世間ではオリンピックムードまっしぐらだっちゅう時に、全く関係ない話を書いている三日坊主でございます。

日中首脳会談直前に毒ギョウザの話が出てくる。知らなかったというアホ消費者相も、ようは福田政権の看板として利用されているだけだという事を示すマヌケな話ですが、日中首脳会談の目的がこれ一色に塗り替えられてしまう。アメリカなんかが典型ですが、中国の人権問題へのコミットメントが取り沙汰されています。それ以外にも環境問題などでも中国へのプレッシャーが強まっているわけで、どれだけリベラルなプレゼンスを示すかが、そのまま政治家の外交力を示し、指導力に直結し、海外へのアピールになるわけなんですが、当然福田も中国政府と表面上仲良しだと言われているわけですから、こういう時こそ言うべきことを言う姿勢を示せるかどうかが試されていたわけです。

それが直前になって、しかも読売からこのネタが出てくる。これはどう考えても中国政府への援護射撃と同時に福田政権の交渉力の無さを隠蔽する為の囮に過ぎません。しかし安心安全キチガイの日本、鬼の首でも取ったかのように大騒ぎ、福田はこの問題の言うべき事は言うと、日本人の食の安全というフックに引っかかって、本来の言うべき事はどっかに消えてしまう。関係者は自殺、どう見ても落としどころが初めから決まっているようにしか感じない。全くアホらしくて嫌になりますが、こんな人気取りゲームに付き合うのもバカバカしいのでそろそろ本題の続きをおっぱじめます。

前回の続きです。

さて、今日本では、道徳やモラルとルールが一緒くたにされています。権力装置、国家でも学校でも、大マスコミでも、上司でも何でもいいのですがそういった上からの押しつけとしての道徳やモラルによって、道徳的か、そうでないか、意味のある人生か、そうでないかを切り分けられて、道徳的であれと、これさえあれば意味のある人生であると、煽られながら生きています。

道徳的である事と合法的であるという事は全く関係ありません。関係ありませんが、ルールの問題と感情の問題を峻別出来ないのと一緒で、上からの道徳によって人々に線を引き、道徳的でありたいと思う人間は権力装置にとって都合のいいように振る舞うような枠組みになっています。そこで消費をし、自己実現を求め、多数派に身を置き、マイノリティを抑圧する。道徳的であれという合意の暴力によって、道徳的ではないと切り分けられた人に指をさし断罪する。

道徳とルールを区別出来ないので、ルールを違反すれば道徳的ではないと権力装置からもそのケツを舐める家畜共からも指をさされ、道徳的ではないという理由で、ルールを恣意的に運用し、ブタ箱にぶち込み、提灯メディアがメッタクソに叩き、有罪率99.998%の司法によって裁かれ、挙げ句の果てに死刑、権力装置のケツを舐める家畜共も万歳万歳というパターンです。しかしこの構造は相当イカレタ構造です。ルールと道徳とは何の関係もない。

法を犯した奴をしかるべき手続きにのっとって裁くのは国家権力の責務ですから当然です。それに道徳的ではないような、例えば人を殺してしまったような人に対して、それなりの適切な裁きでのぞむのも死刑がいいかどうかはわきにおいて、それはそれで必要な事でしょう。

だけど法を犯しているかどうかと、道徳的であるかどうかは全く別物です。もちろん重なる所もありますが、ここをキチンとわけて考えないと、道徳という錦の御旗を手にした権力装置のやりたい放題になってしまう。道徳的であるかどうか、これは立場や関係性でも違って来ますし、見ている人間のビューポジションによって変わってしまう。

人が何を善かれと思って生きるかは道徳の問題です。例えば売春、これはルールではいけない事になっていますが、実際に社会を見渡してみると、無いと言える人はいないでしょう。そんな事は小学生でもわかる。

ルールで禁じているわけですから違法なのは間違いありませんが、無い事になっているというだけで、実体はありまくっているわけです。これでは法が機能しているとは到底言えませんし、それを全部取り締まる事なんて出来ない。

何でルールで禁じているのに実際にあるのかと言えば、道徳主義者や潔癖主義者がどんなに叫んだって、それに同意出来ないと思っているから、違法であってもやっている人がいるわけです。

昔は女性が性的な暴力によって虐げられているという物語が機能しましたし、実際やりたくないのにやらされていたという側面も間違いなくあったわけで、女性を解放するという意味で必要な部分はあったと思います。

しかし法律で規制して、何もそんな仕事をしなくても食っていける状況であっても、やりたいと思う女性もいるわけですし、当たり前ですが男性の需要は無くなりっこ無いわけで、強制したり、騙したりして女性に強要するのはどう考えても理不尽な話ですが、絶対にやっちゃダメと強制するのもある種の暴力です。

自分の道徳観を他人に押し付けるのは、抑圧しているのと同じです。性の暴力とか言いながら、個人の道徳観という暴力で他人を侵害している。

実際にはあるのに無い事になっているというパターンはこの国の至る所に溢れている。どんなに道徳的であれと誰かの道徳を押し付けても、それに従わない人が一定の数で出てくる。

特に売春なんてのは、合法化している所も多いわけで、それはその方が道徳的にも法律を遵守するという意味でも合理的であるからです。人類の歴史を見返してみても普通にあった話であるわけで、問題はその事によって理不尽な抑圧があるかどうかであり、その事自体を抑圧だと捉えるのは短絡的というより、くるくるパーの発想です。

実際イリーガルな状態のまま、これだけ社会で蔓延しているという事は、イリーガルな状況にさらされている人々が沢山いる事になるわけで、それだったら合法化してキチンと管理した方が、供給側も需要側も安全に管理出来るわけです。犯罪に繋がらないように縛る事も出来ますし、病気を回避する為にもよい。女性の解放を叫ぶのならそういう仕事をしている、もしくはやりたいと感じている、女性の解放も考えなければなりません。

しかしそれでも道徳的に間違っていると叫ぶのは自由ですし、汚れているとか不純だと思うのも自由です。自分はそんな事に関わりたくないと思うのも勝手です。何も売買春を合法化したらみんなが売買春するってわけではありません。すすんで売買春しなければいけないというわけではない。

どっち道あるのだから、きれい事でや俗情に媚びた下らん法律で規制するのではなくて、合法化した方が安全であるのに、頭の悪い潔癖主義者はノイジーなものを排除しようとします。これは自分の目に映らない所に行ってくれれば、誰がどんな被害にあっても関係ないという利己的な意識というのが先ずあります。

そして何よりこういう感覚というのは道徳と法律を区別出来ていない典型的な例です。法律で合法化したって道徳的に間違っていると思うのならやらなければいい事で、法律がなんであろうが関係ありません。

法律で縛ろうが、合法化しようが、どっち道世の中に売買春はあるのだから意味がない。徹底的に厳罰化で取り締まったって絶対に無くならない。余計アンダーグラウンド化して取り締まりづらくよりイリーガルな状況になっていくだけで、そっちの方が危険でもある。

法律は社会の秩序を一定に保つ為にあるわけですから、それが余計危険を生み出すような法律は悪法以外の何者でもない。法律は道徳感情を満足させる為だけにあるわけではありません。

近代法の理念というのは、他人に迷惑をかけなければ何をしても構わないというのが前提にあります。これは統治権力が我々の自由を最大に認める事を憲法によって、我々から命令されているからでもあります。それが立憲主義の基本中の基本です。その枠の中で国民に対する命令である所の法律があるわけです。

他人に迷惑をかけなければ何をしても構わないなんて事を言うと社会が滅茶苦茶になってしまうと道徳主義者は考えます。しかしルールでそういった自由を保障されているからといっても、他人に迷惑をかけなければ何をしても構わないと思うかどうかは個人の道徳の問題(倫理)や共同体の道徳の問題の話であって法律は関係ありません。

自分が自由でいる為には他人の自由も尊重しなければ結果的に自分の自由も狭められてしまう事も有り得ますから、何をやっても構わないかと言えばそんな事あるわけありません。程度の問題があるわけです。自分が自由でいる為には自分が所属する共同体の道徳や規則に従わざるを得ない局面だって当然ある。それは抑圧されて従うというよりも、むしろ自分の利益にとって都合がいい場合だってあるわけです。法律で許されていても道徳的な規範によって人は縛られて生きている。

我々が人を殺さないのは法律で罰せられるから殺さないわけではありません。もちろん法律があればそれによって国家を呼び出せるという期待がありますので、いざという時の当てにはなりますが、国家に法律で命令されているから人を殺さないわけではない。自分も人を殺すのはよくないと思いますし、多くの人もそう思っているはずです。これは道徳や倫理的にそう思っているからやらないわけです。

もちろん、死んじまえこんちくしょー、と思う事や、ふざけんなぶっ殺すぞ、と思ってしまう事はありますが、思ったって普通はやらない。法律による報復も恐ろしいけれど、それより何より人を殺してはいけないと思っているからやれないわけです。

法律による罰が恐いから殺さないだけだと思ってしまう人が一定の数でいるという事は、法律が機能しているから殺さないだけで、道徳や倫理として人を殺してはいけないとは思ってないという事です。そういう人に人の命の大切さや道徳を説いても共有出来ないのだから意味がない。そういう道徳は百も承知だけれど、それに同意出来ないと感じているわけです。

殺人の場合、売買春と違って法律がある程度機能していますので、殺人は抑止出来ているという状況なわけですが、これは非常に危険な話です。売買春がそこら中で普通に起こっている事とは比べ物にならないくらい、社会を壊してしまいかねない。社会が壊れかねないわけですから、売買春のように合法化しろってわけにはいきません。殺人を合法化しているような国はありませんし、それでは社会というフィクションが成り立たなくなってしまう。

法律しかたがが無くなっている人が一定の数で出て来ているわけですから、それだったら法律を厳しく重罰化して取り締まれって話に直結しやすいわけですが、重罰化すれば犯罪は減らせるはずという事になります。

しかし重罰化では殺人は減りません。激情に駆られた犯罪は冷静さを失っているわけですし、計画的な犯罪は捕まらないと思っているから行なえる。日本は重罰化したわけでもないのに奇跡的な減り方を過去30年間しています。犯罪というのは経済問題とリンクしている所もあるわけで、裕福になれば相対的に減っていく。

法律によるたがは、もちろんある程度の安全装置にはなるでしょうけれど、最近は捕まる事をむしろ目的としている人が出て来ているわけで、これには全く効果がない。

もう一度繰り返しますが、我々は法律による罰が恐いから人を殺さないのではありません。法律で禁じていても、自分の価値観や欲求に従って売買春に勤しむ人や、ネット上に溢れるエロ画像、車なんかに乗っていれば当たり前ですが誰でもスピード違反をしています。していない人はいないでしょう。これも法律違反である事は間違いありませんが、多くの人は自分の価値観や欲求に従って、法律とは別の行動原理で動いています。不倫や浮気をしている人がいっぱいいるのも、独自の価値規範というか、一般的な倫理観に従わずに生きているという事になります。

法律で禁じても性欲は止められませんし、自分にとって正しいと思えば平気で法律を簡単に無視します。だから殺人のような恐ろしい事態には、法律でプロテクトするという事が不必要だと言いたいわけではありませんが、社会のベースとなる価値規範や道徳、倫理が壊れていて共有出来ない状況になっている事が一番の問題です。

殺人を法律によって防御しても、それを踏み越えるような価値観や欲求を持ってしまえば無意味であるという事です。男性はエロ画像を見たり、AV作品を観たりします。中には痴漢ものやレイプものだってあるわけで、変な格好をしたり、言葉責めをしたり、様々な、物理現実で行なえば変態と呼ばれてしまうようなものも沢山ある。

当たり前ですが需要があるからあるわけですが、だからと言って、それを実際に現実世界で行なおうとは普通思いません。自分のパートナーにならある程度やるでしょうけれど、関係性が希薄なのにいきなりそんな事をすればどうなるかわかっているからやらないわけです。

普通の人は、どんなに偉そうなことを言っていても、様々な局面、様々なレイヤーで、道徳や倫理を使い分けて生きています。

個人の倫理観でもプライベートとオフィシャルでは違ったりしますし、大人と子供、男と女、身内と他人、家族の中で、共同体の中で、会社の中で、社会の中で、ブログのような匿名のメディアでと様々な局面で使い分けながら、法律に引っかからないように生きている。大人はウソつきというのはまさにこの事を言うわけで、その通りです。

売春をしている女の子が仮に病気の家族の莫大な医療負担の為にとか、家の莫大な借金の為にとか言って働いていれば、それがどんなに法律に違反していようが、倫理的に正しいと感じてしまう人だっているはずです。病気の我が子や、出産間近の奥さんを緊急で病院に運ぶ為に、道路交通法を無視したとしても、悪者だとは思わないでしょう。

しかし倫理や道徳を都度都度ポジションや欲求によって変化させる我々も、倫理や道徳を時に守り、時に従わなかったりしていても、それらの根底を貫いている規範というのがあるわけで、それが人を殺さない事につながっている。それが壊れている事が最大の原因です。現実と非現実の区別が出来ないからじゃありません。

これはその都度その都度によって使い分ける倫理や道徳ですが、その使い分けている空間や対象、家族でも会社でも学校でも、友人、恋人、そこでの承認関係の不足から来るわけです。承認不足を感じればそこが居場所だと感じる事は出来ません。

入れ替え可能な空間になっていたり、関係性になっていれば、そこに自分が存在する必然性も無くなる。同様に他人が存在する必然性も感じなくなる。したがってそこでの倫理や道徳を守る意味が無くなる。

満員電車の中での赤の他人や混雑した街並での赤の他人、渋滞した道路の上でひしめき合っている別の車に乗っている赤の他人、それらをかけがえのない人間だと思えるかと言うと、自分のまわりのかけがえのない人間に比べれば、赤の他人も同様に思う事は難しい。

しかし入れ替え不可能なかけがえのない人間がまわりに存在すれば、赤の他人にも赤の他人にとってのかけがえのない人や、かけがえがないと思ってくれる人がいるはずだという想像はつきます。

入れ替え可能の承認不足にさらされて生きていれば、かけがえのなさを実感出来なくなってくる。脱社会化してしまう。同じ役割とマニュアルを遵守すれば誰でもいいと言われているのと同じですし、条件付きの承認もそうです。

勉強ができるから、金持っているから、上司だから、仕事が出来るから、顔がいいから、家柄がいいから、言う事を聞くから、嫌なことを言わないから、そういった条件付きでの承認は承認していない事と同義。それが家族、会社、学校、恋人、友人、様々な関係性の中に浸食している。

だから人は承認を求めて彷徨っている。その承認の穴埋めをしてくれるような消費やマニュアル本に身を委ねる。

承認を求めて、周囲の期待に過剰適応し右往左往する。気に入られたくて、いつも自分を演じたり、同調圧力に簡単に負けてしまう。

いい子を演じていたり、自分を演じていると、本当の自分がなんだかわからなくなり、本当の自分を求めて右往左往する。

周囲の期待と自分の能力のギャップに絶望しコミュニケーションに踏み出せなくなってひきこもる。

承認なんかいらないとばかりに、他人からの承認を断念しコミュニケーションを通じた達成を一切信じなくなり脱社会化する。

これは深刻な問題で、今の社会状況から考えると、殺しや自殺に向けてスタンバっている人が増えるのも当然の帰結でもある。

我々は法律があるから人を殺さないわけじゃないと書きました。そういう道徳や規範が当たり前に備わっているから、人を殺したりしないわけですが、道徳や規範が壊れているのだから道徳教育や規範を叩き込めという風にバカな連中がほざきます。これこそどうにもならないくるくるパーの発想です。

我々は殺さないのではない。殺せないのです。法律を絶対にかいくぐる事が出来る方法を知っても、仮に誰も見てないからと言ったって、普通の人は人を殺せないのです。法律で罰を受けないとなったとしても、殺したいとは思わない人が大半でしょう。

殺せないように育ち上がるのは、教育されたからでも、道徳や規範を叩き込まれたからでもありません。殺せないように育ち上がる承認のメカニズムが機能していたからそういう風に育つわけです。

人を殺すのはいけない事ですと大人から諭されて、そうか人殺しはいけない事なんだと学んだから殺さないわけじゃありません。人の命の大切さや痛みを説かれて納得するようなものでは無いからです。道徳教育なんかでこういう事を叩き込めと吹き上がるアホウはあまりにも非科学的です。

ベトナム戦争の映画なんかで出てくるモチーフで、戦争に行く為に人殺しの厳しい特訓を積まないと、殺人マシーンにはなれません。それは人が人を殺せないように育ち上がるからでもあります。地上戦の最中に日常の道徳感情が邪魔をすれば、生き残れないからでもある。だから日常のモードは徹底的に破壊して殺人マシーンへと書き換えるプログラムを走らせる。

そういう殺せない人間に育ち上がるメカニズムが壊れれば、殺人マシーンに育て上げるプログラムは必要なくなってしまいます。殺人マシーンとなって日常にかえって来た帰還兵の苦悩なんかはアメリカでも深刻な問題になりましたし、映画なんかでもこういったモチーフの映画は多い。これを再び日常のモードに書き換え直す事が必要になるわけです。

それは道徳を説くとか、人の命の大切さを教えるとか、そういう事で戻るもんじゃありません。脱社会化して殺しをスタンバッている人に対して必要なのは、殺せない人間に育ち上がるメカニズムが壊れている問題を考えなければどうにもならないし、実際にそうなっちゃっている人に、道徳を説いても意味がありません。

なぜ人殺しはいけない事なのか?なぜ自殺はいけない事なのか?こういった疑問を子供に聞かれて、上手い答えが見つからないという事は、実はたいした問題じゃない。こういう疑問を本気で子供が思ってしまうという時点で、道徳や倫理観は壊れていると言ってもいい。人を殺してはいけない理由を子供に説いて、そうかじゃあ僕は人殺しをしないよという風になるのはおかしな話です。

人を殺してはいけない理由を教育されたから殺さないという状況であれば、理由が何かでキャンセルされればいくらでも殺せてしまうからです。人の命はかけがえがないとか、命には意味があるとか、みんな仲間だとか教えても、かけがえがないと思えず、意味があるとも思えず、みんな仲間だと思えなければ簡単に殺しを抑止する理由はキャンセルされてしまう。

だから道徳教育なんてもんは理解不能な殺人に怯えるアホな大人達のマスターベーション作用があるだけで、効果は何も期待出来ない。むしろそういう教育の仕方は人殺しを助長する教育でしかない。単にアホな大人がオナってるのは勝手にやってろと思いますが、こういう下らない発想で制度設計されたんじゃたまったもんじゃない。

承認を受け、承認される為には自分も他者に承認を与え、尊厳を与え、自分も尊厳を得るという当たり前のメカニズムが壊れてしまっている所に原因があるわけです。こういったメカニズムで育ち上がっていれば、自分が自分である為には、社会や他人は自分を形作っている前提条件に組み込まれています。人は自分が自分である為に必要な条件を自分で壊す事は簡単には出来ません。

そして承認のメカニズムは親が子供を抱え込む事でもありません。親や教師がバカになっていると叫ばれますがそんな事は問題の本質とは何の関係もない。

つづく!!