前回の続きです。
例えば朝生的両翼にそれぞれの論陣を並べて二元論的アホ議論を繰り返すバラエティがあります。こういう番組で必ずあるパターンというのは、レベルの低いリベラル派が徹底的に朝生であれば田原まで加担して面白おかしくボロクソに論破され、バカ扱いを受け、挙げ句の果てに感情論を喚き散らして自滅するというパターン、彼らを攻撃する保守派とか、新自由主義派なんかが、ニヤニヤ薄笑いを浮かべてしょうがねえな、バカは相手にしてられないぜ的な扱いを受ける。
これはリベラル派の論陣を張る人間をわざと保守系のレベルの低さにあわせて呼んでいるのかどうかは知りませんが、そういう扱いを受ける事が、ある程度世間的にウケてしまうという背景があるわけです。そういう連中をバカ扱いして盛り上がるコミュニケーションがある。そのネタにされてしまっている。金の為に何でもやるという感じなのかもしれませんが、いくら何でもあんまりです。
そういう所に出るのだったら徹底的に論破するくらいの知のストックがリベラル思想の中にはあるはずなのに、そういうものを持っていないのか、ネタでやってんのか知りませんが、バカリベラルが増えている。実践のコミットメントも無い。かと言って議論の場でもボロクソに打ち負かされる。行動力も無くて頭も悪かったら知識人や政治家としては終わっています。信用もされない。
そしてせっかく朝生が例にでたのでそのまま例え話を続けますが、こういう紋切り型の二元論的番組というのはすでに現代の問題を切れない矛盾を抱えています。所謂、朝生のテーブルが長い問題。こちら側に若手、あちら側に老人、こちら側に右、あちら側に左、護憲派、改憲派と言ったような恣意的な対立軸の設定。
元々扱われている問題はそういう対立軸で話すべきかどうかも議論の必要があるにも関わらず、恣意的な設定で予定調和的な議論、バカらしいという感受性は多くの人が持っている。ヤラセっぽく感じている。どうせガス抜き効果にしかならないし、実体の社会には何の影響力も無い、知識人や政治家達のマスターベーション大会にしか見えない。
実際の今の社会は二元論的単純な図式では切れなくなっている。白か黒かでは切れない。昔の弱者救済の図式も機能していないし、疎外と言ったって、疎外だらけで、全員が納得いくような方向性は難しくなっている。
例えば何か社会問題を取り上げて、その背後には複雑なメカニズムがあると言うと、言い回しは分析者のように見えても、明らかに政治的なコミュニケーションの一種であって、そういう分析になるのはその人があるポジションに立っているからそう見えているわけで、別のポジションに立てば全く違う分析があり得る。
若者の疎外の問題を取り上げれば、若者ではない人からすると、偏っているように感じるかもしれないし、老人の問題を取り上げれば老人ではない人からは共感を得られない可能性がある。同じ若者でも同じ老人でも、境遇が違えば全く違う風に現実を見ている可能性があり得るわけで、共感可能性は低くなっている。
多元的な時代、昔のような強者弱者の図式で切れない時代には、複雑な分析図式が必要な時代であると同時に、分析図式がどこに立つかどこから見るかによって複数有り得て、立ち位置が違うと分析が全部違ってくる可能性が高い。右傾化しているという人もいるし、むしろ正常化しているという人もいる。医者が足りないという人もいるし、ちょっと前まではそんな事はない医者は減っていないという人もいた。
客観的なデータを使ったりして、なるべく客観性を持たせようとしても、超越的な視点から全体を評価するようなやり方は通じない。統計的な、また科学的なデータを基にしても、それはあくまで対象の輪郭を明らかにする手順ではあるけれど、明らかになった輪郭を世界の中で再評価して、つまりこういう事だという時には、明らかに主観性が入らざるを得ない。
したがって主観性の争いにしかなり得ない。ある種の世界観や世界感覚をめぐっての政治的な闘争になる。そうなると結局どのような立ち位置を取ったとしても、お前がそう思っているだけだろ、俺はそう思わねえんだよ。はい終わり。これで話が終わっちゃう。
それにその答えのなさというか、単純には物事が行かない厄介さを知ると、結局どうしろっつうんだよ!という風に混乱してしまう。混乱やアノミーだと考えないで、それが世界なのだと感じられるかどうかがリテラシーの問題なのですが、そういう教育も啓蒙もないので、もっとスッキリ納得したいぜと思ってしまう。そうすると紋切り型の物言いしか出来なくなってしまうというジレンマが出てくる。しかしそれでは問題の本質を切れない。
もちろんその事はリベラル派に全部責任があるわけではありませんし、こういう社会になってしまった原因がリベラルだけにあるわけでは当然ありません。リベラル派でも尊敬に値するタフな議論をされている方々も沢山います。
しかし紋切り型のリベラル派一般を見ていますと、明らかにレジーム的にも左派の戦略は実効性を欠いていたといえるし、社会の様々な問題にコミットするにしても、単純な強者弱者の図式や疎外の図式では切れない社会になってしまっているのに、思考停止的に立ち位置を維持する為にきれい事を吐いてしまう。もうそれでは完璧にズレているわけです。
感情的なスッキリ感をそれで得たいと考えている人達というのもいますから、そういう需要があるのはわかりますが、これは国家を拠り所にして威張り散らす、精神論的万歳突撃と変わりませんから、実効性は皆無と言っていい。
単純な図式で切る事の不可能性の問題はわかっていてもよさそうなもんですが、国民の無知に便乗してしらばっくれているのだとすれば、それは非常に危険な状態を放置している事になりますし、啓蒙しなきゃどうしようもない話で、わかっていないのだとすれば、適性を欠いていると言える。
そういうリテラシーの能力、文脈から参照して割り引いて聞く能力というのがこの国では決定的に欠けています。それはもちろん教育に問題があるのは間違いありません。それは道徳教育が必要とかそんな単純な話ではなくて、答えが無い問題の方が世の中には多いという事をせめて教育する必要がある。何でもかんでも答えを求めすぎる。
アドホックな納得解しかえられない事の方がこの世には多く、したがってこれこそは正解というのを大上段に掲げる事の難しさを知る必要がある。にもかかわらず、単純化の方へどんどん進み、これはそもそも戦後の国策でもあったのですが、そこにリベラルだって乗っかっている。まあリベラルだけではありませんね。国民がバカであってくれた方が楽だという事なのでしょう。
そもそも知識人が啓蒙するという事そのものも微妙に背理を含んでいます。彼らが知識人であるのは、一般人が無知であるからに他ならず、啓蒙して賢くなっちゃったら、存在意義が無くなる。一般人からすると次元が違うようなスペシャリストであれば、気にする程の話ではないに決まっています。啓蒙したくらいでブリリアントなスペシャリストに追いつくなど不可能です。
しかしそんなにたいした事のないスペシャリストもどきというのも結構いるように見えます。知識人にもいるでしょうし、政治家なんかはそっちの方が多いのではないかとさえ思うくらいです。厄介なのはそういう人もブリリアントなスペシャリストと同じく発言の機会があるという事です。むしろ多いかもしれない。ヘタすると人気でいうとそういう人の方が上だったりもする。もしかすると原因はそういう所にあるのかもしれません。
赤木君のような若者に対するまなざしも、全面的に擁護するわけにはもちろん行かない。彼のような若者を批判したい人の言いたい事もわかる。仕事が大変だと言ったって、そんな事は仕事している人であればみんなそうであろうと思いますし、希望がなくてなんでこんな事やんなきゃなんないの?という疑問は、とくに今の時代多かれ少なかれ仕事をすれば感じる事でもある、毎日15時間とか20時間以上働いて、月に一回も休みがないとか、そういう状態ってわけでもなさそうですし、もっと過酷な環境なんていくらでもある。
後悔のない人生を送っている人間なんてそんなに沢山いるわけではないし、生きてりゃ何かいい事あるかもしれないけれど、死んじまったらハイそれまでなわけですから、リベラルの連中の言う事ももっともです。生きるまで生きて、死ぬその時はいずれ来るのだから出来る事をやればいいじゃないかという気もする。自分だって本音で言えば甘えてんじゃねえよと言う気持ちがどこかにある。
しかし彼を批判するのは簡単ですが、多分伝わらない。彼もそんな事は百も承知なんだよと言うかもしれませんが、この伝わらなさというのがちょっと質が変わってしまっている。
人は他人から何かを言われただけではそう簡単に何かを理解する事は出来ない。経験しないと難しい。そんな悩むような話じゃねえよと言ったって、親や教師の言っている事だってそう簡単に子供には伝わらないのだから、その言っている人を信用出来なければ難しい。経験してぬか喜びと後悔を重ねて初めて理解出来る事もある。
ガキの頃、チャリンコはあぶねえと大人に言われて、もっと安全な運転をしやがれと怒られても、うるせえよ、大丈夫なんだよ、車があぶねえんだよ、とか思ってしまったりする。しかし時が来て車の免許を取得して公道に出れば、このチャリンコ野郎、あぶねえんだよ!!と簡単になる。
大人に仕事は大変だ、甘いもんじゃない、学生の方が楽なんだ、というような事を、いろんな場面でウルサく言われても、バカ言ってんじゃねえよ、学校だって大変なんだよ、宿題は面倒くせえし、勉強は厄介だし、教師はうるせえし、子供は子供で大変なんだよと思ってしまう。しかし社会に出ればあっという間に、学校って楽だったのね。ああ学生時代に戻りてえとなる。
これは未経験な人間に対して何かを伝える事の困難さの話であると同時に、チャリンコ野郎、あぶねえんだよ!!とか、学生時代に戻りてえぜとか、そういう風に成長と言うか変化してしまった人間は、その前に抱いていた切実さを忘れてしまうという特徴がある。変化した後が真実なのかと言えば、それは大人から見てそう見えるという事でしかないわけで、自分は大人ですからもちろんそこに真実がありそうな気もしますし、ちゃんと勉強しろとか、学校行けとか、チャリンコは危ないよとか言ってしまったりもするわけですが、同時に伝わらねえだろうなという風にも思う。
結局そういう風に言ってしまうと、子供が切実に感じている真実からすればズレているわけで、いくら俺が正しいと思っても無力である事には変わりはない。それを言って納得させるにはそれなりに信頼関係がないと難しい。子供が言う事を聞かないというのは信頼されていないという所がある。信頼が無いと人に言葉は伝わらない。同じ事を言われても、信頼している人から言われるのと、信頼のない人から言われるのでは効果は全く違う。
これは組織の内と外という切り分け方にも見られます。外から見ると、どう考えても合理性がないように見えても、内部に入れば、そんな事言ってられないんだよ、という風になってしまう。散々外から政治家を批判していたのに、いざ政治家になってしまうと、政治家としてしか、結局は思考出来なくなってしまい、アイツズレてるなと外から見ると見えてしまう。まあ政治家になれば政治家として、大人になれば大人として思考するのは当たり前なのですが、何となく裏切られた感を持ってしまう。
大人の言い分や組織の内部の言い分、もしくはその逆の言い分いずれかが仮に普遍的な正しさを持っているとしても、中々その壁というのを取り除いて理解し合うというのが難しくなってしまう。しょうがないから媚びましょうという風になる。
子供に媚びて、いい大人を演じていてもそれが子供のためになるのかといえば必ずしもそうとは言えませんし、親のいう事を嫌々聞いて、自殺しちゃったりはけ口に虐めに加担したりというのも厄介。そんな子じゃなかったってパターンです。
政治家が必要以上に国民に媚びて政策を誤るようなポピュリズムは問題外ですし、政治家のケツを舐めて国家と一体になってもそれが善い事だとは到底思えない。
媚びるのもマズいけれど、言う事を全然聞かずにやりたい放題というのもこれまたマズい、じゃあどっちなんだよとどっち付かずだと、何もやらない、無策だ、とかってなっちゃうし、どっちにもいい顔していると、どっち付かずだとどちらからも梯子を外される。
統治権力に政策を実行させようと思えば、例えばロビイングをしたりするわけですが、そうすると権力に擦り寄っているみたいな批判も出てくるし、反権力で批判ばかりしていると、役立たずと言われてしまう。非常に難しい社会になっている。サブスタンシャルであるかどうかがあまり問題にされない。
これもやっぱり最終的には信頼出来るかどうかにかかっている。アイツは内部の人間になっちゃったけれど、あいつに任せておけば大丈夫なはずだと思えるかどうか。
もちろん信用があればある程、あの野郎裏切りやがったなという風になってしまいますので、そういう経験があると、余計信頼する事に懲りて、どうせアイツもそうなんだろという風になってしまいがちです。これは結構蔓延している感覚かもしれません。どうせ信用出来ないという風になってしまっている。なので、ちょっとなんかがあると、ほうらやっぱり、どうせそんな事だと思っていたぜ、となってしまう。
今の麻生なんかは批判真っ盛りですが、多分あのおたんこなすが辞めて誰かに変わっても、どうせ同じ事の繰り返しになるでしょうし、そもそもみんなそう諦めている所もあるので、期待もしていない。仮に政権交代したからといっても、すぐにどうにかなるような甘っちょろい構造ではもはやないですし、全員が納得いくような方向性に舵を切るなんて事は出来るわけない。そんな能力もあるわけないので、必ず納得いかない人が文句を言い始める。
小泉だって支持率8割という驚異的な人気があったにもかかわらず、それがあっという間に地に落ちて、いまでは諸悪の根源みたいな感じになっちゃっている。みんなで支持していたくせに。
そうすると納得いかない人の声を何とかしろ!というのと、納得いかないって?それじゃあどうしろっつうんだよ、いい加減にしろ、お前らの自己責任なんだよ!みたいな感じで分裂しちゃう。
内と外という切り分けや、大人と子供という切り分けは常に無くならないので、こっち側から向こう側に行ってしまうと、もう向こう側の人間になってしまって、こっち側から見ると信頼出来ないという感覚が出て来てしまいやすい。向こう側に行っちゃった人はこっちの理屈を忘れてしまったかのように見えるので、あの野郎!という風になってしまう。そうすると、もうどうせダメに決まっているという感覚に支配されてしまう。
逆に向こう側に行った人からすれば、元こっち側の人間であれば(大人と子供であれば子供だった事の無い大人はいませんし)、それなりに自分はわかっていると思っているので、わかっていると思っている感覚と、そう簡単な話じゃなかったなこりゃという感覚に戸惑いながら最適化していると、いつの間にやら不満タラタラのこっち側の人達の様子や投げかけられる言葉の数々に、お前らこっちにはこっち(大人には大人の)の都合があんだよ、知りもしねえでゴチャゴチャ言ってんじゃねえよ、という風になってしまう。そうすると、わかってない奴らに説明しても無駄だとなってしまう。
戦争は悲惨だという言い方も、戦争を体験した人からすればトラウマになっているわけで、それを相対化なんてとてもじゃないが出来ないようなもの凄い経験なわけです。恐らくは。自分は戦後生まれですから、もちろん未経験者ですが、そういう人達が相対化なんてするわけには行かない絶対何が何でも9条を守れという風になるのは何となくですが理解出来ます。想像を超えるようなおぞましい出来事に違いありませんから。
しかしそれを経験した事のない人には、簡単には伝わらない。未経験者がどんなに想像したとしても、それは現実からすれば甘っちょろい話でしかないかもしれない。過去の悲劇を情緒的に伝えて、それを見る方は涙を流しても、結局回りに不安があると思えば、物語の世界と現実の問題は別だと思ってしまう。
戦争がいけない事だというのはわかるけどさ(本当の意味ではわかっていない)、悲惨だって言うのはわかるけどさ、北朝鮮や中国は恐いし、治安に対しても不安があるし、何とかしろよ国家権力!という風になってしまう。
平和と言ってもアメリカに依存してアメリカが戦争していたりするわけで、北朝鮮が核を持っていたり、中国が領海侵犯をしていたり、韓国人が日本の国旗を燃やしていたりするのを見ていれば、みんなが平和であってほしいと思っているに決まっているだろ、という前提が疑わしく感じてしまっている。
戦争は恐ろしいのだという経験者の言い方というのは結局経験しないと本当の意味ではわからない。しかし経験したら地獄であるわけで、経験者が何が何でも絶対に阻止というのはわかる。でもこれは絶対完璧には伝わらないわけだから、そんな事言ったって不安なんだよという、未経験者の現実認識を説得するのは簡単じゃない。
経験者の人口が減ってくれば尚更です。戦争をするぞという風にはならなくとも、別にアメリカ軍に守って貰えばいいじゃん、中東の戦争?問題なのはわかるけど、中国や北朝鮮がおっかないからしょうがないだろとなってしまう。理想はわかるけれど、今俺たちが安全に暮らす事に勝る価値観はないぜ、という風になるのを説得するのは簡単な事ではありません。
だからこれも別の戦略を考えないと、経験者がいなくなって、殆どが未経験者になれば、戦争がダメなのはわかるけれど、そうは言っても・・・・となってしまう。
このこっち側と向こう側のわかり合えなさというものに対して、この国はみんな一緒という何となくの共通前提がどこかにあって、それがこういう問題に直面すると、こんなにお前の為を思って言っているのに!とか、誰も俺の事なんてわかってくれない!とか、感情のぶつかり合いというか、怒鳴り合いみたいな感じに陥ってしまうという帰結を引き起こしたりするわけなんですが、単にわかり合えない困難さという言い方では済まない構造変化が起こっている。
つづく!!
例えば朝生的両翼にそれぞれの論陣を並べて二元論的アホ議論を繰り返すバラエティがあります。こういう番組で必ずあるパターンというのは、レベルの低いリベラル派が徹底的に朝生であれば田原まで加担して面白おかしくボロクソに論破され、バカ扱いを受け、挙げ句の果てに感情論を喚き散らして自滅するというパターン、彼らを攻撃する保守派とか、新自由主義派なんかが、ニヤニヤ薄笑いを浮かべてしょうがねえな、バカは相手にしてられないぜ的な扱いを受ける。
これはリベラル派の論陣を張る人間をわざと保守系のレベルの低さにあわせて呼んでいるのかどうかは知りませんが、そういう扱いを受ける事が、ある程度世間的にウケてしまうという背景があるわけです。そういう連中をバカ扱いして盛り上がるコミュニケーションがある。そのネタにされてしまっている。金の為に何でもやるという感じなのかもしれませんが、いくら何でもあんまりです。
そういう所に出るのだったら徹底的に論破するくらいの知のストックがリベラル思想の中にはあるはずなのに、そういうものを持っていないのか、ネタでやってんのか知りませんが、バカリベラルが増えている。実践のコミットメントも無い。かと言って議論の場でもボロクソに打ち負かされる。行動力も無くて頭も悪かったら知識人や政治家としては終わっています。信用もされない。
そしてせっかく朝生が例にでたのでそのまま例え話を続けますが、こういう紋切り型の二元論的番組というのはすでに現代の問題を切れない矛盾を抱えています。所謂、朝生のテーブルが長い問題。こちら側に若手、あちら側に老人、こちら側に右、あちら側に左、護憲派、改憲派と言ったような恣意的な対立軸の設定。
元々扱われている問題はそういう対立軸で話すべきかどうかも議論の必要があるにも関わらず、恣意的な設定で予定調和的な議論、バカらしいという感受性は多くの人が持っている。ヤラセっぽく感じている。どうせガス抜き効果にしかならないし、実体の社会には何の影響力も無い、知識人や政治家達のマスターベーション大会にしか見えない。
実際の今の社会は二元論的単純な図式では切れなくなっている。白か黒かでは切れない。昔の弱者救済の図式も機能していないし、疎外と言ったって、疎外だらけで、全員が納得いくような方向性は難しくなっている。
例えば何か社会問題を取り上げて、その背後には複雑なメカニズムがあると言うと、言い回しは分析者のように見えても、明らかに政治的なコミュニケーションの一種であって、そういう分析になるのはその人があるポジションに立っているからそう見えているわけで、別のポジションに立てば全く違う分析があり得る。
若者の疎外の問題を取り上げれば、若者ではない人からすると、偏っているように感じるかもしれないし、老人の問題を取り上げれば老人ではない人からは共感を得られない可能性がある。同じ若者でも同じ老人でも、境遇が違えば全く違う風に現実を見ている可能性があり得るわけで、共感可能性は低くなっている。
多元的な時代、昔のような強者弱者の図式で切れない時代には、複雑な分析図式が必要な時代であると同時に、分析図式がどこに立つかどこから見るかによって複数有り得て、立ち位置が違うと分析が全部違ってくる可能性が高い。右傾化しているという人もいるし、むしろ正常化しているという人もいる。医者が足りないという人もいるし、ちょっと前まではそんな事はない医者は減っていないという人もいた。
客観的なデータを使ったりして、なるべく客観性を持たせようとしても、超越的な視点から全体を評価するようなやり方は通じない。統計的な、また科学的なデータを基にしても、それはあくまで対象の輪郭を明らかにする手順ではあるけれど、明らかになった輪郭を世界の中で再評価して、つまりこういう事だという時には、明らかに主観性が入らざるを得ない。
したがって主観性の争いにしかなり得ない。ある種の世界観や世界感覚をめぐっての政治的な闘争になる。そうなると結局どのような立ち位置を取ったとしても、お前がそう思っているだけだろ、俺はそう思わねえんだよ。はい終わり。これで話が終わっちゃう。
それにその答えのなさというか、単純には物事が行かない厄介さを知ると、結局どうしろっつうんだよ!という風に混乱してしまう。混乱やアノミーだと考えないで、それが世界なのだと感じられるかどうかがリテラシーの問題なのですが、そういう教育も啓蒙もないので、もっとスッキリ納得したいぜと思ってしまう。そうすると紋切り型の物言いしか出来なくなってしまうというジレンマが出てくる。しかしそれでは問題の本質を切れない。
もちろんその事はリベラル派に全部責任があるわけではありませんし、こういう社会になってしまった原因がリベラルだけにあるわけでは当然ありません。リベラル派でも尊敬に値するタフな議論をされている方々も沢山います。
しかし紋切り型のリベラル派一般を見ていますと、明らかにレジーム的にも左派の戦略は実効性を欠いていたといえるし、社会の様々な問題にコミットするにしても、単純な強者弱者の図式や疎外の図式では切れない社会になってしまっているのに、思考停止的に立ち位置を維持する為にきれい事を吐いてしまう。もうそれでは完璧にズレているわけです。
感情的なスッキリ感をそれで得たいと考えている人達というのもいますから、そういう需要があるのはわかりますが、これは国家を拠り所にして威張り散らす、精神論的万歳突撃と変わりませんから、実効性は皆無と言っていい。
単純な図式で切る事の不可能性の問題はわかっていてもよさそうなもんですが、国民の無知に便乗してしらばっくれているのだとすれば、それは非常に危険な状態を放置している事になりますし、啓蒙しなきゃどうしようもない話で、わかっていないのだとすれば、適性を欠いていると言える。
そういうリテラシーの能力、文脈から参照して割り引いて聞く能力というのがこの国では決定的に欠けています。それはもちろん教育に問題があるのは間違いありません。それは道徳教育が必要とかそんな単純な話ではなくて、答えが無い問題の方が世の中には多いという事をせめて教育する必要がある。何でもかんでも答えを求めすぎる。
アドホックな納得解しかえられない事の方がこの世には多く、したがってこれこそは正解というのを大上段に掲げる事の難しさを知る必要がある。にもかかわらず、単純化の方へどんどん進み、これはそもそも戦後の国策でもあったのですが、そこにリベラルだって乗っかっている。まあリベラルだけではありませんね。国民がバカであってくれた方が楽だという事なのでしょう。
そもそも知識人が啓蒙するという事そのものも微妙に背理を含んでいます。彼らが知識人であるのは、一般人が無知であるからに他ならず、啓蒙して賢くなっちゃったら、存在意義が無くなる。一般人からすると次元が違うようなスペシャリストであれば、気にする程の話ではないに決まっています。啓蒙したくらいでブリリアントなスペシャリストに追いつくなど不可能です。
しかしそんなにたいした事のないスペシャリストもどきというのも結構いるように見えます。知識人にもいるでしょうし、政治家なんかはそっちの方が多いのではないかとさえ思うくらいです。厄介なのはそういう人もブリリアントなスペシャリストと同じく発言の機会があるという事です。むしろ多いかもしれない。ヘタすると人気でいうとそういう人の方が上だったりもする。もしかすると原因はそういう所にあるのかもしれません。
赤木君のような若者に対するまなざしも、全面的に擁護するわけにはもちろん行かない。彼のような若者を批判したい人の言いたい事もわかる。仕事が大変だと言ったって、そんな事は仕事している人であればみんなそうであろうと思いますし、希望がなくてなんでこんな事やんなきゃなんないの?という疑問は、とくに今の時代多かれ少なかれ仕事をすれば感じる事でもある、毎日15時間とか20時間以上働いて、月に一回も休みがないとか、そういう状態ってわけでもなさそうですし、もっと過酷な環境なんていくらでもある。
後悔のない人生を送っている人間なんてそんなに沢山いるわけではないし、生きてりゃ何かいい事あるかもしれないけれど、死んじまったらハイそれまでなわけですから、リベラルの連中の言う事ももっともです。生きるまで生きて、死ぬその時はいずれ来るのだから出来る事をやればいいじゃないかという気もする。自分だって本音で言えば甘えてんじゃねえよと言う気持ちがどこかにある。
しかし彼を批判するのは簡単ですが、多分伝わらない。彼もそんな事は百も承知なんだよと言うかもしれませんが、この伝わらなさというのがちょっと質が変わってしまっている。
人は他人から何かを言われただけではそう簡単に何かを理解する事は出来ない。経験しないと難しい。そんな悩むような話じゃねえよと言ったって、親や教師の言っている事だってそう簡単に子供には伝わらないのだから、その言っている人を信用出来なければ難しい。経験してぬか喜びと後悔を重ねて初めて理解出来る事もある。
ガキの頃、チャリンコはあぶねえと大人に言われて、もっと安全な運転をしやがれと怒られても、うるせえよ、大丈夫なんだよ、車があぶねえんだよ、とか思ってしまったりする。しかし時が来て車の免許を取得して公道に出れば、このチャリンコ野郎、あぶねえんだよ!!と簡単になる。
大人に仕事は大変だ、甘いもんじゃない、学生の方が楽なんだ、というような事を、いろんな場面でウルサく言われても、バカ言ってんじゃねえよ、学校だって大変なんだよ、宿題は面倒くせえし、勉強は厄介だし、教師はうるせえし、子供は子供で大変なんだよと思ってしまう。しかし社会に出ればあっという間に、学校って楽だったのね。ああ学生時代に戻りてえとなる。
これは未経験な人間に対して何かを伝える事の困難さの話であると同時に、チャリンコ野郎、あぶねえんだよ!!とか、学生時代に戻りてえぜとか、そういう風に成長と言うか変化してしまった人間は、その前に抱いていた切実さを忘れてしまうという特徴がある。変化した後が真実なのかと言えば、それは大人から見てそう見えるという事でしかないわけで、自分は大人ですからもちろんそこに真実がありそうな気もしますし、ちゃんと勉強しろとか、学校行けとか、チャリンコは危ないよとか言ってしまったりもするわけですが、同時に伝わらねえだろうなという風にも思う。
結局そういう風に言ってしまうと、子供が切実に感じている真実からすればズレているわけで、いくら俺が正しいと思っても無力である事には変わりはない。それを言って納得させるにはそれなりに信頼関係がないと難しい。子供が言う事を聞かないというのは信頼されていないという所がある。信頼が無いと人に言葉は伝わらない。同じ事を言われても、信頼している人から言われるのと、信頼のない人から言われるのでは効果は全く違う。
これは組織の内と外という切り分け方にも見られます。外から見ると、どう考えても合理性がないように見えても、内部に入れば、そんな事言ってられないんだよ、という風になってしまう。散々外から政治家を批判していたのに、いざ政治家になってしまうと、政治家としてしか、結局は思考出来なくなってしまい、アイツズレてるなと外から見ると見えてしまう。まあ政治家になれば政治家として、大人になれば大人として思考するのは当たり前なのですが、何となく裏切られた感を持ってしまう。
大人の言い分や組織の内部の言い分、もしくはその逆の言い分いずれかが仮に普遍的な正しさを持っているとしても、中々その壁というのを取り除いて理解し合うというのが難しくなってしまう。しょうがないから媚びましょうという風になる。
子供に媚びて、いい大人を演じていてもそれが子供のためになるのかといえば必ずしもそうとは言えませんし、親のいう事を嫌々聞いて、自殺しちゃったりはけ口に虐めに加担したりというのも厄介。そんな子じゃなかったってパターンです。
政治家が必要以上に国民に媚びて政策を誤るようなポピュリズムは問題外ですし、政治家のケツを舐めて国家と一体になってもそれが善い事だとは到底思えない。
媚びるのもマズいけれど、言う事を全然聞かずにやりたい放題というのもこれまたマズい、じゃあどっちなんだよとどっち付かずだと、何もやらない、無策だ、とかってなっちゃうし、どっちにもいい顔していると、どっち付かずだとどちらからも梯子を外される。
統治権力に政策を実行させようと思えば、例えばロビイングをしたりするわけですが、そうすると権力に擦り寄っているみたいな批判も出てくるし、反権力で批判ばかりしていると、役立たずと言われてしまう。非常に難しい社会になっている。サブスタンシャルであるかどうかがあまり問題にされない。
これもやっぱり最終的には信頼出来るかどうかにかかっている。アイツは内部の人間になっちゃったけれど、あいつに任せておけば大丈夫なはずだと思えるかどうか。
もちろん信用があればある程、あの野郎裏切りやがったなという風になってしまいますので、そういう経験があると、余計信頼する事に懲りて、どうせアイツもそうなんだろという風になってしまいがちです。これは結構蔓延している感覚かもしれません。どうせ信用出来ないという風になってしまっている。なので、ちょっとなんかがあると、ほうらやっぱり、どうせそんな事だと思っていたぜ、となってしまう。
今の麻生なんかは批判真っ盛りですが、多分あのおたんこなすが辞めて誰かに変わっても、どうせ同じ事の繰り返しになるでしょうし、そもそもみんなそう諦めている所もあるので、期待もしていない。仮に政権交代したからといっても、すぐにどうにかなるような甘っちょろい構造ではもはやないですし、全員が納得いくような方向性に舵を切るなんて事は出来るわけない。そんな能力もあるわけないので、必ず納得いかない人が文句を言い始める。
小泉だって支持率8割という驚異的な人気があったにもかかわらず、それがあっという間に地に落ちて、いまでは諸悪の根源みたいな感じになっちゃっている。みんなで支持していたくせに。
そうすると納得いかない人の声を何とかしろ!というのと、納得いかないって?それじゃあどうしろっつうんだよ、いい加減にしろ、お前らの自己責任なんだよ!みたいな感じで分裂しちゃう。
内と外という切り分けや、大人と子供という切り分けは常に無くならないので、こっち側から向こう側に行ってしまうと、もう向こう側の人間になってしまって、こっち側から見ると信頼出来ないという感覚が出て来てしまいやすい。向こう側に行っちゃった人はこっちの理屈を忘れてしまったかのように見えるので、あの野郎!という風になってしまう。そうすると、もうどうせダメに決まっているという感覚に支配されてしまう。
逆に向こう側に行った人からすれば、元こっち側の人間であれば(大人と子供であれば子供だった事の無い大人はいませんし)、それなりに自分はわかっていると思っているので、わかっていると思っている感覚と、そう簡単な話じゃなかったなこりゃという感覚に戸惑いながら最適化していると、いつの間にやら不満タラタラのこっち側の人達の様子や投げかけられる言葉の数々に、お前らこっちにはこっち(大人には大人の)の都合があんだよ、知りもしねえでゴチャゴチャ言ってんじゃねえよ、という風になってしまう。そうすると、わかってない奴らに説明しても無駄だとなってしまう。
戦争は悲惨だという言い方も、戦争を体験した人からすればトラウマになっているわけで、それを相対化なんてとてもじゃないが出来ないようなもの凄い経験なわけです。恐らくは。自分は戦後生まれですから、もちろん未経験者ですが、そういう人達が相対化なんてするわけには行かない絶対何が何でも9条を守れという風になるのは何となくですが理解出来ます。想像を超えるようなおぞましい出来事に違いありませんから。
しかしそれを経験した事のない人には、簡単には伝わらない。未経験者がどんなに想像したとしても、それは現実からすれば甘っちょろい話でしかないかもしれない。過去の悲劇を情緒的に伝えて、それを見る方は涙を流しても、結局回りに不安があると思えば、物語の世界と現実の問題は別だと思ってしまう。
戦争がいけない事だというのはわかるけどさ(本当の意味ではわかっていない)、悲惨だって言うのはわかるけどさ、北朝鮮や中国は恐いし、治安に対しても不安があるし、何とかしろよ国家権力!という風になってしまう。
平和と言ってもアメリカに依存してアメリカが戦争していたりするわけで、北朝鮮が核を持っていたり、中国が領海侵犯をしていたり、韓国人が日本の国旗を燃やしていたりするのを見ていれば、みんなが平和であってほしいと思っているに決まっているだろ、という前提が疑わしく感じてしまっている。
戦争は恐ろしいのだという経験者の言い方というのは結局経験しないと本当の意味ではわからない。しかし経験したら地獄であるわけで、経験者が何が何でも絶対に阻止というのはわかる。でもこれは絶対完璧には伝わらないわけだから、そんな事言ったって不安なんだよという、未経験者の現実認識を説得するのは簡単じゃない。
経験者の人口が減ってくれば尚更です。戦争をするぞという風にはならなくとも、別にアメリカ軍に守って貰えばいいじゃん、中東の戦争?問題なのはわかるけど、中国や北朝鮮がおっかないからしょうがないだろとなってしまう。理想はわかるけれど、今俺たちが安全に暮らす事に勝る価値観はないぜ、という風になるのを説得するのは簡単な事ではありません。
だからこれも別の戦略を考えないと、経験者がいなくなって、殆どが未経験者になれば、戦争がダメなのはわかるけれど、そうは言っても・・・・となってしまう。
このこっち側と向こう側のわかり合えなさというものに対して、この国はみんな一緒という何となくの共通前提がどこかにあって、それがこういう問題に直面すると、こんなにお前の為を思って言っているのに!とか、誰も俺の事なんてわかってくれない!とか、感情のぶつかり合いというか、怒鳴り合いみたいな感じに陥ってしまうという帰結を引き起こしたりするわけなんですが、単にわかり合えない困難さという言い方では済まない構造変化が起こっている。
つづく!!