前回の続きです。
さてそれでも願望としての反戦平和を掲げ、なんらその為の対策を取るどころか考えもしてない状況が続いていたわけですが、空洞化し、将来の希望を失い、承認不足にさらされた個人の行き着く先は、国家という下駄を履いて脆弱な自尊心を満足させるという方向に向かってしまうのは当然と言えば当然で、そういう人達が小泉旋風を支持し、安倍の吹き上がりを支持し、今また麻生なんかを支持してしまっていたりするわけです。
わけのわからないナショナリズムが吹き上がってしまったりする。ナショナリズムを全面的に否定するのもハッキリ言えば間違っています。国民的な連帯を呼びかける為に必要且つ有効な手段はナショナリズムしか無い。それは左派にとっても有効なリソースでもあるはずです。また、いまだかつて、ナショナリズム以外のもので国民が国家をコントロール出来た試しは無いわけです。
総理大臣の支持率が80%とか70%とかって状態だったりもしました。これじゃロシアか北朝鮮かもしくは中国共産党かって感じです。これだけ犯罪の少ない国でありながら、重罰化賛成が大半を占め、それが何を意味するのかも知らず、被害者感情にただ寄り添い死刑賛成が8割を越えている。
おまけにこんな不健全な推定有罪で国家も国民もメディアまでもが一色に染まっている状態で、しかも三日以内に終わらせるという前提にしないと、国民の同意を得られないという理由での裁判の簡略化が懸念されている裁判員制度の導入。リベラル勢力は一体何をやってんだって感じです。
自衛隊の派兵に対しても別に国民自体に危機意識がなくなってしまっているし、そうなると次の段階はアメリカ的な貧困層にとっての優良な就職先が軍隊になるという方向性です。もう自衛隊は相当優良な就職先かもしれませんし、実際にアメリカの対テロ戦争に加担もしています。
流動化と空洞化によって貧困層を生み出して、それを戦争に利用する。安倍政権の際、アメリカが首を縦に振っていれば、日本も軍事を公共事業にしてもよいというお墨付きが与えられる一歩手前だったわけです。
これは北朝鮮問題でアメリカが融和的な方向に舵を切り変える直前だったから、北朝鮮の感情を刺激するのは得策ではないし、実際カードとしての有効期限はとっくに切れた状態で、そんな事を受け入れて日本に借りを作るのは得策ではないという事で、しかも何もアメリカに取って切実なカードを切れない日本の鈍感さによって、かろうじて安倍の申し出をはねつけたわけですが、例えばアフガン侵攻やイラク侵攻の時点、その後の不人気になり始める時点でこの申し出をしていたら、ひょっとしたらアメリカは認めているかもしれなかった。
こういう状況にさらされているのに、反戦平和を掲げるリベラルが何ら有効な対策を講じないのをみていると、歯痒くてしょうがない。田母神的アホ言説は全く程度が低過ぎて話にならないのは確かですが、そういう言説を生み出してしまった責任は左側にもあるわけです。
ハッキリ言えば今この国に存在している所謂リベラル勢力というのは、単なるきれい事の何の効果も無いお題目を唱え、その姿勢を取る事によって悦に入っているような奴ばかり、有害以外の何者でもない。まともな人はほんの一握りしかいない。殆どが単なる内輪ウケのマスターベーション、純粋まっすぐ君のガス抜き作用にしかなっていない。
国家の監視という概念は非常に重要な事です。しかしリベラル側というのは単に思考停止的に国家の横暴を揺るすな的な紋切り型の言い方しかずっとして来なかった。大きな国家というのは腐敗や堕落や不透明な権益に塗れていたわけですから、借金まみれの現在そこに戻る事は出来ないし戻る必要も無い。だからその当時であればそれなりに国家の腐敗や堕落不透明さを叩く事にはそれなりに意義もあったし監視の必要もあった。
しかしその帰結はその後世界的流れと言うかアメリカからのプレッシャーもあって、じゃあわかりました国家の役割を小さくしますと、インチキなんですが新自由主義的方向性に後押ししてしまい、人々が流動化にさらされて疑心暗鬼が蔓延り出すと、今度は国家が何とかしろという話になってしまっている。全く頭が悪過ぎて話になりません。
推定無罪の原則なんかも、社会と国家で考えれば国家の方が恐ろしい。リヴァイアサンになりかねない。社会の中にも殺人犯とか、恐ろしい輩は出現するものの、大量に人を動員して、何らかのインチキ大義をかざして、しかも国民から税金を吸い上げて戦争をしたり、何らかの統制をしたりする可能性のある国家よりはマシであるという前提がある。
国家が無罪の人間を、国家にとって不適切な存在であるという理由で抹殺してしまうという事は何が何でも阻止しなければ、アリの一穴から暴走が始まりかねない。だから推定無罪原則というのがある。1000人の罪人を逃しても、一人の無辜の民を罰するなかれというのはそういう事です。だから国家のガヴァナンスが重要であるという話になるわけです。
しかし近年、核の小型化、テロの脅威という問題が浮上し、これも恣意的ではありますが、そういう理由で、国家が危険で社会の危険の方が全然ましだとは必ずしも言えなくなってしまった。社会の中に一人そういう無法者が存在すれば、多くの無辜の民が犠牲になってしまう可能性が出て来てしまった。
だから推定無罪なんて言うヌルいことを言っている場合ではないと。推定有罪、無辜の民を1000人罰しても、一人の罪人を許すなかれという方向性に変わってしまった。日本の場合は犯罪が極端に増えてるわけでも凶悪化しているわけでも何でも無いのですが、そういう流れの上にいる事は間違いありません。だからそういう社会への変化のプレッシャーが様々な所から吹き出ている。
これは安全保障の観点から言うと全く合理性がないとは言えない。誰も信用出来なくなれば、国家が重罰化や巨大な裁量を握って市民社会を担保しろという方向性に動いてしまうのは止められない。
だから新自由主義というのはもともと必ず腐敗堕落を起こし、且つ恐ろしいリヴァイアサンになりかねない国家の役割を小さくするというのとセットで、競争に失敗してもそれをキチンと汲み取るような社会の分厚さの確保、誰でもやる気があれば競争に参加出来るような社会のバックアップが前提になっています。
ただ国家を小さくして、疑心暗鬼の社会になって誰も信用出来なくなり、結果的に国家の干渉を自ら望むようになってしまえば欧米の自治の発想からするとマズい方向性であるわけです。したがってそれを埋め合わせるような社会の分厚さを確保する、もともとあるのであればそれを保全する、そういう事が前提になっている。だから新自由主義と保守が合体出来るわけです。
死刑の問題も日本以外の社会であれば、被害者の感情的な回復を宗教が埋め合わせるとか、NPOのようなものがバックアップしてくれたりする。しかし日本にはそういうものが一切無い。すぐに忘れ去られ、被害者家族は一生心の傷と葛藤して行かねばならない。だから被害者の感情的な回復を考えれば日本では死刑しか無いという風に帰結する。人間は間違えるから死刑は反対だというのなら、どうやって被害者の感情の回復を担保するメカニズムを用意するのか?
重罰化要請の世論も然りです。コミュニティが破壊されて、誰も信用出来ないような状況にさらされた個人が、犯罪の脅威に怯えるのは当然の話です。
こういう社会情勢の変化の中で相も変わらず思考停止的に推定無罪を守れ、死刑反対、監視社会反対、重罰化反対、国家の横暴だ、まあ言うのは別に構いません。しかしじゃあどうしろというのか?
単に反対すりゃいいってもんでもない、リベラル側はそれを言うならキチンとそれを担保出来るような仕組みや社会の分厚さを保つような働きかけをしているのか?そういう活動をしているのか?とてもじゃありませんがやっているとは言えません。
単に批判しているだけ、命は大切だ!!とか、国家の横暴を許すな!!とか、弱者に優しい社会を!!とか、頑張れば報われる社会を!!とか、下らない美辞麗句を並べ立て、実効性の欠いた理想を感情に任せて吹き上がっている輩が大半です。
しかもそういう構造変化に気付いてすらいないふしがある。だから不人気になっているという事にすら気付いていない。それが歯痒くてしょうがないのです。
自分も監視社会も重罰化も死刑も基本的に反対です。しかしそもそも地域のコミュニティとか、相互扶助のメカニズムとかを、散々人権だの男女平等だの、プライバシーだの自由だの、安心安全だのと、お題目を掲げて破壊する事に加担して来たのがリベラルでもあるわけで、そういう事が大切だとは自分も思いますが、ものには程度ってものもありますから、リベラル派の反対の仕方では説得力が無さ過ぎる気もするのです。
全部リベラル派が悪いというわけではもちろん無い、むしろ国家や官僚達の悪辣な責任逃れとして、リベラル派は利用されちゃっている所もある。例えば組合系の害悪ばかりが問題になります。日教組を叩くのはそれはそれとして理解出来ますが、それは使っている側にも問題があるわけで、組合系だけに全責任があるわけではない。組合系の連中に責任をパージして逃げ延びようと言う力学もあるわけです。
市民やリベラル派からの要求を逆手に取って、ちゃっかり国家の権益を潜り込ませるというにまんまと引っかかり続けている。
高速道路料金が安く出来るのだったら安くしろよという要望と、野党からのプレッシャーに、わかりました安くします。と言いながら、ETC利権を潜り込ませる手法一つとっても言える事ですが、フェミニズムの吹き上がりを利用して、国民のデータベース化を進めるとか、ゆとり教育の要望に応えつつ、利権を構築し、今度は教育の荒廃の吹き上がりに答えて、更に利権を構築する。
世論は簡単に囮に引っかかり、統治権力は常に責任を取らず利権に邁進する。リベラル派の吹き上がりをも簡単に利権化する為の力学として利用されてしまう。そういうものに対して全くと言っていい程チェックが働かない。
利用されているとは言え、そういうところまでひっくるめてリベラルの戦略性のなさと言うか、危機管理能力の無さと言うか無自覚さに、方向性としては支持したいだけにイライラモヤモヤしてしまうわけです。
リベラルサイドのチェックがお門違い、国家の弱体化を何も考えず思考停止的に叩いた結果、国家権力自体もまんまと強化されてしまいました。責任を取らなくても逃げられるようになっている。
一番象徴的な事を言えば、総理大臣自体の権限が強化されている。小泉が郵政民営化の際、参議院の否決を受けて、衆議院を解散しました。これは憲法違反の疑いもありましたし、言ってみれば禁じ手です。それをやってしまった事によって、一線を越えてしまった。
その後の安倍政権では参院選で大敗したにもかかわらず、総理の座にしがみつき、そして行き詰まるとお腹が痛いと言って突然辞めちゃう。昔は政治家が病気で辞めるなんて話が出てくれば、だいたいもう癌で助からないとか、総理大臣だったら、死んじゃったから、次の人、なんて話だってあったわけで、それがいいとは言いませんが、それくらい重みのある仕事だったはずです。
それが安倍は現在ピンピンしていて、平気な顔してしゃーしゃーと持論を展開したりしている。恥ずかしいとか、申し訳ないとか、そういった気持ちは一切無いのでしょう。なんとかは死んでも治らないと言いますが、そういう人が政治家でしかも総理までやれるわけです。
そして更に福田、あっという間に不人気になり、尊敬もされず、何もサブスタンシャルな方に進まずに、何もしなかったし、しようともしていなかった。にもかかわらず、自分の単なるエゴの為にサミットの為だけに居座って、突然これまた自分勝手な国民の事なんてどうでもいいとばかりに、散々居座ったあげく見面倒くさくなったからという事で辞めちゃった。
これは病気ですらなかったわけです。単に嫌になったから辞めるというわけですから話になりません。そして彼の時は何しろ参議院の問責決議という伝家の宝刀と呼ばれていたものを、事実上しらばっくれて無効化している。
今の麻生なんかはもうやりたい放題、絶対に政権を手放してなるものかとばかりに、もうこのままだと任期満了っぽい流れにさえなっている。結局流れましたが、何のフィージビリティスタディも無く、ただ金をバラまいて票を買おうと言う公職選挙法違反を堂々とやろうとしていたり、あんなに不人気でしかも無能であっても全然歯止めがかからないくらい総理の権限が強化されてしまった。
ライブドア、村上ファンド、ヒューザー、グッドウィル、食品偽装、毒米問題、大分の教育委員会等々、最近目立つのは、まるで小泉改革のおかげで、社会が腐敗し、倫理観の無い企業や組織が増えた、見たいな感じになっていますが、これは事後チェック型の社会になったからであって、以前の事前チェック型の護送船団方式の時代であればもみ消されていたというだけの話です。だから可視化出来るだけまともになっているのかと言うと、そんな甘い話でもない。
一罰百戒的に表面化した組織や企業を血祭りに上げ、世論も吹き上がってその事がガス抜きとなり、肝腎要のその背後にある本当の問題点、統治権力の腐った構造に届かなくなっている。責任を民営化したおかげで、殆ど肝腎な部分は傷がつかない。
そして更に厄介なのは、こういった問題が出てくると、まさに統治権力が国民の感情的な吹き上がりに寄り添う形で、あたかも社会正義を実行しています的な顔をしてしゃーしゃーとのさばれるようになっているという事です。
トドメにどうにもならないのは、こういう不安に煽られた国民は、簡単に統治権力の圏域拡大、権益増大を許すようになっている。というか進んで積極的にむしろ統治権力の尻を叩くような形で、国家の介入を待望するようになってしまった。
全くリベラル派が太刀打ち出来ないような怒濤の流れにどんどんなってしまっている。
つづく!!
さてそれでも願望としての反戦平和を掲げ、なんらその為の対策を取るどころか考えもしてない状況が続いていたわけですが、空洞化し、将来の希望を失い、承認不足にさらされた個人の行き着く先は、国家という下駄を履いて脆弱な自尊心を満足させるという方向に向かってしまうのは当然と言えば当然で、そういう人達が小泉旋風を支持し、安倍の吹き上がりを支持し、今また麻生なんかを支持してしまっていたりするわけです。
わけのわからないナショナリズムが吹き上がってしまったりする。ナショナリズムを全面的に否定するのもハッキリ言えば間違っています。国民的な連帯を呼びかける為に必要且つ有効な手段はナショナリズムしか無い。それは左派にとっても有効なリソースでもあるはずです。また、いまだかつて、ナショナリズム以外のもので国民が国家をコントロール出来た試しは無いわけです。
総理大臣の支持率が80%とか70%とかって状態だったりもしました。これじゃロシアか北朝鮮かもしくは中国共産党かって感じです。これだけ犯罪の少ない国でありながら、重罰化賛成が大半を占め、それが何を意味するのかも知らず、被害者感情にただ寄り添い死刑賛成が8割を越えている。
おまけにこんな不健全な推定有罪で国家も国民もメディアまでもが一色に染まっている状態で、しかも三日以内に終わらせるという前提にしないと、国民の同意を得られないという理由での裁判の簡略化が懸念されている裁判員制度の導入。リベラル勢力は一体何をやってんだって感じです。
自衛隊の派兵に対しても別に国民自体に危機意識がなくなってしまっているし、そうなると次の段階はアメリカ的な貧困層にとっての優良な就職先が軍隊になるという方向性です。もう自衛隊は相当優良な就職先かもしれませんし、実際にアメリカの対テロ戦争に加担もしています。
流動化と空洞化によって貧困層を生み出して、それを戦争に利用する。安倍政権の際、アメリカが首を縦に振っていれば、日本も軍事を公共事業にしてもよいというお墨付きが与えられる一歩手前だったわけです。
これは北朝鮮問題でアメリカが融和的な方向に舵を切り変える直前だったから、北朝鮮の感情を刺激するのは得策ではないし、実際カードとしての有効期限はとっくに切れた状態で、そんな事を受け入れて日本に借りを作るのは得策ではないという事で、しかも何もアメリカに取って切実なカードを切れない日本の鈍感さによって、かろうじて安倍の申し出をはねつけたわけですが、例えばアフガン侵攻やイラク侵攻の時点、その後の不人気になり始める時点でこの申し出をしていたら、ひょっとしたらアメリカは認めているかもしれなかった。
こういう状況にさらされているのに、反戦平和を掲げるリベラルが何ら有効な対策を講じないのをみていると、歯痒くてしょうがない。田母神的アホ言説は全く程度が低過ぎて話にならないのは確かですが、そういう言説を生み出してしまった責任は左側にもあるわけです。
ハッキリ言えば今この国に存在している所謂リベラル勢力というのは、単なるきれい事の何の効果も無いお題目を唱え、その姿勢を取る事によって悦に入っているような奴ばかり、有害以外の何者でもない。まともな人はほんの一握りしかいない。殆どが単なる内輪ウケのマスターベーション、純粋まっすぐ君のガス抜き作用にしかなっていない。
国家の監視という概念は非常に重要な事です。しかしリベラル側というのは単に思考停止的に国家の横暴を揺るすな的な紋切り型の言い方しかずっとして来なかった。大きな国家というのは腐敗や堕落や不透明な権益に塗れていたわけですから、借金まみれの現在そこに戻る事は出来ないし戻る必要も無い。だからその当時であればそれなりに国家の腐敗や堕落不透明さを叩く事にはそれなりに意義もあったし監視の必要もあった。
しかしその帰結はその後世界的流れと言うかアメリカからのプレッシャーもあって、じゃあわかりました国家の役割を小さくしますと、インチキなんですが新自由主義的方向性に後押ししてしまい、人々が流動化にさらされて疑心暗鬼が蔓延り出すと、今度は国家が何とかしろという話になってしまっている。全く頭が悪過ぎて話になりません。
推定無罪の原則なんかも、社会と国家で考えれば国家の方が恐ろしい。リヴァイアサンになりかねない。社会の中にも殺人犯とか、恐ろしい輩は出現するものの、大量に人を動員して、何らかのインチキ大義をかざして、しかも国民から税金を吸い上げて戦争をしたり、何らかの統制をしたりする可能性のある国家よりはマシであるという前提がある。
国家が無罪の人間を、国家にとって不適切な存在であるという理由で抹殺してしまうという事は何が何でも阻止しなければ、アリの一穴から暴走が始まりかねない。だから推定無罪原則というのがある。1000人の罪人を逃しても、一人の無辜の民を罰するなかれというのはそういう事です。だから国家のガヴァナンスが重要であるという話になるわけです。
しかし近年、核の小型化、テロの脅威という問題が浮上し、これも恣意的ではありますが、そういう理由で、国家が危険で社会の危険の方が全然ましだとは必ずしも言えなくなってしまった。社会の中に一人そういう無法者が存在すれば、多くの無辜の民が犠牲になってしまう可能性が出て来てしまった。
だから推定無罪なんて言うヌルいことを言っている場合ではないと。推定有罪、無辜の民を1000人罰しても、一人の罪人を許すなかれという方向性に変わってしまった。日本の場合は犯罪が極端に増えてるわけでも凶悪化しているわけでも何でも無いのですが、そういう流れの上にいる事は間違いありません。だからそういう社会への変化のプレッシャーが様々な所から吹き出ている。
これは安全保障の観点から言うと全く合理性がないとは言えない。誰も信用出来なくなれば、国家が重罰化や巨大な裁量を握って市民社会を担保しろという方向性に動いてしまうのは止められない。
だから新自由主義というのはもともと必ず腐敗堕落を起こし、且つ恐ろしいリヴァイアサンになりかねない国家の役割を小さくするというのとセットで、競争に失敗してもそれをキチンと汲み取るような社会の分厚さの確保、誰でもやる気があれば競争に参加出来るような社会のバックアップが前提になっています。
ただ国家を小さくして、疑心暗鬼の社会になって誰も信用出来なくなり、結果的に国家の干渉を自ら望むようになってしまえば欧米の自治の発想からするとマズい方向性であるわけです。したがってそれを埋め合わせるような社会の分厚さを確保する、もともとあるのであればそれを保全する、そういう事が前提になっている。だから新自由主義と保守が合体出来るわけです。
死刑の問題も日本以外の社会であれば、被害者の感情的な回復を宗教が埋め合わせるとか、NPOのようなものがバックアップしてくれたりする。しかし日本にはそういうものが一切無い。すぐに忘れ去られ、被害者家族は一生心の傷と葛藤して行かねばならない。だから被害者の感情的な回復を考えれば日本では死刑しか無いという風に帰結する。人間は間違えるから死刑は反対だというのなら、どうやって被害者の感情の回復を担保するメカニズムを用意するのか?
重罰化要請の世論も然りです。コミュニティが破壊されて、誰も信用出来ないような状況にさらされた個人が、犯罪の脅威に怯えるのは当然の話です。
こういう社会情勢の変化の中で相も変わらず思考停止的に推定無罪を守れ、死刑反対、監視社会反対、重罰化反対、国家の横暴だ、まあ言うのは別に構いません。しかしじゃあどうしろというのか?
単に反対すりゃいいってもんでもない、リベラル側はそれを言うならキチンとそれを担保出来るような仕組みや社会の分厚さを保つような働きかけをしているのか?そういう活動をしているのか?とてもじゃありませんがやっているとは言えません。
単に批判しているだけ、命は大切だ!!とか、国家の横暴を許すな!!とか、弱者に優しい社会を!!とか、頑張れば報われる社会を!!とか、下らない美辞麗句を並べ立て、実効性の欠いた理想を感情に任せて吹き上がっている輩が大半です。
しかもそういう構造変化に気付いてすらいないふしがある。だから不人気になっているという事にすら気付いていない。それが歯痒くてしょうがないのです。
自分も監視社会も重罰化も死刑も基本的に反対です。しかしそもそも地域のコミュニティとか、相互扶助のメカニズムとかを、散々人権だの男女平等だの、プライバシーだの自由だの、安心安全だのと、お題目を掲げて破壊する事に加担して来たのがリベラルでもあるわけで、そういう事が大切だとは自分も思いますが、ものには程度ってものもありますから、リベラル派の反対の仕方では説得力が無さ過ぎる気もするのです。
全部リベラル派が悪いというわけではもちろん無い、むしろ国家や官僚達の悪辣な責任逃れとして、リベラル派は利用されちゃっている所もある。例えば組合系の害悪ばかりが問題になります。日教組を叩くのはそれはそれとして理解出来ますが、それは使っている側にも問題があるわけで、組合系だけに全責任があるわけではない。組合系の連中に責任をパージして逃げ延びようと言う力学もあるわけです。
市民やリベラル派からの要求を逆手に取って、ちゃっかり国家の権益を潜り込ませるというにまんまと引っかかり続けている。
高速道路料金が安く出来るのだったら安くしろよという要望と、野党からのプレッシャーに、わかりました安くします。と言いながら、ETC利権を潜り込ませる手法一つとっても言える事ですが、フェミニズムの吹き上がりを利用して、国民のデータベース化を進めるとか、ゆとり教育の要望に応えつつ、利権を構築し、今度は教育の荒廃の吹き上がりに答えて、更に利権を構築する。
世論は簡単に囮に引っかかり、統治権力は常に責任を取らず利権に邁進する。リベラル派の吹き上がりをも簡単に利権化する為の力学として利用されてしまう。そういうものに対して全くと言っていい程チェックが働かない。
利用されているとは言え、そういうところまでひっくるめてリベラルの戦略性のなさと言うか、危機管理能力の無さと言うか無自覚さに、方向性としては支持したいだけにイライラモヤモヤしてしまうわけです。
リベラルサイドのチェックがお門違い、国家の弱体化を何も考えず思考停止的に叩いた結果、国家権力自体もまんまと強化されてしまいました。責任を取らなくても逃げられるようになっている。
一番象徴的な事を言えば、総理大臣自体の権限が強化されている。小泉が郵政民営化の際、参議院の否決を受けて、衆議院を解散しました。これは憲法違反の疑いもありましたし、言ってみれば禁じ手です。それをやってしまった事によって、一線を越えてしまった。
その後の安倍政権では参院選で大敗したにもかかわらず、総理の座にしがみつき、そして行き詰まるとお腹が痛いと言って突然辞めちゃう。昔は政治家が病気で辞めるなんて話が出てくれば、だいたいもう癌で助からないとか、総理大臣だったら、死んじゃったから、次の人、なんて話だってあったわけで、それがいいとは言いませんが、それくらい重みのある仕事だったはずです。
それが安倍は現在ピンピンしていて、平気な顔してしゃーしゃーと持論を展開したりしている。恥ずかしいとか、申し訳ないとか、そういった気持ちは一切無いのでしょう。なんとかは死んでも治らないと言いますが、そういう人が政治家でしかも総理までやれるわけです。
そして更に福田、あっという間に不人気になり、尊敬もされず、何もサブスタンシャルな方に進まずに、何もしなかったし、しようともしていなかった。にもかかわらず、自分の単なるエゴの為にサミットの為だけに居座って、突然これまた自分勝手な国民の事なんてどうでもいいとばかりに、散々居座ったあげく見面倒くさくなったからという事で辞めちゃった。
これは病気ですらなかったわけです。単に嫌になったから辞めるというわけですから話になりません。そして彼の時は何しろ参議院の問責決議という伝家の宝刀と呼ばれていたものを、事実上しらばっくれて無効化している。
今の麻生なんかはもうやりたい放題、絶対に政権を手放してなるものかとばかりに、もうこのままだと任期満了っぽい流れにさえなっている。結局流れましたが、何のフィージビリティスタディも無く、ただ金をバラまいて票を買おうと言う公職選挙法違反を堂々とやろうとしていたり、あんなに不人気でしかも無能であっても全然歯止めがかからないくらい総理の権限が強化されてしまった。
ライブドア、村上ファンド、ヒューザー、グッドウィル、食品偽装、毒米問題、大分の教育委員会等々、最近目立つのは、まるで小泉改革のおかげで、社会が腐敗し、倫理観の無い企業や組織が増えた、見たいな感じになっていますが、これは事後チェック型の社会になったからであって、以前の事前チェック型の護送船団方式の時代であればもみ消されていたというだけの話です。だから可視化出来るだけまともになっているのかと言うと、そんな甘い話でもない。
一罰百戒的に表面化した組織や企業を血祭りに上げ、世論も吹き上がってその事がガス抜きとなり、肝腎要のその背後にある本当の問題点、統治権力の腐った構造に届かなくなっている。責任を民営化したおかげで、殆ど肝腎な部分は傷がつかない。
そして更に厄介なのは、こういった問題が出てくると、まさに統治権力が国民の感情的な吹き上がりに寄り添う形で、あたかも社会正義を実行しています的な顔をしてしゃーしゃーとのさばれるようになっているという事です。
トドメにどうにもならないのは、こういう不安に煽られた国民は、簡単に統治権力の圏域拡大、権益増大を許すようになっている。というか進んで積極的にむしろ統治権力の尻を叩くような形で、国家の介入を待望するようになってしまった。
全くリベラル派が太刀打ち出来ないような怒濤の流れにどんどんなってしまっている。
つづく!!