前回の続きです。

実際に自殺者が年間3万人を越える状況が、もう10年も続いています。だけど社会の関心はそれほどでもない。

今でも自殺をする奴は弱い奴だとか、逃げたのだとか、家族を捨てた無責任な自分勝手な死だとか、昔からある感覚みたいなものも残っています。

10年毎年3万人ずつ死んで行くというのは、凄い数字です。一日約100人、10年で30万人ですから、南京大虐殺もビックリの数字です。広島の原爆投下直後の犠牲者数が14万人、長崎が7万人です。

もちろん原爆はその後も被爆して死んでる人がいっぱいいますが、戦後半世紀以上たっても、まだ毎年毎年大騒ぎしているのに、今現在起こっている死の問題にはあまり光が当たらない。

原爆の悲劇を繰り返さないというのは重要でしょう。その痛みを語り継いで行く事も大切でしょう。しかしもう起こってしまった事は取り返しがつかない。

それに比べて自殺者の問題というのは、死んだ人がかえってこないという事は全く同じですが、今現在進行形で毎年起こっている事です。その気になって社会で取り組めば何とかなるかもしれない。自殺は自分で勝手に死ぬのだからしょうがなくて、原爆は理不尽な死だという線引きがあるのでしょうか?

イラク戦争の死者数というのは数字にもの凄い開きがあって、一概にどれが正確な数字なのかは何とも言えませんが、見方によってはそれをも匹敵する数字でもあるわけです。

そういうものと比較するのは不遜かもしれませんが、毎年3万人ずつ死んでいる状態というのはある意味異常事態です。それらが全部自分勝手な死と言ってしまうには、あまりにも数が多過ぎる。何らかの要因が社会にあるからそうなっている。

自殺したいと思っている人が死んでしまえば、自殺したいと思う人は減って行くわけですが、自殺したいと思う人が毎年毎年増え続けている事になります。2006年に自殺対策基本法が出来て、自殺を社会の問題として捉え、対策を立てて行こうという方向性にはなりましたが、こういうのが実際に効果を現すまでには長い年月を必要とします。

人口10万人に対する自殺者の割合、所謂自殺率の国際統計で見ますと、日本は9位という数字が出て来ます。1位リトアニア、2位ベラルーシ、3位ロシア、カザフスタン、ハンガリー、ガイアナ、スロベニア、ラトビア、日本のあとの10位にウクライナ、その後韓国となっています。

1位から8位まで一つを除いて旧ソ連、東側諸国で10位もそうです。共産主義から体制変換して混乱する中で取り残される人々が出た事、ほぼ特殊事情があるような国ばかりで、特に特殊事情がない先進国である日本が9位というのは非常に高い。自殺率で言うとアメリカの二倍、イギリス、イタリアの三倍、先進諸国と比べると圧倒的に日本の自殺率が高い。

98年の3月、つまり97年度の決算から、いきなり自殺が増え始めて、その年だけで8500人増えている。22000人だったのが突然増えて、それからずっと3万人台を推移している。2万2千人というのもある意味凄い数字ですが、何か理由があっていきなり増えたのなら元に戻ってしかるべきであるのに、いきなり増えただけではなくてその後ずっと3万人台をキープするようになってしまっています

ということはそこで何らかの社会システムの変化があったのではないか?という見方が出来るわけです。小泉改革で格差拡大、弱者切り捨てと騒がれますが、実際にはそれ以前に何らかの社会変化があって、それによって毎年3万人死んで行く国に変化しているわけです。

そしてこの3万人という数字も実際の所はかなり少なめである可能性が大です。日本の場合、特に自殺に対してネガティブなスティグマが残された家族に張り付いてしまいますし、会社関係や親族の間で、変死とか突然死とか、転落死とか自殺ではないという事にしておきたい意識が必ず働く。自殺じゃないのに自殺だと言う人はまずいないわけだから、実際に起こっている数よりはかなり少なめになっていると見て間違いありません。

人口減を騒いでますが、3万人以上自殺していて、実際にはもっと多い可能性が大なのですから、そりゃこれだけ死んでれば、人口も減ります。子供の数を増やす事も大切ですが、今生きている人達が自殺しないで済む社会にする事の方がどちらかと言えば優先させるべき事でしょう。生きているより死んだ方がいいと思う人がこれだけ出てくる社会なんですから、そりゃ子供を産みたいとも思わなくなって当然です。

エミール・デュルケムの自殺論アノミー的自殺という概念では、どうしていいかわからなくなって死ぬというのが近代の自殺の特徴と言われています。当時のフランスの統計分析をして、金持ちが急に貧乏人になって自殺するケースと、貧乏人が急に金持ちになって自殺するケースでは、普通前者の方が多いと想像出来るが、実は後者の方が多かった。

貧乏人が貧乏人である段階では金持ちになるという目標もあるし、自分の不満についての解釈も貧乏だからという理由がある。それが金持ちになってしまうと目標設定も、自分がおかれている現状の解釈も、貧乏だからと言う解釈装置が使えなくなってしまう。デュルケムがいうアノミー状態、どうしていいかわからないとなってしまう。

旧ソ連や東ヨーロッパで自殺が多いというのも、デュルケムのアノミー的自殺で説明がつきます。従来の体制の中で暮らしていた人々が、単に貧乏になった金持ちになったという事ではなくて、従来の解釈装置が使えなくなってしまう。誰が偉くて誰が偉くないのか、どういう人生がいい人生なのか、どういう人生が悪い人生なのか、アノミー的自殺の典型。

日本の自殺統計の推移を見ると、50年代半ばでピークがあり(GHQの解散が52年)、その後落ち着いて来て、80年代初頭から再び急激に増える(バブル経済の立ち上がりが82年頃)、そしてバブルの繁栄とともに減って行き、バブル崩壊とともに90年代初頭から増え始める。これらは因果関係があるかどうかは断定出来ませんが、アノミー的自殺で全て説明がつきます。更に98年から劇的にいきなり増えて、過去最大の3万人越え。

ちなみに犯罪の増大なんかもアノミー化によって説明がつく事が多い。例えば少年犯罪のピークは65年頃にあって、その頃は殺人や強盗が3倍、暴行が7倍、強姦が20倍あったわけですが、東京オリンピックがあったのが64年。そして80年代にもピークを示しています。

97年は拓銀、山一の破綻があった。これが原因の一端を作っているのは間違いない。98年から激増したのは、経済的生活苦による自殺。そして40代から50代男性。中小企業の経営者だった人が、貸し渋りとか貸し剥がしとかにあって運転資金が回らなくなって立ち行かなくなった時に、生命保険で返して家族の生活を守ろうというような事で自殺した人達も沢山いる。あるいはリストラや配置転換にあって、慣れない職場に急激に対応出来ずアノミー化するというパターン。

大きな組織であればある程、多額であればある程、責任というのは有限になる。それが国家規模にまでなると責任すらとらない。大企業が破綻したってトップの責任なんてたかがしれている。額が小さくなればなるほど、規模が小さくなればなるほど、無限責任になってくる。

家族や会社を守る為にって話になってしまう。死ぬ事によって自分の家族を救おうとしたり、会社を救おうとしたりという動機が働いてしまう。追い込まれてしまい選択肢が狭まってくれば、こういった選択肢をとる人が出てくるのは当然でもある。死亡保険の支払いも自殺が癌についで二位になっています。

先日内閣改造が行なわれて、新しい法相が当然前法相の後釜ですから、死刑についてどう思うのかという質問をされていました。恥の文化である日本においては、一定の度を超した罪の場合、死んで詫びるという事も必要だ、みたいな話を言ってました。

恥も外聞も無い政治家がそういう事を言う資格があるとも思えませんが、その恥の文化とやらが、自殺に追い込んで、そしてその後も残された家族にも延々と罪を意識させ続ける社会である事をどう考えているのか聞きたいもんです。

恥の文化とか言ったって、実際腹切って死んでいた武士という階級、その家族達は人口でいえば6~7%に過ぎません。

そういう概念が変な形で残っているから、何も死ななくてもいいような人が、自ら命を絶つような事があるわけですから、恥の文化なんてもんをいつまでも後生大事に、しかも本当の意味であった文化ではなくて、少なくとも一般人のレベルで言えば、あとから捏造して作り上げたフィクションである可能性の高い、こんな下らない価値観を駆逐する事こそが重要でしょう。

自分の行いが何か道義的にマズい事だったりして恥じるのは重要なのでしょう。恥を感じず開き直って逆切れや、居直って堂々と利権に邁進しているような恥を恥とも思わないのも問題でしょうし。しかし何も死ななくたっていいはずです。恥じれば許されるってわけでもないし、そういう行いはしない、恥ずかしかったら、それを生きて自分の出来る事で返して行くしか無い。

恥の文化によって責任を感じ死を選んでいると見るのなら、例えば自殺した人に取り残された家族に対するまなざしだっておかしな話です。組織の中で全部責任を死者に押し付けるという振る舞いも話が違う。

死んでお詫びするという振る舞い自体、自分は認める余地はないと思いますが、恥じて死んでも、残された家族の名誉回復にもなるわけではないし、そういう人達に対しても恥というスティグマが張り付いて一生苦しんで行かねばならない。

なぜ気付かなかったのか?自殺者を出すような家庭だとか、自殺因子があるのだ、みたいな感じのトンでも論までひっくるめて、例えばその自殺の原因を作り出す社会の側や、企業の側、国家の側の責任逃れとして利用されている、恥を自覚する人程苦しむような文化でもあるわけです。権力装置や統合の都合のいい方便として利用されちゃっている。

かつて切腹して死んで詫びていた頃というのは、そのおかげでお家の取り潰しを回避出来たり、名誉回復として機能したり、責任の当事者が腹切って詫びれば、お咎め無しになったりする為の手段でもあったはずです。

恥を詫びて死んで行くのも文化で片付けて、残された人々へのサンクションも恥の文化で片付けられてしまっている所が残っています。これでは責任を感じた人やその家族が丸々損するような文化です。無限責任を精神的にも物理的金銭的にも負わなきゃならなくなっちゃっている。

一方では恥もクソも無く利権に邁進するクズや、旅の恥はかきすて的文化でやりたい放題に振る舞っている連中には全く何のサンクションも及ばないのに、一方では一端ケガレているとレッテルを貼付けられてしまったら、何をしても一生エンガチョウというのが残っている。

恥の文化とかそういう事じゃなくて、単に空気を読んで長いものに巻かれ、権威の威を借りて、多数者による合意の暴力によって少数者を叩くという腐り切ったメンタリティが残っているだけ。

一端ネガティブなスティグマが張り付いてしまうと、どこか他所の土地に移り住まないかぎり、就職にしろ結婚にしろ、負い目を背負って生きて行かねばならず、精神的な負い目は土地を移動してもずっと背負い続けなければならないような、道徳観念が残っている。

それは例えば精神病などに対してもそうですし、自己破産などに対してもそうです。鬱病の数が以前に比べて30倍、自己破産にしても1990年からすると20倍になっているので、自殺に比べればだいぶ偏見は減っているとは思いますが、それでも根強く残っている事も確かです。

だいたい20倍とか30倍になっている状況がそもそも問題なんじゃないかとも思いますが、それだけ行き詰まったときの救済措置がとられるようになっているのに、自殺者数はいっこうに減らない。

精神を病んでしまった人に対してもそうだし、自殺に追い込まれてしまった人に対してもそうですが、心が弱いとか、無責任とか、傷口に塩を塗り付けるような偏見が残っていますし、中小企業の経営者なんかが追いつめられて自殺する場合、6割くらいがサラ金に辿り着く。サラ金よりも違法なものが更にあるわけですが、自己破産に対してもそうですが、いい加減な経営でとか、遊びまくってとか、放漫な生活であるとか、ブランドものを沢山買ってとか、パチンコ三昧でサラ金に手を出してとか、みたいな話ばかりに光が当たる。

実際にそういう人もいるかもしれませんが、それで全体を語るのも乱暴な話で、大手メディアにとってはサラ金も大事なスポンサーなので、借りる側に問題があるという事ばかりに光が当たる。

グレーゾーン金利で騒いだ時に、大手メディアでもサラ金のCMをバンバン流すのはいかがなものか、みたいな話が一時期ありましたが、ほとぼりが冷めればどこ吹く風でバンバン流れている。

こういう事が問題だと騒ぎになると、バカな政治家が副作用も考えずにサラ金に対する圧力を強める。そうすると、今度はその事によって金を借りられなくなった中小企業が潰れてしまうという連鎖反応が起こる。経済も真っ逆さま。潔癖主義的に脳味噌カラッポのアホ政治家が何のビジョンもなく世論に媚びてポピュリズム的に政策を推し進めるとこういう事になる。

確かに高過ぎる金利とかは無いほうがいいに決まっている。しかしそれを規制するのは国民を守る為であって己のポジションを守る為ではありません。CMを流さないとかそういう問題でもない。必要とする人達はやっぱりいるわけで、そういう人達が、最悪死んじゃうような状態を回避する事が大切なわけで、闇雲に蛇口を占めるような事をすれば、事はもっと厄介になってしまう。

再チャレンジとか言っているわけですから、失敗しても復活出来て、一定のサンクションはしょうがないとしても、それがヘタをすると一生張り付いてしまうような社会の構造を考えることの方が重要です。

自分は自殺者や残された家族に対する偏見を一掃しろとか言いたいわけではありませんし、弱者を救済しろとか、格差を是正しろとか、そういう事が言いたいわけではありません。

もちろん出来るならやった方がいいに決まってますが、それ以前に、こういう状態を放置している国であるにもかかわらず、思いやりだの、みんな仲間だの言うのは欺瞞なんじゃないかと思うわけです。

道徳だのを叫んだり、非常識だと国民同士指をさし合ったり出来るような、そんな偉そうな事が言える状況なのかって事です。近頃の親はなっとらんとか、学校の教師けしからんとか、人の事を断罪出来るような社会なのか?

子供の自殺が連鎖すると必ず下らない道徳主義者みたいなゴミが、センチメンタリズムのシャワーを浴びせかけて、更に連鎖を招くという事態が度々起こりますが、死んじゃダメだよ的な上っ面のきれい事をほざく連中が増えても、こんな社会を放置しておいて、何が子供に伝わるというのか?

北京でのオリンピックという、人権侵害や弾圧、言論の不自由の上に成り立った、口にするのもバカらしい「平和」のドーピングの祭典に一喜一憂している。感動や勇気をもらったとか騒いでいるわけです。もちろんオリンピックを楽しむ事自体に反対しているわけではありませんよ。

楽しむのはいいと思いますが、その背後にある痛みを放置している社会である事に敏感になれば、どんなきれい事も説得力を失っているのは当たり前と言えば当たり前です。

つづく!!