いやあ、暑いですね、全く。
オリンピック真最中ですが、自分は反町ジャパンがあっという間に撃沈したので、シュンとしています。
三連敗というのは予測していたので、負けるのは織り込み済みなんですが、どうせ負けるんだからもっと、こう、がっと、ずばっと、ビシッと、長嶋監督みたいになっちゃいますが、消化不良なのです。何しろ、あの反町監督の采配に。
サッカーの惨めな体たらくとは別に、日本人選手が頑張ってます。北島選手は凄かった。凄過ぎる。別に自分が褒めなくともそんな事は全国民共通の認識でしょうから書くまでもないのですが、結果が残せなかったにしろ、頑張っている人は凄いです。高校野球の高校生がちょっと脚光が当たらなくて可哀想だなと思ったりします。
さて、前置きはこれくらいにしておいて、時間が無くて更新出来ませんでしたが、続きを書こうと思います。それでは始めます。
前回の続きです。
親や教師がバカになっているという事が問題ではないという事を前回書きました。
全く問題がないかと言えば、そりゃアホより賢い方がいいと思いますが、昔の親が賢かったのかと言うと、別にそんな事は全然無かったですし、先生が賢かったかと言うと、不道徳で暴力を振るいまくるような人が平気でいましたから、今の先生より素晴らしかったとは言えないでしょう。
素晴らしかった人もいるだろうし、そうじゃない人もいる。相対的に質が下がっているのかどうかはよくわかりませんが、質が下がっているにせよ、人が育っていくのに親と教師の力でどうにかなるのかと言えば、沢山ある中の比較的影響力のある要素の一つに過ぎず、親がアホだって、教師がボケだって、ちゃんと育つ子は育つし、どんなに英才教育を受けてもちゃんとしてない奴はいます。
今はいろいろ子供の教育に対するプレッシャーも昔よりは強いわけですし、学校の先生なんかは子供は言う事を聞かない、親はギャーギャーうるさいという感じで、しかも昔みたいにゲンコツで黙らせたり、竹刀で脅したりもあんまり出来ないでしょうから、より厳しい立場におかれているはずです。
問題は親や教師が与える影響力が、かつてよりも強くなっているという所が問題です。親や教師が抱え込んでいるという構造がある。どこにでもある街並ばかりになり、たえず流動化にさらされ、入れ替え可能の承認ばかりに囲まれて、親や教師がその分を補わなくちゃならなくなっちゃっている。
それで親や教師が条件付きの承認しか与えなかったりすると、それは否承認と同じ事で、子供の頃から承認不足にさらされていれば、当然他者を承認する接し方も学べず、友達や恋人に対しても底の浅い付き合いしか出来なくなる。
親友だとか恋人だとか言っても、信頼のベースが無いので、本音を言うと嫌われちゃうとばかりに、キャラを演じたり、お互いを束縛しない関係とか言いながら、表面上の束縛しなければ誰でもいい関係、匿名のメディアで日常の実りの無さを補うしかホメオスタシスを保つ空間が無くなってしまう。
それは大人であっても同じような状況にさらされている。派遣なんかで働いている人も確かに金の問題や将来の不安もあるでしょう。しかし金や将来の不安を何かで担保されれば解決出来るのかと言うと、そこでも「誰でもいい誰か」でしか無いという所が一番の問題です。
また親を不安に叩き込んでいろんなものを売りつけるような戦略が横行しているので、親が不安を担保しようと何かにすがればすがる程、余計不安が増大して行ってしまうような構造になっている。教育熱心な親な程、そういう落とし穴が沢山用意されている。あれもこれも必要って話になってしまう。
いろんな雑誌が出ていて、こうすれば子供の人間力がつくみたいな、ハウツー本が溢れている。ビジネスで成功する人間は子供の頃こうやって育った的なものがいっぱい出回っていて、いろんな事が書いてあって迷ってしまう。
幼児研修のプログラムの類いは、読む母親が読めば読むほど不安で神経質になって行ってしまうようなもの。そういう親のもとで、子供はまともに育たない、そういうものを読む母親はまともになれない。親にかかるプレッシャーは、そのまんま子供にもプレッシャーがかかる。行き着く所はバーンアウト、キレる。
子供を一回持ったからには人間力を身につけさせなきゃいけないという意識を子供を持つ前から持っている女性ほど、中々子供を持つ事に踏み切れない。少子化を加速させる。一回持ってしまうとちゃんと育てられるのか?結婚して子供を持ったとしても、何とかしなくちゃ、自分の責任だ、人間力を養わなければ、何から何までやらなくてはみたいなプレッシャーがある。
それに体感治安みたいな話で、恐怖のどん底に叩き込む、自分が子供の頃に比べれば全然今の方が治安はいいのですが、子供の送り迎えなんかにまで余計な時間を割かなくちゃならなくなっている。登下校というのはいろんな意味で子供にとっては様々な経験の蓄積の機会になるのに、買い食いしたり、寄り道して道草くったり、いたずらをしたり、近所のオヤジに追いかけられたりみたいな事を、そういう場所も無いし、そういう人もいないし、経験したりする事も出来ない。
送り迎えでは子供の教育に必要な経験の蓄積を、親が担う事になってしまう。帰り道でウダウダやりながら学ぶ事を、口うるさい親から学ぶ事は難しい話です。
男性の長時間労働がおさまるどころか、もっと酷くなっている日本社会に置いては、子育てをかろうじてになっているのは女性なので、女性は子育てに縛り付けられたままです。となると、少子化は進行する、男女共同参画社会は進まない。
保育園増えるのはいい事だし、育児休暇が取り易くなるのはいい事だけれど、男女共同参画社会というのは就学前の子供に力点が置かれているが、子供が小学校高学年になっても中学生になっても、高校生になっても、その時その時で、不安に煽られて、母親は子供の手が離れたら働こうとか思いながら、いつまでたっても不安が消えない。
高学年になれば自分の事は出来るようになりはするが、ニートだの、凶悪犯罪の若年化だの、データに基づいてもいないようなヨタ話まで含めて、不安に煽られ、母親はいつまでたっても不安から逃れられず、いつまでたっても手が離れたらという安心した思いにはなれないような仕組みになっている。ずっと不安のまま。
日本型福祉社会の美風みたいな事が家族がしっかりしていて家族が福祉機能をになっている所が、日本型社会のいい所であるなんてかつて言われていたわけですが、ようは女性がそれを担っていた。高齢者の介護という事が家庭で行われる福祉の中で重要な部分を占めていたが介護保険によって外部化された。だから今度は子育てをちゃんとやる事が責任だみたいな感じになっている。
日本ではGDPに置ける教育の公的な支出というのは極めて少ない、日本は先進諸国の中でギリシャが最下位で、その上、ビリから二番目。日本というのは政府の公教育制度、金の面から透けて見えるのは、公教育を保障しますという責任を担いきる事無く、家庭の家計から負担させる事によって教育を成り立たせている。
家がちゃんとすればいい、家がちゃんと選択して学校を選べば公教育の水準が上がると言った感じで、ようするに家庭の選択や教育が、公教育を良くするのだと言った感じで家庭に投げている。お得意の自己責任原則です。公的に質の高い教育を担保しようという事から逃げている。
まあ統治権力に期待しても無駄なのでどうせ何もするわけないのですが、そういう不安に煽られる事によって、自由を手渡しているのと同じ事です。そこを認識しないと、絶対に袋小路からは出られない。そして自立しようとしたらしたで、今度は自己責任によって搾取するという構造も待っている。そっちもそっちで気をつけなければなりません。自由に選択しているのはお前のせいだ、という風に人々を煽る事によって、再び不安が増幅されてしまいまたしても搾取という連鎖を生み出す。
親や教師に責任が無いわけではもちろん無いでしょう。しかし親や教師の責任であるという風にしておきたい人達がいるわけです。今アメリカのサブプライム問題によって日本の景気が悪化していると、メディアでも企業でも政治家も盛んにキャンペーンを張って叫んでいます。アメリカのせいだから責任は無いというわけです。
確かにアメリカのせいである事は間違いないかもしれませんが、だから経済政策の舵取りや政治の舵取り、そして企業の舵取りを握っている責任者に責任が無いわけがありません。アメリカの要因があろうが無かろうが、責任者が無能であるという事は間違いが無い。責任者を血祭りに上げろと言うつもりはありませんが、責任逃れをしているのは醜いし不愉快です。そういう人は人の上に立つ資格は無い。
とまあこの国では何々の責任だという話の裏に必ず責任逃れをしている無能な責任者と言うパターンがありすぎます。
必要な事は親や教師がちゃんとする事ではなくて、もちろんちゃんとするにこした事はないのですが、それ以外の子供を教育したり承認したりする空間が、ことごとく壊れている、もしくはバカ高い金がかかる、バカ高い金がかかっても効果がないものが沢山ある。という事です。
昔の親や教師よりもやる事が増えている分、行き届かなくなるのは当然の事です。というか親や教師が担っていなかった事まで担ってしまっている。だから余計頑張らなきゃというプレッシャーにさらされ、余裕を失っていき、それは子供へも悪影響を与えてしまうと言う悪循環になってしまう。
テクノロジーの発達によって、例えば自分が子供の頃に比べれば、一般的な母親にとっては母親の役割としてのやるべき事は楽になっているはずです。時間はあまっていたっておかしくないのにそういう風にはなっていない。余計な事まで抱え込み、親が代替出来ない事まで抱え込み、むしろより不安の虜になってしまっている。
先日近所のスーパーに買い物に出かけた所、親が子供に向かって小言を言っている風景がありました。子供はシュンとして、お母さんの言う事を黙って聞いています。まだ小学生の低学年なのに、あれダメこれダメ、ガミガミとダメ出しされていました。
聞けばこの親子有名人らしく、病院に行けば待合室でもガミガミと始まる、もの凄い教育ママなんだとか。まわりが子供が可哀想になって止めに入っても、家の教育方針ですから放っといて下さい的な、放っとくのはいいけれど、ここは貴方の家じゃないんですけれど、なんて事は誰も言えるはずも無く、人前でガミガミネチネチ攻撃しながら、プリントみたいなものをひたすら人前で無理矢理、子供が泣こうが嫌がろうが押し付けているのだそうです。
そして怒り方も、子供の勉強のできなさ加減を怒ると同時に、どうして貴方はお母さんが一生懸命教えているのにそれを無下にするのよ!!みたいな、何で私の言う通りにならないの、私の思う通りにならないの、私の事がわかってくれないのとばかりにキレまくるとか。子供を通して自分の事しか考えていない。自分の実存の為に子供に教育を押し付けている。
自分には関係ない事ですが、やっぱりこういうのは胸が痛くなる。子供が可哀想というのももちろんですが、こういう風にしか教育出来ないお母さんにもです。
同じゲームをやって、塾行って、親と学校に囲われて、どこにも居場所がないと感じれば、脱社会化やひきこもりの原因となってしまったり、キレてしまったり、虐められてもしくは虐めに加担して、最悪、自殺してしまったり、自殺に追い込む側になってしまったりするわけです。
最近の親や子供は我が儘で自分勝手だ、という言い方があります。最近大臣でまたしても「消費者がやかましいので」という失言をしたアホがいましたが、本当に我が儘、利己的になっているのでしょうか?
利己的であるから利他的になれるという考え方があります。これは簡単な話で、人は社会的な動物です。持ちつ持たれつという行動原理は見かけ上の利他行為によって、利己的な欲求を成し遂げるという事になる。
これは人間だけの話ではなくて群れをなす生物には意外と見られる行動です。生命のどの階層にも見られる現象です。細胞内でも細胞同士でも、肉体の器官の間でも、生命体同士、共同体同士。利他的行為によって協調する事が結果的に利己的な欲求を増進させる。
そう言う利他行動の後ろに隠れた利己性というのは、感覚として腹黒いとか、狡いという捉え方が一般的でもあると思います。子供なんかにも結果的に得するから人に尽くしなさいという教え方は好ましくないと思う人も多いかもしれません。
しかし何々すべきであるとか、何々しましょうという本当の意味での利他性を尊いと教える事によって、事態はよくなっているのかと言うと、むしろどんどん協調性は失われ、利己的な側面を増進させているだけのようにも見える。
もちろん空気を読んで協調しているふりや、利己的な欲求を成し遂げる為に表面上の薄っぺらなヒューマニズムを叫ぶ人はあらゆる年齢、階層に見られますので、自分勝手になっているという見方は一方で正しい認識と言えるかもしれませんが、結果的に利己的な欲求を増進出来ないにもかかわらず、空気を読んで一蓮托生というパターンや、もちろん自分勝手に振る舞って誰にも相手にしてもらえないので、利己的な欲求がかえって何も成し遂げる事が出来なくなってしまうという人が、一定の数で出て来ているわけですから、これは利己的ですら無いわけです。
かえって自分勝手に振る舞えなくなってしまい、利己的な欲求を増進出来なくなってしまう。自殺や人を殺してしまうような人は、利己的であると言い切れない部分があります。むしろ利己的な欲求を増進させていないのですから、もちろん利他的ではありませんが、利己的ですら無いという事になる。
利他的行為を説明する説として代表的なのは、ハミルトンの血縁選択説。近親者に親切にする事で、自分と同じ遺伝子を残す事につながる。これは血縁関係以外になると説明出来なくなってしまいます。
ロバート・アクセルロッドの互恵主義説。見返りが期待出来るのなら親切をする方が得をする。ゲーム理論の「囚人のジレンマ」なんかを用いて、自分の事しか考えない利己的個体の集団の中に、協調が自発的に生まれてくる事を鮮やかに示しました。
囚人のジレンマとは、警察に捕まってブタ箱にぶち込まれた時、利己的な判断を単純にすれば自分だけ助かる為に、共犯者を裏切って自分だけ助かりたいと思うのが普通と考えます。自分だけが裏切って相手が裏切らないでくれれば一番その人にとってはいいのですが、相手も裏切った場合は両者とも懲役になります。一番合理的な選択は相手が裏切らないと信じて黙秘し、相手も裏切らないで黙秘してくれる事が、両者にとって一番合理的になる。したがって、両者とも合理的に判断をすると、利己的であるが故に裏切らないというわけです。
こういった直接互恵主義だけではなくて、良い評判は得になるという間接互恵主義もあります。が、他人が利他的行動を取っていても必ずしもいい人だとは思わない場合も有り得ます。偽善者野郎とネガティブに見る場合もある。しかしそれでも間接互恵関係は成り立ち、進化し得るという結果もあります。これは知的な個体の比較的小さな集団だけしか説明出来ないという欠点があります。
ここまで見ると利己的ですらない、合理性の無さが問題のように見えて来ます。
そしてマルチレベル選択説。これは群選択、群淘汰、グループ選択などと呼ばれていたもので、理論的にはあり得るけれど、実際には有り得ないという事で消えかかっていたのが蘇ったわけですが、この説の前提は各個体のグループに分かれ、互いに交流し、尚かつグループ内の個体によって我が儘だったりそうじゃなかったりとバラバラである事が条件になります。一般的な社会モデルに近いとも言えるでしょう。
これは我が儘が多いグループより、お人好しが多いグループの方が得し合っているという点が見えて来ます。どのグループにおいても、我が儘な奴の方がお人好しより得をしているのですが、お人好しの多いグループのお人好しが、我が儘が多いグループの我が儘より得をしているという結果が導き出されます。
どのグループを見ても、我が儘の方がお人好しよりも得をしているのですが、全体の平均を見るとお人好しの方が得をしているという風になるので不思議な結果が生まれます。お人好しの多いグループののほうが沢山得をしていればそういう事があり得るわけです。しかしこれの欠点としては常に多様性を必要とするという点です。流動化にさらされていないとどのグループも崩壊に向かって行きます。我が儘が増えて行く。
さてこういった事から、本当に利己的になっているのか?という命題に戻りますが、確かに利己的になっているように見えます。しかしこの原因というのは利己的になっているからというのでは、循環してトートロジーになっちゃいます。合理性が無いので、本当の意味での利己的ですら無い、したがって利他性も生まれない。
そして社会を営んで行く為に必要なのは利己的で我が儘な奴がいるという事が問題なのではなくて、そういう人が一定数いるのは当たり前の話なわけで、多様性や流動性が担保されていないから我が儘な奴が増えるという事になります。
それを踏まえれば処方箋は単純な話です。多様性を確保し続ければ、我が儘な奴がいても、お人好しの方が得をする社会になるという事が、少なくともこのモデルからは導き出されます。そんな事は別にこんな事でわざわざ証明しなくとも当たり前と言えば当たり前の話です。
流動化をせき止めた共同体の内部が腐っているなんて話はよくある事で、日本のこういった弊害というのは多様性の無さにあるわけです。それを担保する為には流動化は必要だという事になる。そして現在のこの国の方向性は、小泉竹中安倍路線のバックフラッシュで流動化をせき止めるような方向性に向かっています。
その先に何があるのかはこういった話をしなくとも想像がつきますが、小泉竹中安倍路線というのは確かに恣意的であったわけですから、非常に問題ありまくりなんですが、流動化をただせき止めるという方向性は、益々社会をぶち壊す原因を作って行きかねません。流動化に耐えられるような枠組み構築と、流動化に逆らって権益を護持しようと目論む連中への監視は必要なのでしょう。
方法論として小泉竹中安倍路線というのは非常にどうにもならない程恣意的で、滅茶苦茶にしてしまった事は間違いないのですが、多様性を失ってしまえば、社会はどんどん疲弊して行きます。それはこんな話は別にしても明らかなんですが、多様性と言うと、今度は不安の問題が出てくる。何しろ日本人が苦手な感覚なのではないでしょうか。
堂々巡りに陥ってしまう。
続く!!
オリンピック真最中ですが、自分は反町ジャパンがあっという間に撃沈したので、シュンとしています。
三連敗というのは予測していたので、負けるのは織り込み済みなんですが、どうせ負けるんだからもっと、こう、がっと、ずばっと、ビシッと、長嶋監督みたいになっちゃいますが、消化不良なのです。何しろ、あの反町監督の采配に。
サッカーの惨めな体たらくとは別に、日本人選手が頑張ってます。北島選手は凄かった。凄過ぎる。別に自分が褒めなくともそんな事は全国民共通の認識でしょうから書くまでもないのですが、結果が残せなかったにしろ、頑張っている人は凄いです。高校野球の高校生がちょっと脚光が当たらなくて可哀想だなと思ったりします。
さて、前置きはこれくらいにしておいて、時間が無くて更新出来ませんでしたが、続きを書こうと思います。それでは始めます。
前回の続きです。
親や教師がバカになっているという事が問題ではないという事を前回書きました。
全く問題がないかと言えば、そりゃアホより賢い方がいいと思いますが、昔の親が賢かったのかと言うと、別にそんな事は全然無かったですし、先生が賢かったかと言うと、不道徳で暴力を振るいまくるような人が平気でいましたから、今の先生より素晴らしかったとは言えないでしょう。
素晴らしかった人もいるだろうし、そうじゃない人もいる。相対的に質が下がっているのかどうかはよくわかりませんが、質が下がっているにせよ、人が育っていくのに親と教師の力でどうにかなるのかと言えば、沢山ある中の比較的影響力のある要素の一つに過ぎず、親がアホだって、教師がボケだって、ちゃんと育つ子は育つし、どんなに英才教育を受けてもちゃんとしてない奴はいます。
今はいろいろ子供の教育に対するプレッシャーも昔よりは強いわけですし、学校の先生なんかは子供は言う事を聞かない、親はギャーギャーうるさいという感じで、しかも昔みたいにゲンコツで黙らせたり、竹刀で脅したりもあんまり出来ないでしょうから、より厳しい立場におかれているはずです。
問題は親や教師が与える影響力が、かつてよりも強くなっているという所が問題です。親や教師が抱え込んでいるという構造がある。どこにでもある街並ばかりになり、たえず流動化にさらされ、入れ替え可能の承認ばかりに囲まれて、親や教師がその分を補わなくちゃならなくなっちゃっている。
それで親や教師が条件付きの承認しか与えなかったりすると、それは否承認と同じ事で、子供の頃から承認不足にさらされていれば、当然他者を承認する接し方も学べず、友達や恋人に対しても底の浅い付き合いしか出来なくなる。
親友だとか恋人だとか言っても、信頼のベースが無いので、本音を言うと嫌われちゃうとばかりに、キャラを演じたり、お互いを束縛しない関係とか言いながら、表面上の束縛しなければ誰でもいい関係、匿名のメディアで日常の実りの無さを補うしかホメオスタシスを保つ空間が無くなってしまう。
それは大人であっても同じような状況にさらされている。派遣なんかで働いている人も確かに金の問題や将来の不安もあるでしょう。しかし金や将来の不安を何かで担保されれば解決出来るのかと言うと、そこでも「誰でもいい誰か」でしか無いという所が一番の問題です。
また親を不安に叩き込んでいろんなものを売りつけるような戦略が横行しているので、親が不安を担保しようと何かにすがればすがる程、余計不安が増大して行ってしまうような構造になっている。教育熱心な親な程、そういう落とし穴が沢山用意されている。あれもこれも必要って話になってしまう。
いろんな雑誌が出ていて、こうすれば子供の人間力がつくみたいな、ハウツー本が溢れている。ビジネスで成功する人間は子供の頃こうやって育った的なものがいっぱい出回っていて、いろんな事が書いてあって迷ってしまう。
幼児研修のプログラムの類いは、読む母親が読めば読むほど不安で神経質になって行ってしまうようなもの。そういう親のもとで、子供はまともに育たない、そういうものを読む母親はまともになれない。親にかかるプレッシャーは、そのまんま子供にもプレッシャーがかかる。行き着く所はバーンアウト、キレる。
子供を一回持ったからには人間力を身につけさせなきゃいけないという意識を子供を持つ前から持っている女性ほど、中々子供を持つ事に踏み切れない。少子化を加速させる。一回持ってしまうとちゃんと育てられるのか?結婚して子供を持ったとしても、何とかしなくちゃ、自分の責任だ、人間力を養わなければ、何から何までやらなくてはみたいなプレッシャーがある。
それに体感治安みたいな話で、恐怖のどん底に叩き込む、自分が子供の頃に比べれば全然今の方が治安はいいのですが、子供の送り迎えなんかにまで余計な時間を割かなくちゃならなくなっている。登下校というのはいろんな意味で子供にとっては様々な経験の蓄積の機会になるのに、買い食いしたり、寄り道して道草くったり、いたずらをしたり、近所のオヤジに追いかけられたりみたいな事を、そういう場所も無いし、そういう人もいないし、経験したりする事も出来ない。
送り迎えでは子供の教育に必要な経験の蓄積を、親が担う事になってしまう。帰り道でウダウダやりながら学ぶ事を、口うるさい親から学ぶ事は難しい話です。
男性の長時間労働がおさまるどころか、もっと酷くなっている日本社会に置いては、子育てをかろうじてになっているのは女性なので、女性は子育てに縛り付けられたままです。となると、少子化は進行する、男女共同参画社会は進まない。
保育園増えるのはいい事だし、育児休暇が取り易くなるのはいい事だけれど、男女共同参画社会というのは就学前の子供に力点が置かれているが、子供が小学校高学年になっても中学生になっても、高校生になっても、その時その時で、不安に煽られて、母親は子供の手が離れたら働こうとか思いながら、いつまでたっても不安が消えない。
高学年になれば自分の事は出来るようになりはするが、ニートだの、凶悪犯罪の若年化だの、データに基づいてもいないようなヨタ話まで含めて、不安に煽られ、母親はいつまでたっても不安から逃れられず、いつまでたっても手が離れたらという安心した思いにはなれないような仕組みになっている。ずっと不安のまま。
日本型福祉社会の美風みたいな事が家族がしっかりしていて家族が福祉機能をになっている所が、日本型社会のいい所であるなんてかつて言われていたわけですが、ようは女性がそれを担っていた。高齢者の介護という事が家庭で行われる福祉の中で重要な部分を占めていたが介護保険によって外部化された。だから今度は子育てをちゃんとやる事が責任だみたいな感じになっている。
日本ではGDPに置ける教育の公的な支出というのは極めて少ない、日本は先進諸国の中でギリシャが最下位で、その上、ビリから二番目。日本というのは政府の公教育制度、金の面から透けて見えるのは、公教育を保障しますという責任を担いきる事無く、家庭の家計から負担させる事によって教育を成り立たせている。
家がちゃんとすればいい、家がちゃんと選択して学校を選べば公教育の水準が上がると言った感じで、ようするに家庭の選択や教育が、公教育を良くするのだと言った感じで家庭に投げている。お得意の自己責任原則です。公的に質の高い教育を担保しようという事から逃げている。
まあ統治権力に期待しても無駄なのでどうせ何もするわけないのですが、そういう不安に煽られる事によって、自由を手渡しているのと同じ事です。そこを認識しないと、絶対に袋小路からは出られない。そして自立しようとしたらしたで、今度は自己責任によって搾取するという構造も待っている。そっちもそっちで気をつけなければなりません。自由に選択しているのはお前のせいだ、という風に人々を煽る事によって、再び不安が増幅されてしまいまたしても搾取という連鎖を生み出す。
親や教師に責任が無いわけではもちろん無いでしょう。しかし親や教師の責任であるという風にしておきたい人達がいるわけです。今アメリカのサブプライム問題によって日本の景気が悪化していると、メディアでも企業でも政治家も盛んにキャンペーンを張って叫んでいます。アメリカのせいだから責任は無いというわけです。
確かにアメリカのせいである事は間違いないかもしれませんが、だから経済政策の舵取りや政治の舵取り、そして企業の舵取りを握っている責任者に責任が無いわけがありません。アメリカの要因があろうが無かろうが、責任者が無能であるという事は間違いが無い。責任者を血祭りに上げろと言うつもりはありませんが、責任逃れをしているのは醜いし不愉快です。そういう人は人の上に立つ資格は無い。
とまあこの国では何々の責任だという話の裏に必ず責任逃れをしている無能な責任者と言うパターンがありすぎます。
必要な事は親や教師がちゃんとする事ではなくて、もちろんちゃんとするにこした事はないのですが、それ以外の子供を教育したり承認したりする空間が、ことごとく壊れている、もしくはバカ高い金がかかる、バカ高い金がかかっても効果がないものが沢山ある。という事です。
昔の親や教師よりもやる事が増えている分、行き届かなくなるのは当然の事です。というか親や教師が担っていなかった事まで担ってしまっている。だから余計頑張らなきゃというプレッシャーにさらされ、余裕を失っていき、それは子供へも悪影響を与えてしまうと言う悪循環になってしまう。
テクノロジーの発達によって、例えば自分が子供の頃に比べれば、一般的な母親にとっては母親の役割としてのやるべき事は楽になっているはずです。時間はあまっていたっておかしくないのにそういう風にはなっていない。余計な事まで抱え込み、親が代替出来ない事まで抱え込み、むしろより不安の虜になってしまっている。
先日近所のスーパーに買い物に出かけた所、親が子供に向かって小言を言っている風景がありました。子供はシュンとして、お母さんの言う事を黙って聞いています。まだ小学生の低学年なのに、あれダメこれダメ、ガミガミとダメ出しされていました。
聞けばこの親子有名人らしく、病院に行けば待合室でもガミガミと始まる、もの凄い教育ママなんだとか。まわりが子供が可哀想になって止めに入っても、家の教育方針ですから放っといて下さい的な、放っとくのはいいけれど、ここは貴方の家じゃないんですけれど、なんて事は誰も言えるはずも無く、人前でガミガミネチネチ攻撃しながら、プリントみたいなものをひたすら人前で無理矢理、子供が泣こうが嫌がろうが押し付けているのだそうです。
そして怒り方も、子供の勉強のできなさ加減を怒ると同時に、どうして貴方はお母さんが一生懸命教えているのにそれを無下にするのよ!!みたいな、何で私の言う通りにならないの、私の思う通りにならないの、私の事がわかってくれないのとばかりにキレまくるとか。子供を通して自分の事しか考えていない。自分の実存の為に子供に教育を押し付けている。
自分には関係ない事ですが、やっぱりこういうのは胸が痛くなる。子供が可哀想というのももちろんですが、こういう風にしか教育出来ないお母さんにもです。
同じゲームをやって、塾行って、親と学校に囲われて、どこにも居場所がないと感じれば、脱社会化やひきこもりの原因となってしまったり、キレてしまったり、虐められてもしくは虐めに加担して、最悪、自殺してしまったり、自殺に追い込む側になってしまったりするわけです。
最近の親や子供は我が儘で自分勝手だ、という言い方があります。最近大臣でまたしても「消費者がやかましいので」という失言をしたアホがいましたが、本当に我が儘、利己的になっているのでしょうか?
利己的であるから利他的になれるという考え方があります。これは簡単な話で、人は社会的な動物です。持ちつ持たれつという行動原理は見かけ上の利他行為によって、利己的な欲求を成し遂げるという事になる。
これは人間だけの話ではなくて群れをなす生物には意外と見られる行動です。生命のどの階層にも見られる現象です。細胞内でも細胞同士でも、肉体の器官の間でも、生命体同士、共同体同士。利他的行為によって協調する事が結果的に利己的な欲求を増進させる。
そう言う利他行動の後ろに隠れた利己性というのは、感覚として腹黒いとか、狡いという捉え方が一般的でもあると思います。子供なんかにも結果的に得するから人に尽くしなさいという教え方は好ましくないと思う人も多いかもしれません。
しかし何々すべきであるとか、何々しましょうという本当の意味での利他性を尊いと教える事によって、事態はよくなっているのかと言うと、むしろどんどん協調性は失われ、利己的な側面を増進させているだけのようにも見える。
もちろん空気を読んで協調しているふりや、利己的な欲求を成し遂げる為に表面上の薄っぺらなヒューマニズムを叫ぶ人はあらゆる年齢、階層に見られますので、自分勝手になっているという見方は一方で正しい認識と言えるかもしれませんが、結果的に利己的な欲求を増進出来ないにもかかわらず、空気を読んで一蓮托生というパターンや、もちろん自分勝手に振る舞って誰にも相手にしてもらえないので、利己的な欲求がかえって何も成し遂げる事が出来なくなってしまうという人が、一定の数で出て来ているわけですから、これは利己的ですら無いわけです。
かえって自分勝手に振る舞えなくなってしまい、利己的な欲求を増進出来なくなってしまう。自殺や人を殺してしまうような人は、利己的であると言い切れない部分があります。むしろ利己的な欲求を増進させていないのですから、もちろん利他的ではありませんが、利己的ですら無いという事になる。
利他的行為を説明する説として代表的なのは、ハミルトンの血縁選択説。近親者に親切にする事で、自分と同じ遺伝子を残す事につながる。これは血縁関係以外になると説明出来なくなってしまいます。
ロバート・アクセルロッドの互恵主義説。見返りが期待出来るのなら親切をする方が得をする。ゲーム理論の「囚人のジレンマ」なんかを用いて、自分の事しか考えない利己的個体の集団の中に、協調が自発的に生まれてくる事を鮮やかに示しました。
囚人のジレンマとは、警察に捕まってブタ箱にぶち込まれた時、利己的な判断を単純にすれば自分だけ助かる為に、共犯者を裏切って自分だけ助かりたいと思うのが普通と考えます。自分だけが裏切って相手が裏切らないでくれれば一番その人にとってはいいのですが、相手も裏切った場合は両者とも懲役になります。一番合理的な選択は相手が裏切らないと信じて黙秘し、相手も裏切らないで黙秘してくれる事が、両者にとって一番合理的になる。したがって、両者とも合理的に判断をすると、利己的であるが故に裏切らないというわけです。
こういった直接互恵主義だけではなくて、良い評判は得になるという間接互恵主義もあります。が、他人が利他的行動を取っていても必ずしもいい人だとは思わない場合も有り得ます。偽善者野郎とネガティブに見る場合もある。しかしそれでも間接互恵関係は成り立ち、進化し得るという結果もあります。これは知的な個体の比較的小さな集団だけしか説明出来ないという欠点があります。
ここまで見ると利己的ですらない、合理性の無さが問題のように見えて来ます。
そしてマルチレベル選択説。これは群選択、群淘汰、グループ選択などと呼ばれていたもので、理論的にはあり得るけれど、実際には有り得ないという事で消えかかっていたのが蘇ったわけですが、この説の前提は各個体のグループに分かれ、互いに交流し、尚かつグループ内の個体によって我が儘だったりそうじゃなかったりとバラバラである事が条件になります。一般的な社会モデルに近いとも言えるでしょう。
これは我が儘が多いグループより、お人好しが多いグループの方が得し合っているという点が見えて来ます。どのグループにおいても、我が儘な奴の方がお人好しより得をしているのですが、お人好しの多いグループのお人好しが、我が儘が多いグループの我が儘より得をしているという結果が導き出されます。
どのグループを見ても、我が儘の方がお人好しよりも得をしているのですが、全体の平均を見るとお人好しの方が得をしているという風になるので不思議な結果が生まれます。お人好しの多いグループののほうが沢山得をしていればそういう事があり得るわけです。しかしこれの欠点としては常に多様性を必要とするという点です。流動化にさらされていないとどのグループも崩壊に向かって行きます。我が儘が増えて行く。
さてこういった事から、本当に利己的になっているのか?という命題に戻りますが、確かに利己的になっているように見えます。しかしこの原因というのは利己的になっているからというのでは、循環してトートロジーになっちゃいます。合理性が無いので、本当の意味での利己的ですら無い、したがって利他性も生まれない。
そして社会を営んで行く為に必要なのは利己的で我が儘な奴がいるという事が問題なのではなくて、そういう人が一定数いるのは当たり前の話なわけで、多様性や流動性が担保されていないから我が儘な奴が増えるという事になります。
それを踏まえれば処方箋は単純な話です。多様性を確保し続ければ、我が儘な奴がいても、お人好しの方が得をする社会になるという事が、少なくともこのモデルからは導き出されます。そんな事は別にこんな事でわざわざ証明しなくとも当たり前と言えば当たり前の話です。
流動化をせき止めた共同体の内部が腐っているなんて話はよくある事で、日本のこういった弊害というのは多様性の無さにあるわけです。それを担保する為には流動化は必要だという事になる。そして現在のこの国の方向性は、小泉竹中安倍路線のバックフラッシュで流動化をせき止めるような方向性に向かっています。
その先に何があるのかはこういった話をしなくとも想像がつきますが、小泉竹中安倍路線というのは確かに恣意的であったわけですから、非常に問題ありまくりなんですが、流動化をただせき止めるという方向性は、益々社会をぶち壊す原因を作って行きかねません。流動化に耐えられるような枠組み構築と、流動化に逆らって権益を護持しようと目論む連中への監視は必要なのでしょう。
方法論として小泉竹中安倍路線というのは非常にどうにもならない程恣意的で、滅茶苦茶にしてしまった事は間違いないのですが、多様性を失ってしまえば、社会はどんどん疲弊して行きます。それはこんな話は別にしても明らかなんですが、多様性と言うと、今度は不安の問題が出てくる。何しろ日本人が苦手な感覚なのではないでしょうか。
堂々巡りに陥ってしまう。
続く!!