前回の続きです。

今、総裁選のお祭り騒ぎが起こっております。相変わらずバカバカしい構図です。政治部のバカ記者達が何であんなに必要なのかってくらい、横並びで報道しています。そしてもの凄い量の情報が溢れ出す。まさに極めて質の低い情報としては殆ど無価値に値するものと、それなりに意味のある事が全くふるいにかけられる事も無く、憶測のようなものまでひっくるめて、等価で並んで行く。

ショッキングな映像や、感情をフックにする報道、頭の悪い知識人ぶったクズがトンチンカンな解説を挟んだり、情緒的なお涙頂戴的な演出、演出効果を狙ったBGM、意図的な物語を演出するナレーションと、まあ情報を加工して行く様々な手法によって、民意をある方向にコントロールして行くというやり方というのも確かにあるのですが、そういうところの問題よりも、もっと情報の本質が生み出す問題点に直面しています。

恣意的な意図が見え見えの猿芝居報道に対しては、受け手に免疫がついていますので、それをリテラシーと言うかどうかは別として、だいぶ騙されにくくなっていると思います。むしろそれによってメディアも簡単にバッシングされる時代ですので、捏造なんかするとすぐにバレる。

ちょっと前に毎日新聞のwaiwaiという英字コラムが、反日的な嘘捏造で酷いという事でネットでバッシングされてもの凄い炎上になり、ネットなんてと高をくくっていたところ、スポンサーが降りるという事態に発展し、謝罪をした事件がありました。

確かに酷い記事だったのですが、少し前であればしらばっくれ続けている事が出来たかもしれません。大手マスメディアも戦々恐々となるような事態ですので、既存のメディアでは殆ど報道されませんが、ネット上では誰もが知っている。

しばらく前ですがアメリカでも、兵役に行きたくなかったブッシュが父ちゃんのコネを使って州軍へ逃げるわけですが、そこも実体はなかったという事を、CBSのダン・ラザーが証拠を突き付けた。

しかしこれがライブドア武部の繋がりを表しているのだと、大騒ぎした日本の民主党、永田メール問題のように、証拠の信憑性が怪しいという事で、ネット右翼が吹き上がって、結果ダン・ラザーは降板する事になる。

どちらが正しくてどちらが間違っているのか?という事はわきにおいてこの現象をみてみますと、メインの大手メディアがネットに負けるという事態が起こっています。

日本のメディアはしらばっくれてネットの負の側面を壁を作って、賢明にネット規制への世論を煽ってますが、実際の所すでに既存のメディアはもう手詰まり状態になりつつあります。日本のマスメディアは自業自得なのでしょうがない側面があるのですが、これで誰が得をするのかを考えれば、市民側にいい事はあまり無い。

しかし怒濤の流れで誰がコントロールしたわけでもないのですが(大手メディアの自業自得でいえば、ある意味大手メディアの自爆によってコントロールしたとも言えるわけですが)、流れが怒濤なので、先を予想するのはしやすい反面、ある方向へ動き出すとその流れは止める事が出来なくなってしまう。

そういった事が余計拍車をかけているのですが、立ち位置をどのように取ってもバッシングされてしまう所がありますので、従来のような意味での世論操作は出来難くなっている。魅力的な映像や情緒を揺さぶるインチキというのが見破られてくる。

するとどうなっているかと言うと、浅く広くという方向性にどんどんシフトする。中身はどんどん薄くなり、過激なフックを多用しても、バッシングされたり揚げ足を取られたりされ難くする為に、深い所には切り込まない。

どの媒体をみても、似たような上っ面のどうでもいいような情報を等価で並べて行くという事が起こってくる。

常識的な議論よりも、過激な議論でありながらそれがガス抜きとなり、言った本人がバッシングされても、直接大手メディアにバッシングが及ばないようなデコイをより広範囲にバラまくようになる。

それがテレビなんかだと酷いを通り越して、キャスターの芸能人化、素人化がどんどん進み、コメンテーターもどんどんアホばっかりになり、似たような話でお茶を濁すというパターンが繰り返される。

テクノロジーの発達もあってより軽装備で、より早く衛星などを多用して、情報の伝達速度が上がった事がおそらく背後にあり、現地からの取材と称しながらも横一列でそこには何の真実も何の解釈も含まれていない断片化された情報が高速度で次から次へと流れて行く。

かつて大手メディアが恣意的な解釈を付け加える事によって、報道がバラエティ化しているという危機感がありました。伝える人間の主観が入ってしまってはそれは報道ではないじゃないかと。

しかしそういう危機感より今はもう少しマズい展開になっている。実際には、情報が溢れかえっているにもかかわらず、その一つ一つには何の真実も価値観も解釈も無いままに、もしくは底の浅い誰でも知ってるよそんな事、程度のゆるい解釈しか付け加えられる事無く垂れ流される。

「関係者の話では~である事が明らかになった」という何も語っていない、どこにも責任の所在が無い言葉が溢れかえり、自殺者三万人と言ってもそれは数字でしか無く、何の実体も啓蒙されない。

事故数がこれこれだというのも、被害者のお涙頂戴、加害者の非人道性ばかりが強調される感情劇になりはするものの、単なるガス抜き、記号の消費にしかならず、その事が意味するものというのが何も語られないまま過去へ押し流され忘れ去られる。

メディアスクラムは益々強化され、生の映像の迫力、事実報道を追求するも、その事がよりリアリティを失って行く事を加速させている。単に日々の紙面や時間を埋める為のものでしかなくなってしまっている。

これは世の中が単純化一口コメント化している事と、おそらく連鎖して進んでいる。リアリティが含まれる事の無い記号、底の浅い感情のフックを、共感したと感動中毒者達が追い求めて彷徨う。携帯やネットの普及に伴って、情報の一口化が加速し、もの凄い量の情報処理に忙殺されるが故に、浅いレイヤーでしかものを考えなくなり、いつでもどこでも情報を取得出来るが故に、一つの事を集中したり持続する事が出来なくなる。

その事がより一口化を加速させ、注意を引きつける為のオカズ満載型でありながら中身がカラッポという現象が起こってくる。感動中毒を更に発動させてしまう。

そしてその事が梯子はずしゲームや背後取りゲームをどんどん加速させる事となり、疑心暗鬼を加速させ、責任を回避する為にコミットメントは益々無くなってくる。立ち位置を表明すると梯子を外されるという事を回避する為に、空気を読んで波風を立てないという行動作法に縛られる。

これもやっぱりその事が孤独感を増幅させるので、疑心暗鬼が加速すればする程、逆に仲間や恋人や家族の絆みたいなものに対する飢餓感を増幅してしまう。

だから下らない底の浅い感情劇、純愛物、家族の絆みたいな物語が増えるという連鎖反応を招き、欲求すればする程、疑心暗鬼のコミュニケーション、空気に縛られるという自縄自縛感にとらわれてしまう。

同じく、テクノロジーの発達もあり、誰でも携帯でカメラを持っているという事、Youtubeやニコ動のような断片化された映像が溢れ、制約された時間の中で情報が高速度広範囲になる事によって、深いレイヤーまで降りて行く事が出来難くなり、いつでもどこでも生の映像が簡単に取得出来るようになった事が更にリアリティを喪失させてしまっている。

ベトナム戦争以降、湾岸戦争の頃までははピンポイント攻撃の映像や石油まみれになった水などショッキングな映像を映す事によって、見せたくないものを隠すという情報管制の方向性だったのがメディアコントロールだと批判を浴びて、イラクの時は従軍取材が主体になる。600人という従軍記者がアメリカ軍のケツを追いかけて、現場の生の映像をよりリアルさを追求する。

そういうものを視聴者が欲望するとわかっているので、簡単にメディアは一斉に飛びつく、しかし結果どうなったかと言うと、断片的な横並びの情報の氾濫によって、重要な情報が隠蔽されてしまうという事態が起こってくる。

映るのはミサイルを撃っている姿であって、着弾した瞬間の地獄絵図は遠くからしか撮れない。せいぜい爆撃の爪痕、傷ついた人々を映しているだけで、戦争の本質は映す事が出来ない。病院に来れずに多くの人々が爆撃によって死んで行く所に戦争の本質、戦争のリアルはあるわけで、ミサイルを打ち上げている所は何も語ってはいない。着弾の瞬間の阿鼻叫喚、地獄絵図というのは映せない。事後での事でしかない。

部分を足して行けば全体になるのではないかという期待があって取材源を沢山増やしても、誰が取材しているのか?という事を考えると、やっぱり立ち位置は、「ある」所にたった視点からのこちら側と向こう側、もしくは更に別方向からという違いに過ぎない。「ある」所がどこであるのかを考えれば、そこはこの体制では同じである事は避けられない。

それを多元的であると捉えてしまって全体像を掴もうとすれば、「ある」所の上に構築されたものであるわけで、「ある」所そのものの構造問題に切り込むのは難しくなるのは当然。

「ある」所そのものを脱構築するとか、解体した別次元の視座から眺めてどう見えるのかというのが出てこないと、「ある」所の意味は見えてこない。更に「ある」所を脱構築するまなざしがたっている地平がどこであるのか、これまた解体して・・・・・、という繰り返しをして行かざるを得ないという堂々巡りであるという事を自覚する必要があり、それを断念するという事は、そこから思考停止が始まってしまうという問題をたえず抱えているという事、そして結局は自分と言うフィルターを通してしかその情報にアクセス出来ないという解体しきれない限界の線があらかじめあると言う不可能性、この矛盾、いつでもどこでもそういう落とし穴に落ち込んでしまう危険性を孕んでいるというか避けられない不可能性の自覚がなければ、部分が覆い隠してしまっているものがなんであるのかは見えてこない。

かつてはカメラがこちら側であるのか、向こう側であるのかという、立ち位置を変える事によって見えてくる真実が違うという事が確かにあったし、それは重要なのですが、逆にそういった視点が簡単に取れるようになった事によって、というかそれよりももっと多元的な視点を取れる事になった事によって不可能性に直面していて、思考停止に陥ってしまい。見えなくなってしまっている所が出て来ている。

立ち位置を回避するとか曖昧にするという言い方も、実際にはものを見た瞬間に視点は必ず生じるわけだし、立ち位置というのは必ず存在している。映像を撮ればそこには視点があるわけだから、視点を取らなかったり、立ち位置を表明しないという事は実際には不可能でもあるので、表明はしなくても立ち位置は必ずある。

しかしその立ち位置や視点というのが、空気に支配された立ち位置、バッシングされない立ち位置であるわけで、そういう所に立った横並びの多元主義というのでは、どうしても隠れてしまうものがある。そこを隠す意図があるかどうかとは無関係に、情報の氾濫が見えなくしてしまっている。情報は加速度的に増えている。しかしその事がより深刻に情報を隠す作用を起こしてしまう。

情報の氾濫が見えなくしてしまっているものというのは、単なる空虚な中心でしかないのかもしれませんが、空虚な中心である事を自覚した複数の立ち位置が出てこないと、情報に対する飢餓感は益々高まってしまう。その事を自覚する事がリテラシーでもある。

立ち位置を表明しない、もしくは梯子を外される事のない立ち位置というのはコミットメントがない。立ち位置を表明するという事はある種のコミットメントの表明でもあるわけで、ある種の責任が発動する。

コミットメントがないという事は、他人事に過ぎない観客であったり、単に揚げ足取りの質の低い批判、背後取りゲームでしかないので、当事者性が無くなってくる。批判や別の視点というのは重要な事ではあっても、コミットメントが無い、もしくは「ある」立ち位置で行なっている背後取りゲームでは、何も生まれてこない。

当事者性が無いのだから、プライオリティも無くなってくる。そして責任も取らない。上から下までそういう意識が広がってしまっている。これは今に始まった事ではない、戦前からある事なのですが、情報の氾濫によって益々コミットメント出来難いというか、どうやってコミットメントを持つのかが見えなくなってしまっている。そしてそもそも何にコミットするのかも覆い隠されてしまっている。

この国の例えば下らない政治を日々メディアが横並びで報じます。当然その中には批判もあれば、翼賛もあるわけですが、情報が溢れれば溢れる程、国民の希望は失われて行き、益々政治への絶望感、どうせ無駄だ的な意識は高まってしまう。

無駄なんかではなくて本当はダメならダメだと意思表示し続ければ民主制は機能する。福田が辞任会見で民主党が言う事をきいてくれない民主党のせいだとぼやいてましたが、二院制を取っているという事は、ねじれが起こるという事はむしろ当たり前でもあるわけで、それが政治ってもんです。世界各国をみても普通にある話です。

アメリカだってブッシュは共和党でも、議会は民主党が牛耳っている。そういう事が当たり前に起こりうるという前提の無い所で政治をやっているから民主制も機能しないわけだし、情報が積み重ねられていても、どんどん無関心を加速させてしまう。

民主制はある意味暴力的な乱暴な制度でもある。だから民主制にコミットして機能させたからって、必ずしもいい方向に行くとは限らない。しかし民主性という制度を取っているにもかかわらず、民主制へのコミットメントがなければ、当然民主制は機能しない。にもかかわらず民主制だとやっているわけだから上手く行くわけがない。

その前提に基づいて情報がどんなに溢れても、民主制の暴力性を自覚した上で立ち位置を取るという事が無ければ民主制も駆動しないし、そのポピュリズム的な危険性も回避出来ない。

ある前提が壊れてしまいその解釈図式が使えなくなってしまうと人はアノミー化する。

例えばアメリカでは世界革命を目指す、ユダヤ系ニューヨーク・トロツキスト達が福音書派と結びついて、ブッシュ政権が生まれるわけですが、政策的には全体主義的な左派的な介入主義、パトリオットアクトのような制度で縛り、経済は優勝劣敗、自由放任というリバタリアン的、右派的な政策を取るという滅茶苦茶な事をやったわけです。良いとこ取りではなくて悪いとこ取りみたいな。これも9.11でアメリカの幻想が壊れた事によって、人々がネオコンの言った理想にすがった。

例えば新しい歴史教科書をつくる会というのがありましたが、湾岸戦争や冷戦体制崩壊まで共産党員だった藤岡信勝が、湾岸戦争に直面して、従来の東西対立のイデオロギーでは理解出来ない多元性に直面し、東西冷戦では解読出来なくなってしまった不安を、国民の歴史や愛国心で埋めようって話になる。虚構の物語に騙された連中が、新しい虚構の物語にすがって不安を埋める。

彼らが正しいかどうかは別として、これはある立ち位置からみた一つの見解に過ぎない。別の人は別の見方があるという視座の輻輳によって免疫の度合いは高まる。それが多元主義、多様性と言える。

情報の氾濫によって多元化によって見えなくなってしまう所を握ろうとする不埒者が必ず出てくる。アノミーにつけ込んで動員をしようとする輩が。もしかするとそれは善意に基づいているのかもしれませんが、こういうのはある種コミットメントが生み出す暴力性でもあるわけで、立ち位置を表明する事によって生まれる帰結でもある。

今はあっという間にこういうのは梯子を外されてバックフラッシュをしますが、だから余計にコミットメントが無くなって優先順位も無くなってしまっているとも言える。特に日本では。

情報の氾濫によって情報を隠そうと振る舞っている黒幕なんていないかもしれない。結局は我々が望んでいるからそうなっているとも言える。個々のプレーヤーが自分がやっているゲームのルールに基づいて最適化した結果、合成の誤謬が生まれてしまうのかもしれない。

日々情報によってある認識を獲得したり、知識を吸収するという事は、同時にある特権性や暴力性を獲得しているとも言えます。そこには必ず偏見を誘発させてしまう危険性が付きまとうので、認識や知識を獲得すると同時にかつてあった視点を失ってしまっているという事も出来ます。そういう事を自覚し解体した上で再構築する、スピヴァクの言った「学び捨てる」そういう立ち方が重要なのでしょう。

それと同時に、情報の氾濫によっては絶対に見えない所というのもあります。そこに目を向ける為には、見せかけの情報に流されていては翻弄されてしまう。あらかじめ学ぶ前に、情報をある程度遮断して冷静になるという事も重要かもしれません。人間の情報処理速度も、能力による差はあっても、限られた時間しかないわけですから結局はたかがしれています。浅いレイヤーの情報処理に翻弄されるのなら、ある程度しぼって、深い所まで降りて行ってはじめて見えてくる事というのもある。もちろん見える事によって生じる特権性や暴力性も忘れてはなりません。

総裁選のバカ騒ぎも、大麻問題のバカ騒ぎも、サブスタンスが無いという意味では全く同じです。自民党の支持者や相撲ファンにとっては切実な問題なのかもしれませんが、興味の無い人にとっては遮断した方がいい情報であるかもしれません。オチが下らなくてすんません!!

それと麻薬はいけない事です。それを大前提に問題の入口として書いただけですので、不愉快に思った方がいましたら勘弁して下さい。

そういう事をわきにおいて、例えば飲酒と自殺の因果関係はわかりませんが、相関関係は見られます。ひょっとすると日本が暗いのは、ダウナー系の薬物であるアルコールに寛容過ぎるからかもしれません。アッパー系の薬物を解禁したら、ひょっとすると明るい国になって自殺も減って鬱も減るかもしれない。別に解禁したってやりたくなければやらなければいいだけの話なわけで、解禁したらみんなジャンキーになっちゃうという事もありません。こういう事を議論出来ないのも問題です。

この話題はこれにてEND!!