皆様、盆中いかがお過ごしでしょうか。かえって疲れたとか、余計金ばっかりが出て行ったとか、それとも、羽をバッチリ伸ばせたとか、オリンピックや高校野球に一喜一憂されている方とか、はたまた、休みなんてねえよとか、暑過ぎてバテてくたばっている方とか、人それぞれ様々な盆を過ごされたかと思います。盆中は何かと暇もないので、書くのをサボっていた三日坊主でございます。
さて前回の続きです。
前回、結構身も蓋もない話をしてしまいました。あれはあくまでも仮説のお話なので、その程度の話だと受け取ってもらいたいのですが、実際の所、個人的な感覚として思うのは、全くゼロでは無さそうだけど、やっぱり今生きている環境にも左右されているような気もするし、そう思わないと全てが無駄だって話になっちゃいますので、やってられないという風になっちゃう。
たとえそれが本当だとしたって、個人的に言えば、だからどうしたって話なんですが、前回のような話を前提にして考えなくとも、自分は普段から疑問に思ってしまう事があります。例えば思考停止悪説です。
これは自分も思考停止の害悪について書いておりますので、もちろん普通に言えば、思考停止状態よりはそうではない状態の方がいいに決まっていると答えるでしょう。
だけど思考停止で困る状況よりも思考停止で困らない状況の方が多いと思ってしまう事もありますし、思考停止しないで生きる事によって得られる喜びや楽しみよりも、苦痛や困難の方が多いような気がするわけです。
思考停止によって、その個人が損したり、厄介な事態に陥ったりした場合、お前が思考停止しているからだ、という言い方はある程度正しい所もあるでしょう。
ただこの場合そんな事言わなくても、何もお前の自己責任だと言わなくたって、誰も助けてあげられないのだから、個人が思考停止によって降り掛かる厄介事をどうにかするしかない。
その場合に自分の思考停止が原因であるのに、国家や誰かのせいにしている人に向かって、人のせいにするな、お前の自己責任だろ、と言うのはある程度納得がいきます。実際そう言ってやった方がいい人もいますし。まあそういう人にはだいたい言っても無駄なんですが。
しかし、個人的に誰にも厄介事や極端な迷惑をかけずに、のほほんと思考停止しながら、ただ日常をつつがなく過ごしている人に対して、例えば国家やどっかの誰かが騙したり搾取している事によって損害を被った場合にも、お前が思考停止しているから悪いんだ、という言い方がなされる場合があります。
この場合、確かに思考停止していなければ損していないというのは本当なんですが、思考停止している人自体が問題を作り出しているというより、そういう人を騙して得をしようと振る舞っている輩が問題を作り出す状況を放置しておいて、お前のせいだと言っているように聞こえる。思考停止している輩が悪いんだと言ったように、どっちの味方かわからないような言い方がある。
この場合、普通に考えれば思考停止している人も問題なのはそうなのでしょうけれど、そういう人を騙そうと思っている人が原因なのに、それを抜きにして騙される方が悪いんだと言っている事に加担しているような気がしてしまう。
いつ誰に騙されるかわからずに、疑心暗鬼で生活し、言葉には必ず裏があると信用せずに生きる、そういう事が共通前提となってしまう社会が幸福なのかと考えると、人を信頼し、善意に基づいているはずだと疑わずにいる人というのは、悪い人ではないでしょうし、どちらかと言えばそう言う生き方のほうが、良い生き方のような気もする。
そういう人達で構成された社会の方が幸せに生きられるような気がするわけです。
そういう人まで思考停止野郎という言葉で一括りにしてしまっている状況が実際にあって、そこの所がやっぱりどうしてもおかしいような気がするわけです。
小泉元総理にしろ、安倍元総理にしろ、現在の福田総理にしろ、最初に出てくる支持率とかを見ると、ここは北朝鮮か?それともロシアか?と思えるくらいの支持率だったりします。確かにこういうのには正直グッタリします。
しかし例えば小泉が大人気だった頃に支持した奴らが、バカだったとか、B層だったとか、いろんな言い方があったりしますが、これは騙されている方が悪いんだという言い方なわけですが、確かに騙される方にも問題があるのは間違いないけれど、騙す輩がまず不遜なわけで、コイツらがまともな感覚で振る舞っていれば、もしくは出来もしない、やる気も無いような事を、さも出来ます、やります、といった言い方で人気取りに走っていなければ済んでいた話です。
言っている事や目指している方向性に賛同した人達に文脈を参照したり割り引いて聞く能力が無いからと言ったって、実際には、改革だ!とか、叫んでいた輩にまず問題があるわけです。
嘘をついていた奴を他の政治家も、マスメディアもみんな賛同して騙されていた、もしくは騙す事に加担していたわけで、騙している本人、それに加担していた人々そして騙されていた人々、みんな一蓮托生の構造があるのに、騙されていた奴らがバカだったんだと切り捨てる事によって、自分はそうじゃないと表明しても、それは自分の実存レベルでのホメオスタシスの維持にはなっても、実際の問題点には切り込めません。民主主義は動員しなくちゃ動かないからです。
思考停止が悪い悪いと言ったって、教育にしろ啓蒙にしろ、思考停止でいる事をむしろ促進させるようなものに囲まれていて、それでお前が思考停止しているのが悪いと言っても、普通に生きていればそうなるような枠組みが構築されているわけです。
その枠組みを問題にしないと、俺はお前らと違うという表明にしか永遠にならない。表明してもそういう人を生み出す枠組みである続けるかぎり、動員にもならないし、連帯にも程遠い。
もちろんそれでも思考停止しない方がいいと、常識的には答えるでしょう自分も多分。実際にこのブログでもそう言った事を書いて来ましたし。しかし思考停止害悪論というのは非常に都合よく使われちゃっている側面があるのではなかろうかと感じる事がしばしばあるわけです。特に最近は。責任の所在を、すべて自己責任に振り分ける為の都合のいい言い訳として。
それに、いったん仮説だから話半分で聞いとけと書いといてなんですが、前回のようなEEA仮説の話や、そうではなくて今現在の環境によってある程度規定されていると考えるにしたって、思考停止でいられるのなら、悪い話ではないような気もする。
自分が何とかしてどうなる次元の話ではないのなら、考えて悶々とするだけ不毛な気もするわけです。思考停止というのは環境の変化を食い止め、心の安定を保つ為の安全装置のような気もする。偉大な哲学者のように、小難しい事を一生を棒に振って考えながら、死んだ後になって、後の哲学者にサックリ全否定されるパターンなんて悲し過ぎて笑えます。
個人の実存のホメオスタシスを保つ為には、思考停止はある意味必要な場面もあるし、戦略的に重要な場合もあり得る。EEA仮説のような話を元にしてしまえば、思考停止でいる事こそがむしろ重要だって話になる。
環境を不安や疑心暗鬼にかられ、便利さや安全に目を奪われてどんどん変化させて、それに無理矢理適応しようとする事が、心の進化を置き去りにしてしまうのだとすれば、そういう話になる。
そうじゃなくたって、環境だの食の問題だのが騒がれる昨今、そこそこの便利さや安心安全、裕福さで折り合いを付けて、そのリソースをフル活用しながら日常をつつがなく過ごして行く方が、心の安定にはいいって話になる。
しかし前々回のような話では、個人個人が自分勝手に振る舞う事が問題なのではなくて、もしくは思考停止でいる事自体が問題なのではなくて、流動化がない事が問題なのだという、例えば政治家が腐っている事が問題なのではなくて、それを可視化し、チェックし、そしてサンクションがない事が問題なのだとするのなら、やっぱり思考停止は問題のような気がしてしまう。というよりも、流動化するという事は思考停止ではいられなくなる局面が増えてしまうだろうと思われる。
流動化を妨げる事と、思考停止でいるという事は同じように感じてしまうのですが、というか流動化するからには、思考停止は許されない状態になってしまうのではないかと思ってしまう、システムの問題を語れば流動化は必要であって、それがないとシステムはどんどん劣化して行く。しかし流動化すれば当然ながら思考停止でいられないような環境の変化が不可欠になってしまう。
と、まあ相反する、社会というフィクションを駆動させる事自体、こういった矛盾を抱えているものでもある、なんて言い方を普通はするのでしょう。
思考停止状態の流動化による不可能性、流動化を受け入れる事に対する思考停止状態での不可能性、という問題に直面するわけですが、流動性を担保しつつ、個人の実存においてのホメオスタシスの維持を侵害し合わないという事は可能なんじゃなかろうかと感じるわけです。
思考停止のままで流動化の受け入れが可能かどうかはわきにおいて、他人が思考停止である、もしくはそのように見える状態はそれはそれとして認め合いながら、流動化を受け入れるという事です。
コミュニタリアンとリバタリアンという方向性というのは一見全く逆のベクトルであるような感覚がありますが、誰にも迷惑がかからない次元において、個人は自由を尊重されるべきだと捉えるのなら、個人が自由である為に必要な共同体の作法や振る舞いを守るという事がより多くの自由を獲得出来るという話にもなり得る。共同体の利益を増進させる為には、個人の自由を縛り付けて、こうあれと従わせるよりも、ある程度共同体がぶち壊れないという前提に従っていれば自由に振る舞わせた方が、かえって共同体全体の自由の促進にもなり得るし、利益の増進にもなり得る。したがって必ずしも相反する概念だと捉える事は出来ません。
それと同じで、思考停止していても、流動化を受け入れるというか、実存のレベルではいろいろと考えている人がいる。我が儘もいるし、思考停止もいる、流動化と言う流れをある程度受け入れて共有し、お互いに迷惑をかけないという最低限の約束事を守り合えるのなら、他人の実存の自由を認め合う、他人の価値観をある程度認める、赤の他人とわかり合えなくとも共に生きて行く社会、赤の他人の自由が侵害されているという事は、自分の自由が侵害される可能性があり得る、その事に敏感になれる社会、そういうものが必要なんだろうと思うわけです。
思考停止のまま流動化を受け入れるという事が不可能なのかと言えば、流動化は社会の状態であって、思考は心の問題なので、実際には可能でしょう。
危機があっても見える人と見えない人がいるわけで、見ないで生きている人がいても、だから悪者だって話にはならないですし、そういう奴らが思考停止でいるから、こっちも割を食うんだという言い方があったりしますが、それは確かにそう思えてしまう所もあるのでしょうけれど、それを利用している輩が一番問題なのであって、バカは罪だと言ってもどうにもならない。
実際に罪にして裁くなんて事は出来るわけありませんし、それを罪だと裁くような社会はいい社会にも思えない。人それぞれいろんな人がいるわけで、そういうのを利用する輩の問題が本当は一番厄介な問題です。
もちろん危機を見ない人がいっぱいいればそれは動員につながらないわけで、民主主義の観点から考えると社会は動きません。だから思考停止けしからんという事にもなるのでしょうけれど、それを言った所で、嘆いた所で、動員にはなりません。
動員にはならないんだから、共有し合えるように気付いていたり見えている人が啓蒙するか、教育するしか無い。
マスメディアのような動員力に対して、あまりにも動員の無さ加減にグッタリするのは当然なんですが、こうあれと無理強いする事も一種の暴力になり得る。
それに動員にならないという事はそれだけ多くの人にとって切実ではないという事にもなりうるわけで、危機を感じている人が少数派であるという事の現れでもあります。
思考停止を叩く事によって、思考停止状態から脱却せよと啓蒙する事が暴力になり得るという事を自覚しなければ、多数派による少数派への弾圧や暴力を肯定する事にもつながる。
自由を主張するという事は、相手の自由も尊重しなきゃ上手く行かない。一見個人的な感覚でどうにもならない絶望感を感じて、思考停止害悪論を唱えても、他者の自由を侵害してしまっては、自分勝手に振る舞うのも思考停止でいる事も自由だ文句あるかって話になっちゃって、全然動員や連帯に結びつきません。
思考停止でいる奴が悪者だとか、流動化によって格差が膨らんだとか、そういう事は物事の一面を捉えているだけで、全体を見ていません。今のこの国の流れを見ていると、流動化をせき止めて、個人の違いを許さない社会になっています。その事が問題の本質なのではなかろうかと思うわけです。
思考停止するなとケツを叩くのはいいけれど、思考停止しないで考えても、みんなと同じ同調圧力にさらされて、ことごとくアーキテクチャは絶望ばかり、変えられたり、変わる可能性が無い。
流動化は恣意性に塗れていて、流動化にさらされている人達が単に仕事が無くなったり、収入が減っていたりするだけで、本当に流動化した方がいいのではないか?と感じるようなレベルでの流動化はむしろよりガチガチに固められている。
こういう状況で、ただ思考停止が悪いのだ、自己責任なのだ、という話に落ちてしまっては、権力装置の片棒を担いでいるだけになってしまう。
流動化がある程度担保されていて、可視化出来て、チェックに開かれていれば、思考停止的に政権交代も起こらないような状況だって変わる可能性はあるわけです。ただそのチェックに開かれた状況にする為には、まず思考停止から脱却して声を上げないと無理だろというのは、それはそうなのですが、だったら尚更、思考停止害悪論を嘆いて線を引いていても仕方がないとも言える。
とは言うものの、流動化するという事は困る人が必ず出てくる。見たくない厄介事も見えてくるでしょう。そういった問題に陥ってしまった時、もしくはそれが見えている場合、赤の他人の自由を尊重しているので、もしくは各々思考停止しているので、放置するという話になってしまうとそれはそれで問題ありですので、ロールズの無知のヴェールじゃありませんが、自分がなって嫌な状態に他人が陥っている場合、やっぱりそれを放置するのはマズいんじゃないかという感覚の共有は必要でしょう。
思考停止なんで気付かないとか、自由なんだからしょうがないじゃないかという風に捉える場合もあるのですが、自分が同じ状況になったとしたらどう思うんだ?と考えて嫌だと思う状態に他人がなってしまっている状態を放置しておくのは、やっぱりあまり良い事ではないような気もしますし。
かと言ってパターナリズム的に良かれと思って振る舞っても、結果余計なお世話になってしまう場合もあるので難しい問題なんですが、他人のモラルや思考停止に介入したがる輩や、道徳なんかを声高に叫ぶお人が多い割には、他人に関わらないというか、人の事は知ったこっちゃないという社会にこの国はなっているように感じます。
自分は賢くて家柄もいいし金持ちだから同じ状態にはならない、ではなくて、同じ状態になるかならないかではなくて、なってしまった場合に耐えられるのか?という事です。そしてそういう話になると、必ず俺は耐えられる、耐えられない奴が弱虫なんだという話になっちゃう場合があるので困るのですが、ここの所はよくよく考えないとマズい社会になりつつあるのではないか?と感じるのです。
実際に弱者の平等を訴えながら、その外側に大量の不平等を生み出すような、この国でずっとあった弱者利権やインチキ左翼運動みたいなのがありすぎたので、こういう社会になってしまったのかもしれませんが、抜け駆け感や疑心暗鬼という対象としての他者、自分の今がどの程度であるのかを相対的に測る為の目印の為の他者ばかりで、困ったときはお互い様とか、助け合いの精神でとか、そういう他者がどんどん無くなってしまっています。
何が言いたいのかといいますと、思考停止を断罪する、抜け駆けを感じて引きずり下ろす為に他者と関わる事、もしくはそういう対象にならない為に、空気を読んで波風を立てないような振る舞いが多い割には、実際に困っている人に対しては意外と冷たい社会になっちゃっているのではないかと思うわけです。
今に始まった事ではないのかもしれませんが、ここ最近の傾向として、それがどんどん加速しているような気がするのです。それは共同体が壊れて個人が分断化されているから余計そういう風に感じるのかもしれませんが。
まあそうは言っても人に対して何が出来るかなんて話をすれば、個人に出来る事なんてよっぽどの金持ちでもないかぎり、物理的な手助けはたかがしれているでしょう。たいした役には立てない場合が殆どでしょうし、自分だって偉そうな事は言えません。助言位はしますが、単なる説教オヤジだと思われる場合もあるでしょうし、全くお門違いの話の場合もあるでしょう。
しかしそういう事に対して自己責任だろ、自由なんだからしょうがないぜ、みたいな感じで手を差し伸べないならまだしも、崖からケリ落とすような振る舞いや、血祭りに上げるような炎上が横行してしまう。
その事が大きな問題になっているような気がするのです。例えば自殺の問題です。
つづく!!
さて前回の続きです。
前回、結構身も蓋もない話をしてしまいました。あれはあくまでも仮説のお話なので、その程度の話だと受け取ってもらいたいのですが、実際の所、個人的な感覚として思うのは、全くゼロでは無さそうだけど、やっぱり今生きている環境にも左右されているような気もするし、そう思わないと全てが無駄だって話になっちゃいますので、やってられないという風になっちゃう。
たとえそれが本当だとしたって、個人的に言えば、だからどうしたって話なんですが、前回のような話を前提にして考えなくとも、自分は普段から疑問に思ってしまう事があります。例えば思考停止悪説です。
これは自分も思考停止の害悪について書いておりますので、もちろん普通に言えば、思考停止状態よりはそうではない状態の方がいいに決まっていると答えるでしょう。
だけど思考停止で困る状況よりも思考停止で困らない状況の方が多いと思ってしまう事もありますし、思考停止しないで生きる事によって得られる喜びや楽しみよりも、苦痛や困難の方が多いような気がするわけです。
思考停止によって、その個人が損したり、厄介な事態に陥ったりした場合、お前が思考停止しているからだ、という言い方はある程度正しい所もあるでしょう。
ただこの場合そんな事言わなくても、何もお前の自己責任だと言わなくたって、誰も助けてあげられないのだから、個人が思考停止によって降り掛かる厄介事をどうにかするしかない。
その場合に自分の思考停止が原因であるのに、国家や誰かのせいにしている人に向かって、人のせいにするな、お前の自己責任だろ、と言うのはある程度納得がいきます。実際そう言ってやった方がいい人もいますし。まあそういう人にはだいたい言っても無駄なんですが。
しかし、個人的に誰にも厄介事や極端な迷惑をかけずに、のほほんと思考停止しながら、ただ日常をつつがなく過ごしている人に対して、例えば国家やどっかの誰かが騙したり搾取している事によって損害を被った場合にも、お前が思考停止しているから悪いんだ、という言い方がなされる場合があります。
この場合、確かに思考停止していなければ損していないというのは本当なんですが、思考停止している人自体が問題を作り出しているというより、そういう人を騙して得をしようと振る舞っている輩が問題を作り出す状況を放置しておいて、お前のせいだと言っているように聞こえる。思考停止している輩が悪いんだと言ったように、どっちの味方かわからないような言い方がある。
この場合、普通に考えれば思考停止している人も問題なのはそうなのでしょうけれど、そういう人を騙そうと思っている人が原因なのに、それを抜きにして騙される方が悪いんだと言っている事に加担しているような気がしてしまう。
いつ誰に騙されるかわからずに、疑心暗鬼で生活し、言葉には必ず裏があると信用せずに生きる、そういう事が共通前提となってしまう社会が幸福なのかと考えると、人を信頼し、善意に基づいているはずだと疑わずにいる人というのは、悪い人ではないでしょうし、どちらかと言えばそう言う生き方のほうが、良い生き方のような気もする。
そういう人達で構成された社会の方が幸せに生きられるような気がするわけです。
そういう人まで思考停止野郎という言葉で一括りにしてしまっている状況が実際にあって、そこの所がやっぱりどうしてもおかしいような気がするわけです。
小泉元総理にしろ、安倍元総理にしろ、現在の福田総理にしろ、最初に出てくる支持率とかを見ると、ここは北朝鮮か?それともロシアか?と思えるくらいの支持率だったりします。確かにこういうのには正直グッタリします。
しかし例えば小泉が大人気だった頃に支持した奴らが、バカだったとか、B層だったとか、いろんな言い方があったりしますが、これは騙されている方が悪いんだという言い方なわけですが、確かに騙される方にも問題があるのは間違いないけれど、騙す輩がまず不遜なわけで、コイツらがまともな感覚で振る舞っていれば、もしくは出来もしない、やる気も無いような事を、さも出来ます、やります、といった言い方で人気取りに走っていなければ済んでいた話です。
言っている事や目指している方向性に賛同した人達に文脈を参照したり割り引いて聞く能力が無いからと言ったって、実際には、改革だ!とか、叫んでいた輩にまず問題があるわけです。
嘘をついていた奴を他の政治家も、マスメディアもみんな賛同して騙されていた、もしくは騙す事に加担していたわけで、騙している本人、それに加担していた人々そして騙されていた人々、みんな一蓮托生の構造があるのに、騙されていた奴らがバカだったんだと切り捨てる事によって、自分はそうじゃないと表明しても、それは自分の実存レベルでのホメオスタシスの維持にはなっても、実際の問題点には切り込めません。民主主義は動員しなくちゃ動かないからです。
思考停止が悪い悪いと言ったって、教育にしろ啓蒙にしろ、思考停止でいる事をむしろ促進させるようなものに囲まれていて、それでお前が思考停止しているのが悪いと言っても、普通に生きていればそうなるような枠組みが構築されているわけです。
その枠組みを問題にしないと、俺はお前らと違うという表明にしか永遠にならない。表明してもそういう人を生み出す枠組みである続けるかぎり、動員にもならないし、連帯にも程遠い。
もちろんそれでも思考停止しない方がいいと、常識的には答えるでしょう自分も多分。実際にこのブログでもそう言った事を書いて来ましたし。しかし思考停止害悪論というのは非常に都合よく使われちゃっている側面があるのではなかろうかと感じる事がしばしばあるわけです。特に最近は。責任の所在を、すべて自己責任に振り分ける為の都合のいい言い訳として。
それに、いったん仮説だから話半分で聞いとけと書いといてなんですが、前回のようなEEA仮説の話や、そうではなくて今現在の環境によってある程度規定されていると考えるにしたって、思考停止でいられるのなら、悪い話ではないような気もする。
自分が何とかしてどうなる次元の話ではないのなら、考えて悶々とするだけ不毛な気もするわけです。思考停止というのは環境の変化を食い止め、心の安定を保つ為の安全装置のような気もする。偉大な哲学者のように、小難しい事を一生を棒に振って考えながら、死んだ後になって、後の哲学者にサックリ全否定されるパターンなんて悲し過ぎて笑えます。
個人の実存のホメオスタシスを保つ為には、思考停止はある意味必要な場面もあるし、戦略的に重要な場合もあり得る。EEA仮説のような話を元にしてしまえば、思考停止でいる事こそがむしろ重要だって話になる。
環境を不安や疑心暗鬼にかられ、便利さや安全に目を奪われてどんどん変化させて、それに無理矢理適応しようとする事が、心の進化を置き去りにしてしまうのだとすれば、そういう話になる。
そうじゃなくたって、環境だの食の問題だのが騒がれる昨今、そこそこの便利さや安心安全、裕福さで折り合いを付けて、そのリソースをフル活用しながら日常をつつがなく過ごして行く方が、心の安定にはいいって話になる。
しかし前々回のような話では、個人個人が自分勝手に振る舞う事が問題なのではなくて、もしくは思考停止でいる事自体が問題なのではなくて、流動化がない事が問題なのだという、例えば政治家が腐っている事が問題なのではなくて、それを可視化し、チェックし、そしてサンクションがない事が問題なのだとするのなら、やっぱり思考停止は問題のような気がしてしまう。というよりも、流動化するという事は思考停止ではいられなくなる局面が増えてしまうだろうと思われる。
流動化を妨げる事と、思考停止でいるという事は同じように感じてしまうのですが、というか流動化するからには、思考停止は許されない状態になってしまうのではないかと思ってしまう、システムの問題を語れば流動化は必要であって、それがないとシステムはどんどん劣化して行く。しかし流動化すれば当然ながら思考停止でいられないような環境の変化が不可欠になってしまう。
と、まあ相反する、社会というフィクションを駆動させる事自体、こういった矛盾を抱えているものでもある、なんて言い方を普通はするのでしょう。
思考停止状態の流動化による不可能性、流動化を受け入れる事に対する思考停止状態での不可能性、という問題に直面するわけですが、流動性を担保しつつ、個人の実存においてのホメオスタシスの維持を侵害し合わないという事は可能なんじゃなかろうかと感じるわけです。
思考停止のままで流動化の受け入れが可能かどうかはわきにおいて、他人が思考停止である、もしくはそのように見える状態はそれはそれとして認め合いながら、流動化を受け入れるという事です。
コミュニタリアンとリバタリアンという方向性というのは一見全く逆のベクトルであるような感覚がありますが、誰にも迷惑がかからない次元において、個人は自由を尊重されるべきだと捉えるのなら、個人が自由である為に必要な共同体の作法や振る舞いを守るという事がより多くの自由を獲得出来るという話にもなり得る。共同体の利益を増進させる為には、個人の自由を縛り付けて、こうあれと従わせるよりも、ある程度共同体がぶち壊れないという前提に従っていれば自由に振る舞わせた方が、かえって共同体全体の自由の促進にもなり得るし、利益の増進にもなり得る。したがって必ずしも相反する概念だと捉える事は出来ません。
それと同じで、思考停止していても、流動化を受け入れるというか、実存のレベルではいろいろと考えている人がいる。我が儘もいるし、思考停止もいる、流動化と言う流れをある程度受け入れて共有し、お互いに迷惑をかけないという最低限の約束事を守り合えるのなら、他人の実存の自由を認め合う、他人の価値観をある程度認める、赤の他人とわかり合えなくとも共に生きて行く社会、赤の他人の自由が侵害されているという事は、自分の自由が侵害される可能性があり得る、その事に敏感になれる社会、そういうものが必要なんだろうと思うわけです。
思考停止のまま流動化を受け入れるという事が不可能なのかと言えば、流動化は社会の状態であって、思考は心の問題なので、実際には可能でしょう。
危機があっても見える人と見えない人がいるわけで、見ないで生きている人がいても、だから悪者だって話にはならないですし、そういう奴らが思考停止でいるから、こっちも割を食うんだという言い方があったりしますが、それは確かにそう思えてしまう所もあるのでしょうけれど、それを利用している輩が一番問題なのであって、バカは罪だと言ってもどうにもならない。
実際に罪にして裁くなんて事は出来るわけありませんし、それを罪だと裁くような社会はいい社会にも思えない。人それぞれいろんな人がいるわけで、そういうのを利用する輩の問題が本当は一番厄介な問題です。
もちろん危機を見ない人がいっぱいいればそれは動員につながらないわけで、民主主義の観点から考えると社会は動きません。だから思考停止けしからんという事にもなるのでしょうけれど、それを言った所で、嘆いた所で、動員にはなりません。
動員にはならないんだから、共有し合えるように気付いていたり見えている人が啓蒙するか、教育するしか無い。
マスメディアのような動員力に対して、あまりにも動員の無さ加減にグッタリするのは当然なんですが、こうあれと無理強いする事も一種の暴力になり得る。
それに動員にならないという事はそれだけ多くの人にとって切実ではないという事にもなりうるわけで、危機を感じている人が少数派であるという事の現れでもあります。
思考停止を叩く事によって、思考停止状態から脱却せよと啓蒙する事が暴力になり得るという事を自覚しなければ、多数派による少数派への弾圧や暴力を肯定する事にもつながる。
自由を主張するという事は、相手の自由も尊重しなきゃ上手く行かない。一見個人的な感覚でどうにもならない絶望感を感じて、思考停止害悪論を唱えても、他者の自由を侵害してしまっては、自分勝手に振る舞うのも思考停止でいる事も自由だ文句あるかって話になっちゃって、全然動員や連帯に結びつきません。
思考停止でいる奴が悪者だとか、流動化によって格差が膨らんだとか、そういう事は物事の一面を捉えているだけで、全体を見ていません。今のこの国の流れを見ていると、流動化をせき止めて、個人の違いを許さない社会になっています。その事が問題の本質なのではなかろうかと思うわけです。
思考停止するなとケツを叩くのはいいけれど、思考停止しないで考えても、みんなと同じ同調圧力にさらされて、ことごとくアーキテクチャは絶望ばかり、変えられたり、変わる可能性が無い。
流動化は恣意性に塗れていて、流動化にさらされている人達が単に仕事が無くなったり、収入が減っていたりするだけで、本当に流動化した方がいいのではないか?と感じるようなレベルでの流動化はむしろよりガチガチに固められている。
こういう状況で、ただ思考停止が悪いのだ、自己責任なのだ、という話に落ちてしまっては、権力装置の片棒を担いでいるだけになってしまう。
流動化がある程度担保されていて、可視化出来て、チェックに開かれていれば、思考停止的に政権交代も起こらないような状況だって変わる可能性はあるわけです。ただそのチェックに開かれた状況にする為には、まず思考停止から脱却して声を上げないと無理だろというのは、それはそうなのですが、だったら尚更、思考停止害悪論を嘆いて線を引いていても仕方がないとも言える。
とは言うものの、流動化するという事は困る人が必ず出てくる。見たくない厄介事も見えてくるでしょう。そういった問題に陥ってしまった時、もしくはそれが見えている場合、赤の他人の自由を尊重しているので、もしくは各々思考停止しているので、放置するという話になってしまうとそれはそれで問題ありですので、ロールズの無知のヴェールじゃありませんが、自分がなって嫌な状態に他人が陥っている場合、やっぱりそれを放置するのはマズいんじゃないかという感覚の共有は必要でしょう。
思考停止なんで気付かないとか、自由なんだからしょうがないじゃないかという風に捉える場合もあるのですが、自分が同じ状況になったとしたらどう思うんだ?と考えて嫌だと思う状態に他人がなってしまっている状態を放置しておくのは、やっぱりあまり良い事ではないような気もしますし。
かと言ってパターナリズム的に良かれと思って振る舞っても、結果余計なお世話になってしまう場合もあるので難しい問題なんですが、他人のモラルや思考停止に介入したがる輩や、道徳なんかを声高に叫ぶお人が多い割には、他人に関わらないというか、人の事は知ったこっちゃないという社会にこの国はなっているように感じます。
自分は賢くて家柄もいいし金持ちだから同じ状態にはならない、ではなくて、同じ状態になるかならないかではなくて、なってしまった場合に耐えられるのか?という事です。そしてそういう話になると、必ず俺は耐えられる、耐えられない奴が弱虫なんだという話になっちゃう場合があるので困るのですが、ここの所はよくよく考えないとマズい社会になりつつあるのではないか?と感じるのです。
実際に弱者の平等を訴えながら、その外側に大量の不平等を生み出すような、この国でずっとあった弱者利権やインチキ左翼運動みたいなのがありすぎたので、こういう社会になってしまったのかもしれませんが、抜け駆け感や疑心暗鬼という対象としての他者、自分の今がどの程度であるのかを相対的に測る為の目印の為の他者ばかりで、困ったときはお互い様とか、助け合いの精神でとか、そういう他者がどんどん無くなってしまっています。
何が言いたいのかといいますと、思考停止を断罪する、抜け駆けを感じて引きずり下ろす為に他者と関わる事、もしくはそういう対象にならない為に、空気を読んで波風を立てないような振る舞いが多い割には、実際に困っている人に対しては意外と冷たい社会になっちゃっているのではないかと思うわけです。
今に始まった事ではないのかもしれませんが、ここ最近の傾向として、それがどんどん加速しているような気がするのです。それは共同体が壊れて個人が分断化されているから余計そういう風に感じるのかもしれませんが。
まあそうは言っても人に対して何が出来るかなんて話をすれば、個人に出来る事なんてよっぽどの金持ちでもないかぎり、物理的な手助けはたかがしれているでしょう。たいした役には立てない場合が殆どでしょうし、自分だって偉そうな事は言えません。助言位はしますが、単なる説教オヤジだと思われる場合もあるでしょうし、全くお門違いの話の場合もあるでしょう。
しかしそういう事に対して自己責任だろ、自由なんだからしょうがないぜ、みたいな感じで手を差し伸べないならまだしも、崖からケリ落とすような振る舞いや、血祭りに上げるような炎上が横行してしまう。
その事が大きな問題になっているような気がするのです。例えば自殺の問題です。
つづく!!