前回の続きです。
話が大幅にそれましたが、何がいいたいのかと言いますと、理想論というのは現実を打破する為には重要なのですが、この国ではそれを神棚に祭り上げて、現実を無視してしまってかえって事を厄介にしてしまっている側面が強い。
国家権力もそういう国民性を利用して情報統制をしてコントロールしている。理想を掲げて現実を見ないのでは、我々は理想を生きているのではなくて、現実を生きているわけですから弊害が大きい。
理想を目指すのは重要ですが、現実がどうなっているのかを見極めて、その上で有効なコミットメントでなければ理想に食われて利用されてしまいます。
逆に理想も理念も目的も原理原則もなく、ただ都度都度恣意的に現実にコミットして流されて行くというのも問題です。今行なっている事がどういう帰結を生み出すのかが全く無い。
単に政治家の票稼ぎ、官僚の権益の為に右往左往し、情報統制をし、メディアを操り国民をコントロールする。当然行き着く先は、こんなはずではなかった的な帰結になるのがオチです。そういう膿があらゆる所で現に吹き出ている。
こんなもんにコントロールされている場合ではありません。そんなこっちゃカルト教団の狂信者と同じです。というかそれ以下です。カルト教団の狂信者達をみてわかっているのにそうなのですから。
理想と現実の二元論ではなくて、その狭間でバランスを取る感覚こそが重要なのでしょう。
アメリカのブッシュ政権というのは理想主義でした。ネオコンというのは70年代の民主党議員アービング・クリストルのようにニューヨークトロツキスト、ユダヤ系の左翼の人達がルーツであって、非常に理想主義的です。
初期ネオコンが出て来た時の物言いというのは非常に面白くて、デタント政策、均衡主義というのは単なるエゴイズムに基づく妥協にしか過ぎないと、確かにそれで平和は保たれるかもしれないが、それによって悪が蔓延り、悪の元で抑圧される人間が沢山出てくる、だから現実主義も大概にして、そろそろ我々は正義に向かって踏み出すべきではないか、みたいな事を言った。
理想はわかります。実際、貧しい国で抑圧されている人達を放置して平和主義もクソもない。だから理想として間違ってはいない。しかし結果はこれです。
オバマにしろマケインがなるにしろ、アメリカは相当現実主義に引き戻さねばならない局面にいます。理想はいいけれど、現実をみろ、滅茶苦茶じゃないか、という感じで。しかし理想のない現実主義もこれまた手段の目的化を生み出し問題になりますから、オバマにしろマケインにしろあれこれ理想を語るわけです。
日本では現実を見ない理想主義と、理想のない手段が目的化してしまった現実主義ばかりです。これはどちらが正しいというのではない。どちらもある意味で正しく、ある意味で間違っている。
左翼と右翼、リベラリズムとリバタリアニズムと一緒で、そのバランスの中でこそまともな社会を保つ事が出来る。
例えば日本では小林よしのりの「ゴー宣」を読んで自己イメージとか社会に対するイメージを育んだ世代が、ある種のヘタレ右翼図式に引っかかっているという事がよく言われます。小泉自民党の支持基盤もこの辺の層だと言われている。実際に竹中小泉のターゲットもそこでした。多分今は反小泉になっているのでしょう。
彼らの言っている事を支持する事はもちろん出来ませんが、そういう人達が一定数増えた事によって、組合系の腐敗、大手メディアの捏造体質にチェックが入ったわけです。かつて肩で風を切って偉そうにしていた(インチキ)リベラルにはそこがチェック出来なかった。もろとも腐っていたわけです。
小泉の事ももちろん支持出来ませんが、彼の登場によって、悪平等主義にチェックが入った事もまぎれもない事実です。競争が何でもかんでもいいとは言いませんが、例えば学校の徒競走で、おてて繋いで一緒にゴールとか何考えてんだと思うようなわけのわかんない平等主義によって、この国は腐っていたわけです。
リベラル側はその事をチェックするどころか、加担していたわけですから、今リベラル勢力が反小泉を掲げて競争の弊害を喚き立てているわけですが、全面的にその事を支持するわけには行かない。お互いが牽制し合ってこそ、バランスのある社会になる。
左に左はチェック出来ないし、右に右はチェック出来ない。この国では左でも右でも疑似が多くて、やる気になれば左が疑似左を右が疑似右を牽制する事も出来るのですが、困った事に疑似ばかりなので蛸壺内の鍔迫り合いになってしまう。やっぱり疑似左右が綱引きをする事によってある種のバランスも生まれるのでしょう。
悪いものは悪いんだという善悪の基準は正しいのでしょう。理想としてはそれが出来ればそれにこした事はないかもしれない。しかし現実はそうはいかない。だけどそうはいかないからと言って悪い事をしても平気な顔をして蔓延っているのもマズい。
それを出来るだけ公平且つ公正に裁く為には、人為的に設定したルールが必要で、ルールを設ける以上はそれが的確に運用されているのかをチェックしなければ上手く行かない。所詮人が作ったものに過ぎない。絶対視する事も危険だけど、無いと上手く回らないし、それしか合理的な方法も無い。
理想論に傾きすぎて現実を見ないのも、現実に傾きすぎて理想を失うのもロクなもんじゃないわけで、そういうバランスの上で初めて社会は上手く回る。ルールはそのバランスを取る為には必要なものでもあって善悪の基準ではありません。
だから善悪の基準で裁いているわけではない。善悪の普遍的な基準など設定出来ませんから事実上不可能なので、ルールがそれを担保するわけです。これが我々人間の現時点での限界であり、培って来た叡智なわけです。
最近、食品偽装のような問題、何々偽装というのが非常に多い。ここで必ず盛り上がるのが、メディアに火をつけられた悪いものは悪いんだという世論です。徹底的に血祭りに上げるという状態になる。
しかし悪いものは悪いんだと騒いで、誰が最終的に傷つき誰が得をするのか、そういう事を考えないわけには行きません。悪いものは悪いと判断する基準はどこにあるのか?誰が判断しているのか?そしてその基準はコラプトしていないか?
善悪で吹き上がるのも結構ですが、その基準を担保しているものが正常に機能しているのかというチェックがあまりにも弱過ぎる。
談合体質のメディア、情報の不透明さ、権力の恣意性を許す国民性。目の前に見える悪者は殆どが囮で、その背後に利用している輩がいる。そこを問題にしなければ事はもっと厄介になる。三浦氏の事件だってこれだけ問題点がありながら、彼の死によってもう闇の中です。
それに悪いものは悪いんだと今度は痛めつける立場に立っているという事にも敏感にならねばなりません。実際自殺しちゃう人も結構いますし、今回の三浦氏だって建前上は自殺なわけです。加害者であると言われている人が被害者へとなって行く。正しさと被害にあった(人に同調して)という事で、錦の御旗を振りかざし加害者へとなって行く。
もちろんこの逆転現象で、(加害者から)被害者に転じた人に対して救済される事もないし、徹底的に尊厳を破壊して、とことん追い込んでしまう。よっぽど全くの冤罪とか、勘違いだったという事が明らかにでもならないかぎり、裁判で無実になったとしても、でもどうせやってるんじゃねえか?という疑いのスティグマは消えない。悪魔の証明を問われ、無限責任を負う事になる。
一方(被害者から、もしくはそれに同調する人達から)加害者に転じた個人と大衆は、どんなに傷つけたとしても、ほぼその事でサンクションがあるわけでもないし、反省もしない。裁判で無罪になったとしても、だってどうせやってるんだろ、怪しいじゃねえか、という共通了解さえあれば何でもOK、なぜなら相手は悪であるから。全くの無罪とか、冤罪であったという事に気付いても、自分達に責任があるとは感じない。手遅れになるまで追いつめても、情報に騙されていた、我々は悪くないんだという、太平洋戦争軍部に騙されていた図式で免罪されると思っている。現に三浦氏が死んでも誰もその自覚がない。善悪の逆転現象が起こっているという事に気付かない。
いくら相手が悪くたって、物事には程度というものがある。お前が悪いんだとメッタクソにぶっ飛ばせば、それは単なる暴力にしかならない。
傷ついたとか、傷つけられたとか騒いでいる人が、こんなにいっぱいいる社会で、何でこれほど鈍感なのか意味がわからない。これは水戸黄門的感情劇、善悪二元論が感覚を腐らせている。自分はヒューマニストではないので人道的観点とか言うお題目には全く興味はありません。しかしそういう自分が見ていても、いくら何でも酷過ぎはしまいか?と思ってしまうのです。
理想を追い求め挫折し、現実に流されて無意味さに絶望する。こういう狭間で人は右往左往する。一方で痛い目に合うと、向こう側が心地よさそうに見える事もある。二元論的にシロかクロかととらえるのではなく、どちらのまなざしも忘れずに冷静にバランスをとる事が重要なのでしょう。
そして現実の中にも理想の中にも実に様々な視点があり視座を輻輳させ、真実と思っている現象を別の角度からどういう風に見えるのかと常に相対化させる事、そして相対化するだけで、コミットメントが無くてただニヒリスティックになるのもやっぱり問題で、アドホックにならざるを得ない部分は間違いなくありますが、バランス感覚のあるコミットメントを養う必要があるのかもしれません。足の引っ張り合いや背後取りゲームばっかりやってる場合ではないのです。
三浦氏は自由になった後、500件近くメディアなどに対して名誉毀損で訴えて、勝率5割、時効が成立しているものや、謝罪を受け入れたものをはぶけば、8割の勝率で勝ちまくっていました。メディアの弊害を強く訴え、報道被害に対して大きな声をあげていた。彼がどういう人間であろうと、言っている事は間違っていない部分があった。
しかしメディアにとってははした金で、全く反省などする動機にもならない。こんな小さな叫びなんて痛くも痒くもないわけです。情報の流れを独占し、恣意的にスクリーニングをかければいくらでも情報操作が出来る。この国ではこういうものに対して甘過ぎる所がある。
彼のようにあれだけのサンクションを受けながら這い上がってくる図太さは、普通の人にはありません。その彼も今回の件では死んでしまった。メディアもさぞ喜んでいる事でしょう。
そして最近ではこの名誉毀損を政治家とか企業のお偉いさんとかがフリーのジャーナリストを叩くのに使い出している。キャノンの御手洗しかり、ジャニーズしかり、安倍の秘書官しかり、個人攻撃として莫大な賠償金を吹っかけて、ジャーナリズム活動の邪魔をしている。
普通に聞けば訴えるような事か?と思える事でも、ジャーナリストの言っている事がどう聞いても正しいのではないかと思えても、傷ついた、損害を被ったと言えばいいわけです。
昔がよかったとか言うつもりはありませんが、最低限そういう立場にある人はもう少し常識があったはずです。強い力を握っているという事に自覚的であった。もちろん非常識な輩もいたでしょうけれど、最近はそういう輩が多過ぎます。
企業側や政治家側は勝とうが負けようが、ようは威嚇効果によって黙らせる事が目的なので効果覿面です。個人で賠償するには額も大きいし、訴えられているという事実そのものが、個人のジャーナリストを仕事からはじく効果もある。この国の司法制度は強者に甘く弱者に容赦ないのが現状です。
これに対して全くチェックが働いてないのも、我々が水戸黄門的勧善懲悪の善悪二元論の囮に引っかかり続けているからです。三浦氏の問題点にこれだけ完璧にスルーしてしまう国民性には絶望しか感じません。
三浦氏を殺したのは誰か?少なくとも日本人全てが間接的に関わっている。まずは最低限その事を自覚しないと始まりません。手遅れになる前に、早いとこ目覚めてほしいものです。
この話題はこれにてEND!!
話が大幅にそれましたが、何がいいたいのかと言いますと、理想論というのは現実を打破する為には重要なのですが、この国ではそれを神棚に祭り上げて、現実を無視してしまってかえって事を厄介にしてしまっている側面が強い。
国家権力もそういう国民性を利用して情報統制をしてコントロールしている。理想を掲げて現実を見ないのでは、我々は理想を生きているのではなくて、現実を生きているわけですから弊害が大きい。
理想を目指すのは重要ですが、現実がどうなっているのかを見極めて、その上で有効なコミットメントでなければ理想に食われて利用されてしまいます。
逆に理想も理念も目的も原理原則もなく、ただ都度都度恣意的に現実にコミットして流されて行くというのも問題です。今行なっている事がどういう帰結を生み出すのかが全く無い。
単に政治家の票稼ぎ、官僚の権益の為に右往左往し、情報統制をし、メディアを操り国民をコントロールする。当然行き着く先は、こんなはずではなかった的な帰結になるのがオチです。そういう膿があらゆる所で現に吹き出ている。
こんなもんにコントロールされている場合ではありません。そんなこっちゃカルト教団の狂信者と同じです。というかそれ以下です。カルト教団の狂信者達をみてわかっているのにそうなのですから。
理想と現実の二元論ではなくて、その狭間でバランスを取る感覚こそが重要なのでしょう。
アメリカのブッシュ政権というのは理想主義でした。ネオコンというのは70年代の民主党議員アービング・クリストルのようにニューヨークトロツキスト、ユダヤ系の左翼の人達がルーツであって、非常に理想主義的です。
初期ネオコンが出て来た時の物言いというのは非常に面白くて、デタント政策、均衡主義というのは単なるエゴイズムに基づく妥協にしか過ぎないと、確かにそれで平和は保たれるかもしれないが、それによって悪が蔓延り、悪の元で抑圧される人間が沢山出てくる、だから現実主義も大概にして、そろそろ我々は正義に向かって踏み出すべきではないか、みたいな事を言った。
理想はわかります。実際、貧しい国で抑圧されている人達を放置して平和主義もクソもない。だから理想として間違ってはいない。しかし結果はこれです。
オバマにしろマケインがなるにしろ、アメリカは相当現実主義に引き戻さねばならない局面にいます。理想はいいけれど、現実をみろ、滅茶苦茶じゃないか、という感じで。しかし理想のない現実主義もこれまた手段の目的化を生み出し問題になりますから、オバマにしろマケインにしろあれこれ理想を語るわけです。
日本では現実を見ない理想主義と、理想のない手段が目的化してしまった現実主義ばかりです。これはどちらが正しいというのではない。どちらもある意味で正しく、ある意味で間違っている。
左翼と右翼、リベラリズムとリバタリアニズムと一緒で、そのバランスの中でこそまともな社会を保つ事が出来る。
例えば日本では小林よしのりの「ゴー宣」を読んで自己イメージとか社会に対するイメージを育んだ世代が、ある種のヘタレ右翼図式に引っかかっているという事がよく言われます。小泉自民党の支持基盤もこの辺の層だと言われている。実際に竹中小泉のターゲットもそこでした。多分今は反小泉になっているのでしょう。
彼らの言っている事を支持する事はもちろん出来ませんが、そういう人達が一定数増えた事によって、組合系の腐敗、大手メディアの捏造体質にチェックが入ったわけです。かつて肩で風を切って偉そうにしていた(インチキ)リベラルにはそこがチェック出来なかった。もろとも腐っていたわけです。
小泉の事ももちろん支持出来ませんが、彼の登場によって、悪平等主義にチェックが入った事もまぎれもない事実です。競争が何でもかんでもいいとは言いませんが、例えば学校の徒競走で、おてて繋いで一緒にゴールとか何考えてんだと思うようなわけのわかんない平等主義によって、この国は腐っていたわけです。
リベラル側はその事をチェックするどころか、加担していたわけですから、今リベラル勢力が反小泉を掲げて競争の弊害を喚き立てているわけですが、全面的にその事を支持するわけには行かない。お互いが牽制し合ってこそ、バランスのある社会になる。
左に左はチェック出来ないし、右に右はチェック出来ない。この国では左でも右でも疑似が多くて、やる気になれば左が疑似左を右が疑似右を牽制する事も出来るのですが、困った事に疑似ばかりなので蛸壺内の鍔迫り合いになってしまう。やっぱり疑似左右が綱引きをする事によってある種のバランスも生まれるのでしょう。
悪いものは悪いんだという善悪の基準は正しいのでしょう。理想としてはそれが出来ればそれにこした事はないかもしれない。しかし現実はそうはいかない。だけどそうはいかないからと言って悪い事をしても平気な顔をして蔓延っているのもマズい。
それを出来るだけ公平且つ公正に裁く為には、人為的に設定したルールが必要で、ルールを設ける以上はそれが的確に運用されているのかをチェックしなければ上手く行かない。所詮人が作ったものに過ぎない。絶対視する事も危険だけど、無いと上手く回らないし、それしか合理的な方法も無い。
理想論に傾きすぎて現実を見ないのも、現実に傾きすぎて理想を失うのもロクなもんじゃないわけで、そういうバランスの上で初めて社会は上手く回る。ルールはそのバランスを取る為には必要なものでもあって善悪の基準ではありません。
だから善悪の基準で裁いているわけではない。善悪の普遍的な基準など設定出来ませんから事実上不可能なので、ルールがそれを担保するわけです。これが我々人間の現時点での限界であり、培って来た叡智なわけです。
最近、食品偽装のような問題、何々偽装というのが非常に多い。ここで必ず盛り上がるのが、メディアに火をつけられた悪いものは悪いんだという世論です。徹底的に血祭りに上げるという状態になる。
しかし悪いものは悪いんだと騒いで、誰が最終的に傷つき誰が得をするのか、そういう事を考えないわけには行きません。悪いものは悪いと判断する基準はどこにあるのか?誰が判断しているのか?そしてその基準はコラプトしていないか?
善悪で吹き上がるのも結構ですが、その基準を担保しているものが正常に機能しているのかというチェックがあまりにも弱過ぎる。
談合体質のメディア、情報の不透明さ、権力の恣意性を許す国民性。目の前に見える悪者は殆どが囮で、その背後に利用している輩がいる。そこを問題にしなければ事はもっと厄介になる。三浦氏の事件だってこれだけ問題点がありながら、彼の死によってもう闇の中です。
それに悪いものは悪いんだと今度は痛めつける立場に立っているという事にも敏感にならねばなりません。実際自殺しちゃう人も結構いますし、今回の三浦氏だって建前上は自殺なわけです。加害者であると言われている人が被害者へとなって行く。正しさと被害にあった(人に同調して)という事で、錦の御旗を振りかざし加害者へとなって行く。
もちろんこの逆転現象で、(加害者から)被害者に転じた人に対して救済される事もないし、徹底的に尊厳を破壊して、とことん追い込んでしまう。よっぽど全くの冤罪とか、勘違いだったという事が明らかにでもならないかぎり、裁判で無実になったとしても、でもどうせやってるんじゃねえか?という疑いのスティグマは消えない。悪魔の証明を問われ、無限責任を負う事になる。
一方(被害者から、もしくはそれに同調する人達から)加害者に転じた個人と大衆は、どんなに傷つけたとしても、ほぼその事でサンクションがあるわけでもないし、反省もしない。裁判で無罪になったとしても、だってどうせやってるんだろ、怪しいじゃねえか、という共通了解さえあれば何でもOK、なぜなら相手は悪であるから。全くの無罪とか、冤罪であったという事に気付いても、自分達に責任があるとは感じない。手遅れになるまで追いつめても、情報に騙されていた、我々は悪くないんだという、太平洋戦争軍部に騙されていた図式で免罪されると思っている。現に三浦氏が死んでも誰もその自覚がない。善悪の逆転現象が起こっているという事に気付かない。
いくら相手が悪くたって、物事には程度というものがある。お前が悪いんだとメッタクソにぶっ飛ばせば、それは単なる暴力にしかならない。
傷ついたとか、傷つけられたとか騒いでいる人が、こんなにいっぱいいる社会で、何でこれほど鈍感なのか意味がわからない。これは水戸黄門的感情劇、善悪二元論が感覚を腐らせている。自分はヒューマニストではないので人道的観点とか言うお題目には全く興味はありません。しかしそういう自分が見ていても、いくら何でも酷過ぎはしまいか?と思ってしまうのです。
理想を追い求め挫折し、現実に流されて無意味さに絶望する。こういう狭間で人は右往左往する。一方で痛い目に合うと、向こう側が心地よさそうに見える事もある。二元論的にシロかクロかととらえるのではなく、どちらのまなざしも忘れずに冷静にバランスをとる事が重要なのでしょう。
そして現実の中にも理想の中にも実に様々な視点があり視座を輻輳させ、真実と思っている現象を別の角度からどういう風に見えるのかと常に相対化させる事、そして相対化するだけで、コミットメントが無くてただニヒリスティックになるのもやっぱり問題で、アドホックにならざるを得ない部分は間違いなくありますが、バランス感覚のあるコミットメントを養う必要があるのかもしれません。足の引っ張り合いや背後取りゲームばっかりやってる場合ではないのです。
三浦氏は自由になった後、500件近くメディアなどに対して名誉毀損で訴えて、勝率5割、時効が成立しているものや、謝罪を受け入れたものをはぶけば、8割の勝率で勝ちまくっていました。メディアの弊害を強く訴え、報道被害に対して大きな声をあげていた。彼がどういう人間であろうと、言っている事は間違っていない部分があった。
しかしメディアにとってははした金で、全く反省などする動機にもならない。こんな小さな叫びなんて痛くも痒くもないわけです。情報の流れを独占し、恣意的にスクリーニングをかければいくらでも情報操作が出来る。この国ではこういうものに対して甘過ぎる所がある。
彼のようにあれだけのサンクションを受けながら這い上がってくる図太さは、普通の人にはありません。その彼も今回の件では死んでしまった。メディアもさぞ喜んでいる事でしょう。
そして最近ではこの名誉毀損を政治家とか企業のお偉いさんとかがフリーのジャーナリストを叩くのに使い出している。キャノンの御手洗しかり、ジャニーズしかり、安倍の秘書官しかり、個人攻撃として莫大な賠償金を吹っかけて、ジャーナリズム活動の邪魔をしている。
普通に聞けば訴えるような事か?と思える事でも、ジャーナリストの言っている事がどう聞いても正しいのではないかと思えても、傷ついた、損害を被ったと言えばいいわけです。
昔がよかったとか言うつもりはありませんが、最低限そういう立場にある人はもう少し常識があったはずです。強い力を握っているという事に自覚的であった。もちろん非常識な輩もいたでしょうけれど、最近はそういう輩が多過ぎます。
企業側や政治家側は勝とうが負けようが、ようは威嚇効果によって黙らせる事が目的なので効果覿面です。個人で賠償するには額も大きいし、訴えられているという事実そのものが、個人のジャーナリストを仕事からはじく効果もある。この国の司法制度は強者に甘く弱者に容赦ないのが現状です。
これに対して全くチェックが働いてないのも、我々が水戸黄門的勧善懲悪の善悪二元論の囮に引っかかり続けているからです。三浦氏の問題点にこれだけ完璧にスルーしてしまう国民性には絶望しか感じません。
三浦氏を殺したのは誰か?少なくとも日本人全てが間接的に関わっている。まずは最低限その事を自覚しないと始まりません。手遅れになる前に、早いとこ目覚めてほしいものです。
この話題はこれにてEND!!