パート10になっちゃいました。構造問題にしちゃったので、書く事がありすぎてまとまりません。今日でまとまるか?(無理だろうな)それでは前回の続き、いざっ!!
マルクスが言った事で、物象化という言い方があります。貨幣は様々な物の間の自然な差異を捨象して商品として同じ尺度で測れるようにします。違う形や色をしていても、100円のリンゴなら100円のリンゴとして同一化される。そして100円のリンゴ、100円のジュース、100円のノート、というような形で商品化された「もの」は全て等価性の価値形態で結ばれ、交換価値の貨幣的等価性を軸に様々な「もの」が同一化されて行き、交換主体である我々から「もの」の間の微妙な差異を知覚する能力が奪われてしまう。これを物象化と言います。
市場で100円で売っているリンゴと言っても、リンゴはそれぞれ形も色も微妙に違う。だけど我々はそれがリンゴであると言う事をわかっている。プラトンで言うとイデア、観念的にリンゴという共通理解があってその差異を無視出来るわけですが、その差異を感じる感性を個性と言ったり、それを表現する事を芸術と言ったりします。
資本主義的な貨幣制度で商品が流通するようになると、物象化が起こり、その差異を知覚する能力が失われてくる。例えるなら個が消失するように感じるわけです。すると益々知覚を失い固定化された感性を打破するような芸術に人々は憧れるようになる。その芸術を維持、発展させる為には、より貨幣が必要になり貨幣制度への依存は強化されてしまう。文化活動によって利潤をあげる文化産業が発展し、文化産業はメディアと結びつき巨大化する。これはアドルノの言った事なのですが、この貨幣制度に依存し、消費を暴走させて行くような構造、目的を失い自己目的化してしまう過程を、ベンヤミンのファンタスマゴリー論なんかを参照しながら紐解いて行く。
交換主体である我々の活動や、その活動によって作り出されたにもかかわらず、当の主体である我々にとって、よそよそしい無関係なものとなり、まるで自然と同じように、我々の意志から独立した客観的過程と化してしまう。これを疎外と言います。我々の意思ではどうにもならないと感じてしまう。この疎外が芸術に期待し、貨幣に依存すると言う循環構造を発動させてしまうという帰結にもつながります。自己目的化です。
人間の手には到底及ばない次元に客観的過程の法則によって動くようになるという事は、個人の意思ではどうしようもないと感じるようになるわけです。無力感です。今この日本の隅から隅まで覆いつくした感覚ではないでしょうか。フェティシズムという言い方がありますが、これは簡単に言うと自己目的化、手段の目的化です。物象化、物神化しているというわけです。性的倒錯と言った感じでフェティシズムという言葉は使われますが、元々の意味は手段の目的化です。ものに対する執着がフェティシズムといい、状態に対する執着をパラフィリアなんて言ったりします。
本来の意味での性的倒錯とまで行かなくとも、この国ではあらゆる次元でフェチ化しています。性に対してももちろん、何かをコレクションするのも乱暴にいえばそうでしょう。オタク的な現象、マニア的な現象、自分も音楽や書籍、ある特定のものに対してコレクションしたくなるタイプですので偉そうな事は言えませんが、構造から個人にいたるまで、フェチ化、物象化、偶像崇拝、手段の目的化が見られます。最近ではそれが更に加速されている感があります。
疎外や抑圧を受け、その事がディプレッシブな感情、抑鬱感をブーストさせ、物象化、物神化を駆動させてしまう構造があるわけですが、人間は元々知恵を持ってしまったが為に、常に疎外を感じずにはいられない、不安と言ってもいい、自然に対する恐れ、死への恐怖、人間の無力感を感じないわけにはいかない。
だからその担保となるものが必要となり、神や宗教、社会が生まれたわけですが、それでも人の知恵は無くなりませんので、不安は消えません。だから人為的につくった社会や神のシステムの共同体の中で、今度は誰が一番信仰心があるか、悪者は誰か、誰が神の御心にそっているか、忠誠心や愛国心、本当にあるべき姿はこれだという統合、その為の敵の設定、蛸壺の中での鍔迫り合い、外部との権益争奪戦、そもそも何の為の社会であるのか、何の為の神であるのかがが消えて、手段の目的化が起こってしまいます。
結局は不安に取り憑かれた人間は疎外を生み出す抑鬱構造を打破しようとして、新たな疎外を生み出してしまう。ヘーゲル主義やマルクス主義のようなものがめぐりめぐって、ナチスや共産主義のようなものを生み出してしまう。どんなに崇高な理念でも、社会がフィクションであり、人間に知恵がある以上、必ず逃れられない構造かもしれません。
不安に取り憑かれた構造から脱却しようと、人間の本質的なあり方を問うのではなくて、もう人は存在してしまっている。本質を問うと排除、抑圧、疎外を生み出す構造に絡めとられてしまう。その循環構造を止揚して、新たな次元にシフトする為にハイデガーやサルトルが言った実存という考え方が出て来ます。
記号論から発展した構造主義が、結局そういう実存的なあり方にしたって、西欧的なコギトの原理から出発している。考える私に内在する普遍的な理性という西欧のローカルな思考から導き出された仮定に過ぎないという事を、レヴィ・ストロースなんかが導き出す。ハイデガーがナチスを支持し、サルトルが共産党にシンパシーを感じたように、それだってあるべき姿を目指しているではないかと。それは自民族中心主義的なおせっかいな抑圧になりかねないと。
我々がとらわれている思考の循環構造そのものが、近代的な知から捉えた枠組みであって、普遍的なものでも何でも無い、近代知の限界を知った事によって、とっくに有効期限は切れているという事を、人間の終焉、人間の限界を権力と主体形成の過程から暴き出したフーコーによってバラバラに解体されてしまう。
構造主義的なものの見方によって我々の感覚や知への限界が示され、我々が感じている主体は我々が立っている構造によって生み出されているに過ぎない。ヘーゲル主義的な歴史観、マルクス主義的な下部構造が上部構造を規定するという考え方そのものが西欧的な知の構造に絡めとられている。という話になるわけですが、その絡めとられた構造を規定する、更に上位のメタ構造があるのではないか?そのメタ構造を規定する更に上位のメタ・メタ構造が、と言ったように、メタゲーム、背後取りゲームになってくる。お前の言っている事は所詮、お前の立ち位置から見えている事に過ぎない。お前が立っている構造は、これこれのメタ構造に規定されているのだ、と言った感じで。
そういう背後取りゲームから脱却する為に、ポスト構造主義が生まれる。本来あるべき姿や、背後に隠れている構造ではなく、それを受け取ったそれぞれがどう読み取るか、枠組みをズラしていくような戦略的な思考が、ポストフォード主義的な消費によって自己実現みたいな構造に絡めとられてしまう手段の目的化を加速させるような構造を、戦略的に生きるポストモダン的な生き方、目的が消え、手段が自己目的化してしまう消費によって回っている構造を、むしろ目的を失い浮遊した手段を戦略的に活用して、統合や排除を回避しながら、自由を手にする生き方なんかと結びつきます。
めぐりめぐって、結局手段の目的化というのは回避出来ない。人間が知恵を持ってしまった原罪であるとも言える。必ず抑圧を生み出してしまう。だからあえて戦略的に使う事によって、疎外や排除、抑鬱感や不安に取り込まれるようなサイクルに歯止めをかけようというわけです。記号的な消費と戯れる事によって、そこそこのテンションで危険を回避しながら生きる。大きな物語が壊れてしまった時代を生きる為の発想です。
しかし冷戦体制崩壊後、ポスト冷戦の時代が到来すると、世界はアメリカ優位の枠組みになり、アメリカンプラットフォームの押しつけである、グローバライゼーションが加速します。そうなると大きな物語の無い時代の生き方では対抗出来なくなってくる。国境を越えた資本の流動化によって、地域性は破壊され、小さな物語に生きる人々の自由を放置しなくなる。格差をブーストさせ、自由を押し付けられる事によって、自由ではなくなってしまう現象が出て来ます。そうすると、再びそれに抗う為に大きな物語が必要だという事で、ジョン・ロールズの正義論だったり、第三の道だったり、オルターグローバライゼーションだったり、グローバル化によって生み出される弊害をどうやって手当てするのかという議論が出てくるわけです。
この堂々巡りの循環構造を日本の義務教育では教えません。殆どがクイズと化している。縄文時代の話なんてどうだっていいのに、こういう近代の構造問題を考える枠組みのほうが重要です。現代の日本はグローバル化によってスポイルされていますが、社会構造として、ポスト冷戦以降の枠組みが全然進んでいない。いまだ、マルクス主義さえキチンと理解されていない。手段の目的化がなぜ問題なのか?どうやって絡めとられてしまうのかがきちっと学ばれていない。戦前と何ら変わりません。
外見的にはポストモダン的な記号と戯れる消費によって、そこそこのテンションで生きるという方向性は実践されたかのように見えます。しかしなぜそういう生き方が必要になるのかって話が抜けているので、戦略的にというよりも盲目的にそうなっているという感じです。
今の日本を見渡せば手段の目的化された構造が腐りきってそこら中に放置されています。その我々の手ではどうにもならないと感じてしまう疎外から、更に物象化、物神化が起こり、偶像は祭り上げられ、引きずり下ろされ、人々はフェチ化し、不安を煽られ、足の引っ張り合いや断罪合戦がそこら中に蔓延っている。民主制は衆愚政治に陥り、目的が消えて、合意の暴力によって人々の無力感は更に加速してしまう。人間である事の限界、システムが必ず生み出す疎外、ここに対して担保するものなど無いのだという事に自覚的じゃなさ過ぎる。
民主制だって突き詰めて考えればどう考えても矛盾した制度です。合意によって独裁者を生み出してしまう可能性だって内包されている。何より我々が無知であるという事がどうしても付きまとい、政治家は選挙に受からなければ政治家になれず、その為に長期的ビジョンよりもポピュリズム化しやすい。そういう限界を知った上で、どうせ変わらないではなくて、誰かが変えてくれるでもなくて、それでも尚コミットしなければもっと厄介な事態に陥るという事に自覚的ではない。ラディカル・デモクラティズムの言い方でいえば、民主制とは合意に対する異議申し立てだ、と、コミットする以外にないわけです。他に適当なシステムも作れなかった。
なぜ一神教や仏陀なんかもそうですが、偶像崇拝を認めなかったのか?それは我々が偶像崇拝(手段の目的化、フェチ化、物象化)せずには生きられない呪われた生き物だったからです。偶像崇拝は疎外や排除を加速させる。日本では21世紀になっているのに、まだその偶像崇拝の危険性を知るレベルに達していない。偶像を脱呪術化出来ていない。だから上手く回らない。
例えば偶像崇拝の対象である、仏像のようなものは単なる「もの」にすぎません。焼こうと叩き壊そうと何の祟りもあるわけが無い、単なる偶像です。だけどこれが人間の力には及ばない次元に追いやられると、もしくは祭り上げられるとそれは神になってしまう。物象化、物神化するわけです。手段の目的化です。状況が変化しても、それを無視して同一の固定的反応が脅迫的に繰り返され、目的がなんであったのかを忘れ去ってしまう。社会的事実が雁字搦めに人々を呪縛するようになり、社会的事実は人の作為が及ばないものとみなされるように成り果てる。
マックス・ウェーバーの伝統主義という言い方があります。これは伝統を重んずる主義という意味ではありません。よい伝統は守って、悪い伝統は捨て去るといったような合理的に取捨選択を行なう事でもありません。よい伝統受け継いで行けば、伝統主義になるわけではない。ウェーバーの伝統主義というのは、過去に正しかった事は今も正しいと考えるエートスの事を指します。
最近捕鯨問題でグリンピースバッシングがありました。捕鯨団体の鯨肉お持ち帰りは慣習なので問題とされず、グリンピースの窃盗だけを一方的にバッシングする。慣習であれば許される、全く不思議な話です。先祖代々泥棒の家系なので、泥棒をやるのは慣習だから許されると言っているのに等しい。国民の反捕鯨バッシングの世論に媚びたポピュリズム的司法。マスコミだって常に、記者会見の後のぶら下がりで、公務員の守秘義務違反によって権力の一方的なリーク情報を引き出し報道で垂れ流したり、内部情報のリークや違法行為などによって、スクープを握り不正を叩くという事をやっているわけだから、全く同じ事をしているのに知らん顔。一方だけを徹底的に叩き、もう一方は慣習だから許される。まさに伝統主義。
近代の特徴は、まず立法にあります。前近代とは法律と慣習が区別されていませんでした。法律はそこにあるものでした。リベラリズムとは政治からの自由であり、デモクラシーとは政治への自由です。人民が政治権力に勝手をさせない事が出来なければ政治から自由にはなり得ない。政治権力を人民の手で作り替える事が出来なければ政治への自由もない。人間の意思ではどうにもならない、人知の及ばない摂理ならば作り替える事など出来ない。物象化、物神化していれば国民がコントロール出来るとも思えなくなってしまう。
社会とはフィクションです。自然物ではない。人民の意志でつくる事が出来て、人民の意志で維持する事も、またつくり変える事も可能なもの、それが近代リベラル・デモクラシーの鉄則です。丸山眞男なら作為の契機と呼ぶでしょう。
元々そうなっているからそうなのだという感覚。どうせ変わらないという感覚、これは近代が駆動していない証拠です。そういう感覚を脱呪術化、脱魔術化しなければなりません。シュンペーターは資本主義の本質はイノベーション、革新にあると言いました。革新のない、過去にやって来た事は正しいマックスウェーバー的伝統主義では資本主義も駆動しません。伝統主義の打破こそが資本主義を駆動させる。どんなに民主制や憲法や資本主義システムを導入しようと、伝統主義が蔓延っていれば絶対に近代化は出来ない。我々が無力感を感じていたのでは不可能です。
市場原理主義を煽る言説がよくありますが、確かに資本主義に絡めとられてしまうと、社会が壊れてしまう事がある。市場で公平性を担保出来ても、社会が壊れてしまえば本末転倒ですから、市場だけに委ねているわけにはいかない。しかしこの日本において出てくる市場原理主義論は殆ど嘘です。ステークホルダーの権益を守る為に言っている。この国の資本主義がキチンと公平な機能を果たせないのは、市場のせいじゃなくて、手段が目的化しシステムに寄生し、構造を蝕む連中が多過ぎる所に問題がある事が最大の要因であって、市場原理になってないから腐っているわけです。
政治だけではなくてあらゆる組織に言える事ですが、臨機応変性、柔軟性の喪失。状況を無視した慣習に縛られる固定的反応、現実感覚の不全による現実無視、特に変動期に直面した場合、組織が必ず陥るパターンです。いったんつくられた制度、組織、しきたりはその目的が無くなる、もしくは変わっても、維持する事そのものが自己目的化する。手段の目的化はウェーバー的伝統主義が猖獗を極め、作為の契機の不在によって害をまき散らします。
これと似たような話で、パーキンソンの法則なんてのもあります。仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張し(第一法則)、支出の額は、収入の額に達するまで膨張する(第二法則)。小さな政府に舵を切っても、相互に官僚同士が仕事をつくり合い、仲間を増やそうとする事によって、官僚の人数や官僚の仕事は増えて行く。駐留米兵の人数は減っているのに、基地従業員の数は増えて行く。この国のありとあらゆる行政組織に当てはまります。破綻するまでブレーキを踏めない。
最近では民間の企業はさすがにブレーキを踏める所も増えてますが、そこではステークホルダー生き残りの為に、末端をパージするという方向性が取られます。これも組織、ステークホルダーが生き残る事そのものが自己目的化している事では何ら変わりません。社会をぶっ壊しても、生き残ろうとする。将来の事なんて関係ないというわけです。
戦前、1940年支那事変は日清、日露、両大戦の被害を上回り、莫大な国費を費やしながら、泥沼の様相を呈しており解決の目処はつかず(わざとつかせなかったわけですが)、何の為にこんな戦争を続けるのか?戦争目的は何か?という事を、国会で当時の米内内閣が質問を受け、それに対する答弁はまさに気絶ものです。戦争目的についてまともに答える事が出来ず、おっしゃる通りですと答えています。ようするに戦争目的は無しという事です。
国民を聖戦に駆り立てておいて、目的は無し。ようするに役人や軍部のセクショナリズムによる権益の増大に戦時体制が必要だったというだけで、手段が目的化している。目的も無く戦争そのものが自己目的化され、偶像となり、それを国民が無前提に崇め奉り、その後の顛末につながるわけです。
この手段の目的化が国家から戦後消えたのかというと消えるどころかどんどん強化され、現在の官僚システムにビルトインされています。戦前と全く変わってない袋小路に入っている。厚労省、社保庁などは国民の金をネコババするのが仕事になっているのだから酷い話です。厚労省の前身であった厚生省なんかは薬害によって国民を殺す事が目的化していたわけですから酷いなんてもんじゃない。
財務省、旧大蔵省はなんかは凄まじいものがありました。日本を沈没させかねないようなバカ全開だった。戦前戦中の高級軍人はエリート中のエリートでした。秀才集団であったはずの彼らが、最も戦争について無知だった。
財務省だって今はかつてほどではないかもしれませんが、大蔵省時代はベスト・アンド・ブライテストと言われ、優秀な集団であったはずが、全く機能していないという事が明らかになる。
戦争論で有名なクラウゼヴィッツが言いました。予想もしなかったことが次から次に起こるのが戦争であり、戦争において予測出来る事は一つしか無い、予測をしなかった事が起こる事だけである、と。ウェーバー的伝統主義が蔓延ったら戦争は負けです。事前に予測出来る事なんて何一つ無い。常に試行錯誤し、新事実に学び、戦訓に学ばなければ、勝てるわけが無い。これは経済も同じ事です。
ブレストンウッズ体制からニクソンショックが起こった時などは、全く何も出来ず、アホ集団ぶりを発揮してくれましたが、そういう事が全然、経験として生かされない。セクショナリズムの問題でもありますが、責任という概念がないのです。旧大蔵省は銀行は一つも潰さないと言っていました。結局潰すのですが、自由経済なのにありえない話です。何の為の舵取りなのかが消えて、伝統主義が蔓延る。帰結として一連の金融スキャンダルなんかが出てくる。
日本と言う船の船長気取りで、俺たちに任せておけ、余計な口を挟むな、全部わかってるんだよ、ってな感じで、大きな銀行も、小さな銀行も利率を同じにしろと行政指導したり、自由競争を阻止する。護送船団方式というしきたりに縛られて、何の為の経済政策なのかが消えてしまう。
そして天下の悪法、総量規制の実施によって、バブルを叩き潰し、繁栄の基礎を一挙に失い、平成不況に叩き込まれる事になります。
まあ他にも理由はもちろんあります。地価や株価の熱狂的な高騰、消費税なんかもタイミング悪く導入されたりもしたし、日銀の政策も完全に後手後手に回ってました。だけどそのバブルに決定的な急ブレーキをかけたのが、旧大蔵省の政策でした。
プラザ合意によって日本の急激な円高が始まり、それにより国内の投機が加熱する、一ドル二四〇円だったのが僅か一年で一二〇円まであがり、それによって資金が為替えリスクのない国内に向かいました。株や土地、土地神話なんて言われていて、東京二十三区の地価でアメリカ全土が購入出来たなんて本当か嘘か言われていた。銀行は土地を担保にしてガンガン貸し付けを拡大し、暴力団による地上げ屋なんてのもあった。
日本の企業がF1チームの買収やスポンサーに名乗りを上げたり、ロックフェラーセンターなどの世界の不動産、絵画や骨董品、高級車、ゴルフ場経営、リゾート開発。
ソ連はアメリカとの軍拡競争に破れ、アフガニスタン侵攻による負担増大、東欧諸国の離反、崩壊の一歩手前、ヨーロッパは深刻な失業率と東欧民主化による混乱、アメリカはユーフォリアを経て迷走、住宅金融に破綻の兆し、経常収支が均衡に向かうなかで国内経済は低迷し、失業率の悪化、記録的財政赤字に繋がりつつありました。中国は天安門事件が発生する。
こうした世界情勢で、政治的に安定している上に空前の好景気で、ジャパン・アズ・ナンバーワンなんて呼ばれて、世界一の経済大国になる、終戦から僅か四十年でです。その繁栄を、金融緩和終了で持続可能性の喪失、やがてその景気も天井をつけ、好景気に陰りが見え始めた所で、とどめとも言える総量規制という規制を加えてバブルを一挙に叩き潰してしまいました。銀行の担保になっている土地の値段を暴落させ、土地に税金を加えていって、容易に売買出来ないようにしてしまったのです。
これらの事によって、日本は大東亜戦争に負けた以上の経済的な被害を受ける事になります。その繁栄の一切をぶっ壊した原因の一つが旧大蔵省の政策です。その傷が今も尚足を引っ張っている。
拓銀、長銀、日債銀、山一証券、など次々と破綻していき、日本長期信用銀行なんて、今となってはギャグみたいな名前ですが、公的資金を四兆円もつぎ込んだあげく、長銀は十億以上の持参金をつけ、ハゲタカなんて言われた、アメリカの投資ファンド、リップルウッドに買収されてしまいます。結局旧大蔵省は誰一人その事で責任を取っていません。ノーパンしゃぶしゃぶに接待されていたノンキャリたちと、接待で目立ちすぎたエリート二、三人が、目くらましとしてお茶を濁す程度でした。
こういう構造が至る所で残っている。小さな政府とは言うものの、こういう構造が表面化し難くなるようにするのが、この国での小さな政府路線の本質です。元々この国のあらゆる所に見られる特徴として手段の目的化、自己保身や組織の保身が最大の目的と化し、本来の目的を見失ってしまうというのは、責任を回避するという行為態度です。決定は責任が伴いますから、慣習に従い責任は自分には無いと逃げるパターンです。
この国での小さな政府路線というのは責任を取らなくても叩かれない構造へのシフトです。むしろ国民の不安を煽って国の権限強化が簡単に出来るようにシフトした。大分での例の教員採用試験での不正問題、これは自己目的化もいいところの腐った構造なのは間違いありませんが、これと平行して出てくる声として、国は何やってんだ!キチンと取り締まれ!!って話になる。分権化させるとロクな事が無いと言ったようなすり込みにもなる。
また竹島で日韓双方吹き上がっていますが、これを責任という所から眺めてみると、北朝鮮問題なんかもそうですが、相手国に政府が責任を押し付けているという構造です。国民の皆さん悪いのは政府ではなくて、韓国(北朝鮮)なんですと。教科書検定なんてやってるからこういう事になる。こんなもんはそれぞれの地域や学校に任せて分権化しちゃえばいちいち突っ込めなくなるわけで、そこの大本を牛耳っていながら、責任は自分達には無いというわけです。
違うだろ。政治というのは帰結主義的擁護と書きましたが、竹島問題、結果を見てみましょう。拉致問題結果を見てみましょう。結局、竹島を武力によって実行支配されちゃっているではないですか。拉致問題も解決出来ない。これは相手がどうのこうのという前に、自国の政府を徹底的に非難し責任を取らせる事の方が重要です。我々は直接、外国の政府と交渉出来ません。その為に政府がある。その為に税金を払っている。我々が直接、外国の政府に怒りを表明したって何の意味も無い。責任を持っている奴らに責任があるわけで、有利に交渉も出来ない無能な政府は役に立ってないのと同じです。そこにプレッシャーをかけなきゃ意味がない。外国に吹き上がる国民感情を利用しようとしている売国奴こそ叩く対象です。
韓国人も相変わらずの紋切り型で困った連中ですが、彼らは彼らで彼らの国の中で好きにすればいい。日本を憎もうが国旗を燃やそうが好きにすればいい。そんな所に怒りを感じても無駄です。この国のバカ政府に文句を言いましょう。
だいたい書くか、書かないかが重要なのであって、配慮すると言えば、書かないと表明する事につながる。配慮しつつ書くという論理性の無さが通るのは日本だけです。外国相手にそんな事をやっているからウソつき国家だと言われる。韓国政府が人気回復の手段としての反日カードなんだとしても、そういうつけ込む隙を与えているのは、この国の政府が無能だからです。そこを問題にした方がいい。
こういうバカな事を繰り返す頭の悪い政治家ばかりなのも、手段が目的化しているからといえます。政治家になる事が、政治家で居続ける事、目的になってしまっている。サミットや環境問題なんかの話でも、すぐに政局の話になってしまう。サミットも何のサブスタンスもありませんでしたから、他に言う事も無いとも言えますが、二言目には報道は政局の話になる。報道が紋切り型の頭の悪い報道しか出来ないからというのもあるのでしょうが、そればっかりです。政治家もその為にどうすれば勝てるかって方向にしか興味が無いらしい。政局なんてのは一番下らない手段が目的化した話です。政治の本来の目的を忘れ、政治そのものが目的化している。それがそのまま放置されるのは国民自身が同じ思考パターンを抱えているからでもある。
過去最長となる、次回へ続く!!
マルクスが言った事で、物象化という言い方があります。貨幣は様々な物の間の自然な差異を捨象して商品として同じ尺度で測れるようにします。違う形や色をしていても、100円のリンゴなら100円のリンゴとして同一化される。そして100円のリンゴ、100円のジュース、100円のノート、というような形で商品化された「もの」は全て等価性の価値形態で結ばれ、交換価値の貨幣的等価性を軸に様々な「もの」が同一化されて行き、交換主体である我々から「もの」の間の微妙な差異を知覚する能力が奪われてしまう。これを物象化と言います。
市場で100円で売っているリンゴと言っても、リンゴはそれぞれ形も色も微妙に違う。だけど我々はそれがリンゴであると言う事をわかっている。プラトンで言うとイデア、観念的にリンゴという共通理解があってその差異を無視出来るわけですが、その差異を感じる感性を個性と言ったり、それを表現する事を芸術と言ったりします。
資本主義的な貨幣制度で商品が流通するようになると、物象化が起こり、その差異を知覚する能力が失われてくる。例えるなら個が消失するように感じるわけです。すると益々知覚を失い固定化された感性を打破するような芸術に人々は憧れるようになる。その芸術を維持、発展させる為には、より貨幣が必要になり貨幣制度への依存は強化されてしまう。文化活動によって利潤をあげる文化産業が発展し、文化産業はメディアと結びつき巨大化する。これはアドルノの言った事なのですが、この貨幣制度に依存し、消費を暴走させて行くような構造、目的を失い自己目的化してしまう過程を、ベンヤミンのファンタスマゴリー論なんかを参照しながら紐解いて行く。
交換主体である我々の活動や、その活動によって作り出されたにもかかわらず、当の主体である我々にとって、よそよそしい無関係なものとなり、まるで自然と同じように、我々の意志から独立した客観的過程と化してしまう。これを疎外と言います。我々の意思ではどうにもならないと感じてしまう。この疎外が芸術に期待し、貨幣に依存すると言う循環構造を発動させてしまうという帰結にもつながります。自己目的化です。
人間の手には到底及ばない次元に客観的過程の法則によって動くようになるという事は、個人の意思ではどうしようもないと感じるようになるわけです。無力感です。今この日本の隅から隅まで覆いつくした感覚ではないでしょうか。フェティシズムという言い方がありますが、これは簡単に言うと自己目的化、手段の目的化です。物象化、物神化しているというわけです。性的倒錯と言った感じでフェティシズムという言葉は使われますが、元々の意味は手段の目的化です。ものに対する執着がフェティシズムといい、状態に対する執着をパラフィリアなんて言ったりします。
本来の意味での性的倒錯とまで行かなくとも、この国ではあらゆる次元でフェチ化しています。性に対してももちろん、何かをコレクションするのも乱暴にいえばそうでしょう。オタク的な現象、マニア的な現象、自分も音楽や書籍、ある特定のものに対してコレクションしたくなるタイプですので偉そうな事は言えませんが、構造から個人にいたるまで、フェチ化、物象化、偶像崇拝、手段の目的化が見られます。最近ではそれが更に加速されている感があります。
疎外や抑圧を受け、その事がディプレッシブな感情、抑鬱感をブーストさせ、物象化、物神化を駆動させてしまう構造があるわけですが、人間は元々知恵を持ってしまったが為に、常に疎外を感じずにはいられない、不安と言ってもいい、自然に対する恐れ、死への恐怖、人間の無力感を感じないわけにはいかない。
だからその担保となるものが必要となり、神や宗教、社会が生まれたわけですが、それでも人の知恵は無くなりませんので、不安は消えません。だから人為的につくった社会や神のシステムの共同体の中で、今度は誰が一番信仰心があるか、悪者は誰か、誰が神の御心にそっているか、忠誠心や愛国心、本当にあるべき姿はこれだという統合、その為の敵の設定、蛸壺の中での鍔迫り合い、外部との権益争奪戦、そもそも何の為の社会であるのか、何の為の神であるのかがが消えて、手段の目的化が起こってしまいます。
結局は不安に取り憑かれた人間は疎外を生み出す抑鬱構造を打破しようとして、新たな疎外を生み出してしまう。ヘーゲル主義やマルクス主義のようなものがめぐりめぐって、ナチスや共産主義のようなものを生み出してしまう。どんなに崇高な理念でも、社会がフィクションであり、人間に知恵がある以上、必ず逃れられない構造かもしれません。
不安に取り憑かれた構造から脱却しようと、人間の本質的なあり方を問うのではなくて、もう人は存在してしまっている。本質を問うと排除、抑圧、疎外を生み出す構造に絡めとられてしまう。その循環構造を止揚して、新たな次元にシフトする為にハイデガーやサルトルが言った実存という考え方が出て来ます。
記号論から発展した構造主義が、結局そういう実存的なあり方にしたって、西欧的なコギトの原理から出発している。考える私に内在する普遍的な理性という西欧のローカルな思考から導き出された仮定に過ぎないという事を、レヴィ・ストロースなんかが導き出す。ハイデガーがナチスを支持し、サルトルが共産党にシンパシーを感じたように、それだってあるべき姿を目指しているではないかと。それは自民族中心主義的なおせっかいな抑圧になりかねないと。
我々がとらわれている思考の循環構造そのものが、近代的な知から捉えた枠組みであって、普遍的なものでも何でも無い、近代知の限界を知った事によって、とっくに有効期限は切れているという事を、人間の終焉、人間の限界を権力と主体形成の過程から暴き出したフーコーによってバラバラに解体されてしまう。
構造主義的なものの見方によって我々の感覚や知への限界が示され、我々が感じている主体は我々が立っている構造によって生み出されているに過ぎない。ヘーゲル主義的な歴史観、マルクス主義的な下部構造が上部構造を規定するという考え方そのものが西欧的な知の構造に絡めとられている。という話になるわけですが、その絡めとられた構造を規定する、更に上位のメタ構造があるのではないか?そのメタ構造を規定する更に上位のメタ・メタ構造が、と言ったように、メタゲーム、背後取りゲームになってくる。お前の言っている事は所詮、お前の立ち位置から見えている事に過ぎない。お前が立っている構造は、これこれのメタ構造に規定されているのだ、と言った感じで。
そういう背後取りゲームから脱却する為に、ポスト構造主義が生まれる。本来あるべき姿や、背後に隠れている構造ではなく、それを受け取ったそれぞれがどう読み取るか、枠組みをズラしていくような戦略的な思考が、ポストフォード主義的な消費によって自己実現みたいな構造に絡めとられてしまう手段の目的化を加速させるような構造を、戦略的に生きるポストモダン的な生き方、目的が消え、手段が自己目的化してしまう消費によって回っている構造を、むしろ目的を失い浮遊した手段を戦略的に活用して、統合や排除を回避しながら、自由を手にする生き方なんかと結びつきます。
めぐりめぐって、結局手段の目的化というのは回避出来ない。人間が知恵を持ってしまった原罪であるとも言える。必ず抑圧を生み出してしまう。だからあえて戦略的に使う事によって、疎外や排除、抑鬱感や不安に取り込まれるようなサイクルに歯止めをかけようというわけです。記号的な消費と戯れる事によって、そこそこのテンションで危険を回避しながら生きる。大きな物語が壊れてしまった時代を生きる為の発想です。
しかし冷戦体制崩壊後、ポスト冷戦の時代が到来すると、世界はアメリカ優位の枠組みになり、アメリカンプラットフォームの押しつけである、グローバライゼーションが加速します。そうなると大きな物語の無い時代の生き方では対抗出来なくなってくる。国境を越えた資本の流動化によって、地域性は破壊され、小さな物語に生きる人々の自由を放置しなくなる。格差をブーストさせ、自由を押し付けられる事によって、自由ではなくなってしまう現象が出て来ます。そうすると、再びそれに抗う為に大きな物語が必要だという事で、ジョン・ロールズの正義論だったり、第三の道だったり、オルターグローバライゼーションだったり、グローバル化によって生み出される弊害をどうやって手当てするのかという議論が出てくるわけです。
この堂々巡りの循環構造を日本の義務教育では教えません。殆どがクイズと化している。縄文時代の話なんてどうだっていいのに、こういう近代の構造問題を考える枠組みのほうが重要です。現代の日本はグローバル化によってスポイルされていますが、社会構造として、ポスト冷戦以降の枠組みが全然進んでいない。いまだ、マルクス主義さえキチンと理解されていない。手段の目的化がなぜ問題なのか?どうやって絡めとられてしまうのかがきちっと学ばれていない。戦前と何ら変わりません。
外見的にはポストモダン的な記号と戯れる消費によって、そこそこのテンションで生きるという方向性は実践されたかのように見えます。しかしなぜそういう生き方が必要になるのかって話が抜けているので、戦略的にというよりも盲目的にそうなっているという感じです。
今の日本を見渡せば手段の目的化された構造が腐りきってそこら中に放置されています。その我々の手ではどうにもならないと感じてしまう疎外から、更に物象化、物神化が起こり、偶像は祭り上げられ、引きずり下ろされ、人々はフェチ化し、不安を煽られ、足の引っ張り合いや断罪合戦がそこら中に蔓延っている。民主制は衆愚政治に陥り、目的が消えて、合意の暴力によって人々の無力感は更に加速してしまう。人間である事の限界、システムが必ず生み出す疎外、ここに対して担保するものなど無いのだという事に自覚的じゃなさ過ぎる。
民主制だって突き詰めて考えればどう考えても矛盾した制度です。合意によって独裁者を生み出してしまう可能性だって内包されている。何より我々が無知であるという事がどうしても付きまとい、政治家は選挙に受からなければ政治家になれず、その為に長期的ビジョンよりもポピュリズム化しやすい。そういう限界を知った上で、どうせ変わらないではなくて、誰かが変えてくれるでもなくて、それでも尚コミットしなければもっと厄介な事態に陥るという事に自覚的ではない。ラディカル・デモクラティズムの言い方でいえば、民主制とは合意に対する異議申し立てだ、と、コミットする以外にないわけです。他に適当なシステムも作れなかった。
なぜ一神教や仏陀なんかもそうですが、偶像崇拝を認めなかったのか?それは我々が偶像崇拝(手段の目的化、フェチ化、物象化)せずには生きられない呪われた生き物だったからです。偶像崇拝は疎外や排除を加速させる。日本では21世紀になっているのに、まだその偶像崇拝の危険性を知るレベルに達していない。偶像を脱呪術化出来ていない。だから上手く回らない。
例えば偶像崇拝の対象である、仏像のようなものは単なる「もの」にすぎません。焼こうと叩き壊そうと何の祟りもあるわけが無い、単なる偶像です。だけどこれが人間の力には及ばない次元に追いやられると、もしくは祭り上げられるとそれは神になってしまう。物象化、物神化するわけです。手段の目的化です。状況が変化しても、それを無視して同一の固定的反応が脅迫的に繰り返され、目的がなんであったのかを忘れ去ってしまう。社会的事実が雁字搦めに人々を呪縛するようになり、社会的事実は人の作為が及ばないものとみなされるように成り果てる。
マックス・ウェーバーの伝統主義という言い方があります。これは伝統を重んずる主義という意味ではありません。よい伝統は守って、悪い伝統は捨て去るといったような合理的に取捨選択を行なう事でもありません。よい伝統受け継いで行けば、伝統主義になるわけではない。ウェーバーの伝統主義というのは、過去に正しかった事は今も正しいと考えるエートスの事を指します。
最近捕鯨問題でグリンピースバッシングがありました。捕鯨団体の鯨肉お持ち帰りは慣習なので問題とされず、グリンピースの窃盗だけを一方的にバッシングする。慣習であれば許される、全く不思議な話です。先祖代々泥棒の家系なので、泥棒をやるのは慣習だから許されると言っているのに等しい。国民の反捕鯨バッシングの世論に媚びたポピュリズム的司法。マスコミだって常に、記者会見の後のぶら下がりで、公務員の守秘義務違反によって権力の一方的なリーク情報を引き出し報道で垂れ流したり、内部情報のリークや違法行為などによって、スクープを握り不正を叩くという事をやっているわけだから、全く同じ事をしているのに知らん顔。一方だけを徹底的に叩き、もう一方は慣習だから許される。まさに伝統主義。
近代の特徴は、まず立法にあります。前近代とは法律と慣習が区別されていませんでした。法律はそこにあるものでした。リベラリズムとは政治からの自由であり、デモクラシーとは政治への自由です。人民が政治権力に勝手をさせない事が出来なければ政治から自由にはなり得ない。政治権力を人民の手で作り替える事が出来なければ政治への自由もない。人間の意思ではどうにもならない、人知の及ばない摂理ならば作り替える事など出来ない。物象化、物神化していれば国民がコントロール出来るとも思えなくなってしまう。
社会とはフィクションです。自然物ではない。人民の意志でつくる事が出来て、人民の意志で維持する事も、またつくり変える事も可能なもの、それが近代リベラル・デモクラシーの鉄則です。丸山眞男なら作為の契機と呼ぶでしょう。
元々そうなっているからそうなのだという感覚。どうせ変わらないという感覚、これは近代が駆動していない証拠です。そういう感覚を脱呪術化、脱魔術化しなければなりません。シュンペーターは資本主義の本質はイノベーション、革新にあると言いました。革新のない、過去にやって来た事は正しいマックスウェーバー的伝統主義では資本主義も駆動しません。伝統主義の打破こそが資本主義を駆動させる。どんなに民主制や憲法や資本主義システムを導入しようと、伝統主義が蔓延っていれば絶対に近代化は出来ない。我々が無力感を感じていたのでは不可能です。
市場原理主義を煽る言説がよくありますが、確かに資本主義に絡めとられてしまうと、社会が壊れてしまう事がある。市場で公平性を担保出来ても、社会が壊れてしまえば本末転倒ですから、市場だけに委ねているわけにはいかない。しかしこの日本において出てくる市場原理主義論は殆ど嘘です。ステークホルダーの権益を守る為に言っている。この国の資本主義がキチンと公平な機能を果たせないのは、市場のせいじゃなくて、手段が目的化しシステムに寄生し、構造を蝕む連中が多過ぎる所に問題がある事が最大の要因であって、市場原理になってないから腐っているわけです。
政治だけではなくてあらゆる組織に言える事ですが、臨機応変性、柔軟性の喪失。状況を無視した慣習に縛られる固定的反応、現実感覚の不全による現実無視、特に変動期に直面した場合、組織が必ず陥るパターンです。いったんつくられた制度、組織、しきたりはその目的が無くなる、もしくは変わっても、維持する事そのものが自己目的化する。手段の目的化はウェーバー的伝統主義が猖獗を極め、作為の契機の不在によって害をまき散らします。
これと似たような話で、パーキンソンの法則なんてのもあります。仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張し(第一法則)、支出の額は、収入の額に達するまで膨張する(第二法則)。小さな政府に舵を切っても、相互に官僚同士が仕事をつくり合い、仲間を増やそうとする事によって、官僚の人数や官僚の仕事は増えて行く。駐留米兵の人数は減っているのに、基地従業員の数は増えて行く。この国のありとあらゆる行政組織に当てはまります。破綻するまでブレーキを踏めない。
最近では民間の企業はさすがにブレーキを踏める所も増えてますが、そこではステークホルダー生き残りの為に、末端をパージするという方向性が取られます。これも組織、ステークホルダーが生き残る事そのものが自己目的化している事では何ら変わりません。社会をぶっ壊しても、生き残ろうとする。将来の事なんて関係ないというわけです。
戦前、1940年支那事変は日清、日露、両大戦の被害を上回り、莫大な国費を費やしながら、泥沼の様相を呈しており解決の目処はつかず(わざとつかせなかったわけですが)、何の為にこんな戦争を続けるのか?戦争目的は何か?という事を、国会で当時の米内内閣が質問を受け、それに対する答弁はまさに気絶ものです。戦争目的についてまともに答える事が出来ず、おっしゃる通りですと答えています。ようするに戦争目的は無しという事です。
国民を聖戦に駆り立てておいて、目的は無し。ようするに役人や軍部のセクショナリズムによる権益の増大に戦時体制が必要だったというだけで、手段が目的化している。目的も無く戦争そのものが自己目的化され、偶像となり、それを国民が無前提に崇め奉り、その後の顛末につながるわけです。
この手段の目的化が国家から戦後消えたのかというと消えるどころかどんどん強化され、現在の官僚システムにビルトインされています。戦前と全く変わってない袋小路に入っている。厚労省、社保庁などは国民の金をネコババするのが仕事になっているのだから酷い話です。厚労省の前身であった厚生省なんかは薬害によって国民を殺す事が目的化していたわけですから酷いなんてもんじゃない。
財務省、旧大蔵省はなんかは凄まじいものがありました。日本を沈没させかねないようなバカ全開だった。戦前戦中の高級軍人はエリート中のエリートでした。秀才集団であったはずの彼らが、最も戦争について無知だった。
財務省だって今はかつてほどではないかもしれませんが、大蔵省時代はベスト・アンド・ブライテストと言われ、優秀な集団であったはずが、全く機能していないという事が明らかになる。
戦争論で有名なクラウゼヴィッツが言いました。予想もしなかったことが次から次に起こるのが戦争であり、戦争において予測出来る事は一つしか無い、予測をしなかった事が起こる事だけである、と。ウェーバー的伝統主義が蔓延ったら戦争は負けです。事前に予測出来る事なんて何一つ無い。常に試行錯誤し、新事実に学び、戦訓に学ばなければ、勝てるわけが無い。これは経済も同じ事です。
ブレストンウッズ体制からニクソンショックが起こった時などは、全く何も出来ず、アホ集団ぶりを発揮してくれましたが、そういう事が全然、経験として生かされない。セクショナリズムの問題でもありますが、責任という概念がないのです。旧大蔵省は銀行は一つも潰さないと言っていました。結局潰すのですが、自由経済なのにありえない話です。何の為の舵取りなのかが消えて、伝統主義が蔓延る。帰結として一連の金融スキャンダルなんかが出てくる。
日本と言う船の船長気取りで、俺たちに任せておけ、余計な口を挟むな、全部わかってるんだよ、ってな感じで、大きな銀行も、小さな銀行も利率を同じにしろと行政指導したり、自由競争を阻止する。護送船団方式というしきたりに縛られて、何の為の経済政策なのかが消えてしまう。
そして天下の悪法、総量規制の実施によって、バブルを叩き潰し、繁栄の基礎を一挙に失い、平成不況に叩き込まれる事になります。
まあ他にも理由はもちろんあります。地価や株価の熱狂的な高騰、消費税なんかもタイミング悪く導入されたりもしたし、日銀の政策も完全に後手後手に回ってました。だけどそのバブルに決定的な急ブレーキをかけたのが、旧大蔵省の政策でした。
プラザ合意によって日本の急激な円高が始まり、それにより国内の投機が加熱する、一ドル二四〇円だったのが僅か一年で一二〇円まであがり、それによって資金が為替えリスクのない国内に向かいました。株や土地、土地神話なんて言われていて、東京二十三区の地価でアメリカ全土が購入出来たなんて本当か嘘か言われていた。銀行は土地を担保にしてガンガン貸し付けを拡大し、暴力団による地上げ屋なんてのもあった。
日本の企業がF1チームの買収やスポンサーに名乗りを上げたり、ロックフェラーセンターなどの世界の不動産、絵画や骨董品、高級車、ゴルフ場経営、リゾート開発。
ソ連はアメリカとの軍拡競争に破れ、アフガニスタン侵攻による負担増大、東欧諸国の離反、崩壊の一歩手前、ヨーロッパは深刻な失業率と東欧民主化による混乱、アメリカはユーフォリアを経て迷走、住宅金融に破綻の兆し、経常収支が均衡に向かうなかで国内経済は低迷し、失業率の悪化、記録的財政赤字に繋がりつつありました。中国は天安門事件が発生する。
こうした世界情勢で、政治的に安定している上に空前の好景気で、ジャパン・アズ・ナンバーワンなんて呼ばれて、世界一の経済大国になる、終戦から僅か四十年でです。その繁栄を、金融緩和終了で持続可能性の喪失、やがてその景気も天井をつけ、好景気に陰りが見え始めた所で、とどめとも言える総量規制という規制を加えてバブルを一挙に叩き潰してしまいました。銀行の担保になっている土地の値段を暴落させ、土地に税金を加えていって、容易に売買出来ないようにしてしまったのです。
これらの事によって、日本は大東亜戦争に負けた以上の経済的な被害を受ける事になります。その繁栄の一切をぶっ壊した原因の一つが旧大蔵省の政策です。その傷が今も尚足を引っ張っている。
拓銀、長銀、日債銀、山一証券、など次々と破綻していき、日本長期信用銀行なんて、今となってはギャグみたいな名前ですが、公的資金を四兆円もつぎ込んだあげく、長銀は十億以上の持参金をつけ、ハゲタカなんて言われた、アメリカの投資ファンド、リップルウッドに買収されてしまいます。結局旧大蔵省は誰一人その事で責任を取っていません。ノーパンしゃぶしゃぶに接待されていたノンキャリたちと、接待で目立ちすぎたエリート二、三人が、目くらましとしてお茶を濁す程度でした。
こういう構造が至る所で残っている。小さな政府とは言うものの、こういう構造が表面化し難くなるようにするのが、この国での小さな政府路線の本質です。元々この国のあらゆる所に見られる特徴として手段の目的化、自己保身や組織の保身が最大の目的と化し、本来の目的を見失ってしまうというのは、責任を回避するという行為態度です。決定は責任が伴いますから、慣習に従い責任は自分には無いと逃げるパターンです。
この国での小さな政府路線というのは責任を取らなくても叩かれない構造へのシフトです。むしろ国民の不安を煽って国の権限強化が簡単に出来るようにシフトした。大分での例の教員採用試験での不正問題、これは自己目的化もいいところの腐った構造なのは間違いありませんが、これと平行して出てくる声として、国は何やってんだ!キチンと取り締まれ!!って話になる。分権化させるとロクな事が無いと言ったようなすり込みにもなる。
また竹島で日韓双方吹き上がっていますが、これを責任という所から眺めてみると、北朝鮮問題なんかもそうですが、相手国に政府が責任を押し付けているという構造です。国民の皆さん悪いのは政府ではなくて、韓国(北朝鮮)なんですと。教科書検定なんてやってるからこういう事になる。こんなもんはそれぞれの地域や学校に任せて分権化しちゃえばいちいち突っ込めなくなるわけで、そこの大本を牛耳っていながら、責任は自分達には無いというわけです。
違うだろ。政治というのは帰結主義的擁護と書きましたが、竹島問題、結果を見てみましょう。拉致問題結果を見てみましょう。結局、竹島を武力によって実行支配されちゃっているではないですか。拉致問題も解決出来ない。これは相手がどうのこうのという前に、自国の政府を徹底的に非難し責任を取らせる事の方が重要です。我々は直接、外国の政府と交渉出来ません。その為に政府がある。その為に税金を払っている。我々が直接、外国の政府に怒りを表明したって何の意味も無い。責任を持っている奴らに責任があるわけで、有利に交渉も出来ない無能な政府は役に立ってないのと同じです。そこにプレッシャーをかけなきゃ意味がない。外国に吹き上がる国民感情を利用しようとしている売国奴こそ叩く対象です。
韓国人も相変わらずの紋切り型で困った連中ですが、彼らは彼らで彼らの国の中で好きにすればいい。日本を憎もうが国旗を燃やそうが好きにすればいい。そんな所に怒りを感じても無駄です。この国のバカ政府に文句を言いましょう。
だいたい書くか、書かないかが重要なのであって、配慮すると言えば、書かないと表明する事につながる。配慮しつつ書くという論理性の無さが通るのは日本だけです。外国相手にそんな事をやっているからウソつき国家だと言われる。韓国政府が人気回復の手段としての反日カードなんだとしても、そういうつけ込む隙を与えているのは、この国の政府が無能だからです。そこを問題にした方がいい。
こういうバカな事を繰り返す頭の悪い政治家ばかりなのも、手段が目的化しているからといえます。政治家になる事が、政治家で居続ける事、目的になってしまっている。サミットや環境問題なんかの話でも、すぐに政局の話になってしまう。サミットも何のサブスタンスもありませんでしたから、他に言う事も無いとも言えますが、二言目には報道は政局の話になる。報道が紋切り型の頭の悪い報道しか出来ないからというのもあるのでしょうが、そればっかりです。政治家もその為にどうすれば勝てるかって方向にしか興味が無いらしい。政局なんてのは一番下らない手段が目的化した話です。政治の本来の目的を忘れ、政治そのものが目的化している。それがそのまま放置されるのは国民自身が同じ思考パターンを抱えているからでもある。
過去最長となる、次回へ続く!!