前回の続きです。
帰化した相撲の力士なんかに対して、日本の伝統を学べとか、日本人らしく振る舞えとか、国籍が日本人になっているにもかかわらず、空気が読めないといつまでも文句をいい、外国出身である事の文化の違いを認めず、同調圧力によって攻撃する。
しかし先日ノーベル賞を受賞した、日本人と言われる三人のうちの一人は、アメリカ国籍を持つアメリカ人であるにもかかわらず、日本人三人受賞としゃあしゃあと報じる。この珍妙さ。
入ってくる人間には故郷の文化を捨てて日本に同化しろといい、出て行って外国籍をとっている人間には都合のいい時だけ日本人だと主張する。外国に同化しろとは言わない。
ある所は厳格に主張し、ある所は曖昧に主張する。自分達のいい加減さを放置しながら、人には厳しく文句を言う。これが日本の伝統だというのならさっさと捨てた方がいい、下らな過ぎます。ヘドが出る。
人に対して厳格さを求めるという事は、それだけ自分の振る舞い方にも責任が生じなければ何の説得力ももちません。そういう事を気にしないで人の事ばっかり文句を言っているデレスケがいっぱいいますが、自分の振る舞い方に責任を持てないなら、自分に出来ない事を人に押し付けるのはあんまり美しくない。醜い。
ノーベル賞のようなめでたい事なんだから、固い事言うなよ、というのは自分もそう思います。自分はいい加減な人間ですから、別に何人だっていいじゃねえかと思ってしまいます。
それに国籍はアメリカだと言ったって日本人の血は流れているわけですから、アングロサクソンが受賞するよりは身近に感じますし。しかしそれと同じように、帰化した方々にたいしても、日本人になったとは言っても、文化とか風習とか道徳とかはやっぱり生まれた国の感性が残っていたりするのはすぐには消せないだろうし、また無理に消す事もないと思う。それでいいじゃねえかと思うわけです。
自分に対しては厳格であっても他人には寛容であるというのが理想であって、厳しい基準を人に押し付けといて、自分はいい加減というのは最悪です。そればっかりな気がする。
もちろん人間とは浅ましい生き物ですので、理想通りにはいかず、心の中でそういう矛盾した他人に厳しく自分に甘くなってしまいがちな所はあります。
しかし公衆の面前で堂々とそういう恥知らずな振る舞い方をしても何とも思わない輩がこんなに沢山いる日本で、伝統とか日本人らしさとかを人に押し付けるのは下らな過ぎます。別にそんな事どうだっていいじゃねえかと思う。それにそういう事に吹き上がっている人は人間としてお前は醜いぜって感じです。
こういう輩が跳梁跋扈して、その曖昧な正しさとやらを吹き上がっていもっともらしいことを言っているつもりになっているのを真に受けている人がどれくらいいるのかは知りませんが、人に対して許せないとなってしまう感受性を少し相対化する必要があります。
我々が許しの心を持ったからと言ったって、すぐにどうにかなるとは言いませんが、少なくとも構造問題をどうにかするには、知る事がまず重要で、その先はもちろん絶望して諦めるのは話になりませんし、怒りだけでは解決出来ません。
我々が許すコンセンサスを確立させて、それでも隠蔽するような構造には容赦なく攻撃するのはいいとは思いますが、許すという心が無ければ、この闘争に終わりは見えません。
そして透明化した仕組みを構築し、それをたえず我々が牽制する事を忘れない。普段はお任せでもいいけれど、ここぞという所ではキチンと意思表示する。そういう真っ当な仕組みに変えないと何も始まらない。その最初の一歩は許しの心を持てるかどうかにかかっていると言ってもいい。
そもそも行政官僚制の弱体化というのは、外交的なタクティクスとして仕掛けられている所もあるわけで、例えばかつて大規模店舗規制法緩和の時に、アメリカが日本の消費者利益の事なんか考えるわけなどないのに、メディアも政治家達もまんまと消費者利益という言葉を受け入れて、国民もそれに乗せられた結果、地方の空洞化を加速させました。年次改革要望書系のスキームは全てアメリカの国益に基づいているだけの話で、日本の事を考えているわけではない。その事に無自覚過ぎました。冷戦体制末期から崩壊以後のアメリカのプライオリティが変わっているという事に気付かなかった。今も気付いていなそうな人がいっぱいいますが。
そういう事と根は同じなので、無自覚に受け入れるのは危険であるとも言えます。まあ日本の様々な構造が突っ込まれると何も言えないヴァルネラビリティを抱えているのも確かですが、透明化というのはヴァルネラビリティを取り除くという意味では強化するという事になりますので、単に弱体化させて結果的に国民が困るだけではないのか?というチェックが常に必要でしょう。
普段からゴミだのカスだのクソだのバカだのアホだのウジ虫だのと散々クソミソに書いている自分がいうのもなんですが、まずは情報を知るという事が重要なので、多少過激な書き方をしております。しかしその先はやっぱり、人間は間違う事があるし、魔が差す事もある。人間は過ちを認める事も出来るし、やり直す事も出来る。そして許す事も出来るわけです。
善性に期待するならまず我々が許す心を持つ事が重要なのでしょう。その先にそういう腐敗が起こらないような善性を維持出来るような枠組みを一から構築し直すしかない。再構築ではありませんよ。
失敗したらまたやり直せばいい。すぐに決定的に何かを変えるという事は不可能に近い話ですし、時間もかかりますが、一番遠回りに見える道が実は一番近道という事もよくある話です。
それにもう局所的に叩いてどうにかなるような構造じゃありません。悪者を引きずり回して解決するようなヌルい話ではない。
根本から何から何まで腐りきっていてどうにもならない状況です。見渡すかぎり辺り一面そこら中が腐っていて、腐っていない所を探す方が大変だと言っても言い過ぎではないかもしれません。
このまま一蓮托生で沈没するんじゃあまりにも実りが無さ過ぎます。どこかでこの閉塞感を巻き直さないとどうにもならない。まず知る。そしてこの現状を打破する為に重要なのは怒りではなく、許しではないかと思うわけです。
もちろんそうなると通常の社会であれば、社会とは作為によって生み出された人為的なものでもあるわけですので、責任の所在を嘘でもいいからどこかになすり付けて、徹底的に叩くという事をやらないと、社会の公正感というのが壊れてしまいます。もともと社会なんてものはインチキですので、公正感が壊れると、社会そのものも壊れてしまいます。全部インチキなわけですから。
公正感が損なわれているにもかかわらず、キチンとジャスティファイされないとみんなが思ってしまえば、社会の公正さを保とうとは思わなくなってしまう。だから例えばアメリカなんかが公正感を保とうと躍起になるのはそこに理由があるわけです。下院で金融安定化法を否決するのも、三浦和義を裁くのも、そこに根がある。
しかし日本ではそもそも社会が作為によって生まれるものであるという事すら共通前提になっていません。近代国家とは言い難い素朴さです。海や河のように自然物と勘違いしている。だからどうせ変わらないと思ってしまう。人為的に設定したわけではないと思えば人為的に換えられるとも思えないのは当然と言えば当然です。この国での悪者叩きは公正感の護持というより、スッキリうっぷんを晴らしているだけです。
社会の公正感なんてあるわけないとみんなが思っているし、回復されるとも思わないし、無駄だと思っている。帰属集団の利権確保が公正感よりも高いプライオリティを持ってしまっても、それを止めようという力学が働かない。
公正感とかルールよりも同調圧力や空気が支配してしまう。共同体の外側は知ったこっちゃないという感じになる。大人から子供までそうです。
だからと言って共同体的なものが個人を包摂しているのかと言えば、抜け駆け合戦や蛸壺での鍔迫り合い、疑心暗鬼が支配し、空気を読むという作法からはじかれてしまえば、簡単に排除される。個人の取り替え不可能な属性ではなくて、空気を読んで波風を立てなければ誰でもいいという交換可能な承認でしかない。
だから社会がまともに機能しているとは言い難い状況になるのも必然です。放っておけば機能すると勘違いしている。その上ルールを善悪と区別出来ないのですからどうにもなりません。何かに気付いて社会やルールをインチキだと吹き上がる人がいっぱいいるのが良い例です。そんな事は当たり前の話なのです。
インチキだからこそ、その社会を形作る公正感とかルールとかを感情の問題とは別にして厳しく絶えずチェックして行かないと危険であるという前提が欠けている。社会が一種のゲームであるという事に無自覚です。
ゲームには必ずルールがあり、ルールの無いゲームは機能しない。正しいルールとか、公正なルールとか言ったって、それは所詮人為的に設定したものに過ぎず、必ずルールを握ってゲームを有利に導こうという力学が発生する。だからチェックしないと必ずコラプトする。格闘技なんかで、ルール無用の何でもありの本当に強い奴が勝つ的な、例えばプライドなんてのがありましたが、ルール無用と言うのもルールであり、そのゲームで有利になる人が必ず存在する。
ルール無用、言ってみれば自由というのが自然状態とか真実の姿とかいうのは素朴な考えで、それもまたゲームのルールであるわけです。自由であるというのがルール無用のなんでもありの弱肉強食の自然状態であるかのような錯覚をしてしまいがちですが、人間は社会というゲーム盤の上でしか生きられませんから、社会とかゲームの上での決め事である以上、それもまたルールでしかない。
ルールである以上、それによって有利になるプレイヤーは必ず存在するわけで、だから公正感を常にチェックする事が必要になるわけです。それが社会をドライブさせる為には必要不可欠であり、お上に依存してお任せではチェックにはなりません。
その公正感は誰がそう決めているのか?そのルールは誰が設定しているのか?誰が運用しているのか?常にチェックして行かざるを得ないのが、社会を維持する為に必要な事であるわけです。そういう意識がこの国には全く無い。誰かが設定した悪者に吹き上がるだけ。帰結として脱社会化する人が増えるのは当たり前です。社会が機能していないわけですから。そもそもこんな状態でコンプライアンスもクソもない。
しかし責任をとらせる事無く免罪するという方向性がそういう意味で言うと逆にとりやすいとも言えます。社会が壊れるも何も、そもそも自然物でそこにある所与のものと受け入れているわけですから、公正感なんてものはハナっから期待もしていないし、それを守らないと社会が壊れてしまうという危機感も無い。社会が壊れるも何もそもそも社会として駆動していないわけですから関係ない。
こういう状態は近代国家としては話にならない状況なのですが、だからこんなにどうにもならない状態になっているとも言える。この腐りきった状況をいったんリセットして、もう少しマシな近代国家の枠組みを、新たに構築していくしか現状を打破する事は出来ないでしょう。
あまり喜ぶ所ではないかもしれませんが、幸いな事にそういう意味では、この国ではリセットしやすい所もある。社会が壊れてしまう恐れも、ルールの公正感を損なう恐れもない、我々の心で許すと思えば許せてしまう状況でもあるわけです。
そして日本人の特性として、あまり良い所ではありませんが、忘れっぽさというのがありますので、そういう方向性が比較的とりやすいような気もします(もちろんこの忘れっぽさは痛みを忘れてしまうわけですから、例え学んだとしても無駄になる恐れがあり危険と表裏なのですが)。
そもそも近代は予定説の神とセットにならないと駆動しませんので、この国の近代化は疑似近代化です。疑似近代は天皇制とセットであり、それはとっくに壊れています。戦後の疑似近代は冷戦体制のもと、アメリカの傘の下という前提があって初めて駆動出来た。
日本というのは憲法よりも日米安保の方が上位にあります。日本は二権分立国家ですので司法の役割というのが非常に重いのですが、にもかかわらず安保に対して違憲合憲を判断出来ない。立憲国家としては有り得ない体制です。
日米安保は高度な外交的問題を含んでいるので、憲法違反が問われなくなってしまう。実際最高裁でもそういう判決が出たりする。戦前の天皇、キリスト教国の神と同じ扱いになってしまう。全く合理性がないかと言えばかつてはそれなりにあったのですが、すでにとっくの昔に冷戦体制が崩壊し、アメリカが盤石ではなくなっている現在、疑似近代が上手く作動しないのも当然と言えば当然の話なのです。
そうなりますとキリスト教的な神のいないこの国では、何を柱にして近代を駆動させるのか?という非常に厄介な問題があるのですが、それを書き出すと、終わらなくなりますので今日の所は詳しくは書けませんが、そういうものを自力でセッティングして近代を駆動させた国は歴史上一つもありません。
元々ある何らかのリソースを駆使し、神、もしくは神の代替物として利用出来ればいいのですが、そういうものが何一つ無い現在、非常に難しい事であるのは間違いありません。これが出来れば歴史に残る大偉業です。
なので許す心を持ち透明化したアーキテクチャーを構築出来たからと言っても、近代が上手く作動するわけではありません。一番肝腎要の土台の部分が無いわけですから。
まあそうは言ってもグローバル化で市場を外部化する方向性が進んだ事によって、比較的マネージメントやシステムの輸出がかつてよりは可能な時代になりましたので、形の上では近代化っぽく国をドライブさせる事が可能な時代になってもいます。
が、それが今後も上手く行くのかと言いますと、今回の金融不安の顛末を見ていますと、それも微妙な感じになっても来ましたので、いずれにせよ困難な道である事は間違いありません。おそらくそう簡単には事が解決する事は無いでしょう。失敗も沢山するでしょうし、間違いも起こる。その時に必要なものもやはり許す心ではないかと思うわけです。
くれぐれも現状の与党を許せとか言っているわけじゃありませんよ、腐った与党支配のままでよいという意味ではありません。叩くよりも我々には出来る事がありますから、それを行使すればいいだけの話です。
アホを政治家にはしない。アホしかいないので困っちゃうのですが、そういう場合は腐敗しないようにたえず変え続ける。何回も連続で当選してしまうような構造が問題です。恒久的な・・・・という言葉に誑かされず、絶えず恒久性を問う為に定期的に入れ替える。それが機能しなければ別の人に変える。
どんなに偉い人だってチェックが無ければいずれ腐って行きますから、たえず定期的に変えて、チェックさせるという事が重要なのでしょう。我々の権利を行使して情報開示されたら、まあ許してあげましょう。今まで溜まりに溜まった不正腐敗堕落は我々国民にも責任の一端はあります。
罪は水に流して、その代わり透明化してこれから不正腐敗が起こったら、今度は必ずサンクションが起こるという仕組みにする以外にこの国が浮上する経路が見当たらない。
その道のりは遠く絶望的に感じるかもしれませんが、我々が許す心を持てずただ叩くだけを繰り返すしか無いのなら、その道のりは遠いどころか永久に不可能です。例え遠くとも目指すべき方向性としてはそうする以外にありません。情報が可視化され、問題点が知覚出来るようにならないと賢くもなれないし、市民性の成熟も無い。
今の状態の民度では情報を可視化なんかしたら、それこそパニック状態に陥り、悪者叩きの断罪合戦が起こり、不毛な足の引っ張り合いが起こり、国が沈没するまで終わらなくなってしまうでしょう。
だから情報を公開出来ないという所がある。それは結局我々にも責任があるわけです。情報公開しろと言っても、情報公開本当にしていいの?と問われれば、いきなりは困るというのがこの国の民度です。そしてそれを逆手に取られている所も間違いなくある。
失敗は人を賢くします。しかし失敗を許さず、失敗したらお終いというのでは、失敗出来ない。間違ったり失敗しない人間なんてあまりいないのに、失敗出来ないとなれば隠す方向に行くのは止められません。
ただいかにバレずにズルをするかという変な知識が身に付くだけで、そこには何の学びもない。失敗は学びのチャンスでもある。それがみすみす利用出来ないような構造にあるから、いつまでたっても市民性は成熟出来ず、国民も賢くもなれないわけです。
失敗から学べなければ、こんなにもったいない事はありません。失敗して傷つく人がいるのは無視するわけには行きませんが、失敗を恐れて前に進まなければどっち道お先真っ暗です。それに失敗したらそれでゲームが終わりってわけではない。それでも続いて行く。それが人の歴史でもある。失敗から学ぶ為にも、許す心が必要なんじゃないかと思います。
怒りに任せて人と人がいがみ合う社会なんてロクなもんじゃありません。それに我々は誰かを許すとか許さないとか言える程、賢明な生き物ではないはずです。
特に失敗ばかり、間違いばかりの人生を送って来た自分のような人間は、人様に許してもらえなければ生きて行けません。しかし生きて行ければ反省も出来る。失敗したら断罪され抹殺される事を恐れながら生きる社会より、失敗しても復活出来る社会の方が健全な気がします。
この話題はこれにてEND!!
帰化した相撲の力士なんかに対して、日本の伝統を学べとか、日本人らしく振る舞えとか、国籍が日本人になっているにもかかわらず、空気が読めないといつまでも文句をいい、外国出身である事の文化の違いを認めず、同調圧力によって攻撃する。
しかし先日ノーベル賞を受賞した、日本人と言われる三人のうちの一人は、アメリカ国籍を持つアメリカ人であるにもかかわらず、日本人三人受賞としゃあしゃあと報じる。この珍妙さ。
入ってくる人間には故郷の文化を捨てて日本に同化しろといい、出て行って外国籍をとっている人間には都合のいい時だけ日本人だと主張する。外国に同化しろとは言わない。
ある所は厳格に主張し、ある所は曖昧に主張する。自分達のいい加減さを放置しながら、人には厳しく文句を言う。これが日本の伝統だというのならさっさと捨てた方がいい、下らな過ぎます。ヘドが出る。
人に対して厳格さを求めるという事は、それだけ自分の振る舞い方にも責任が生じなければ何の説得力ももちません。そういう事を気にしないで人の事ばっかり文句を言っているデレスケがいっぱいいますが、自分の振る舞い方に責任を持てないなら、自分に出来ない事を人に押し付けるのはあんまり美しくない。醜い。
ノーベル賞のようなめでたい事なんだから、固い事言うなよ、というのは自分もそう思います。自分はいい加減な人間ですから、別に何人だっていいじゃねえかと思ってしまいます。
それに国籍はアメリカだと言ったって日本人の血は流れているわけですから、アングロサクソンが受賞するよりは身近に感じますし。しかしそれと同じように、帰化した方々にたいしても、日本人になったとは言っても、文化とか風習とか道徳とかはやっぱり生まれた国の感性が残っていたりするのはすぐには消せないだろうし、また無理に消す事もないと思う。それでいいじゃねえかと思うわけです。
自分に対しては厳格であっても他人には寛容であるというのが理想であって、厳しい基準を人に押し付けといて、自分はいい加減というのは最悪です。そればっかりな気がする。
もちろん人間とは浅ましい生き物ですので、理想通りにはいかず、心の中でそういう矛盾した他人に厳しく自分に甘くなってしまいがちな所はあります。
しかし公衆の面前で堂々とそういう恥知らずな振る舞い方をしても何とも思わない輩がこんなに沢山いる日本で、伝統とか日本人らしさとかを人に押し付けるのは下らな過ぎます。別にそんな事どうだっていいじゃねえかと思う。それにそういう事に吹き上がっている人は人間としてお前は醜いぜって感じです。
こういう輩が跳梁跋扈して、その曖昧な正しさとやらを吹き上がっていもっともらしいことを言っているつもりになっているのを真に受けている人がどれくらいいるのかは知りませんが、人に対して許せないとなってしまう感受性を少し相対化する必要があります。
我々が許しの心を持ったからと言ったって、すぐにどうにかなるとは言いませんが、少なくとも構造問題をどうにかするには、知る事がまず重要で、その先はもちろん絶望して諦めるのは話になりませんし、怒りだけでは解決出来ません。
我々が許すコンセンサスを確立させて、それでも隠蔽するような構造には容赦なく攻撃するのはいいとは思いますが、許すという心が無ければ、この闘争に終わりは見えません。
そして透明化した仕組みを構築し、それをたえず我々が牽制する事を忘れない。普段はお任せでもいいけれど、ここぞという所ではキチンと意思表示する。そういう真っ当な仕組みに変えないと何も始まらない。その最初の一歩は許しの心を持てるかどうかにかかっていると言ってもいい。
そもそも行政官僚制の弱体化というのは、外交的なタクティクスとして仕掛けられている所もあるわけで、例えばかつて大規模店舗規制法緩和の時に、アメリカが日本の消費者利益の事なんか考えるわけなどないのに、メディアも政治家達もまんまと消費者利益という言葉を受け入れて、国民もそれに乗せられた結果、地方の空洞化を加速させました。年次改革要望書系のスキームは全てアメリカの国益に基づいているだけの話で、日本の事を考えているわけではない。その事に無自覚過ぎました。冷戦体制末期から崩壊以後のアメリカのプライオリティが変わっているという事に気付かなかった。今も気付いていなそうな人がいっぱいいますが。
そういう事と根は同じなので、無自覚に受け入れるのは危険であるとも言えます。まあ日本の様々な構造が突っ込まれると何も言えないヴァルネラビリティを抱えているのも確かですが、透明化というのはヴァルネラビリティを取り除くという意味では強化するという事になりますので、単に弱体化させて結果的に国民が困るだけではないのか?というチェックが常に必要でしょう。
普段からゴミだのカスだのクソだのバカだのアホだのウジ虫だのと散々クソミソに書いている自分がいうのもなんですが、まずは情報を知るという事が重要なので、多少過激な書き方をしております。しかしその先はやっぱり、人間は間違う事があるし、魔が差す事もある。人間は過ちを認める事も出来るし、やり直す事も出来る。そして許す事も出来るわけです。
善性に期待するならまず我々が許す心を持つ事が重要なのでしょう。その先にそういう腐敗が起こらないような善性を維持出来るような枠組みを一から構築し直すしかない。再構築ではありませんよ。
失敗したらまたやり直せばいい。すぐに決定的に何かを変えるという事は不可能に近い話ですし、時間もかかりますが、一番遠回りに見える道が実は一番近道という事もよくある話です。
それにもう局所的に叩いてどうにかなるような構造じゃありません。悪者を引きずり回して解決するようなヌルい話ではない。
根本から何から何まで腐りきっていてどうにもならない状況です。見渡すかぎり辺り一面そこら中が腐っていて、腐っていない所を探す方が大変だと言っても言い過ぎではないかもしれません。
このまま一蓮托生で沈没するんじゃあまりにも実りが無さ過ぎます。どこかでこの閉塞感を巻き直さないとどうにもならない。まず知る。そしてこの現状を打破する為に重要なのは怒りではなく、許しではないかと思うわけです。
もちろんそうなると通常の社会であれば、社会とは作為によって生み出された人為的なものでもあるわけですので、責任の所在を嘘でもいいからどこかになすり付けて、徹底的に叩くという事をやらないと、社会の公正感というのが壊れてしまいます。もともと社会なんてものはインチキですので、公正感が壊れると、社会そのものも壊れてしまいます。全部インチキなわけですから。
公正感が損なわれているにもかかわらず、キチンとジャスティファイされないとみんなが思ってしまえば、社会の公正さを保とうとは思わなくなってしまう。だから例えばアメリカなんかが公正感を保とうと躍起になるのはそこに理由があるわけです。下院で金融安定化法を否決するのも、三浦和義を裁くのも、そこに根がある。
しかし日本ではそもそも社会が作為によって生まれるものであるという事すら共通前提になっていません。近代国家とは言い難い素朴さです。海や河のように自然物と勘違いしている。だからどうせ変わらないと思ってしまう。人為的に設定したわけではないと思えば人為的に換えられるとも思えないのは当然と言えば当然です。この国での悪者叩きは公正感の護持というより、スッキリうっぷんを晴らしているだけです。
社会の公正感なんてあるわけないとみんなが思っているし、回復されるとも思わないし、無駄だと思っている。帰属集団の利権確保が公正感よりも高いプライオリティを持ってしまっても、それを止めようという力学が働かない。
公正感とかルールよりも同調圧力や空気が支配してしまう。共同体の外側は知ったこっちゃないという感じになる。大人から子供までそうです。
だからと言って共同体的なものが個人を包摂しているのかと言えば、抜け駆け合戦や蛸壺での鍔迫り合い、疑心暗鬼が支配し、空気を読むという作法からはじかれてしまえば、簡単に排除される。個人の取り替え不可能な属性ではなくて、空気を読んで波風を立てなければ誰でもいいという交換可能な承認でしかない。
だから社会がまともに機能しているとは言い難い状況になるのも必然です。放っておけば機能すると勘違いしている。その上ルールを善悪と区別出来ないのですからどうにもなりません。何かに気付いて社会やルールをインチキだと吹き上がる人がいっぱいいるのが良い例です。そんな事は当たり前の話なのです。
インチキだからこそ、その社会を形作る公正感とかルールとかを感情の問題とは別にして厳しく絶えずチェックして行かないと危険であるという前提が欠けている。社会が一種のゲームであるという事に無自覚です。
ゲームには必ずルールがあり、ルールの無いゲームは機能しない。正しいルールとか、公正なルールとか言ったって、それは所詮人為的に設定したものに過ぎず、必ずルールを握ってゲームを有利に導こうという力学が発生する。だからチェックしないと必ずコラプトする。格闘技なんかで、ルール無用の何でもありの本当に強い奴が勝つ的な、例えばプライドなんてのがありましたが、ルール無用と言うのもルールであり、そのゲームで有利になる人が必ず存在する。
ルール無用、言ってみれば自由というのが自然状態とか真実の姿とかいうのは素朴な考えで、それもまたゲームのルールであるわけです。自由であるというのがルール無用のなんでもありの弱肉強食の自然状態であるかのような錯覚をしてしまいがちですが、人間は社会というゲーム盤の上でしか生きられませんから、社会とかゲームの上での決め事である以上、それもまたルールでしかない。
ルールである以上、それによって有利になるプレイヤーは必ず存在するわけで、だから公正感を常にチェックする事が必要になるわけです。それが社会をドライブさせる為には必要不可欠であり、お上に依存してお任せではチェックにはなりません。
その公正感は誰がそう決めているのか?そのルールは誰が設定しているのか?誰が運用しているのか?常にチェックして行かざるを得ないのが、社会を維持する為に必要な事であるわけです。そういう意識がこの国には全く無い。誰かが設定した悪者に吹き上がるだけ。帰結として脱社会化する人が増えるのは当たり前です。社会が機能していないわけですから。そもそもこんな状態でコンプライアンスもクソもない。
しかし責任をとらせる事無く免罪するという方向性がそういう意味で言うと逆にとりやすいとも言えます。社会が壊れるも何も、そもそも自然物でそこにある所与のものと受け入れているわけですから、公正感なんてものはハナっから期待もしていないし、それを守らないと社会が壊れてしまうという危機感も無い。社会が壊れるも何もそもそも社会として駆動していないわけですから関係ない。
こういう状態は近代国家としては話にならない状況なのですが、だからこんなにどうにもならない状態になっているとも言える。この腐りきった状況をいったんリセットして、もう少しマシな近代国家の枠組みを、新たに構築していくしか現状を打破する事は出来ないでしょう。
あまり喜ぶ所ではないかもしれませんが、幸いな事にそういう意味では、この国ではリセットしやすい所もある。社会が壊れてしまう恐れも、ルールの公正感を損なう恐れもない、我々の心で許すと思えば許せてしまう状況でもあるわけです。
そして日本人の特性として、あまり良い所ではありませんが、忘れっぽさというのがありますので、そういう方向性が比較的とりやすいような気もします(もちろんこの忘れっぽさは痛みを忘れてしまうわけですから、例え学んだとしても無駄になる恐れがあり危険と表裏なのですが)。
そもそも近代は予定説の神とセットにならないと駆動しませんので、この国の近代化は疑似近代化です。疑似近代は天皇制とセットであり、それはとっくに壊れています。戦後の疑似近代は冷戦体制のもと、アメリカの傘の下という前提があって初めて駆動出来た。
日本というのは憲法よりも日米安保の方が上位にあります。日本は二権分立国家ですので司法の役割というのが非常に重いのですが、にもかかわらず安保に対して違憲合憲を判断出来ない。立憲国家としては有り得ない体制です。
日米安保は高度な外交的問題を含んでいるので、憲法違反が問われなくなってしまう。実際最高裁でもそういう判決が出たりする。戦前の天皇、キリスト教国の神と同じ扱いになってしまう。全く合理性がないかと言えばかつてはそれなりにあったのですが、すでにとっくの昔に冷戦体制が崩壊し、アメリカが盤石ではなくなっている現在、疑似近代が上手く作動しないのも当然と言えば当然の話なのです。
そうなりますとキリスト教的な神のいないこの国では、何を柱にして近代を駆動させるのか?という非常に厄介な問題があるのですが、それを書き出すと、終わらなくなりますので今日の所は詳しくは書けませんが、そういうものを自力でセッティングして近代を駆動させた国は歴史上一つもありません。
元々ある何らかのリソースを駆使し、神、もしくは神の代替物として利用出来ればいいのですが、そういうものが何一つ無い現在、非常に難しい事であるのは間違いありません。これが出来れば歴史に残る大偉業です。
なので許す心を持ち透明化したアーキテクチャーを構築出来たからと言っても、近代が上手く作動するわけではありません。一番肝腎要の土台の部分が無いわけですから。
まあそうは言ってもグローバル化で市場を外部化する方向性が進んだ事によって、比較的マネージメントやシステムの輸出がかつてよりは可能な時代になりましたので、形の上では近代化っぽく国をドライブさせる事が可能な時代になってもいます。
が、それが今後も上手く行くのかと言いますと、今回の金融不安の顛末を見ていますと、それも微妙な感じになっても来ましたので、いずれにせよ困難な道である事は間違いありません。おそらくそう簡単には事が解決する事は無いでしょう。失敗も沢山するでしょうし、間違いも起こる。その時に必要なものもやはり許す心ではないかと思うわけです。
くれぐれも現状の与党を許せとか言っているわけじゃありませんよ、腐った与党支配のままでよいという意味ではありません。叩くよりも我々には出来る事がありますから、それを行使すればいいだけの話です。
アホを政治家にはしない。アホしかいないので困っちゃうのですが、そういう場合は腐敗しないようにたえず変え続ける。何回も連続で当選してしまうような構造が問題です。恒久的な・・・・という言葉に誑かされず、絶えず恒久性を問う為に定期的に入れ替える。それが機能しなければ別の人に変える。
どんなに偉い人だってチェックが無ければいずれ腐って行きますから、たえず定期的に変えて、チェックさせるという事が重要なのでしょう。我々の権利を行使して情報開示されたら、まあ許してあげましょう。今まで溜まりに溜まった不正腐敗堕落は我々国民にも責任の一端はあります。
罪は水に流して、その代わり透明化してこれから不正腐敗が起こったら、今度は必ずサンクションが起こるという仕組みにする以外にこの国が浮上する経路が見当たらない。
その道のりは遠く絶望的に感じるかもしれませんが、我々が許す心を持てずただ叩くだけを繰り返すしか無いのなら、その道のりは遠いどころか永久に不可能です。例え遠くとも目指すべき方向性としてはそうする以外にありません。情報が可視化され、問題点が知覚出来るようにならないと賢くもなれないし、市民性の成熟も無い。
今の状態の民度では情報を可視化なんかしたら、それこそパニック状態に陥り、悪者叩きの断罪合戦が起こり、不毛な足の引っ張り合いが起こり、国が沈没するまで終わらなくなってしまうでしょう。
だから情報を公開出来ないという所がある。それは結局我々にも責任があるわけです。情報公開しろと言っても、情報公開本当にしていいの?と問われれば、いきなりは困るというのがこの国の民度です。そしてそれを逆手に取られている所も間違いなくある。
失敗は人を賢くします。しかし失敗を許さず、失敗したらお終いというのでは、失敗出来ない。間違ったり失敗しない人間なんてあまりいないのに、失敗出来ないとなれば隠す方向に行くのは止められません。
ただいかにバレずにズルをするかという変な知識が身に付くだけで、そこには何の学びもない。失敗は学びのチャンスでもある。それがみすみす利用出来ないような構造にあるから、いつまでたっても市民性は成熟出来ず、国民も賢くもなれないわけです。
失敗から学べなければ、こんなにもったいない事はありません。失敗して傷つく人がいるのは無視するわけには行きませんが、失敗を恐れて前に進まなければどっち道お先真っ暗です。それに失敗したらそれでゲームが終わりってわけではない。それでも続いて行く。それが人の歴史でもある。失敗から学ぶ為にも、許す心が必要なんじゃないかと思います。
怒りに任せて人と人がいがみ合う社会なんてロクなもんじゃありません。それに我々は誰かを許すとか許さないとか言える程、賢明な生き物ではないはずです。
特に失敗ばかり、間違いばかりの人生を送って来た自分のような人間は、人様に許してもらえなければ生きて行けません。しかし生きて行ければ反省も出来る。失敗したら断罪され抹殺される事を恐れながら生きる社会より、失敗しても復活出来る社会の方が健全な気がします。
この話題はこれにてEND!!