またしても中断です。すんませんね。中々まとめられず、また文章力も無く。
今回もコメント返しになります。通りすがりの主婦様という方に対するものです。
最近ありがたい事に何かとご意見を下さる方で、いろいろな視点でご意見をいただいております。ありがたや。
今回のコメント返しは、基本的に当ブログの読者様にとっては、まあ言うまでもないような話なのですが、最近おつきあいのある方なので、前提話を少し書かないと、自分の文章力では説明出来ません。
なので失礼して、少し書きたいと思います。興味がない方、誠に大変申し訳ございません。続きは次回という事で。
それでは、通りすがりの主婦様、面倒かもしれませんが少しお付き合い下さい。
まず赤木君の論文はリンクになっているのでよろしければ読んでみて下さい。読んで頂けるとより説明しやすくなります。
戦争の善悪の話を彼が言いたいわけではありません。そういった理不尽がある社会は不幸である。これが一般的な考えですが、戦争じゃなくても理不尽なんですけど、どうすれば良いんですか?自己責任ですか?なら戦争したいと思うのも勝手だろと。
そういう事だと思います。
戦争をしたら尊厳があると言っているのではなくて、戦争していないのに、不幸であって尊厳が無いのは変わらない階層にいる人間はどうすりゃいいんだ?という事です。だったら戦争でも起こってみんな不幸になっちまえと。
こういう方に戦争の悲惨さを言っても意味がないと思います。戦争をやらない方がいいという事は、彼もわかっているでしょうし、多分まだ普通の感覚として多くの人が持っていると思いますので、そういう事をこういう人に言っても効果がないような気がします。そんな事を言っても、火に油を注ぐようなもんで、お前がそう思うだけだろ、俺はそうは思いません以上。これで終わっちゃう。
自分勝手な奴と切って捨てるのは簡単ですが、こういった言説にシンパシーを感じる人は増えているので、その理不尽を生み出す構造の問題を手当て出来なければ、どんどん増えていきそのうちどうにもならなくなってしまいます。そうしたら手の打ちようが無い。歴史は繰り返してしまう。
戦争をしてはいけないという理由付けをするのもハッキリ言って危険です。戦争をしてはいけない理由を教育されているからしないという状態は、その理由が何らかの条件によってキャンセルされてしまえば簡単に戦争出来てしまうからです。
戦争はやらない方がいいよな。という感覚を共有出来ない人が出て来てしまっているという状態になっている事が問題であって、その人を教育して理由を教えて、ああそうか戦争はしない方がいいんですねってなるのだとしても、ある意味それは異常事態です。
例えば人を殺すべからず、という前提がありますよね。我々は成長の過程で、家族や友人、地域の人々、近所の大人達、そして教師との間等々のコミュニケーションの様々な場面で、承認され尊厳を感じ、そして承認を与え、尊厳を与え、そういう関係性を結ぶ事によって一人前の人間として育ち上がります。
もちろん時には尊厳を与えてもらえず、承認されなかったり、尊厳を認めず承認しなかったりというのはありますが、そういうコミュニケーションの失敗と成功を重ね、承認や尊厳を得る為に必要な作法を学ぶ事になる。学びになれば尊厳や承認を更に獲得出来るようになる。もちろん教育や親の躾けなどを通して学ぶ事もあるでしょう。
そういう尊厳や承認を得て大人になっている人間は、自分が自分である為に必要な条件にそういった様々なコミュニケーションが組み込まれています。尊厳を過不足無く持って成長出来れば、自分の前提条件であるそのものを壊すという事は中々出来ません。そして自分にとってかけがえのないその前提条件が他人にもそれぞれあるという事もわかるようになる。
こういう人は、人を殺すななんて事をいちいち理由付けをされなくたって、自殺するなと言われなくたって、自分の前提条件を壊す事になりかねないし、自分に尊厳を与えてくれる人々が悲しむ事も想像出来るので、そういった選択肢はある程度取り除いてしまう事が出来ます。人の命は大切だという事は自明であるわけです。だから人の尊厳も守ろうという動機付けも生まれる。
しかしそういう承認とか尊厳が決定的に不足して育ってしまうと、人を殺さないという事も、自殺をしないという事も自明ではなくなってしまう。前提条件に組み込まれていないままに育ってしまう。誰も承認を与えてくれなければ、自分が大切だとは思えなくなってしまいますし、自分すら大切だと思えなければ他人を大切になんて出来ない。人に承認や尊厳を与える事も出来ないというかそのやり方もわからない。
今の社会は生活世界が空洞化し、ご近所付き合いも無いし、地域性は壊れ、シャッター商店街だらけ、コンビニ、ファミレス、レンタルDVD屋、ファーストフードと、どこもかしこも似たような街並ばかり、日々同調圧力にさらされ、KYなんて言葉が流行ったように、空気を読んで波風を立てないという行動作法に縛られる。ようするに同じであれという事です。個性もクソも無いわけですから、誰でもいいと言われているのと同じです。尊厳も承認も無い。
赤木君のような人々が例えば派遣なんかで働いたりしているわけですが、そこでは派遣であれば誰でもいいといわれているのと同じで、その人が承認されているわけではない。コンビニやファミレスやファーストフードなんかで働けば、マニュアル通りに役割をこなせば誰でも出来る仕事です。つまり誰でもいいと突き付けられる。同じ条件なら入れ替え可能な承認でしかない。それでは尊厳は持てない。
当然、通常のそこそこ収入がある企業に就職出来たとしても、常にこういったプレッシャーはある。同調圧力、条件付きの承認。
親の教育にしても然りです。親が褒めてくれるのは言う事を聞くからであって、もしくは勉強をするからであって、そういう条件付きの承認は誰でもいいと言っているのと同じです。
家族関係であってもそうです。家事をするから承認される主婦、収入がこれこれだから、承認される旦那、子供に媚びるから承認される親、悉く条件付きの承認ばかり、友人関係にしろそうですし、恋人関係だってそうです。収入があるから好き、カッコいいから好き、頭がいいから好き、かわいいから好き、スタイルがいいから好き、センスがいいから好き、SEXが上手いから好き、こういうのも同じ条件であれば誰でもいいと言っているのと同じです。お互いを尊重し合う関係なんてのは、尊重してくれれば誰でもいいと言っているのと同じです。
ようするに承認を得て、まともに育ち上がるような環境も壊れているし、社会に投げ出されても常に承認不足にさらされている。誰でもいいと常に突き付けられる。社会の歯車であれと。だからネットで名前の無い匿名の存在となって、承認を求めて彷徨う。こういう社会によって傷ついた人が精神的な病に冒されてしまったりもする。これが今の社会です。
こういう状況にさらされていれば、尊厳をまともに持てなくなる。人の尊厳も尊重しなくなる。行き着く先は人の命も、自分の命でさえも尊重しない人が出てくる。
こういう社会状況で例えば人を殺してはいけませんと言われて、ハイそうですかと教育出来たとしても、例えば法律によって重罰化で脅かして縛り付ける事が出来たとしても、そのたがが外れれば簡単に人も殺せる社会になってしまいかねないという事です。暴発のスタンバイ状態にある人が増えてくる。
こういう人に説教したり教育して、そっかじゃあ僕は人殺しはしません、という風になったとしてもそれは非常に危険な状態である事には違いはありません。その理由が信用出来なくなれば、人を傷つけない理由が無くなってしまうからです。
戦争の問題もそうです。戦争は恐いし、やるよりはやらない方が少なくとも合理的だと思っていない人が少しずつ増えているという事が問題なのです。我々は戦争はいけない事ですねと、教育したり啓蒙されるからしないのではなくて、自分の前提条件が壊れてしまうのが嫌だからやりたくない、やらない方がいいと思えたわけです。それが消えてしまえばスタンバイ状態にあると言ってもいい。
そしていったんそういう方向に思考が向いてしまって、戦争がダメ?むしろそれが望みなんだよ、という人が出てくれば、戦争否定の理由付けをすればする程、より強固に戦争待望の論理を強化させてしまう事になりかねない。戦争反対の言葉も9条を守れという言葉も届かない。
例えば自殺をしたいと思っている人に、効果があるのは、自殺はよくないとか、死んでも誰も喜ばないとか、生きてりゃいい事があるさとか、そういう死なない方がいいよという説得ですと、益々自殺をしたいという欲望を強化するだけになると言います。それらは全部否定出来るからです。したがって自殺の理由を強化してしまう。
自殺がよくないのなら、自殺が出来ないから人を殺して死刑になればいいとでも言うのか?とか、自殺はよくないと言ったって、人を殺すよりはいいだろう?とか、死んでも喜ばないかもしれないが、どうせ悲しんでくれる人なんて表面だけだよとか、生きてりゃいい事がある?今までいい事も無かったし、どちらかと言えば嫌な事ばかりだった、これからいい事もあるかもしれないが、嫌な事はもっと多いに違いないとか。
こういう人に通じる説得は、お前が死んだら俺悲しい、だからたのむから死なないで。これが一番説得力があると言います。
もちろんそれを言う為にはそれなりの関係でなくては難しい。別にそんな間柄でもないのに、普段は承認なんてしてくれないような人に、死んじゃダメだ、命を大切にして、君が死んだら悲しい的な、ワイドショーのバカコメンテーター的な事を言われても、どうせ建て前だけで言ってるんだろ?となり、余計死にたくなってしまうといいます。口だけじゃ効果がありません。それなりに日頃から承認関係、尊厳を与え合う関係でなくては不可能です。
そういう意味で尊厳と承認をどうにかしないとヤバいわけです。
そして戦前のお話ですが、そういった戦前マインドの教師であればこれは非常に迷惑な話ですし、そう言う奴はムカつきますので、自分だったら多分大嫌いでしょう。おそらく楯突いてぶっ飛ばされるのがオチだと思います。なので絶対に勘弁してほしいと思います。
が、ひとまずその事をわきにおいて書きますので、その人を擁護するとかそういう事じゃありませんから勘違いしないで下さいね。そう言う奴は問題だと思ってますからね。
戦前の教育関係に携わっていた人というのは、積極的ではないにしろ、国民を戦争に送り込んで天皇陛下万歳という教育をしていました。そこではそれが普通ですから。
戦後、多くの教師達がリベラル教育の旗を振って戦前の思想と真逆の事を教えています。戦争経験者の多くはこの時に真逆の方向へとシフトした。
ようは軍国主義優等生がリベラル優等生になっているというだけの話で、リベラルヒエラルキーの中での鍔迫り合いのゲームでポジション取りをしているだけですので、マインドは戦前と一緒です。
問題はこの無前提に軍国主義、もしくはリベラル主義の翼賛体制に媚びるポジションとしての優等生病であって、そう言う奴は戦前も戦後も思想は真逆でも同じ事をしている。
戦前の思想を本当に信念を持って信じているのなら、戦後もそのスタンスを貫くか、出来なければ辞めればいい事です。
どちらもせず戦前思想教育に邁進していたくせに、戦後は戦前に罪を押し付けて、リベラル教育に乗っかっている奴の方が本当は問題です。また戦前のスキームに戻ればおそらく翼賛の旗ふり役を勤める事になるでしょうから。
まわりの環境が真逆になっているのに、まわりから指をさされようがなんだろうが信念を曲げない人も思考停止ですが、レジームを無前提に思考停止的に受け入れ、そのレジームが軍国だろうがリベラルだろうが翼賛する人は信念すら無い思考停止です。
日本では後者が多過ぎます。自分はまだ前者の方がマシだと思います。リベラル思想に信念を持ってるとすれば、本当に軍国主義になった時に抗う事が出来るからです。
勘違いされると困るので書いておきますが、後者である事がダメだと言いたいわけではありません。我々は弱い。だから後者のような立ち位置になってしまいやすい。その事を自覚しておく事が重要な気がします。
思想操作や大衆操作なんていうのは、基本的に今でも普通にあります。判断力は戦前と変わりません。基本的に自由に選択出来る環境であってもそうなのですから、戦前より酷いかもしれない。
今の体制を無前提に信じている人と、戦前國體の護持を叫んでいた人と、どちらが頭がおかしいかと言えば、基本的には変わらないと思います。時代が変わったから頭がおかしく見えるというだけの話でしかない。
前提を疑い、相対化するという事が重要なのではないかと。
戦前が何か特別な状態であったと感じるのは非常に危険な発想です。情報操作や隠蔽体質は基本的に今でも何一つ変わっていません。逆に自由であると錯覚させて搾取、抑圧、収奪する現在の仕組みの方が厄介かもしれない。
戦争というのは確かに異常な状態かもしれませんが、それと隣り合わせに我々はいるという事を自覚しないと、同じ事は繰り返されると思います。
何々が悪いというよりも誰しもがそうなる可能性があるという事が大切なんじゃないかと思います。立ち位置として戦後的なものにコミットするだけでは、結局流されて空気を読んで、丁度いいポジショニングをしてしまう。それでは同じ事を繰り返すだけです。
と、コメント返し欄には書けないので、こちらに書かせていただきました。読んで頂ければ幸いです。短くまとめられない未熟さをお許し下さい。ごめんなさい長くて。
今回もコメント返しになります。通りすがりの主婦様という方に対するものです。
最近ありがたい事に何かとご意見を下さる方で、いろいろな視点でご意見をいただいております。ありがたや。
今回のコメント返しは、基本的に当ブログの読者様にとっては、まあ言うまでもないような話なのですが、最近おつきあいのある方なので、前提話を少し書かないと、自分の文章力では説明出来ません。
なので失礼して、少し書きたいと思います。興味がない方、誠に大変申し訳ございません。続きは次回という事で。
それでは、通りすがりの主婦様、面倒かもしれませんが少しお付き合い下さい。
まず赤木君の論文はリンクになっているのでよろしければ読んでみて下さい。読んで頂けるとより説明しやすくなります。
戦争の善悪の話を彼が言いたいわけではありません。そういった理不尽がある社会は不幸である。これが一般的な考えですが、戦争じゃなくても理不尽なんですけど、どうすれば良いんですか?自己責任ですか?なら戦争したいと思うのも勝手だろと。
そういう事だと思います。
戦争をしたら尊厳があると言っているのではなくて、戦争していないのに、不幸であって尊厳が無いのは変わらない階層にいる人間はどうすりゃいいんだ?という事です。だったら戦争でも起こってみんな不幸になっちまえと。
こういう方に戦争の悲惨さを言っても意味がないと思います。戦争をやらない方がいいという事は、彼もわかっているでしょうし、多分まだ普通の感覚として多くの人が持っていると思いますので、そういう事をこういう人に言っても効果がないような気がします。そんな事を言っても、火に油を注ぐようなもんで、お前がそう思うだけだろ、俺はそうは思いません以上。これで終わっちゃう。
自分勝手な奴と切って捨てるのは簡単ですが、こういった言説にシンパシーを感じる人は増えているので、その理不尽を生み出す構造の問題を手当て出来なければ、どんどん増えていきそのうちどうにもならなくなってしまいます。そうしたら手の打ちようが無い。歴史は繰り返してしまう。
戦争をしてはいけないという理由付けをするのもハッキリ言って危険です。戦争をしてはいけない理由を教育されているからしないという状態は、その理由が何らかの条件によってキャンセルされてしまえば簡単に戦争出来てしまうからです。
戦争はやらない方がいいよな。という感覚を共有出来ない人が出て来てしまっているという状態になっている事が問題であって、その人を教育して理由を教えて、ああそうか戦争はしない方がいいんですねってなるのだとしても、ある意味それは異常事態です。
例えば人を殺すべからず、という前提がありますよね。我々は成長の過程で、家族や友人、地域の人々、近所の大人達、そして教師との間等々のコミュニケーションの様々な場面で、承認され尊厳を感じ、そして承認を与え、尊厳を与え、そういう関係性を結ぶ事によって一人前の人間として育ち上がります。
もちろん時には尊厳を与えてもらえず、承認されなかったり、尊厳を認めず承認しなかったりというのはありますが、そういうコミュニケーションの失敗と成功を重ね、承認や尊厳を得る為に必要な作法を学ぶ事になる。学びになれば尊厳や承認を更に獲得出来るようになる。もちろん教育や親の躾けなどを通して学ぶ事もあるでしょう。
そういう尊厳や承認を得て大人になっている人間は、自分が自分である為に必要な条件にそういった様々なコミュニケーションが組み込まれています。尊厳を過不足無く持って成長出来れば、自分の前提条件であるそのものを壊すという事は中々出来ません。そして自分にとってかけがえのないその前提条件が他人にもそれぞれあるという事もわかるようになる。
こういう人は、人を殺すななんて事をいちいち理由付けをされなくたって、自殺するなと言われなくたって、自分の前提条件を壊す事になりかねないし、自分に尊厳を与えてくれる人々が悲しむ事も想像出来るので、そういった選択肢はある程度取り除いてしまう事が出来ます。人の命は大切だという事は自明であるわけです。だから人の尊厳も守ろうという動機付けも生まれる。
しかしそういう承認とか尊厳が決定的に不足して育ってしまうと、人を殺さないという事も、自殺をしないという事も自明ではなくなってしまう。前提条件に組み込まれていないままに育ってしまう。誰も承認を与えてくれなければ、自分が大切だとは思えなくなってしまいますし、自分すら大切だと思えなければ他人を大切になんて出来ない。人に承認や尊厳を与える事も出来ないというかそのやり方もわからない。
今の社会は生活世界が空洞化し、ご近所付き合いも無いし、地域性は壊れ、シャッター商店街だらけ、コンビニ、ファミレス、レンタルDVD屋、ファーストフードと、どこもかしこも似たような街並ばかり、日々同調圧力にさらされ、KYなんて言葉が流行ったように、空気を読んで波風を立てないという行動作法に縛られる。ようするに同じであれという事です。個性もクソも無いわけですから、誰でもいいと言われているのと同じです。尊厳も承認も無い。
赤木君のような人々が例えば派遣なんかで働いたりしているわけですが、そこでは派遣であれば誰でもいいといわれているのと同じで、その人が承認されているわけではない。コンビニやファミレスやファーストフードなんかで働けば、マニュアル通りに役割をこなせば誰でも出来る仕事です。つまり誰でもいいと突き付けられる。同じ条件なら入れ替え可能な承認でしかない。それでは尊厳は持てない。
当然、通常のそこそこ収入がある企業に就職出来たとしても、常にこういったプレッシャーはある。同調圧力、条件付きの承認。
親の教育にしても然りです。親が褒めてくれるのは言う事を聞くからであって、もしくは勉強をするからであって、そういう条件付きの承認は誰でもいいと言っているのと同じです。
家族関係であってもそうです。家事をするから承認される主婦、収入がこれこれだから、承認される旦那、子供に媚びるから承認される親、悉く条件付きの承認ばかり、友人関係にしろそうですし、恋人関係だってそうです。収入があるから好き、カッコいいから好き、頭がいいから好き、かわいいから好き、スタイルがいいから好き、センスがいいから好き、SEXが上手いから好き、こういうのも同じ条件であれば誰でもいいと言っているのと同じです。お互いを尊重し合う関係なんてのは、尊重してくれれば誰でもいいと言っているのと同じです。
ようするに承認を得て、まともに育ち上がるような環境も壊れているし、社会に投げ出されても常に承認不足にさらされている。誰でもいいと常に突き付けられる。社会の歯車であれと。だからネットで名前の無い匿名の存在となって、承認を求めて彷徨う。こういう社会によって傷ついた人が精神的な病に冒されてしまったりもする。これが今の社会です。
こういう状況にさらされていれば、尊厳をまともに持てなくなる。人の尊厳も尊重しなくなる。行き着く先は人の命も、自分の命でさえも尊重しない人が出てくる。
こういう社会状況で例えば人を殺してはいけませんと言われて、ハイそうですかと教育出来たとしても、例えば法律によって重罰化で脅かして縛り付ける事が出来たとしても、そのたがが外れれば簡単に人も殺せる社会になってしまいかねないという事です。暴発のスタンバイ状態にある人が増えてくる。
こういう人に説教したり教育して、そっかじゃあ僕は人殺しはしません、という風になったとしてもそれは非常に危険な状態である事には違いはありません。その理由が信用出来なくなれば、人を傷つけない理由が無くなってしまうからです。
戦争の問題もそうです。戦争は恐いし、やるよりはやらない方が少なくとも合理的だと思っていない人が少しずつ増えているという事が問題なのです。我々は戦争はいけない事ですねと、教育したり啓蒙されるからしないのではなくて、自分の前提条件が壊れてしまうのが嫌だからやりたくない、やらない方がいいと思えたわけです。それが消えてしまえばスタンバイ状態にあると言ってもいい。
そしていったんそういう方向に思考が向いてしまって、戦争がダメ?むしろそれが望みなんだよ、という人が出てくれば、戦争否定の理由付けをすればする程、より強固に戦争待望の論理を強化させてしまう事になりかねない。戦争反対の言葉も9条を守れという言葉も届かない。
例えば自殺をしたいと思っている人に、効果があるのは、自殺はよくないとか、死んでも誰も喜ばないとか、生きてりゃいい事があるさとか、そういう死なない方がいいよという説得ですと、益々自殺をしたいという欲望を強化するだけになると言います。それらは全部否定出来るからです。したがって自殺の理由を強化してしまう。
自殺がよくないのなら、自殺が出来ないから人を殺して死刑になればいいとでも言うのか?とか、自殺はよくないと言ったって、人を殺すよりはいいだろう?とか、死んでも喜ばないかもしれないが、どうせ悲しんでくれる人なんて表面だけだよとか、生きてりゃいい事がある?今までいい事も無かったし、どちらかと言えば嫌な事ばかりだった、これからいい事もあるかもしれないが、嫌な事はもっと多いに違いないとか。
こういう人に通じる説得は、お前が死んだら俺悲しい、だからたのむから死なないで。これが一番説得力があると言います。
もちろんそれを言う為にはそれなりの関係でなくては難しい。別にそんな間柄でもないのに、普段は承認なんてしてくれないような人に、死んじゃダメだ、命を大切にして、君が死んだら悲しい的な、ワイドショーのバカコメンテーター的な事を言われても、どうせ建て前だけで言ってるんだろ?となり、余計死にたくなってしまうといいます。口だけじゃ効果がありません。それなりに日頃から承認関係、尊厳を与え合う関係でなくては不可能です。
そういう意味で尊厳と承認をどうにかしないとヤバいわけです。
そして戦前のお話ですが、そういった戦前マインドの教師であればこれは非常に迷惑な話ですし、そう言う奴はムカつきますので、自分だったら多分大嫌いでしょう。おそらく楯突いてぶっ飛ばされるのがオチだと思います。なので絶対に勘弁してほしいと思います。
が、ひとまずその事をわきにおいて書きますので、その人を擁護するとかそういう事じゃありませんから勘違いしないで下さいね。そう言う奴は問題だと思ってますからね。
戦前の教育関係に携わっていた人というのは、積極的ではないにしろ、国民を戦争に送り込んで天皇陛下万歳という教育をしていました。そこではそれが普通ですから。
戦後、多くの教師達がリベラル教育の旗を振って戦前の思想と真逆の事を教えています。戦争経験者の多くはこの時に真逆の方向へとシフトした。
ようは軍国主義優等生がリベラル優等生になっているというだけの話で、リベラルヒエラルキーの中での鍔迫り合いのゲームでポジション取りをしているだけですので、マインドは戦前と一緒です。
問題はこの無前提に軍国主義、もしくはリベラル主義の翼賛体制に媚びるポジションとしての優等生病であって、そう言う奴は戦前も戦後も思想は真逆でも同じ事をしている。
戦前の思想を本当に信念を持って信じているのなら、戦後もそのスタンスを貫くか、出来なければ辞めればいい事です。
どちらもせず戦前思想教育に邁進していたくせに、戦後は戦前に罪を押し付けて、リベラル教育に乗っかっている奴の方が本当は問題です。また戦前のスキームに戻ればおそらく翼賛の旗ふり役を勤める事になるでしょうから。
まわりの環境が真逆になっているのに、まわりから指をさされようがなんだろうが信念を曲げない人も思考停止ですが、レジームを無前提に思考停止的に受け入れ、そのレジームが軍国だろうがリベラルだろうが翼賛する人は信念すら無い思考停止です。
日本では後者が多過ぎます。自分はまだ前者の方がマシだと思います。リベラル思想に信念を持ってるとすれば、本当に軍国主義になった時に抗う事が出来るからです。
勘違いされると困るので書いておきますが、後者である事がダメだと言いたいわけではありません。我々は弱い。だから後者のような立ち位置になってしまいやすい。その事を自覚しておく事が重要な気がします。
思想操作や大衆操作なんていうのは、基本的に今でも普通にあります。判断力は戦前と変わりません。基本的に自由に選択出来る環境であってもそうなのですから、戦前より酷いかもしれない。
今の体制を無前提に信じている人と、戦前國體の護持を叫んでいた人と、どちらが頭がおかしいかと言えば、基本的には変わらないと思います。時代が変わったから頭がおかしく見えるというだけの話でしかない。
前提を疑い、相対化するという事が重要なのではないかと。
戦前が何か特別な状態であったと感じるのは非常に危険な発想です。情報操作や隠蔽体質は基本的に今でも何一つ変わっていません。逆に自由であると錯覚させて搾取、抑圧、収奪する現在の仕組みの方が厄介かもしれない。
戦争というのは確かに異常な状態かもしれませんが、それと隣り合わせに我々はいるという事を自覚しないと、同じ事は繰り返されると思います。
何々が悪いというよりも誰しもがそうなる可能性があるという事が大切なんじゃないかと思います。立ち位置として戦後的なものにコミットするだけでは、結局流されて空気を読んで、丁度いいポジショニングをしてしまう。それでは同じ事を繰り返すだけです。
と、コメント返し欄には書けないので、こちらに書かせていただきました。読んで頂ければ幸いです。短くまとめられない未熟さをお許し下さい。ごめんなさい長くて。