前回の続きです。

さてそろそろ本題に入りますが、核心の部分に行くまで、いろいろと前提話をしなきゃいけないので、退屈かもしれません。ひょっとすると本日はそれで終わってしまうかもしれませんが、ご容赦を。

反戦平和、護憲平和というのを掲げて、戦後日本が歩んで来たという事は否定するつもりはありませんが、それは何しろアメリカがいたからの話であって、事実上、朝鮮戦争やベトナム戦争の戦争特需でぼろ儲けをして、冷戦体制の恩恵を受けて繁栄した土台の上で初めて通用する理念でしかないという事を前々回のネタ、田母神論文問題の回で書きました。したがってそれがある時期まで対アメリカの外交のカードになりえたと。

護憲というのはもともとなんで出て来たのかと言いますと、安保とセットになっています。アメリカが日本に対して再軍備要求のプレッシャーを強めてくる。日本との戦争に勝ったものの、それは実はもっと厄介な共産圏という敵に対しての援護射撃になってしまった。

日本が何のプレッシャーと戦っていたのかを日本を完膚なきまでに叩きのめした後でアメリカは痛感するわけです。冷戦の防波堤として日本を再軍備させようという力学が始まります。

しかしこれに乗せられてアメリカの思うままの戦争に駆り出されて、日本人が死ぬのは忍びない、アメリカの言う通りにならない為に、アメリカのくれた憲法を逆手に取って、日本は平和憲法がありますので戦争のお手伝いは出来ません、という為の交渉のカードとして護憲が出てくるわけです。しかしアメリカにただ逆らってしまえば、安全保障の問題が担保出来ませんので、安保によってそれを担保する。

もとはと言えばこの発想は保守本流の闘争のリソースだった。これと左派勢力の革命へのプレッシャーという恫喝がセットになって、対アメリカの交渉のカードでありネタだったわけです。そのおかげで日本は経済に集中する事が出来、飛躍的なスピードで再復興を遂げる。

これらは全てその先に自立を視野に入れた、その当時のプライオリティであったわけです。アメリカを利用し、憲法を利用し、安保を利用し、左派勢力の吹き上がりをも利用する。しかし困った事にこれが段々ネタではなくなって行く。何の為の手段であるのかが消えてしまう。

これらは東西冷戦下での対アメリカの交渉のリソースとして生まれたものですから、冷戦構造が終わってしまえばカードとして有効ではなくなってしまうのは当然の話で、そういうものであったという前提も消えてしまえば、実効性を欠いた空理空論となってしまうのは当然と言えば当然の話です。

ちなみに冷戦体制崩壊以後、中国脅威論にしろ、テロの脅威にしろ、実際に脅威があるという事が全く無いとは言いませんが、これを必要とする理由がなんであるのか、比較的単純な話です。従来のレジームのまま思考停止でいる為に必要な脅威である側面もある。

冷戦体制の最中というのは、東側に出来る社会主義的な政策が東側でしか出来ないという風になると、社会主義とか共産主義への幻想が生きていましたので、西側の結束が乱れます。西側は資本主義のもとでも再配分的な、ニューディール的な政策が出来る事を証明する必要がありました。弱肉強食で弱者を苦しめる資本主義というイメージを取り除く必要があったわけです。その事によって資本主義の正当性を示していた。資本主義だからこそ再配分も分厚く出来るのだよと。

しかし冷戦体制が終焉に近付き始めると、東側の正当性が揺らいでいるわけですから、当然、再配分的な政策をとる必要が無くなるわけです。70年代後半にはすでにその兆候が見え始めます。実際にはまだまだ東側は鉄壁であるかのように一般的には見えましたので、そんなに急激に舵を切り替えたわけではありませんが、日本なんかでも80年代に、ソ連の崩壊はもう時間の問題であるという事を書く学者が出て来て、みんながビックリたまげたわけです。そんなバカなと。

しかしそのへんからこの国のレジームも変わらなきゃならない局面になって行きます。まあもちろん当然の如くというと悲しい話ですが、全く思考停止まっしぐらでしたが。

日本政府にはおそらくある時期までは自覚があったとは思います。実際に環境問題というのはポスト冷戦の新たな権益の草狩り場として生まれています。それにいち早く省エネと対策を打って、その後の一人勝ちを導いたわけですからそれなりに自覚はあった。

レジームが変わる前に(というか変わる変わらないは別として)アメリカから自立をしなければならないと。しかしそそれが段々消えてしまって無くなる頃にレジームが変わって行った。したがってこの変化に対応出来ていたとはとてもじゃありませんが言えません。

実際再配分的な政策の堕落もあったわけで、アメリカではレーガン、イギリスではサッチャーなんかが新自由主義に舵を切り替えます。このとき日本でも中曽根なんかが、電電公社とか国鉄なんかを散々手こずって民営化したりしました。今のNTTやJRですね。実際に冷戦体制が完全に崩壊したのは90年代初頭ですので、急激に舵を切り替えたわけではありません。

それが誰もが不自然に感じないうちに、気が付いたらいつの間にやらがらりと構造が変化してしまった帰結につながります。あれ?こんなはずじゃなかったと。おかしいと後戻りをしようと思っても、時間をかけてレジームが変わって行った上で惰眠を貪っていたので手遅れになっていたというわけです。戻るべき場所が無くなってしまっていた。

今まで配分に回っていたものが、規制緩和によって、市場のパレート最適点で価格が決まるようになりますので、資本主義は当然蘇ります。あまりにも公平さを欠いた再配分は経済の足を引っ張りますから、そのたがが無くなると、資本主義は一気に加速して、当然優勝劣敗になって行く。

アメリカにしろ、イギリスにしろ、その後クリントンやギデンズの第三の道を掲げたブレアなんかが出て来ます。資本主義の行き過ぎにちょっと待ったがかかる。日本でも90年代初頭にバブルが崩壊する。

新自由主義によって経済は生き返りますが、その分、日本でも今多くの人が実感していると思いますが空洞化、そして流動化にさらされます。イギリスやアメリカであれば階級的伝統や宗教的伝統によってコミュニティが破壊されたと言っても、日本程空洞化はしませんし、それなりに公的な部門をまかなう市民性も成熟しておりますので日本程スッカラカンにはなりませんでしたが、それでも人々はこのままではマズいという事に気付いた。

しかし日本はバブル景気に浮かれていたというだけではなくて、結局自立はどこかに行ってしまっていたので、この頃以後、完全に後手後手に回ってしまいます。

日本の輸出産業というのは日本版マスキー法を強引な形で取り入れたので、その後の日本の一人勝ちという状態になったわけです(今その頃の教訓を考えればどう考えても環境対応は後手後手に回っていますので、統治権力や経営者の劣化は凄まじいものがあります。今後10年20年勝つチャンスをみすみす逃しているのかもしれませんがその事はひとまずわきにおいて)。かつてはそういう理由もあって日本企業がグローバル化というか世界に進出して行った。

アメリカはことごとく打ち負かされて、その日本のグローバル化によって、現在のアメリカングローバライゼーションを加速させる金融テクノロジーが生まれるわけです。

それまでは日本というのはアメリカにとっての冷戦体制の太平洋での要でもあったわけですから、そんなに無体な要求を突き付けるわけにもいかず、日本もそういうもんだと思考停止に陥っていた。それが冷戦体制崩壊によって、レジームが変わった事によって日本のプライオリティが下がる。

アメリカングローバライゼーションを押し込んで行く為に、第三の道的な方向性で生まれたはずであるクリントンは結果的には更に規制緩和を押し進め、今までの日米関係から形が明らかに変わって行った。ジャパンパッシングが始まる。

そのときさっさと日本も対応をすればよかったのですが、政治家や役人は劣化を極め、アメリカからの自立はどこかに消えて、アメリカングローバライゼションのもとでの草刈り場と化した状況で、アメリカのおこぼれの権益争奪戦に陥って行った。

吉田茂から、田中角栄位までは、どうすればアメリカから脱却して自分の足で立つのかが少なくとも念頭にあった。その為に端から見ると利権まみれに見えたり、これは現在の小沢なんかにもそのまま言える事で、目的の為には手段は選ばずではありませんが、そういう所がありました。

ダーティに見える部分というのは政治とは帰結主義的擁護であるという事を自覚していたからでもあるのでしょう。その頃の政治家はやってる事は汚くともそれなりに布石を打っている人がまだそこそこ存在した。

自立が消えてたんに腐敗だけとなって、もしくは帰結を気にせず建て前のきれい事ばかりを掲げる人ばかりになって、今に至るわけですが、我々はプロセスにキーキー喚きすぎる所があるのは確かです。

小沢なんかが不人気なのはあの人の手法であって目的云々が批判されているわけではない。彼はそういう意味で言うと、おそらく最後に残った自立を念頭に置いている政治家なんじゃないかと思えます。言っている事もやっている事も基本的に昔から変わらない。

もちろんそれがどこまで本気なのか自分にはわかりませんが、アメリカ依存からの脱却。その為には官僚をコントロール出来ないと無理。安全保障もある程度一国で何とか出来ないと、アメリカに何も言えない。もちろん官僚のヴァルネラビリティを取り除いて省益ではなく国益の為に動ける透明化した仕組みを作る。これをやる為には自民党一党支配では無理。だから自民党を割って政権交代が起こる状況にしないと構造改革は進まない。政権交代が起これば与党の中でごちゃごちゃ調整するよりも一発で政官の癒着を断ち切る事が出来る。この為には手段を選ばない。という感じでしょうか。

まあきれいに言い過ぎかもしれませんが、言っている事が殆ど変わっていないのは確かです。上っ面の部分だけをとらえると昔は新自由主義的な方向性を謳っていたのに、今はバラマキをやろうとしているように見えたりしますが、根幹の所は自立する為に必要な事をやるというのは変わっていないように見えます。

自民党の中枢部にいてその事を実感したから、わざわざ安楽な椅子から飛び出したわけで、その手段を選ばないという所におそらく多くの人が引っかかっているのだろうと思います。

政治は帰結が全てですから、基本的には手段を選ばないというのも程度はありますが、国民益に合致するのなら本来であれば構わない。それが政治です。もちろんそれが国民に見えてしまうという所があの人の最大の弱点なんですが、そういう意味で言うとイメージコントロールがヘタなのでしょう。

こういう所が昔の政治家全部がそうだとは言いませんが、そこそこ持っている人がいた。田中角栄はアメリカの逆鱗に触れてロッキードでさされるわけですが、あれは中国との関係改善を柱にして、独自のエネルギー安全保障政策を打ち出そうとしたから、自立を阻まれてしまった。腐敗をつつかれて日本人みんなで血祭りに上げてしまった。

ちなみに安倍晋三が戦後レジームからの脱却を謳いましたが、彼のそれはアメリカ依存を強めるという話でしたので小沢の言っている事とは全く逆の話です。もちろんもしかするとそれはアメリカとの同盟関係を強化し、貢献して行く事でアメリカに日本の自立をある程度認めてもらうという方向性であったのかもしれません。しかしこれは決定的な勘違いをしています。

アメリカは神ではないという事です。アメリカがずっと世界最強国家であり続ける事が絶対であるという前提があるのなら話は別ですが、現にサブプライムなんかで虫の息状態に陥ってしまったりするし、アフガンなんかでは泥沼状態になってしまい、世界的に不人気になってしまう要素が満ち満ちている。

アメリカと一蓮托生で行くという事は、アメリカに見捨てられれば終わりですし、アメリカ以外の国から孤立する可能性もある。現にそういう状況を招いてしまった所もあるわけで、アメリカの力が絶対でない以上、絶対視するのは危険です。
近代というのはプロテスタンティズムの精神と、予定説の神が必要であるわけですが、日本は疑似近代化ですので、天皇と戦後はアメリカがその代わりを担って来た。しかしこの事一つをとっても、アメリカは神ではないのですから、冷戦体制という環境があって初めて、アメリカが日本にとっての神の如く振る舞ってくれる期間がかつて有り得たという話だったに過ぎません。

やっぱり・・・・つづく!!