前回の続きです。ここまで来たら目指すはパート20(無理)

この国に蔓延る無責任体質、目的を失って暴走してしまう構造、この辺の問題をダラダラ書いて来たわけですが、何もアメリカに楯突けとか言いたいわけではありませんし、小さな政府やネオリベ化は現状の日本においてはむしろ避けられない方向性だとさえ自分は思っております。無い袖はふれないわけですから。グローバライゼーションも非常に問題ありまくりなんですが、閉じていたのでは益々リソースが乏しくなるばかりですので、さおさす事は重要だと思っております。

アメリカから自立しろ、アメリカの奴隷だという言い方をしておりますが、アメリカが悪だとか言いたいわけではありません。当然の事ながら善でもない。アメリカはアメリカの国益計算に基づいて最適化をしているに過ぎません。アメリカへの依存も実質的にアメリカ軍によって物理的な防御力が無くても、後ろ盾があるという事だけでも随分違うのではないか?という考え方も共感はしないがそう思う人がいるのも理解出来る。しかし安全保障とは軍事だけ担保すればいいと言うもんではない。

冷戦体制崩壊の時点で、アメリカ依存と国益がマッチする構造では無くなり、その時に舵を切り替えていればこんなどうしようもない状態になる事もなかったでしょう。そんなことを今更言っても無駄ですが、そこから延々とグズグズ構造転換が出来ませんでした。

元々グローバル化というのは日本が世界を席巻した、製造業のグローバル化に対抗したのが始まりです。エズラ・ヴォーゲルの著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代、アメリカの製造業は完膚なきまでに日本に叩きのめされて、エリート達の就職先が無くなってしまいます。

それが金融工学を駆使し、金融テクノロジーを編み出して、日本のグローバル化に対抗したのが今日のグローバル化です。なのでいかに日本を封じ込めるかというのが、そもそもあったわけです。

政府が無能であるが故にアメリカの言うがまま、軍事をアメリカに担保して貰っているという、国家権力に取って都合がいいフィクションを転換させる事が出来ない弱みを抱えている上に、メディアや国民もアメリカが日本の国益なんて考えてくれるはずも無いのに、アメリカンプラットフォームの押しつけ、消費者利益という言葉に踊らされ、実際に日本政府も腐敗堕落の構造だらけでもあったので、やりたい放題に弱みを叩かれて権益を丸裸にされ続けて来た。年次改革要望書のようなものをおめおめと受け入れた結果、本当に日本社会の底が完全に抜けてしまった。

百歩譲ってアメリカに軍事の安全保障を(物理的な意味では無く、アメリカ軍が駐留しているという事実が安全保障になるのだとして)担ってもらっているとしても、エネルギー、食料、技術、文化、金融、至る所で安全保障の底が抜けています。

80年代末からの牛肉オレンジ交渉から年次改革要望書、独禁法改正、持ち株会社解禁、大規模店舗規制法緩和、建築基準法改正、派遣法の改正、金融の自由化、郵政民営化・・・・・そして教育や医療にまで流動化の波は容赦なく襲いかかり、そうかと思うと、再販価格制度や特殊指定の解除のような大メディアの権益には手をつけない。普段は消費者利益、消費者保護、国家の腐敗構造を叩いている大マスコミも、自分達の権益の話になると見苦しいまでに頑強に抵抗する。

この事からもわかる通り、これらのアメリカからの要求というのは、まずアメリカの利権、次に国内のステークホルダーの利権、そして国民益というプライオリティで、真っ先に国民益を売りに出し、統治権力やステークホルダーの利権を護持するという方向性です。しかしその恣意性が更に弱みとなって益々アメリカに抗えなくなるという悪循環を生んでいく。

金融テクノロジーを駆使し、マネージメントを輸出し、自由化、規制緩和を各国に押し付ける。国境が無くなるとか騒いでいたアホウもいっぱいいましたが、そんな寝ぼけた話ではなく、グローバル化を押し進める事によって、より世界は帝国主義化して、国境を超えて人、物、金、情報の流通が盛んになりはしたものの、より国境を意識する時代に突入し、国境を越えた資本は焼畑農業化し地域の保全を無視した、搾取しつくした後はぺんぺん草も生えないという構造が世界各国で繰り返されている。

国内も焼畑農業化している。地方は疲弊し、シャッター街だらけ、同じような街並ばかりになり、入れ替え可能な社会になり人々はアノミー化する。新たなショッピングモールが郊外につくられ、街並が空洞化する。そのショッピングモールがある程度飽和状態になると、また新たな建設によって、空洞化し街の中心部がズレて行く、これは道路行政に依存して来た道路の造り過ぎによる帰結でもあるのですが、これでは地域はどんどん空洞化して、その焼畑化された経済循環構造が無ければ食っていけず、かと言ってそこに無自覚に乗っかっていれば、どんどん空洞化していくという悪循環です。消費を煽られ、便利さや安さを追求し、消費者利益を際限なく追求した結果、スッカラカンになり、それを止める事も出来ない、家畜として管理される構造に自ら進んで身を投げ出してしまう。それしか選択肢が無くなってしまう。

外資がどうたらこうたらなんて話はどうでもよくて、こういう経済基盤で社会が回っている所をどうやって穴埋めするのかが重要なのです。こういう構造に投げ出されてしまえば個人はどうやったってアノミー化するに決まっている。

経営者のポジションを守る為に外資規制なんてやったって、この構造で社会が回っていれば意味がない。そして止める事も出来ない。で、ある以上、流動化した社会でもどうすればスッカラカンにならないで済むのかを考えなければ無意味です。社会の保全と人々や企業のインセンティブが乖離しないようなアーキテクチャーが必要で、曖昧で恣意的なアーキテクチャーでいかに権益を引き出すかとか、いかに不安を煽ってポピュリズムに乗るかって話ばかりになっていたのでは、当然上手く回るわけがない。

食力自給率はどんどん下がり、中国の食の安全について大騒ぎしましたが、中国産の製品や食品がなくては生活出来ないほど、我々のベースが空洞化している事が問題でもあるはずです。中国製品に吹き上がって止めるのはいいでしょう。しかしそれだと単に貧乏人が買えるものが無くなり生活が苦しくなるというパターンになる。他所の国で調達すれば済む話だとか、多少コスト的な所は目をつぶって国内で調達するとしても、別に中国製品でなくたって、偽装や不正はあるはずで、日本の企業だって全く信用出来ない。当たり前ですが表面化して叩いている問題なんてのは氷山の一角どころではありません。

肝腎なのはそういう不正や偽装を監視するガバナンスを輸出して、どうやって例えば中国政府や中国に根付かせるかであって、叩いていたのでは何も変わらない。そもそも日本国内のガバナンスだって単なる権益になっているのだから偉そうな事は言えません。

それに加えて遺伝子組み換え技術などによってアメリカの種苗会社に首根っこを押さえられないような事もキチンと考えねばならない。食べていなくたってコンタミネートされちゃえば農作物の国際市場価格は下がってしまいます。そういう意味での食の安全保障も壊れている。

電子政府化に伴い、例えば国家の情報管理システムが、ワールドコムやエンロンの会計会社であった、アーサーアンダーセンのコンサルティング部門が(会計部門はワールドコムやエンロン問題の後潰れた)前身のアクセンチュアのような会社に委託されていたり、個人情報保護法のような個人情報を使いやすくするためのインチキ法案が通ってしまったりするわけです。情報の安全保障も壊れている。

技術的安全保障もそうで、日本もようやくUNIX重視という風になって来たけれど、政府の基幹的なシステムはウインドウズ、そんな国はありません。ヨーロッパではウインテル同盟に牛耳られないようにキチンと手を打っている。そういう面での安全保障も壊れている。外資が企業を買収して技術が流出するとかいうのはどうでもいい話です。こういう所に穴が開いてちゃ意味がない。

かつて次世代のOSであったトロンの開発も横やりが入って中止します。今はウインドウズが世界を席巻していますが、技術的にはトロンの方が上回っていたと言われています。世界標準のOSを日本が握るチャンスだったのにそれも奪われてしまう。

「不都合な真実」で有名なアル・ゴアが打ち出した「NII(ナショナル・インフォメーション・インフラストラクチャー)構想」、情報スーパーハイウェイ構想とも言われますが、ようするに現在のインターネット環境、高速通信回線で結ぶと言う発想なのですが、これはNTTが打ち出したVI&P(ビジュアル、インテリジェント&パーソナル)という構想のパクリです。

日本の石油は中東に依存しきっている。これはアメリカの軍事に依存せざるを得ない帰結につながる。アメリカのエネルギー政策に依存しきった、エネルギーの安全保障のリスクをわかっているのに脱却するどころか益々依存しましょうという体たらく。エネルギーの安全保障も底が抜けている。

そこから脱却しようとなればなったで、すぐ原発利権になってしまう。原発の地震の問題もありましたが、そもそも、いつ、どこで、どれくらいの規模で起こるのかわからない自然災害に対して、絶対安全なんて事があるわけがない。原発のリスクは回復不能の被害をもたらす事に対して何の担保もない。無責任な国家の、安全だ、という言葉しか結局の所はない。そういう意味での致命的な安全保障に対する鈍感さがここにあります。

原発が必要であるという理由はわかる。それに原発の出発点は原子力技術を身につける事によって、核武装出来ない脆弱さを補おうと言う、軍事的安全保障の側面も間違いなくあったはずです。それが段々手段が目的化している。反対するならどうすればいいのだというふうに言われれば、すぐにどうこう出来ないという理由もわかる。原発はそう簡単にメルトダウンが起こらない安全装置が幾重にも施されています。

しかし回復不能のリスクを引き受けているのか?それでもいいと自覚しているか?チェック機能の働かない隠蔽体質、安全装置が働いているとは言うものの、制御棒の脱落事故など、一歩間違えば大惨事という事をおびただしい数繰り返している。

それだけではなくて、族議員、そして経産省の暗躍、読売グループの深い繋がり、原発利権の構造の闇は根深いものがあります。こういうものを放置したまま何のチェックも出来ない体制で、耐震偽装なんて日常茶飯事のこの国で、大地震というリスクを常に背負い、ヒモ付き学者のインチキ学説に基づいて、わざと活断層につくってんじゃねえか?と、勘ぐりたくなるような杜撰なチェックのままどんどん建設してしまった腐敗堕落の構造を放置し、一般市民の目先の生活の為に流されている状況は、完全に安全保障という意味で言えば底が抜けている。どんなにエネルギーの安全保障になったとしたって、リスクを考えれば織り込めるようなリスクではない。

耐震偽装の問題による住居の安全保障の空洞化、発端は建築基準法改正そもそもアメリカの圧力に屈したのが事始めです。耐震偽装が表面化すると、今度は政府に責任はありませんと責任逃れの為に俗情に媚びて何のビジョンも無いまま規制し、コンプライアンス不況を誘発させる。

ディズニーやハリウッド的なコンテンツや、それに類似した演出に対するメディアリテラシーの無さ、ファーストフードやコンビニ、ファミレス的な便益を最優先して、入れ替え可能な似たような街並ばかり、そういった意味での文化的安全保障。ことごとくあらゆる分野の安全保障がスッカラカンです。

元々小さな政府というのは政府が担っていた公の役割を、民のコミットメントによって補う構造があってこそ機能するものです。ここがしっかりと機能しなければ、当然小さな政府にしろ、ネオリベにしろ、グローバル化にしろ、社会がスカスカになって疑心暗鬼の構造に突き進んでしまう。

壊れてしまって、もしくは空洞化してしまっているのなら、その役割を担う民の貢献が出来やすいような、税制の改革や、NPO法の改正が必要です。そういう事を知らん顔しておいて、政府の役割だけを小さくすれば当然社会は回らなくなる。

パブリックを民が担うと言っても、民営化すればいいと言うものでもない。公的な貢献を市民性が補うという事と、民間の会社に責任をパージする事は似ているようで微妙に違う。社会を保全するよりも会社の存続が重要な問題になってしまえば、手段の目的化という意味では変わらない。

重要なのは、日本には政府や官の役割を小さくしても(責任を取らないですむようにしても)、それを変わりに担う公へのコミットメントがメンタル的にもないし、制度的にもない。伝統的にもない。それでそういう社会に舵を切ってどうなるかと言えば、当たり前ですがより不安を煽られた人々が、俺に分け前をよこせと更に鍔迫り合う。

グローバル化というかアメリカ化はどこの国でもアメリカももちろん社会をスポイルしてしまう構造を持っている。そこをどうやって補うかが重要で、それが無ければ人々は脱社会化してしまう。メディアリテラシーとかメディアエデュケーションといって、カナダから出発して、イギリスから始まった教育で、簡単に言えばディズニーやハリウッド的なアメリカから出て来たコンテンツのようなものに対する向き合い方とか、アメリカ的なファストフードを象徴とした文化に対するカウンターとして、イタリアで出てくるスローフード運動とか、澎湃の声として出て来て、政府や市民もそれを社会の護持の為に後押しをするようなメンタリティがそもそもない。

ヒステリックに吹き上がって暴力的な表現や性的な表現の規制とかって話になってしまう。リテラシーとは文脈を参照して割り引いて話半分で聞く能力の事で、そういう教育は全くなされていない。隔離する事ではない。それではかえって免疫がつかない。金儲けに決まっているテレビ番組にインチキだってな感じになっちゃう。NHKなんて国営放送みたいなもんなのに、そこに公正中立になっていないと吹き上がったりする。スポンサーや出てくる人間の立ち位置を割り引いて観る事が出来ずに、本気で騙されてたって話になっちゃう。まあメディアのインチキも酷いのは確かなんですが。

スローフード運動にしても、アメリカを経由して日本に入ってくると、有機野菜を食うロハスと大した差が無くなっちゃう。単なる金儲けのイメージ戦略に使われてしまう。

目的を失い、自分がそう思い込まされている事を真実だと疑わず、他者を傷つける理由にしてしまう。個性を大事にしろ、自分だけの何かを掴めってな感じの社会になってはいますが、結局個性を参照したり、自分に大切な何かを参照する所はそんなに違わないので、ハイデガーでいうダスマンと言う感じに陥ってしまっている。不安であるが故に不安を担保してくれると思うものにすがり、もしくは不安を見たくないので、不安から目をそらす。

中曽根の時点でのネオリベ化が騒がれた頃というのは、政府の役割を小さくしてもそれを埋め合わせるような地域性や共同体みたいなものが、不自由な縛りを押し付けるものでもあったと同時に、セーフティネットでも有り得た。

しかしそれがバブル崩壊以降どんどん空洞化が加速してしまったあげく、トドメに小泉路線が始まる。空洞化は小泉のせいだみたいな感じで言われたりしますが、これはそれ以前からあった事で、元々戦後の日本の復興スキームというのは地方を空洞化して、加工貿易、輸出産業中心の、都市一極に人を集めて故郷に仕送りするという国家モデルでした。都市に人を集めて経済を回すという状態に帰結してしまうモデルを元々持っていたわけです。都市化させ、消費者となって、経済が動いて行く。

戦後直後なら、兄弟も多かったので、それでも回ったのでしょう。実際に戦後復興からジャパン・アズ・ナンバーワンの時代までの成功モデルでもあった。その成功体験が強烈であったが故に転換出来なかったわけですが、いつまでも転換せずに続ければ現状の帰結になるのは当然と言えば当然です。

だから分権化だってもっと早い段階で、地域性が生きていた頃ならばどうにかなったのでしょうが、地域性はどこも似たような街並になり、しかも高齢化している現在、益々その可能性が難しくなってしまった。そうは言っても出来るだけ早く舵を切らなきゃならないのですが、先送り先送り、目の前の権益や不安に怯える俗情に媚びて、きれい事をはき問題は一向に前に進まない。

戦後復興スキームというのは地方を空洞化し、地方に金とコンクリートをぶち込む事によって、ある意味オトシ前をつけた。それが田中角栄スキームです。このモデルが手段が目的化してしまったわけですが、オトシ前をつけて、アメリカから自立をして、分権化して、小さな政府路線に舵を切っていれば、モデルとしてはよかったんだろうと思います。まあ今更言っても無駄ですが。

なので小泉のネオリベ化というのはあまりにもタイミングが遅過ぎたというのと、中途半端だった。中途半端というか恣意的だったわけです。ネオリベ的な方向に舵を切るにしても、小さな政府を補うような構造には全く手をつけていない。だからネオリベでも何でも無い。しかも小さな政府と言っても、その目的が国民益の方向には向いていなかった。国家権力の権益拡大の為の生き残り戦略として利用していた。

アメリカのレーガンの頃に行なわれたネオリベ化にしたって、国家の役割を小さくしてもそれを補う分厚い市民性によるパブリック・コントリビューションがあるという事を大いに利用し、早い話が経済の損益分岐点を大きく下げる為の改革でした。企業が地域に出て行って復活したり、新たな新規産業がいくつも立ち上がっている。情報通信の自由化、航空の自由化、金融の自由化、アメリカ全土が便利になりコストが下がる、これらを上手く活用して、GE、コカコーラ、IBM等々、大企業の本社がマンハッタンから出て行きます。コストが高くつくだけで、いる理由がないからです。

そして地方から新しい世界企業がどんどん生まれます。その事が地方の活性化にもつながる。マイクロソフト、インテル、オラクル、ウォルマート、シスコシステムズ、ヤフー、アマゾン、グーグル、ピムコ、テンプルトン、カーギル、ダウ平均の内、ニューヨークに本社があるのは、30社のうち、たった7社に過ぎません。

日本では上場企業の本社は都市部に集中しその5割が東京に集中しています。当然サービス業もそこに集中する。3%の国土に8200万人の国民が住んでいます。これでは軍事的な安全保障から考えたって、全く合理性を欠いている。土地代の高い都市に集中していれば、当然人件費を削るしか方法がありませんので、景気がよくなっても、働いている人達の実感とは乖離してしまう。

それに新規産業も殆ど出てこない。まずコストが高過ぎて勝負が出来難い構造を抱えている。過去30年、ソフトバンクが大きくなったくらいで、一から出て来て世界企業になった会社など殆どありません。規制やグレイゾーンで頭を押さえつける事ばかりやっている。ステークホルダーの権益護持の方向にしか向いていない。

したがって、日本のネオリベ化というのはネオリベでも何でも無い。全く逆です。損益分岐点を下げるような方向性には行っていない。社会の活性化にもなっていない。従業員をクビに出来るようになっただけです。ヨーロッパでもアメリカでも、中国ですら無料で当たり前の高速道路を、いつまでも世界一高い料金で流動化を妨げるような事をやっている。

教育だっていまだに中央集権型の就職一括採用スキームから脱却出来ないどころか、その頃に大幅に戻しましょうなんて事をやっている。一極集中の枠組みから脱却するような政策は何一つ取らず、ただ単に地方を切り捨てているだけです。一番近い学校が30キロ先とか、酷いのになると100キロ先なんて話があるわけです。こういう事は切り捨てていると同時に、優秀な次世代の人的資源を益々空洞化させる発想です。ステークホルダーの子供が恣意的な競争に勝ち残るような枠組みを増幅させているだけで、人口はどんどん減っていく。増えるはずが無い。

流動化をするのはしょうがないとしても、流動化している部分というのがあまりにも恣意的です。流動化させるのは日本社会の復活の為であって、誰かが逃げ切る為ではない。それに流動化した人がアノミー化するしか選択肢が無いような状況も問題です。それで自己責任だと追い込んでたんじゃ社会はどんどん疲弊する。

あと、二話でまとめまする。

しつこく続く!!