前回の続きです。

「人は所詮孤独だ」という言い方があります。自分も本質的にはそうだと思っています。しかし「孤独に生きる」という事と人が本質的に孤独であるという事は別物です。人は本質的には孤独だというのは自分は自分でしか有り得ない、一回こっきりの自分の人生を歩むしかないと(思われる。生まれ変わったりするのか、死んだ後どうなるかは誰も知らないという意味において)言う事、所詮他人の事は他人になれない以上わからないし、他人が自分になれない以上、自分の事も理解してもらえる範囲なんてたかがしれているという意味において、人は本質的に一人です。やり直したり、別の人生を歩んだり出来ないわけですから。

しかしだからと言って、世界はいろんな人が生きている。いろんな人と関わらないと生きて行けない。仕事にしろ、学校にしろ、親族にしろ、ご近所にしろ、どこかで何かを買うにしたって、何かのサービスを受けるにしたって、そこには必ず誰かがいる。どんなに孤独であったとしても、孤独に生きて行く事は出来ません。

本質的には孤独であっても、孤独なもの同士が生きて行く事は避けられない。そこの区別が無いような気がするのです。

携帯電話やネット、人と人とがコミュニケーションを取る為に便利であるはずのものがこれほど溢れているのに、どんどん社会は個人に分断化されている。いつでもどこでも連絡が取れるようになっているのに、益々他人を信用出来ない社会になっている。対面のコミュニケーションと、ネットワークによるコミュニケーションのデュアル化によって、疑心暗鬼がどんどん加速している。

そういう社会であるにもかかわらず、みんな仲間だというような横一列の教育、わかり合えるという前提に立った、空気を読めない奴を排除するという社会に順応する為に、空気を読んで波風を立てないという行動作法。他人との違い、意見の食い違いを血祭りに上げる社会。個の消失。同じような消費をし、同じようなものに感動し、人は本質的には一人である事を誤摩化す為のツールに身を委ねる。その事が益々自分らしさや、自分探しという欲望と、それをブーストさせるような消費を惹起させる構造とが絡み合って行く。

人は本質的には一人である事と向き合わず、しかし孤独では生きられない他者との関係性への期待値が益々下がって行く。

ユニセフが調査したOECD加盟国平均の15歳の子供が孤独感を抱いている割合は7.4%、日本は29.8%、先進国水準での平均の実に4倍の子供達が孤独感を抱えているという結果がでている。これは友達がいないという孤独感ではない。恋人がいない、家族がいないという孤独感ではない。友達も恋人も家族もいるけれど孤独だと感じている子供が3割存在するという事です。

OECD加盟国の中で日本の子供はとにかく自尊心が一番低い。親を尊敬している割合も一番低い、親のようになりたいと思う割合も一番低い、親の死に目に合いたいという割合も一番低い。家族に対する期待が一番低いと言ってもいいでしょう。尚かつ友人関係に対する期待値も低い。孤独であると感じているわけです。子供達がそういう風に感じてしまうのは、そういう社会だからそうなっている。

こういう状態になっているのに、やれ重罰化だの子供の教育がどうのこうのって話にすぐになります。責任を取るべき責任者や、統治権力に関わる連中なんかは責任すら取らないし、罰を受けてもどうせ執行猶予がつくようなたいした罰にもならない、こういう社会を作り出している連中の重罰化なんてのは起こる気配すらないのに、その原因によって起こっている波及効果に対しては断固対処って話に簡単になる。公正感の感じられない社会になっていれば、社会にコミットする意味など無くなる。脱社会化は当然の帰結です。

責任者やステークホルダーがしらばっくれているのはムカつきますが彼らは彼らの合理性で動いている。だから許せませんが理解は出来ます。しかし何でそれを見ている市民の側が、安心安全というフックに引っかかって子供の重罰化や、下らん食品偽装とかのエサにばかり食いつくのか?

権力装置の恣意的な舵取りによって被害を受ける人は膨大であるのに、そういう所が是正される社会になりそうな気配すらない。未来には何の希望もない。そういう社会を作っている大人達を尊敬しろと言ったって、無茶な話です。尊敬しろという方がどうかしている。

それで挙げ句の果てに道徳だの規範だのを喚いてるアホまで沢山いるんですから、手に負えません。頭が狂っている。道徳は不必要だと言っているわけじゃありませんよ。それを言う資格があるか?って事を言っているわけです。それを言う資格のない人間が言ったって伝わりっこ無い。

子供を承認すると言っても、承認されたいと思われてなければ、何の効果もない。何を言っても雑音と同じで、単なる厄介事でしかない。それは子供に媚びろという事じゃありません。それを言う為にはそれを言って説得力のある関係性でないと伝わらない。そういう関係性も無いのにそんな事言ったって、お前にそんな事言われる筋合いは無いで話は終わっちゃう。死んじゃダメだよと言っても、命は大切だと言っても、お前が大切だと言っても、口で言うだけでは伝わらない。

昔と比べて今の親がバカになっているという事は無いと書きましたが、今は時代が変わってしまって未来に希望がなくなっちゃっている。公正感なんてなくとも未来が右肩上がりで希望があればそれでも何とかなったのでしょう。多分その違いが非常に大きくて、それがいろんな波及効果を及ぼしているのだと思います。しかし希望を捏造するのは危険と表裏一体なので、希望が無いのに無理矢理作るよりは、無いほうがマシです。だいたいもう大きな物語なんて通じる時代では無い。誰もそんなの信用しない。それに今のこの国はどんどんむき出しの個人が社会と対峙する状況になっている。

人の歴史で、人が人を殺してはならないという法律や道徳があった事は一度もありません。仲間は殺してはいけないというだけの話で、仲間ではない、共同体のルールから逸脱する人に対しては、暴力によって罰や死を与えて来ました。日本は平和な時代が続いているので、人を殺してはいけないという決まりがあるかのように錯覚していますが、戦争があれば仲間じゃない敵を殺しまくる事が正しい事になる。重罰化で死刑にしろというのも、仲間じゃないから殺せと言っているわけです。

経済的繁栄というのは貧しい国から搾取するという事と表裏一体です。結局仲間の中での公平さを叫んでも、その事がその外側に不公正を拡散して行く事になる。日本は昔から蛸壺文化だと言われていますが分け合えるパイが増え続けているうちはは蛸壺同士が鍔迫り合っていても、ある意味それが切磋琢磨にもなって相乗効果にもなるのですが、これが分け合えるパイが減ってくると、組織益の為にその外側の不公正に目をつぶるようにどんどんなって行く。

蛸壺同士の鍔迫り合いによって弱肉強食化が進み優勝劣敗主義が進んで行く。鍔迫り合いに敗れた蛸壺は破壊されて、個人がむき出しになってくる。仲間の範囲がどんどん狭くなって、しまいには個人個人の鍔迫り合いになってしまう。組織益を優先させるあまり、社会というプラットフォームを破壊して本末転倒、一蓮托生という事態が起こってくる。当然脱社会化も連鎖する。

そうなると仲間の範囲が狭くなってくるどころか、個人に分化してしまえば誰も仲間だと感じなくなるわけですから、仲間じゃなければ信用出来ない、傷つけても殺しても構わない、誰が自殺しようが知ったこっちゃない。仲間だと思える存在が自分しかいなくなれば、自分大好きになるのも当たり前です。その自分ですら、自意識と乖離して自分の思い通りにならないと感じれば、現実世界の自分をも仲間だと感じる事が出来ずに、匿名の翼を持ってネットにアクセスしたり、最悪その乖離した現実世界の自分をも消してしまおうと自殺してしまったりにも繋がる。

近代化によってパイが増え続けている時代に、かつてあった蛸壺を破壊し、新たな蛸壺を創造して近代化に適応しますが、近代化がある程度成し遂げられると、今度はその新しく生み出した蛸壺自体に足を絡めとられてしまうようになる。それが壊れても元の蛸壺も壊れていて戻る場所が無いので、そこにしがみつくしかない。振り落とされればむき出しの個人となって社会と対峙するしか無くなる。それが安心安全中毒に陥る帰結を生み出す。

誰も仲間がいない、自分ですら自意識の理想と乖離していれば思い通りにならない。という状態に気付いているのに、一方では、みんな仲間だとか、命は大切なんだとかいう言説が溢れかえっている。みんな仲間だと言われたって、現に仲間だと思えない、黙っていれば傷つけられ搾取される状況、命は大切だとか言ったって、傷つけ合い、殺し合う世界に投げ出されているのに、そういう何の効果もないきれい事を今でもほざいているスットコドッコイがいっぱいいる。

理想という意味おいて、そういう世界や価値観を夢想するのは自由ですが、そういう理想論は現実に起こっている問題に対して、何の回答にもならないし、何の教訓も含まれていない。そして目指すべき価値観であるという理想論はわかりますが、実現は不可能です。そういう状態になった事も無いし、未来永劫そういう時代は訪れないでしょう。人が何かを表明したり、言語化したり、行動したりするという事は、必ずある種の暴力性を内包させてしまう。現実の解釈でさえそうです。

だから傷つけ合い、殺し合う世界は拒絶出来ない。閉じていても世界は変わらないし、開いてコミットしても個人の力など無力です。何らかのコミットメントを示すという事は同時にある立ち位置の表明になり、必ず現実世界に人が引いた恣意的な線を引く事になる。それはある種の暴力性を内包させる。それが嫌だから拒絶して閉じていても、自分が関わりたくないという事だけは実現出来るかもしれませんが、現実に起こっている暴力の連鎖は止められない。生きているという事自体、ある種の暴力性を発動させてしまう。だから本当に拒絶したいと思ったら死ぬしか無くなってしまう。

人は孤独であって他人の事は思い通りにならない。自分の事も思い通りにならない。現実も思った通りにはならない。そんな事は当たり前で、その中でどうわかり合えない他人と関わり、思い通りにならない自分と折り合いを付けて行くのか?現実を生きて行くのか?みんな仲間ではない赤の他人といかに共生し、そして可能であれば信頼関係を築いていくのか?傷つけ合って殺し合っている世界で、どう命の尊厳を守って行くのか?という事に対してどうするのか?そういった事が重要であって、そういう事に対して、この国では殆ど提示されていない。

一つは今の時代に適応した新たな蛸壺の創造という方法が有り得るかもしれません。社会にむき出しの個人で対峙するという事自体を回避する為には一つの手でしょう。実際にサブカルなんかの島宇宙で社会の軋轢から逃れるという行動作法が蔓延しています。それ自体良い事なのか悪い事なのかわかりませんので何とも言えませんが、むき出しで社会と対峙して孤独に投げ出されるよりはいいかもしれません。

しかし分け合えるパイが少なくなるという事は現実世界での生活がどんどん厳しくなって行くという事ですから、結局脱蛸壺化した時に同じような帰結を生み出しますので、何かで簡単にぶっ壊れるようなものである以上、複数の蛸壺を用意する必要があるでしょう。学校や会社、家庭や友人関係、そういうものから溢れても繋がりが持てる何か。

新たな蛸壺を創造して、むき出しのなまで社会と向き合わないようにする事はそれで最悪の事態が回避出来るのであれば、有効な手段であるとは思いますが、そういうものを作るにも、ある程度のコミュニケーションスキルや他者性を必要としますので、まずそれが無いとどうにもなりません。今現在そういう構造にどんどんなっている側面もありますが、その事が分断統治に利用されたりもしますし、やっぱり原暴力は内包されています。

孤独な状態でも、比較的容易に欲望の充足がネット環境充実によってまかなえるようになってしまった事もあって、何も無理して現実に身を乗り出さなくても、そこそこ快適で満足な空間に満たされてしまえば、他人と関わろうという動機付けも無くなってくる。個人に閉じていても満足出来るのだから、別にそれでもいいじゃねえかという風になる事自体、それはそれで構わないと思います。それで本当に満足出来るのなら。

それだと人と人が関わり合う事が失われて行くわけで、現実世界でのコミットメントは益々期待出来なくなってくる。そうなると動員も難しいので社会は変わらない。統治権力はやりたい放題になって行く。暴力の連鎖を見過ごす事にしかならない。見過ごすという事は加担しているのと同じです。

動員が減ればポピュリズム的な熱狂も減って行くはずですが、減るどころか増えていますし、逆に利用されちゃっている側面もある。むき出しになった個人は、国家と言う柱にすがって本来のナショナリズムとは何の関係もない、統治権力のケツ舐めナショナリズムに陥っちゃったりする。

またコミットメントを示したからと言っても、それもある種の暴力性を内包している事にもなる。社会を変える為の動員などは、非常に強烈な原暴力を含んでいる。

満足しているというか、それで諦めているというか、そういうもんだと自覚している世代と、現実世界に身を乗り出せと叫んでいる世代とがどんどん分断化されてしまえば、余計わけのわからない言説が幅をきかせて、一方は無視、一方は危機や安心安全というフックに引っかかって益々溝が深まって行く。

現実に身を乗り出せとかほざいている世代はそういう事を言う前に、下らんきれい事を言うのを止めた方がいい。まず現実に向き合うべきは自分達であると自覚しないと、言葉は永久に伝わらない。

個人に閉じて欲望を充足させて生きていればいいじゃねえかという風に感じる事自体は否定しません。しかし今現在進んでいる枠組みというのは欲求を埋め合わせようとしても、それは欲求が埋まらない欠落の確認になっているだけで、後から後から欲求を増幅させられるような枠組みになっています。孤独を実感しない為に欲望を満たせば満たす程、孤独を感じ、自己実現を求めれば求める程、目標の遠さを実感させられ、意味を求めれば求める程、生の無意味さを突き付けられる構造になっている。

結局の所、副作用として原暴力を必ず発動させてしまうという事から逃れられない希望が失われてしまったこの社会で、わかり合えない人と人がどうやって共に生きて行くのかという立ち方が今必要なのかもしれません。それは孤独から逃れても多分見えてこないでしょう。欠落を埋め合わせようとしても、意味を求めても、見えてこない。孤独と向き合い、欠落を自覚し無意味さを受け入れて初めて見えてくるのかもしれません。

孤独と向き合えば、やっぱり人は寂しいので不可能だとわかっていても他者にわかってほしいと感じる。わかってほしいわかり合いたいと思う時、そこには原暴力も発動させてしまう。それは逃れられない。そしてどこまでいっても不可能でもある。しかしそれに気付けば、傷つけ合い殺し合う事が溢れかえった暴力の連鎖する本質的に他者とわかり合う事が不可能な社会で、何が必要なのか見えてくるのではないかと思います。

先日こんな話を聞きました。「もうこれさえあれば、何もいらない何かって、何だろう?」まあ直接本人に言ったわけじゃありませんが、そんなもんねえよって事です。それがあったら何もいらなくなるわけですから生きててもつまらないだろうし、手っ取り早いのは死ぬしか無くなっちゃう。神と合一化したいという欲求みたいな話です。

安心安全や心の平静を全て何かに担保して貰ったとして、それって生きてるって事になるのか?全部予測出来て、何もかも決まっているのって楽しいのか?何もかも決まってないから、生きていて楽しいと思えるわけで、何もかも安心安全であったら、あとは何を望めばいいと言うのか?何の不安もない状態なんてのは死を夢想しているのと同じ事です。

我々は実りのある生を得られていれば意味なんて考えません。実りが無いから意味を求めている。欠落を埋め合わせようとする。人を好きになる時、そこに理由なんて無い。我々の生は無意味だらけです。無意味さに投げ出されているが故に、そこに実りの無さや虚しさを感じた時、意味付けをしたくなるわけです。無意味だから実りが無いのではなく、実りが無いから無意味だと気付く。

生きる意味を求めたり、自分らしさを求めたり、安心安全で消費を煽られたりしながら自己実現というパターンというのは満足出来ないような仕組みになっています。安心で安全であって、不安が何も無く、与えられたものを消費している枠組みは考えようによっては、単なる飼い犬や家畜と同じ、何かにコントロールされている事と同じになってしまいますから、我々が犬や家畜ではなくて何かと考えてしまう人間である以上、必ず欠落を感じてしまう。

パーフェクトに成れたとして、それって幸せなのか考えてみますと、パーフェクトな存在という事は、単独で何も欠落無く、何でも自由に出来るって事ですが、そんな状態にはまず絶対に物理的に不可能だと言う事をわきにおいて、単なる思考実験の上での空想上の存在として考えても、単独で何の欠落も無いという事は、誰も必要ない、病気にもならないどころか死なないわけですから、子孫を増やす必要も無い。仲間もいらない。何でも自由に出来ると言っても欠落が無いのだから何も必要がない。それは単なる化け物でしかありませんが、そういう状態に仮になれるとして、それって幸せなのか想像すれば簡単にわかりますが、そんなのは地獄でしかない。

だから「もうこれさえあれば何もいらない何か」を求めるっつうのは、パーフェクトを求めるという事と似たようなもんで、そんな事考えてると本当に死ぬしか無くなっちゃう。

そんなのは裕福な国の幸福な不満だという話も当てはまるかもしれません。しかしどんなに贅沢な悩みだと言っても、その人にとって切実なら、切実になってしまいます。それが人が知恵を持ってしまった原罪なのでしょう。

オリンピックの最中に面倒くさい事をあれこれ書いてみました。

この話題はこれにてEND!!