし共は、弱肉強食の世界になった瞬間にぶち殺されるでしょう。
本当に自己責任の弱肉強食であってくれれば好都合だと思う人からすれば、金持っていてケンカも出来ないもやし野郎はいいカモです。法律とか社会とか、そういうバックアップがあるから、はじめて偉そうに出来るだけの話で、本当に弱肉強食になったら、そういうヘタレは真っ先に獲物になるだけです。
つまり何が言いたいのかと言いますと、リベラル派のおバカさんも、断固決然もやし野郎も、結局立ち位置として言っているだけで、この社会という下駄を履いて、偉そうにしているに過ぎないわけで、所詮立ち位置系でしかないというかそれしかありえない。
自分は立ち位置系が悪いと言っているわけではありませんよ。多くの人間はそういうもので、弱い情けない生き物なんだという事を、まず認めちまえよという事です。
戦前は多くの国民が天皇陛下万歳と熱狂し、戦後は自由と民主主義万歳と多くの人が熱狂した。小泉純一郎が総理大臣であったとき、世論の8割が彼を支持していた。支持していた半分以上の人はもう彼を支持していないでしょう。アメリカだってあのブッシュが8年間大統領だったわけです。一時期9割くらいがブッシュの戦争政策を指示していた。しかし末期は支持率も10%台です。
人とは常に過ちを繰り返してしまう生き物であってそれがむしろ普通の状態なのではないかと思うわけです。
これをまず受け入れるというか自覚する事が我々に必要な事なんじゃないかと。我々は崇高なお題目を唱えられるような聖者ではない。
戦後になって戦前を批判するのは簡単な話であるのと同様に、今小泉的なるものを批判するのも簡単な話です。ブッシュ批判もそう。だからあれほど言っていたのに的な言説をいう輩がなんと多い事か。仮にその時に批判していたって、言論人としてそういった社会情勢に歯止めをかける事が出来なかったわけですから、俺はキチンと啓蒙していた関係ないと言ったってあんまり意味がない。
人間はこういったバランス感覚を一瞬失って、誤った方向へと進んでいってしまいかねない危険性をいつでも持っている。どんなにきれい事を言っても、崇高な理念をほざいたって、我々は所詮人間でしか無いわけです。
立ち位置として言うのは、そりゃ自分の生活もあるし、愛する家族の生活も守らなければならないわけで、立ち位置系ではなくて、その信じていると言っている言説と心中するなんて、今の世の中バカらしくてやってられない。いつ梯子を外されるかわかったもんじゃないわけで、誰だって距離を置きたいと思うのは人としては自然感情であると思います。
それをまず認める。これはきれい事を言っているけれど、それは理想であって必ずしも自分がそういう風に生きているという事とは別の話ですという事を認めちまえという事です。
言っている事が矛盾している!!お前は所詮立ち位置で言っているだけなんだろ!!こういう批判に対して、ああ矛盾しているとも、立ち位置に決まってるだろ、だからどうした。と立ち位置系ではないかのように振る舞うのではなくて、立ち位置系でしか無いけれど、世の中立ち位置系じゃない人なんて中々いるもんじゃない。自分の信念の為に人を傷つけるのなんてもってのほかだし、信念を貫いて誰も説得出来ないのでは意味も無い。
しかしそういう狡い自分ではあるけれど、この問題はこういう風に思う、こういう方向性の方がいいのではないか、と、素直に立ち位置系として啓蒙するという事だと思います。開き直りと批判されても、全くその通り、すんません。しかし自分の生活を投げうってまで、信じる理念には殉じる事が出来ませんと、表明する事ではないかと思うのです。
そしてこれは普通の話です。誰でもそうでしょう。どうせ立ち位置系なんだろ、という批判は早い話が当たり前の話を多くの人が理解出来ていない事の現れでもあります。
世の中の周りを見回すと辺り一面、立ち位置系ばかり、どいつもこいつも信用出来ない、こういう感覚というのは簡単に言っちゃえばあまりにもナイーブな発想です。そこにつけ込んで、これこそは絶対という理念と、それを信念として立ち回っているかのようにポーズをする輩の、中身の無い『力強い』言葉に簡単に騙されてしまう。
立ち位置系じゃない人なんて世の中には殆どいません。みんな自分の何らかの社会的なポジションや収入などの下駄を履いているから言えるだけの話であって、そういった前提が脅かされれば簡単に思想信条なんて吹き飛んでしまう。
環境保護を訴えている人の趣味がハンティングだったりとか、古いクラシックな車が大好きで、環境破壊バリバリの排気ガスをバラまいているとか、反戦平和を訴えている人が実はミリタリーオタクであるとか、サバイバルゲームが大好きであるとか、断固決然道徳主義者が、実はロリコン趣味であるとか、バリバリのフェミニストが、実はSM大好きであるとか、例えばそういうとこまで言っている事とやっている事の乖離があれば、オイオイと思いますが、仮にそうだとしたって、言っている事は言っている事として聞けるような感受性、その人の属性をとりあえずわきにおいて聞く事の出来る感覚。
そして当然言っている事が矛盾する事もあるでしょう。しかしその言っている当事者が何を目指して言っているのか、あるいはその場面でのその物言いが適切か不適切かを判断するリテラシーが必要なんじゃないかという事です。
ミラーマン事、植草教授が痴漢でパクられたとき、多くの人は痴漢が何を言ってやがると批判をしましたが、彼の経済についての持論自体を公平に評価するという視点が吹っ飛んじゃいました。痴漢の言っていることだからという風になっちゃう。
それに彼は女子高生の制服をコレクションするという趣味があったとかなかったとか、それがまた彼を不利な状況に追い込んでしまっている。
しかし本当に痴漢をしているのかどうかと、制服をコレクションしていたという問題はもちろん別問題ですし、あんまりいい趣味だとは思えませんが、それ自体は犯罪ってわけではない。それに彼の経済についての視点は小泉竹中路線翼賛体制の最中、非常にそれに対するアンチな目線として適切な事も言っていたと思う。
ここを一緒くたにみてしまうという旧世代の古い習慣をそろそろ見直すべき時に来ているような気がします。言っている事は言っている事として、分離して評価する行為態度です。その為にはまず、信念を持っているかのように見えてしまうが結局の所立ち位置系の人達を、いったん立ち位置系であると相対化する必要があるのではなかろうかという事です。
もちろんこれが行き過ぎると、どこもかしこも結局は立ち位置系しかいないという諦めもマズい。何でもかんでも相対化したあげく、ニヒリズムに陥って、どうせそんなもんだよとなるのも問題です。
官僚批判しているけれど、自分がもし官僚になればどうせ同じ事をするだろうし、メディア批判をしていても、結局分け前をよこせという闘争でしかないじゃないか、政治家批判するのはいいけれど、選んでるのは国民じゃねえか、と、こういった感じで、相対化しすぎてやる気が無くなってしまってはそれもやっぱり問題です。
確かに世の中は立ち位置系しか無いし、自分も立ち位置系でしかない、しかし例えば官僚の問題はやっぱりあるだろう。自分がその立場になったら同じ事をするかもしれないが、今はその立場にはいない。だからその問題はやはり最適化されるべきなのではないか?とコミットメントを立ち位置系としていかに示すか。そこに注目出来るようになれるか。これが立ち位置系にしか見えなくなってしまった現状であるが故に最大の好機であると感じるわけです。
筑紫さんの話を最初に取り上げましたので、そこに少し戻ります。彼の言説があまり好きではないと書いてしまったので、その理由みたいなものも含めて書こうと思います。ちょっと批判も入りますのでファンの人怒らないでね。
まず彼と同時代の田原総一朗と彼を比較してこの話を少し深めていきます。最近おつきあいのある方のブログで田原氏に関する話題を取り上げているのがたまたま重なっていたので、田原氏を取り上げてみます。この比較から現状を打破するヒントのようなものが見えます。
自分は筑紫さんの事があまり好きではないと書きましたが、それに拍車をかけて、田原はもっと好きじゃありません。明らかに頭の良さから言っても筑紫さんには全く及ばないと思いますし、彼の言説には誠実さが無い。しかしジャーナリストという意味で言うと、田原の方が一枚上手なんじゃないかと個人的には思っています。なぜか?
納得いかねえよと思う方もいるかもしれませんが少し我慢して聞いて下さいね。そこにまさにこの問題のヒントが隠れています。
筑紫さんの事が嫌いだと言う事にはきっと嫌悪感を示す人が多いと思いますが、田原を嫌いだという事に関しては嫌悪感を示すどころか同意する人が多いと思う。筑紫さんの物言いが好きだという人はいっぱいいると思いますが、田原の物言いが好きだという人はそれに比べれば随分少ないように感じます。
自分も人間的には筑紫さんの方が魅力があったと思いますし、田原が朝生とかサンプロ以外で、個人的な見解を述べている話を聞いていても、ちっとも面白くもクソも無いし何の含蓄もユーモアも感じない。にもかかわらず何で田原の方がジャーナリストとしては一枚上手に感じるのかと言うと、まさにこの事があるが故にそう思うのです。少し説明します。
筑紫さんというのは彼の信念みたいなものがしっかり見えるし、そのコアになっている所を常に柱として出来るだけ誠実であろうとつとめているように見えます。空念仏左翼よりは全然マシにも見えた。
しかしこれが彼のジャーナリストとしての限界を同時に決めてしまっている。彼は自由に議論するという事が大切であるという信条があったように思います。右でも左でも、若者でも老人でも常に相手の物言いを聞こうとしているように見えました。
彼の信念がしっかりしているという事によって、彼が何を言うのかというのはだいたい想像ができてしまう。彼の理念というか信じる方向性に誠実であればある程、筑紫さんはこの問題についてこう思っているだろうなというのが、それこそ期待通りに出て来て、それで見事にしかも理性的に知性を輝かせながら世相をぶった切る。
まさにそれが彼の人気であると同時に、最大の弱点でもあったのではないかと思えるのです。この事に共感出来る人はそれで気持ちがいいかもしれませんが、彼の事が好きではないと思ってしまう人からすると、どうしてもその距離感を埋める事が出来ない。
彼の誠実さ故に埋められない溝が出来てしまう。正論が正しければ正しい程、そこからこぼれてしまう人というのが出てくる。そうなってしまえば彼がいかに正論を言っても、もう聞いてももらえないという人が出て来てしまう。
そりゃ彼の事が好きだと思える人からすれば、気持ちがいいかもしれませんが、いったん開いてしまった溝の向こう側にいる人からすれば、もう聞く気もしないという事態を招いてしまう。言っている事は正論なんだろうという事は、みんなわかっているとは思いますが、正論だけでは世の中は切れない。そこが歯痒いと感じたわけです。
左派の論陣を張る知識人の方々というのは相対的に右派よりは頭良さげにみえますし、そもそもかっこもいい、声もクール、保守派のバカオヤジが脂ぎったオヤジばかり、ハゲ、デブ、声がでかい、高圧的、というパターンから比較すると、明らかにスマートでスタイリッシュにも見える。そういう所のイメージもやはり庶民感覚からすると損しているように見える。カッコいいと思える人はいいですけれど、そこにコンプレックスを感じて、この野郎とひがんでしまう感覚もあるかもしれません。保守派のバカオヤジの方が身近な感じがするかもしれない。スマートな進歩的知識人とやらが何やら難しい話と言葉の空中戦を見せられているような気分にもなるでしょう。
非常に簡単な言い方をすると、世の中は理屈で割り切れる、正論で割り切れる、論理で割り切れると言う立場が左翼です。スコラ神学に遡るとこれを主智主義と言います。神は完全の存在なので世の中を合理的に設計するはずだという立場です。ようするに物事を個人からは考えず、制度とか枠組みとかそういう所から疎外に反応する。徹底的に論理的に設計し、社会をより良き方向に目指すという立場です。その事によって人は幸福になれると。理性的に人はわかりあえるはずだと。
なので彼はそういう意味で言えば真性の左翼であったと言えるでしょう。
しかしこれに対するようするに右翼というのは、主意主義と言います。ボランタリズムの立場です。世の中は論理や合理だけでは割り切れない、正論では割り切れないとする立場です。神は絶対的な存在なので何でも意図し得る、不合理であろうが不条理であろうが、人間ごときの都合に合わせて設計なんてしない。人間ごときがわかるような合理や論理の外に神はいる。そういう枠組みを越えた視点からの何らかの意図によって設計する。だから世の中は人間にとって不合理だったり不条理だったりするのだという立場です。
右翼というのは社会がどんなに合理的になっても人間は幸せになれない、なぜならば人間は不合理で不条理だからだと。左側の言説というのはどうしてもここの所に目がいかない。
合理主義を否定するというわけではなくて、合理で割り切れるものは徹底して合理で割り切り、その後でも残る残余、レジデュアルな部分について重視する。社会が幸せでどんなにちゃんとしても幸せになれないという問題についてどうするのかという事について考える。社会が幸せになれば人が幸せになるという考え方は単純には出来ない。これが右翼という立場になります。
クリント・イーストウッドなんかがまさにこういった右翼の立場です。だから彼は絶えずそういう映画を撮っている。法律で裁けぬ悪を裁くダーティーハリーしかり、ミリオンダラーベイビーなんかも最後は彼が演じる老人が法律や宗教を越えて、正しいと思う事をやる。硫黄島二部作でもそうです。国家が決める大義など絶対に認めない。しかし戦場での友情というのは真実であると、それは敵も味方も関係ない。そちらが正しくてどちらが悪いというのも無い。国家が正しいという事を疑えというまなざしです。
日本の一般的な左側の方向性だけですとやはりこの部分というのには手が届かないという限界が生じます。そういう意味で日本が右傾化したと言われる理由もそのへんにある。もちろん日本での最近の右翼とか保守を名乗るもやし共はハッキリいって主意主義もクソも無い単なるヘタレばかりですが、明らかに溝の向こうにいる存在にとっての拠り所が空洞化しているところを取られてしまった。だから国家を疑えというよりも、この国に蔓延している似非リベラルを疑えという風になっちゃった。
筑紫さんはそこに対しても正論や論理で理性的に何とかしようと思っていたとは思いますが、正論や論理は正しければ正しい程、時に余計に痛めつけるだけになってしまう。筑紫さんは人間という存在を信じていたというか信じたかったのではないのだろうかと思います。論理を尽くして、理性的に接すればわかり合えるはずだと。
アマルティア・セン的に言うと社会のケイパビリティが下がり(潜在能力とか、将来性とか可能性とかそういうのが下がっているという意味です。要するに希望が無くなっちゃっている)、毎日が幸せであるだけでは幸せになれない人々が増えているというのは、まさに主意主義的な態度と直結している。社会が裕福になっているのにそこからこぼれ落ちてしまう人がいるではないかというのもそうです。これは従来の論理や正論だけでは救えない。だからセンのような論理がリベラリズムの中から出てくるわけですが、日本の一般的な左派は社会のケイパビリティを主題にするような方向性には向かっていません。日本の一般的な左派というのはこの辺がどうも弱い。
つづく!!
わざと過激な書き方をしている自分が悪いのですが、これほど多くの人の目にさらされるとなるとちょっと戸惑いを覚えてしまいました。
そろそろまとめるぞと前回書きましたが、ここからが本題だとも言えますので、そう簡単には終わらないような予感が・・・・・・
しかしそれにしてももう少し短くなんねえのかよとつくづく思います。本当お付き合いしていただいている方々には申し訳ありません。しかし今更今日の出来事とか、今日の晩飯とか、そういう事を書くのもどうかと思うので、しばらくはこのスタイルで行かせてもらいます。
それでは懲りずに前回の続きです。
さて前回、どこもかしこも立ち位置系にしか見えなくなる?それが問題だと書きましたが、同時にこれがだからこそ相対化、そして多様性の許容の為には最大のチャンスでもある。確かにリベラル派のバカ共はそればっかりで話になりませんが、彼らが何より話にならないのは、立ち位置系のくせに立ち位置系ではないと振る舞っている所にある。もしくは少なくともそういう風に見えてしまうという所に最大の問題がある。
もちろんそれに拍車をかけて、ポコチン保守は更に話になりません。断固決然?だったら、てめえで北朝鮮に乗り込んで取り返して来いよ。中国韓国気に食わねえというのなら、ゴチャゴチャ言ってねえで、行ってやって来いよ。戦争がやりたいのならてめえが最前線に行って戦って来いよ。とっとと死刑にしろ?まどろっこしいこと言ってねえで自分で自力救済しろよ、やれるもんならやってみろ!!出来もしねえくせに、ヘタレのもやしが吹いてんじゃねえよ。これが普段自分が彼らに感じる感覚です。
多分こういうバカ保守系の断固決然野郎に対して、多くの人も自分のように過激ではないにしろ、そういった感覚を多少は持っているのではないかと思います。
ケンカもした事無いような学者のもやしが、断固対処だなんだと言ったって、社会というプラットフォームがあるから、そこに甘えて偉そうなことを言っているわけです。
自己責任とか弱者救済を否定するような輩もそうです。それを本当に肯定するなら、だったら好都合だぜ、と思う人は大勢いると思います。そういったもやし共は、弱肉強食の世界になった瞬間にぶち殺されるでしょう。
本当に自己責任の弱肉強食であってくれれば好都合だと思う人からすれば、金持っていてケンカも出来ないもやし野郎はいいカモです。法律とか社会とか、そういうバックアップがあるから、はじめて偉そうに出来るだけの話で、本当に弱肉強食になったら、そういうヘタレは真っ先に獲物になるだけです。
つまり何が言いたいのかと言いますと、リベラル派のおバカさんも、断固決然もやし野郎も、結局立ち位置として言っているだけで、この社会という下駄を履いて、偉そうにしているに過ぎないわけで、所詮立ち位置系でしかないというかそれしかありえない。
自分は立ち位置系が悪いと言っているわけではありませんよ。多くの人間はそういうもので、弱い情けない生き物なんだという事を、まず認めちまえよという事です。
戦前は多くの国民が天皇陛下万歳と熱狂し、戦後は自由と民主主義万歳と多くの人が熱狂した。小泉純一郎が総理大臣であったとき、世論の8割が彼を支持していた。支持していた半分以上の人はもう彼を支持していないでしょう。アメリカだってあのブッシュが8年間大統領だったわけです。一時期9割くらいがブッシュの戦争政策を指示していた。しかし末期は支持率も10%台です。
人とは常に過ちを繰り返してしまう生き物であってそれがむしろ普通の状態なのではないかと思うわけです。
これをまず受け入れるというか自覚する事が我々に必要な事なんじゃないかと。我々は崇高なお題目を唱えられるような聖者ではない。
戦後になって戦前を批判するのは簡単な話であるのと同様に、今小泉的なるものを批判するのも簡単な話です。ブッシュ批判もそう。だからあれほど言っていたのに的な言説をいう輩がなんと多い事か。仮にその時に批判していたって、言論人としてそういった社会情勢に歯止めをかける事が出来なかったわけですから、俺はキチンと啓蒙していた関係ないと言ったってあんまり意味がない。
人間はこういったバランス感覚を一瞬失って、誤った方向へと進んでいってしまいかねない危険性をいつでも持っている。どんなにきれい事を言っても、崇高な理念をほざいたって、我々は所詮人間でしか無いわけです。
立ち位置として言うのは、そりゃ自分の生活もあるし、愛する家族の生活も守らなければならないわけで、立ち位置系ではなくて、その信じていると言っている言説と心中するなんて、今の世の中バカらしくてやってられない。いつ梯子を外されるかわかったもんじゃないわけで、誰だって距離を置きたいと思うのは人としては自然感情であると思います。
それをまず認める。これはきれい事を言っているけれど、それは理想であって必ずしも自分がそういう風に生きているという事とは別の話ですという事を認めちまえという事です。
言っている事が矛盾している!!お前は所詮立ち位置で言っているだけなんだろ!!こういう批判に対して、ああ矛盾しているとも、立ち位置に決まってるだろ、だからどうした。と立ち位置系ではないかのように振る舞うのではなくて、立ち位置系でしか無いけれど、世の中立ち位置系じゃない人なんて中々いるもんじゃない。自分の信念の為に人を傷つけるのなんてもってのほかだし、信念を貫いて誰も説得出来ないのでは意味も無い。
しかしそういう狡い自分ではあるけれど、この問題はこういう風に思う、こういう方向性の方がいいのではないか、と、素直に立ち位置系として啓蒙するという事だと思います。開き直りと批判されても、全くその通り、すんません。しかし自分の生活を投げうってまで、信じる理念には殉じる事が出来ませんと、表明する事ではないかと思うのです。
そしてこれは普通の話です。誰でもそうでしょう。どうせ立ち位置系なんだろ、という批判は早い話が当たり前の話を多くの人が理解出来ていない事の現れでもあります。
世の中の周りを見回すと辺り一面、立ち位置系ばかり、どいつもこいつも信用出来ない、こういう感覚というのは簡単に言っちゃえばあまりにもナイーブな発想です。そこにつけ込んで、これこそは絶対という理念と、それを信念として立ち回っているかのようにポーズをする輩の、中身の無い『力強い』言葉に簡単に騙されてしまう。
立ち位置系じゃない人なんて世の中には殆どいません。みんな自分の何らかの社会的なポジションや収入などの下駄を履いているから言えるだけの話であって、そういった前提が脅かされれば簡単に思想信条なんて吹き飛んでしまう。
環境保護を訴えている人の趣味がハンティングだったりとか、古いクラシックな車が大好きで、環境破壊バリバリの排気ガスをバラまいているとか、反戦平和を訴えている人が実はミリタリーオタクであるとか、サバイバルゲームが大好きであるとか、断固決然道徳主義者が、実はロリコン趣味であるとか、バリバリのフェミニストが、実はSM大好きであるとか、例えばそういうとこまで言っている事とやっている事の乖離があれば、オイオイと思いますが、仮にそうだとしたって、言っている事は言っている事として聞けるような感受性、その人の属性をとりあえずわきにおいて聞く事の出来る感覚。
そして当然言っている事が矛盾する事もあるでしょう。しかしその言っている当事者が何を目指して言っているのか、あるいはその場面でのその物言いが適切か不適切かを判断するリテラシーが必要なんじゃないかという事です。
ミラーマン事、植草教授が痴漢でパクられたとき、多くの人は痴漢が何を言ってやがると批判をしましたが、彼の経済についての持論自体を公平に評価するという視点が吹っ飛んじゃいました。痴漢の言っていることだからという風になっちゃう。
それに彼は女子高生の制服をコレクションするという趣味があったとかなかったとか、それがまた彼を不利な状況に追い込んでしまっている。
しかし本当に痴漢をしているのかどうかと、制服をコレクションしていたという問題はもちろん別問題ですし、あんまりいい趣味だとは思えませんが、それ自体は犯罪ってわけではない。それに彼の経済についての視点は小泉竹中路線翼賛体制の最中、非常にそれに対するアンチな目線として適切な事も言っていたと思う。
ここを一緒くたにみてしまうという旧世代の古い習慣をそろそろ見直すべき時に来ているような気がします。言っている事は言っている事として、分離して評価する行為態度です。その為にはまず、信念を持っているかのように見えてしまうが結局の所立ち位置系の人達を、いったん立ち位置系であると相対化する必要があるのではなかろうかという事です。
もちろんこれが行き過ぎると、どこもかしこも結局は立ち位置系しかいないという諦めもマズい。何でもかんでも相対化したあげく、ニヒリズムに陥って、どうせそんなもんだよとなるのも問題です。
官僚批判しているけれど、自分がもし官僚になればどうせ同じ事をするだろうし、メディア批判をしていても、結局分け前をよこせという闘争でしかないじゃないか、政治家批判するのはいいけれど、選んでるのは国民じゃねえか、と、こういった感じで、相対化しすぎてやる気が無くなってしまってはそれもやっぱり問題です。
確かに世の中は立ち位置系しか無いし、自分も立ち位置系でしかない、しかし例えば官僚の問題はやっぱりあるだろう。自分がその立場になったら同じ事をするかもしれないが、今はその立場にはいない。だからその問題はやはり最適化されるべきなのではないか?とコミットメントを立ち位置系としていかに示すか。そこに注目出来るようになれるか。これが立ち位置系にしか見えなくなってしまった現状であるが故に最大の好機であると感じるわけです。
筑紫さんの話を最初に取り上げましたので、そこに少し戻ります。彼の言説があまり好きではないと書いてしまったので、その理由みたいなものも含めて書こうと思います。ちょっと批判も入りますのでファンの人怒らないでね。
まず彼と同時代の田原総一朗と彼を比較してこの話を少し深めていきます。最近おつきあいのある方のブログで田原氏に関する話題を取り上げているのがたまたま重なっていたので、田原氏を取り上げてみます。この比較から現状を打破するヒントのようなものが見えます。
自分は筑紫さんの事があまり好きではないと書きましたが、それに拍車をかけて、田原はもっと好きじゃありません。明らかに頭の良さから言っても筑紫さんには全く及ばないと思いますし、彼の言説には誠実さが無い。しかしジャーナリストという意味で言うと、田原の方が一枚上手なんじゃないかと個人的には思っています。なぜか?
納得いかねえよと思う方もいるかもしれませんが少し我慢して聞いて下さいね。そこにまさにこの問題のヒントが隠れています。
筑紫さんの事が嫌いだと言う事にはきっと嫌悪感を示す人が多いと思いますが、田原を嫌いだという事に関しては嫌悪感を示すどころか同意する人が多いと思う。筑紫さんの物言いが好きだという人はいっぱいいると思いますが、田原の物言いが好きだという人はそれに比べれば随分少ないように感じます。
自分も人間的には筑紫さんの方が魅力があったと思いますし、田原が朝生とかサンプロ以外で、個人的な見解を述べている話を聞いていても、ちっとも面白くもクソも無いし何の含蓄もユーモアも感じない。にもかかわらず何で田原の方がジャーナリストとしては一枚上手に感じるのかと言うと、まさにこの事があるが故にそう思うのです。少し説明します。
筑紫さんというのは彼の信念みたいなものがしっかり見えるし、そのコアになっている所を常に柱として出来るだけ誠実であろうとつとめているように見えます。空念仏左翼よりは全然マシにも見えた。
しかしこれが彼のジャーナリストとしての限界を同時に決めてしまっている。彼は自由に議論するという事が大切であるという信条があったように思います。右でも左でも、若者でも老人でも常に相手の物言いを聞こうとしているように見えました。
彼の信念がしっかりしているという事によって、彼が何を言うのかというのはだいたい想像ができてしまう。彼の理念というか信じる方向性に誠実であればある程、筑紫さんはこの問題についてこう思っているだろうなというのが、それこそ期待通りに出て来て、それで見事にしかも理性的に知性を輝かせながら世相をぶった切る。
まさにそれが彼の人気であると同時に、最大の弱点でもあったのではないかと思えるのです。この事に共感出来る人はそれで気持ちがいいかもしれませんが、彼の事が好きではないと思ってしまう人からすると、どうしてもその距離感を埋める事が出来ない。
彼の誠実さ故に埋められない溝が出来てしまう。正論が正しければ正しい程、そこからこぼれてしまう人というのが出てくる。そうなってしまえば彼がいかに正論を言っても、もう聞いてももらえないという人が出て来てしまう。
そりゃ彼の事が好きだと思える人からすれば、気持ちがいいかもしれませんが、いったん開いてしまった溝の向こう側にいる人からすれば、もう聞く気もしないという事態を招いてしまう。言っている事は正論なんだろうという事は、みんなわかっているとは思いますが、正論だけでは世の中は切れない。そこが歯痒いと感じたわけです。
左派の論陣を張る知識人の方々というのは相対的に右派よりは頭良さげにみえますし、そもそもかっこもいい、声もクール、保守派のバカオヤジが脂ぎったオヤジばかり、ハゲ、デブ、声がでかい、高圧的、というパターンから比較すると、明らかにスマートでスタイリッシュにも見える。そういう所のイメージもやはり庶民感覚からすると損しているように見える。カッコいいと思える人はいいですけれど、そこにコンプレックスを感じて、この野郎とひがんでしまう感覚もあるかもしれません。保守派のバカオヤジの方が身近な感じがするかもしれない。スマートな進歩的知識人とやらが何やら難しい話と言葉の空中戦を見せられているような気分にもなるでしょう。
非常に簡単な言い方をすると、世の中は理屈で割り切れる、正論で割り切れる、論理で割り切れると言う立場が左翼です。スコラ神学に遡るとこれを主智主義と言います。神は完全の存在なので世の中を合理的に設計するはずだという立場です。ようするに物事を個人からは考えず、制度とか枠組みとかそういう所から疎外に反応する。徹底的に論理的に設計し、社会をより良き方向に目指すという立場です。その事によって人は幸福になれると。理性的に人はわかりあえるはずだと。
なので彼はそういう意味で言えば真性の左翼であったと言えるでしょう。
しかしこれに対するようするに右翼というのは、主意主義と言います。ボランタリズムの立場です。世の中は論理や合理だけでは割り切れない、正論では割り切れないとする立場です。神は絶対的な存在なので何でも意図し得る、不合理であろうが不条理であろうが、人間ごときの都合に合わせて設計なんてしない。人間ごときがわかるような合理や論理の外に神はいる。そういう枠組みを越えた視点からの何らかの意図によって設計する。だから世の中は人間にとって不合理だったり不条理だったりするのだという立場です。
右翼というのは社会がどんなに合理的になっても人間は幸せになれない、なぜならば人間は不合理で不条理だからだと。左側の言説というのはどうしてもここの所に目がいかない。
合理主義を否定するというわけではなくて、合理で割り切れるものは徹底して合理で割り切り、その後でも残る残余、レジデュアルな部分について重視する。社会が幸せでどんなにちゃんとしても幸せになれないという問題についてどうするのかという事について考える。社会が幸せになれば人が幸せになるという考え方は単純には出来ない。これが右翼という立場になります。
クリント・イーストウッドなんかがまさにこういった右翼の立場です。だから彼は絶えずそういう映画を撮っている。法律で裁けぬ悪を裁くダーティーハリーしかり、ミリオンダラーベイビーなんかも最後は彼が演じる老人が法律や宗教を越えて、正しいと思う事をやる。硫黄島二部作でもそうです。国家が決める大義など絶対に認めない。しかし戦場での友情というのは真実であると、それは敵も味方も関係ない。そちらが正しくてどちらが悪いというのも無い。国家が正しいという事を疑えというまなざしです。
日本の一般的な左側の方向性だけですとやはりこの部分というのには手が届かないという限界が生じます。そういう意味で日本が右傾化したと言われる理由もそのへんにある。もちろん日本での最近の右翼とか保守を名乗るもやし共はハッキリいって主意主義もクソも無い単なるヘタレばかりですが、明らかに溝の向こうにいる存在にとっての拠り所が空洞化しているところを取られてしまった。だから国家を疑えというよりも、この国に蔓延している似非リベラルを疑えという風になっちゃった。
筑紫さんはそこに対しても正論や論理で理性的に何とかしようと思っていたとは思いますが、正論や論理は正しければ正しい程、時に余計に痛めつけるだけになってしまう。筑紫さんは人間という存在を信じていたというか信じたかったのではないのだろうかと思います。論理を尽くして、理性的に接すればわかり合えるはずだと。
アマルティア・セン的に言うと社会のケイパビリティが下がり(潜在能力とか、将来性とか可能性とかそういうのが下がっているという意味です。要するに希望が無くなっちゃっている)、毎日が幸せであるだけでは幸せになれない人々が増えているというのは、まさに主意主義的な態度と直結している。社会が裕福になっているのにそこからこぼれ落ちてしまう人がいるではないかというのもそうです。これは従来の論理や正論だけでは救えない。だからセンのような論理がリベラリズムの中から出てくるわけですが、日本の一般的な左派は社会のケイパビリティを主題にするような方向性には向かっていません。日本の一般的な左派というのはこの辺がどうも弱い。
つづく!!