前回の続きです。

それじゃ何が効果的なのかと言いますと、許す、という事です。非常に難しい事ですが、やる気になれば簡単な話で金も時間もかかりません。引っ張っといてなんだそんな事かと思ってらっしゃるそこの貴方、話の流れで予想がつくようなベタな話で申し訳ありませんが、これが非常に重要なのではないかと思うのです(そんな事わかってるよと声が聞こえて来そうですが)。

今この腐りきった構造というのは特定のどこかというのではなくて、上から下までこの国を覆いつくしていてどうにもならない、二進も三進もいかない状況に陥っています。それらは、権益云々というのももちろんありますが、バレたら終わりだというモチベーションによっても動いています。したがって隠蔽、誤摩化し、逃げ切りというインセンティブに支配されている。

これは我々が絶対に許せないという怒りを抱えているからでもある。そういう世論の真っ只中で、わざわざ情報公開して自爆しようと思う人はいるわけありません。様々な局面で血祭りに上げられて地獄に落とされている人達がいっぱいいる状況で、反省して膿みを吐き出せと言っても、無理ってもんです。誰だって自分がかわいい。

今、この国は悪者を見つけ出して、徹底的に血祭りに上げるという行動作法が支配しています。殆ど囮に引っかかっているだけなのですが、その攻撃力は凄まじく、矛先を向けられたらお終いだと、隠蔽している連中は必ず思うに決まっています。だからポピュリズムに媚びる事を前提にした権益拡張にみんながみんな邁進するわけです。

社保庁の不正腐敗などを見ているととてもそんな気にならないような怒りがこみ上げて来ますが、その怒りというのは彼らにとっては恐れにしかなりませんので、何とかして逃げ切ろうというインセンティブが働く事はあっても、正直に告白して血祭りに上げられる覚悟を持って罰を受けようというインセンティブは働き難い。ムカつきますがそれが人間です。偉い人であれば話は別かもしれませんが、偉い人がやっていればそもそもあんなに腐敗するわけありません。

それに人間なんてそういうどうしようもなさを抱えているものです。口じゃ立派な事は簡単に言えますが、魔が差してしょうもない行動を取ってしまう事もある。だから人はみんな後悔を抱えて生きているわけです。

後悔や悔いの無い生き方をしている人ももちろんいるでしょうけれど、無駄とは言いながらも、あのときああしていれば・・・・・という無駄な自問自答をしてしまうものです。

それに女性がどうかは知りませんが、少なくとも一定の年齢を越えた男性であれば、後悔をした事が無いという人はいないでしょう。みんな日常的に後悔をしている(してきた)。

生まれてこのかた一回もオナった事が無いという人がいるのなら話は別でしょうけれど、男なら誰しもセンズリかっ飛ばした後の虚しさは知っているはずです。夢精であっても(自分はした事ありませんが)そうでしょう。何とも言えない虚しさと後悔。情けなさとバカバカしさを感じるはずです。あんなに盛り上がったオカズが色褪せて見える。

虚しさを感じる瞬間がアートだと言ったのはアンディ・ウォーホールでしたが、そんな高尚な話は別として、誰しも男なら共感出来る情けなさです。

それに人間なんて不完全ですから失敗したり間違えたりはつきものです。誰だってそういう事はあり得る。

オバマのもとで副大統領候補になったバイデンという上院議員がいます。かつて彼はオバマが民主党候補を争っている最中、大統領候補にオバマがなれるか?という質問に対して、彼は確かに『黒人にしては』頭もいいし見た目もいい、発の本格的候補として彼のような人が出てくるのは嬉しいが、それはまだ無理だ、と言ってしまった。

この失言によってその年の政治家の失言大賞第二位に輝いた過去があります。悪気は無いのだろうとは思いますが、黒人にしてはという黒人を普段どういう風にみているのかを表す不適切な言い回しをした事で叩かれた。

その彼をオバマは副大統領候補として迎えるという事には、外交通とか、キャリアと安定感とか、いろいろ言われますが、許しというメッセージも込めて発している。

アメリカはブッシュというスットコドッコイを支持してしまったおかげで、現状の二進も三進もいかない状況に陥ってしまっている。本当はブッシュが全部悪いのかと言えばそんな事は全然無いのですが、少なくともあれだけ人気のない歴史に残る恥知らずな大統領として名前を残してしまった。多くの国民も間違いであったと後悔している。

それを断罪するわけではなくて、アメリカは一つなんだと、Yes We Canとか、Changeといったようなポジティブなメッセージの裏側に、間違いは誰にでもある、間違いに気付けば正す事が出来るではないかと、変われるではないかと、壁を作って攻撃するよりも、国民を包摂して行くような許しを一種のメッセージとして発しています。

彼に能力があるのかどうかは現時点ではわかりませんが、それが彼の人気でもある。だからあんなに何の実績も無いのに支持されているわけです。まあイメージで選んで失敗しているのにまたかよって気もしますが、選択肢が限られていますので、どちらかと言えばそうなってしまうのはしょうがないと言えばしょうがない。

それに比べると悪者を探し出して叩いてスッキリするというサイクルにとらわれてしまっているのが現状のこの国です。コンプライアンス不況なんていう本末転倒状態も起こっている。不正腐敗はムカつきますので怒る気持ちは十分わかりますし、自分もはらわたが煮えくり返る気持ちです。国会とか霞ヶ関なんかテロで爆破されちゃえばいいのにとか思ってしまったりもする。

しかし延々と悪者叩きを続けて、結果的に痛い目に合っているのは国民自身であり、とうの官僚機構とか国家権力とかには全く反省する兆しも見えないし、権益は益々拡張するばかり、痛い目に合うのは我々だけというパターンが延々と繰り返される。

仮に政権交代が起こっても、潔癖主義的に悪者叩きをするだけでは、何もよくはならない。

よく官僚たたきをするだけじゃダメだ的な、自民党的な事が言いたいわけではありません。彼らは何も変えないし権益もそのまま悪者は囮として生け贄をチョロッと差し出すだけで、そういう事をしゃあしゃあとほざきます。そういう事ではなくて、今までの不正腐敗はもう洗い流すから、一辺全部表に出せという事です。

全部表に出せば腐敗堕落の構造はすべて不問に付すから、過去ではなくて未来に向かってこれから腐敗が起こらないような透明化したアーキテクチャーの構築と、不正が起こったらそれをキチンと取り締まる事が出来るような枠組み構築をする。

その一歩を踏み出す為に絶対に必要なのが我々の許しの心です。その為には政権交代を常態化しないと絶対無理だとは思いますが、政権交代が当たり前の国になったとしても、我々の民意に媚びるのが政治家ですから、我々が怒りに燃えて吹き上がっていれば、不毛なゼロサムゲームは延々と続いて行く。ゼロサムじゃありませんね。ゼロしか無い。

今の悪者叩きの風潮では解決する見込みは無い。その前に我々の社会が壊れてしまう。怒りを鞘に納めて、今までの事は水に流してこれからを考えようぜとならないと、隠蔽するというインセンティブは消せない。

アメリカ依存の腐敗の連鎖、官僚機構の腐敗の連鎖、自民党独裁体制のもとでの腐敗の連鎖と、目にすれば耐えられないような構造が溢れかえっています。当然それを目にすれば怒りに震える気持ちは理解出来る。

しかしそれを変える為にはどこかで許す事が重要で、的確な情報が開示されていなければ処方箋も打てません。何の病気かわからないのに治療は出来ない。病名がわかって初めて処方箋も打てる。

どうせ怒りをぶつけるのなら、可視化出来た囮の悪者を叩くのではなくて、それを隠蔽し続けたくなるような構造に怒りをぶつけた方がいい。腐敗を情報公開すれば免罪するというコンセンサスが無いと、いつまでたっても逃げ切ろうと振る舞う輩を止める事は出来ない。情報を握っているのも権力を握っているのも彼らなわけですから。

それでもどうしても許せないというのなら、権力を破壊して革命を起こすしかありません。今の統治権力は腐りきっています。法律でも裁けないし、権力を握っているのは彼等の側です。それをどうにかするには暴力革命しか無い。みんなぶっ殺してレジームを自力で変えるしかない。抵抗権としての革命権は近代国家のシステムでは国民の正当な権利です。だから躊躇する必要も無い、正当な権利を行使するそれだけの話です。

しかしそんな事が可能でしょうか?絶対無理だと言っていい。誰もやる気にならないでしょう。許しの無い断罪では、暴力は暴力を生むだけです。統治するレジームが変わっても同じ事が繰り返されるでしょう。

許せないという気持ちは、そのまんま権益護持の為のリソースとして利用されてもいます。適当に末端の囮を差し出していればいくらでも目くらましが出来る。目くらましに引っかかり続けている以上、本当の問題点には届かない。届かないのだからそれを護持しようとしている連中にとっても好都合なわけです。したがって我々の可能な選択肢としてはどちらにせよ許すしか無いわけです。

我々が普段から政治や社会について真剣に考えるような状況というのは、ある意味危険な所がある。ポピュリズムを生み出してしまう可能性が内包されています。だから日本の今の制度は国民の負担の免罪という意味でも、ポピュリズムの暴走という意味でも、安全装置としては悪い制度ではない。

政治主導はポピュリズムを生みますから、保険という意味では行政官僚制というのはそれなりに合理的な制度ではあります。

しかし現状はこれです。あれだけ優秀だと言われているエリート官僚を集めても、結局は外部からのチェックが無ければ権力や組織は必ず腐敗する。仮に一人一人が賢明であっても、それぞれが自分の範囲で最適化した結果、合成の誤謬が起こってしまう。怒りは個人に向けるよりもそういう状況を生み出してしまう構造にぶつけた方が実りがある。

そういう構造のもとでは例え個人個人が賢明であったとしても、必ず腐敗堕落、合成の誤謬が生まれてしまう。だから腐敗堕落をしている奴らが悪者なのだ、ではなくて、その構造が問題なんだから、個人の問題はこの際水に流すから、コラプションの起こり難い仕組みを構築しましょうという方向性に舵を切り替える必要がある。そうしないと終わりが無い。

先日コメント欄に書いた事なんですが、罪を憎んで人を憎まずとか、盗人にも三分の理とか、一寸の虫にも五分の魂とか、日本にはもともと寛容さというか、矮小なものを救いとるような精神があったのだという事が言われます。

本当かどうかは知りませんが、少なくとも罪を憎んで人を憎まずというのは近代刑法の鉄則とも言えますので、本当に昔の人がこういう精神を持っていたというのならば、今よりもよっぽど近代国家の国民たる資格があると言えます。

罪を憎むどころか、人に対しても容赦のない怒りをぶつけ奈落の底に突き落とすのが今の日本の有り様です。そして一切反省もしない。これでは近代国家の国民としては話になりません。

相撲の八百長に吹き上がっている専門家と称するゴミ共は伝統だのなんだのと騒いでいる割には、こういった日本の伝統的な精神が全く無い。ケツの穴の小さい野郎共ばかりです。バカ保守なんかが典型ですが、伝統だの歴史だのと吹き上がるウジ虫共がいっぱいいます。こういう奴らに限って、少年犯罪なんかが起こると、重罰化だ!!警察は何をしているんだ!!的な全く寛容さのない伝統の精神のかけらも無いようなクソばかりです。

人に伝統云々をいう前にてめえらがまず学べよって感じです。威勢のいい事ばかりをほざく。もうバカを通り越して滑稽ですらある。そういう観念にとらわれて生きている姿は、若干可哀想にも思えてくる。

つづく!!