大麻大麻うるせえよ!!どっかの変な総裁選まで大麻みたいな名前の候補が出ているからこんがらがっちまうじゃねえか!!って感じです。この偶然は洒落か?最近のあれこれにバカバカしくて涙も出なけりゃ屁も出ない。何にも出ない三日坊主でございます。

大麻は法律違反ですが、我々は前提を疑わないという悪いクセがあります。法律と善を混同し、社会や前提を自然物と勘違いしているところがある。くれぐれも大麻は悪くないとか、ロシア力士が無罪だとか、そういう事が言いたいわけではありませんのであしからず。本日はそのへんの話に突っ込んで行こうかと思います。

さて大麻と言えば麻薬という感覚があるので、これが発覚すると、とんでもねえ野郎だって話に簡単になります。しかし何で悪いのかと質問すれば、麻薬だからとか、法律違反だからという答えが殆どでしょう。

麻薬だからというのでは何も答えになっていないのと一緒ですし、ここでも再三再四書いていますように法律と善悪は関係ありません。従って何が問題なのか知らないけれど、みんなそう言っているからそう思っているみたいな感覚が支配しているのではないでしょうか。

自分は酒も煙草もやりません。かつて煙草はやってましたから、煙草を吸いたい気持ちはわかりますが、酒を飲みたい気持ちはよくわからない。大麻というのは反応速度の低下が無いという事と、バットトリップ、悪酔いが比較的起こりにくいという事が科学的なデータによって証明されています。酒はどちらもある。

反応速度の遅延が起こるから酔っぱらい運転になってしまうわけですし、悪酔いも起こるし二日酔いもある。そう考えると個人に対しても社会に対しても圧倒的に酒の方が悪影響があるにもかかわらず、酒は合法で大麻は違法という線には、どうしても恣意性を感じてしまいます。

そういう事もあって比較的欧米では大麻に対するハードルが低い。むしろ酒に対しては日本のような寛容さは無い。個人的な悪影響も社会に対する悪影響も酒の方が高いのだから、本来酒の方が厳しく取り締まるべきであるというのは道理です。

しかし日本ではそのへんの道端で酒を飲んでいる人もいるし、泥酔している人もいっぱいいる。酔っぱらい運転による事故も多い。酒を飲んでいるという事だけでは悪人のレッテルを貼られる事も無いし、飲んだくれというのもいい意味で言う場合もある。こういう状況はよく考えなくともおかしな話です。

酒を飲まない人間からすると、ヤクでラリッている人も、酒飲んで酔っぱらっている人も、そんなに変わらないようにしか見えない。

ヤクでラリッている人に絡まれるという事は普通そんなに経験出来るもんじゃありませんが、酒に酔った人に絡まれるという事は誰しも経験があって、誰しも一度や二度は迷惑を被った事がある。にもかかわらず、酒に対しては非常に寛容さがあり、大麻に対しては嫌悪感を多くの人が持っている。嫌悪感どころか、人間失格みたいな事までいう人もいます。

不思議な話です。日本では法律と善悪の区別が出来ない人が多いので、法律で定められているから、悪者なのだという感覚が広がっているのかもしれませんが、何で問題なのかわからずに悪者だというのは思考停止と同じです。

公明党と言う大変はた迷惑な政党があります。これは創価学会の信者達が支持しているわけですが、この状況を多くの国民は困った状況だと思っていると思います。創価学会というだけで思考停止的に、それこそ投票しないと地獄に堕ちるじゃありませんが公明党を支持してしまう。一宗教法人どころか一個人の権益の為に、国政を牛耳られているのだからたまったものではない。

この人達もなんで公明党を支持するのかと言えば、公明党だから支持しているわけで、そこに理由も論理も存在しません。それが自民を支持するという話になれば理念もクソも無く自民を応援する。自民が不人気になれば簡単に翻る。

一般的な感覚からすると、こういう発想は気持ち悪い。政教分離の意味がわかっていない。信教の自由とは、政治的な動員と宗教を切り離して考えるという意味があります。創価学会である事自体は自由ですし、好きにすればいい。

しかし創価学会に所属している事がそのまんま政治にダイレクトに反映させてしまうような振る舞いは、信教の自由の乱用です。他人の自由を侵害している。むしろ彼らが強固に公明党支持という線を引いて、一般人を逆差別している。

公明党を支持し続ける学会の信者達には不自然なものを多くの人が感じていると思いますが、理由のよくわかっていない事を法律違反であるという理由だけで悪い事であると考えてしまう感覚というのは、カルト教団の狂信者達と大差ありませんというか全く同じです。

この国では未成年に対して、特にそれが芸能人だったりすると喫煙や飲酒を非常に厳しくメッタクソに叩く性質があります。たかがその程度と言っちゃ何ですが、ガキがちょこっとハメをはずした位の事で、徹底的にクソミソにする。

しかし喫煙や飲酒を制限している線というのは非常に恣意的な線に過ぎません。交通機関の料金設定、車の免許を取得出来る年齢、バイクの免許を取得出来る年齢、結婚出来る年齢、パチンコ屋に行ける年齢、風俗に行ける年齢、エッチな映像を見れる年齢、選挙権、そして成人の年齢と、よく考えれば根拠のよくわかっていない線が沢山引いてあってどこからが大人と解釈していいのかが恣意的です。

高校を卒業して例えば就職するにしても進学するにしても、歓迎会みたいな事が行なわれる。その席でどういう事になっているのかは多くの人が自覚している事であるにもかかわらず、あるレイヤーにいる人々に対しては厳格な法の適応を求める。善悪の基準ですら本当はいい加減なものでしかない。

我々が信じて疑わない前提というのも、多くの場合中身の全く無い空虚なものであるパターンが多い。ロラン・バルトの「表徴の帝国」の空虚な中心じゃありませんが、それが意味から解放されるというポジティブさで評価された時代もありましたが、実際今、人々は意味を求め右往左往していますし、空虚な中心というのは東京のど真ん中に皇居と言う、森や中心的なシンボルであるにもかかわらず空虚な空間である事に着目し、西洋であれば大都市の中心部には巨大な構造物を意味を象徴する何かを配置する事と対比させ、そこから日本文化の意味から切り離された独特の感覚を紐解いて行くわけなんですが、まさに日本の中心と呼べる政治家にしろ、官僚どもにしろ、空虚であるが故に誰も責任を取らないという事態が出てくる。

山本七平の空気の研究じゃありませんが、阿吽の呼吸とか空気支配に逆らえず、誰もこれでよいとは思わずに最悪の選択に突き進んでしまい、場の空気がそうだった、誰かが止めてくれると思った的に戦争に突っ走った頃と、殆ど変わらない空気支配、同調圧力が今でもある。会社でも、学校でも、もちろん家庭でも。ちょっと前にKYなんて言い方を、ガキがしていた事一つとってみても非常に象徴的な話です。

本来何々でなければならないとか、何々の本質はこうなのだとか、全体論的な意味から解放されるという事は重要なのだと思います。それに異論はありません。そういうのは暴力性を伴ってしまうので人の自由を縛るものでもある。しかし空虚な中心を持つ我々が意味から解放されているのかと言うと全くそんな事はない。

むしろ空虚であるものに対して権威付けや意味付けを行ない、崇め奉りたくてしょうがない。平和憲法、アメリカ、天皇、法律、歴史、愛国心、特定の政党、学歴、ダイエット、音楽、映画、消費、金、地位、名誉、その意味や権威付けもどんどん陳腐化し、一口コメント化している。感動した、泣けた、笑えた、信用出来る、好き、嫌い、喜怒哀楽と快不快、不安を埋めてくれるものにすがり、安心安全を担保してくれるものを求めて彷徨う。意味から自由になるどころか、意味の虜になってしまっている感すらあります。

例え嘘であっても意味や権威付けを与えてくれる中心があるのなら、それが人の心をかりそめとは言え安らぎを与える事にもなりうるのかもしれませんが、中心が空虚なので、意味を求めてもそこに意味は何も無い、意味も正当性も何も無いものを無根拠に中心に据えて崇め奉る。これでは意味があろうが空虚だろうが関係ありません。

意味付けされているものや権威付けされているものというのは、結局は虚構に過ぎませんので空虚と同じです。だから空虚であると自覚するのは重要なのでしょう。しかしそこに捕われてしまえば、結局は同じ事。

日本は例えば天皇制という空虚な玉をめぐって、レジティマシーを調達するという事を、戦後GHQの統治にしろ、明治の近代国家の設計にしろ、明治維新にしろ、それ以前にしろ繰り返されて来ました。レジティマシーとは説明が出来ない。なぜかと問うても理由が無い。理由を探そうとしても空虚な中身しか無い。どんな理由をいわれても、だから何でそれが権威になるのか?と問われれば、最終的には権威があるからだとか、歴史だからだとかしか言えない。

今でも国会と言う何のサブスタンスも無い空虚な空間を誰が牛耳るのかという、所謂政局に国民は一喜一憂し、メディアははしゃいでお祭り騒ぎを繰り返しますが、政局自体には何の意味も無い。

そして政局を制し国政を牛耳っても、国政自体がサブスタンスが無い。結局何も出来ないでしょう。せいぜいステークホルダーの間での利権配分に勤しむだけに決まっている。小泉が改革だと拳を振り上げ、今バラマキだとバックフラッシュする。この8年間というかバブル以降、結局何一つ前に進んでいない事の現れです。

否、借金は増えていて、人口も減っているわけですから、後退していると見る事も出来るかもしれません。

まあ金持っていて、人口が沢山いれば前進ってわけでもありませんので、前進か後退かを問う事自体、空虚な中心を意味付けしている事の現れかもしれませんが、意味を脱却するのは重要なのですが、意味のないものを崇め奉る精神も脱却して脱中心化しないと結局は同じ事になってしまいます。

意味を脱却し脱中心化すればよいのかと言うと、現に空虚な中心の玉をめぐって争っているバカがいっぱいいて、そいつらが無能であるが故に、我々の自由や尊厳が破壊されてしまったりするわけですから、これを放置しておけば痛い目に合うのは我々になります。

結局空虚な中心を誰が握るのかという闘争が繰り返されている。そして空虚な中心を握ったものが、人為的に前提を設定するわけですから、前提は自然物でも何でも無い。無意味さを知り、全体論的な落とし穴に気付き、その上でアドホックな立ち位置でしかないかもしれないが、解釈しコミットする。結局それしかない。

とここまでは前置きでして、今起こっている問題はもっと深刻になっています。例えば報道一つを取っても言える事なんですが、意味の空白をむしろ人為的に作り出し、そこを意味の捏造によって取りに行くという構造に変化しています。意味を解体すべしなんて能天気な事を言っている場合ではなくなっているのかもしれません。

グルジア、北京オリンピック、アフガンでのペシャワール会の人の死、民主党の総裁選のすったもんだ、民主党の離党騒ぎ、福田撃沈、自民総裁選のバカ騒ぎと、日々情報の洪水に流されて、解釈する前に過去へ押し流されて行く。解釈する暇もない。

事実の断片が大量に溢れ、解釈出来ないが故にファンタスマゴリーが作り出す影絵に怯える。砕け散った瓦礫の山でしかない無意味な残骸の中にアレゴリカルな何かを読みとり、不安を感じたり、世界の意味付けを行なおうとする我々の性質を逆手に取られている感があります。

影絵や瓦礫の山が怪物の姿に見えたとしても、影絵は影絵でしかないし、瓦礫の山は瓦礫の山でしかないのですが、ちょっと大雨が降れば温暖化、環境破壊、あげく資本主義、市場原理主義と無関係な事まで拡大解釈して、それがあたかも地球からの警告であるかのように、勝手に思い込んでしまう性質を利用したメディアの構造変化です。これは9.11以降アメリカなんかが押し進めている方向性に追従している。

大麻事件と自民党総裁選の候補の名前が似ているじゃねえかってのは、バカバカし過ぎてそこに関連性を見いだす人なんていないでしょう。しかしそういうバカバカしい関連性を見いだしてしまって解釈している事が結構あります。そしてそれをむしろ加速させるような方向性にどんどんシフトしている。

つづく!!