前回のつづきです。

やっとアメリカ依存がネタじゃなくなって、アメリカの元での権益の鍔迫り合いの話になります。

戦争に負けて戦後体制というフィクションを受け入れ、我々は悪かったというネタを受け入れる事によって戦後復興したわけですが、これが段々ネタがネタではなくなってくる。

そもそもネタとして戦後体制を受け入れたのに、あたかもそれが絶対の正義であったかのようなバカ左翼図式がずっとあって、バックフラッシュしてインチキだ!!東京裁判は茶番だ!!ってな感じになってしまいました。ハッキリ言って、どちらもネタであった事を忘れています。

ネタとして受け入れているわけですから、無前提に絶対化するのはバカげています。そしてそれを、嘘だ!インチキだ!と吹き上がるのもバカげています。フィクションなんですからそんな事は当たり前です。

まず大前提として、誰でも戦後体制を受け入れる事によって恩恵を享受していますから、否定するという事は、それは日本が戦後もう一度独立する為に受け入れた事で得た今の状態を全否定する事になる。

善悪の問題をどうこう言っても、もうすでにどうにもならないくらいそのプラットフォームの上で繁栄を享受しちゃってます。

だからフィクションだという事をどうこう言っていても始まらないわけです。そう思うのなら否定するのではなく吹き上がるのでもなく、戦略的に脱却する必要がある。

そしてアメリカが悪だと書きたいわけでもありません。嫌米でも反米でもなくて常識的な線として、アメリカに依存しながら、アメリカが言う事だからしょうがないというような感じの責任感の無さ、自立出来ないのはアメリカだけに責任があるのではないという事を書こうと思っとるわけです。

何の為に戦後体制を受け入れたのかと言えば独立する為です。独立国家として自立するという柱があった。アメリカのケツ舐め状態である現在、その事を多くの人々が忘れ去ってしまっています。そこが一番の問題です。戦後体制というのは手段であって目的ではありません。アメリカ依存も手段であって目的ではありません。

その目的を果たす為には、戦争で荒廃した直後は、戦勝国のフィクションを受け入れる以外の選択肢もなかったでしょうし、経済を発展させる為に軍事をアメリカに依存して行くというのも、再復興の為には必要な選択肢であったと思います。ネタとして面従腹背で受け入れたわけです。

この面従腹背が後に面従腹背じゃなくて本当に奴隷になって行くわけですが、これが例えば靖国の問題を解決出来ない次元に持ち上げてしまっています。

戦後靖国の公共性がGHQによって否定されたという言い方があり、左はこれを軍国主義の復活への歯止めとして賞賛し、右は他国の文化に介入する押しつけ的な改革、どこでも戦死者を祀る施設はあるはずだ、という二元論に分岐する。ここに一つの勘違いがあります。

GHQは公共性を剥奪したわけではありません。そもそも戦争に負けているのだから日本の都合のいいように改革など出来ないのは当たり前と言えば当たり前で、ある程度、占領政策に従わなきゃならない状況もあったのだろうという事を全部わきにおいて考えても、どこにもそんな文言はありません。

GHQが日本から取り上げようとしたのは、国家と明治以降の国家神道の結びつきです。即ち、脱宗教化して公共性の担保で行くか、脱公共化して宗教性の担保のままで行くかどちらかにしろという事が言われたわけです。

本来なら解体されても仕方がなかったとも言えますので、どちらかを受け入れざるを得ないのは当時としてはしょうがない部分もあったはずです。

負けてるわけですからどちらも認めてくれというのは、戦争に突っ走った精神的支柱になっていたのは確かですから、天皇も免罪し、靖国も免罪し、国民もメディアも免罪したのでは、戦前の体制の骨を抜くという事が出来ません。

骨を抜かなければ、時が来てもう一度アメリカに牙をむく恐れがあると感じているに決まってますので、出来るだけ骨を抜かなければならなかったのは当然とも言えます。負けといてヒステリックに喚いても無意味です。

天皇を利用すれば日本の統治が上手く行くという事で、天皇を免罪し、その代わりに戦前の機能を剥奪し、お飾りとして、革命の玉としての骨を抜いて囲ってしまいます。これが今のアメリカのケツ舐め図式の政府が腐っている原因にもなっている。

何度も書いてますが、近代というのは革命という脅しがなければ駆動しない。政府に緊張感は持たせられません。

日本における革命の強力なリソースであった天皇が骨を抜かれ、アメリカ依存のケツ舐め政府に囲われている状態である事が現状の閉鎖感を作り出している原因の一つです。

当然このシステムで政権交代に無意味さを感じてしまうのも当然の帰結です。政権交代しようが何だろうが、アメリカの奴隷政権が永遠に革命に怯える事無く続く事が出来るようなスキームが戦後体制の一つの側面です。

革命が有り得なければ、当然、立憲主義も機能しないし、民主制だって上手く行かない。資本主義とは名ばかりの腐敗堕落によって権益を回すという構造を放置する事になる。

メディアも戦前は戦争翼賛の旗ふり役を勤めていたわけで当然有罪に決まっているのですが、これも統治のリソースとして活用する為に免罪する。

国民も騙されていたというある種のフィクションによって免罪する。

その代わりに戦犯に責任を全部おっかぶせて天皇、メディア、国民を免罪するわけです。悪いのは軍部だったという事にして。

もちろん軍部や政治家が無能だったのは事実ですが、彼らが全部悪かった、国民は騙されていた、悪くなかったというのは、ある意味ネタだったわけです。

という事で靖国も解体してしまうと、いろいろと統治するのに面倒くさくなるという事で、条件付きでの存続を認めるわけです。GHQは脱宗教化して国家が管理する方を勧めますが、最終的には日本が決めろという事で、アメリカの勧めとは逆の脱宗教化せず脱公共化の方を取ります。なぜかと言うと、とりあえず言う事を聞いて、後でしらばっくれて戦前の靖国に戻せばいいと考えていたからです。

アメリカは戦死者を国家が祀れない状態は不自然だという事で国家管理を勧めるわけですが、日本政府はいったん脱宗教化してしまうと靖国としての機能を果たせなくなるという事をおそらく考えていたのでしょう。

それが軍国主義だとか、善いとか悪いとかって話をわきにおいて、これは明らかに戦後体制はフィクションだという事を、ネタとして受け入れて、他日をきす、いつかアメリカから自立をして、戦前のシステムに戻すべき所は戻してしまおうと考えていたわけです。

もう一度戦争するかどうかって話じゃありません。戦争で手痛い目に合っているわけですから、そんな事はやりたくないに決まっている。

戦前と言ったって暗黒時代一色だったわけではありません。戦争が泥沼化した頃は酷い状態でしたが、ある時期まではそこそこ民主制も機能していたわけです。

靖国も動員として利用していたので酷い話だった側面も間違いなくありますが、国民化しコミットメントを埋め込む為には有効なツールでもあった。

それに戦争が終わった直後は一般市民も人がいっぱい死んでいて、戦死した人がいっぱいいるわけで、そんなに簡単に思想が180度変化するという事もありませんので、一般市民の感覚としても戦死者が靖国に祀られるというのは普通の感覚でした。政府の面従腹背を別に不思議に思わなかった。その事をインチキだとか、軍国主義の復活だとかっていう感覚はありませんでした。


1945年の秋以降途絶えていた公式参拝が占領政策の緩和によって1951年に可能となるとマスコミもこれを叩くような風潮は全く無く、情緒過剰のベタベタな気持ち悪い好意的な報道をしたわけです。

当時の社会党だって、宗教のまま国家が護持すれば憲法違反になるので改組が必要だという事を言っていただけで、殉国者を顕彰するのはむしろ当然だと感じていたわけです。後のような大騒ぎはしていませんでした。

これが安保闘争やベトナム反戦などを経由して、現在のような賛成反対でまっぷたつに割れて不毛な断罪合戦に陥るわけです。要するに政治闘争のリソースになる。

政教分離の所というのがよく問題になります。これは重要な話なんですが、政治家が宗教的な良心に基づいて前に進んで行くという事は、例えば欧米なんかでは普通にある事です。だからこの次元では何の問題も無い。

しかし日本の場合、お布施をしないと地獄に堕ちるじゃありませんが、特定の候補を思考停止的に何々教だからという理由で支持してしまう事は非常に問題があります。それが政権政党にいる状態は明らかに憲法違反云々の前に手段が目的化しています。これでは民主制なんて機能するわけがない。

靖国参拝で盛り上がった小泉が思想信条の自由とほざきました。総理大臣という立場に立っている人間にそんなものはありません。それを国民に担保する側の人間だからです。政教分離とかそんな話ではない。公人私人の下らない議論も関係ない。政治家を辞めればいくらでも好きにすればいい。こういうたわけた物言いは賛成反対以前の問題です。

ある時期から戦後体制がフィクションではなくなり、戦争責任という言い方をバカマスコミが煽るようになる。ある種のストーリー日本は悪かったという事を正当化する為に、例えば強制連行によって在日の人達が日本に連れてこられたんだという逆差別によって、闘争のリソースとして利用したりする。

これは大袈裟な話で実際にそういう人がいなかったというわけじゃないのかもしれませんが、殆どが一旗揚げる為に日本に来たわけで、その事によって祖国からは祖国を捨てて日本なんかに行きやがってという差別があるし、日本でもいつ差別されて排除されるかわからない弱い立場でもあり、実際に差別もされるわけで、左翼の人達は嘘をついているけれど、左翼の人達の都合もあるだろうし、味方になってくれるわけだから悪い話でもないし、という事である種のネタに乗っかるわけですがこれがネタじゃなくなって行く。本気にする人が出て来ちゃった。

ゴミ左翼が嘘捏造を繰り返しその事が吹き上がりの断固決然バカを沢山生んじゃった。この図式もフィクションだったという大前提が消えてしまった所に大きな問題がある。

そもそも戦犯というのもフィクションなのに、最も戦犯として旗ふり役をつとめていたマスコミが免罪される為に乗っかったフィクションを忘れ、戦犯を叩いたり、天皇の戦争責任を本気で言い出すようになってくる。手打ちだった話を蒸し返して、嘘捏造までしたりと大騒ぎするようになってくる。これがある時期からのバックフラッシュを生み出してしまった。

靖国自体、そもそも戦前国家を統治する為のネタだったわけですが、それが戦後、面従腹背で脱公共化を受け入れていたのが、次第に忘れ去られ、戦後体制を本気にしてしまう人達が出て来て大騒ぎになります。

かと言って参拝すべしと言っている人が、ここまで国際問題化してしまっては、戦後体制をひっくり返すような意味合いが含まれてしまっているという重大事に気付いていない。戦後体制をひっくり返す為に必要な事は何一つしていないのに、インチキだ!!と吹き上がって大騒ぎする。

戦後レジームからの脱却とか言って、効率よくアメリカのケツを舐める方向性にシフトしようとしたバカがいましたが、それを言うなら戦後レジームからの脱却ではなくて戦後レジームの完成です。本義本懐が消えてしまっている。手段が目的化している。

憲法だって日本に作らせると、大日本帝国憲法とたいして変わらないものを作ろうとする、靖国も戦前と同じような扱いをなし崩し的にしようとする。GHQからお前らは戦争に負けているという事を受け入れているのだから、立場をわきまえろと釘を刺されるくらい、終戦直後というのは戦後体制とうのはフィクションだという事を当たり前に実感していたし、独立する為には戦後体制を受け入れなければならなかった。

押し付け憲法論をほざくアホが一時期結構いましたが、押し付け憲法論だからとかそんな事はどうでもいい関係のない話です。

押し付けられずに自分で作ったってたいした民意も無かったし、憲法を作る能力も無かっただけでバカだったから、アメリカの憲法を受け入れるしか道がなかっただけの話です。

押し付けられようがられまいが、我々の側に立憲、立国に関わる、憲法意思も立法意思もない、そこが一番の問題点です。そもそも統治権力者が立憲の意味をわかっていないたわけばかりなのですから問題点も何も論外です。

護憲は元々なんだったのかと言うと、そもそも反米ナショナリズム、保守本流の闘争のリソースでした。日本は戦後二つのルサンチマンがあって、一つは対米追従ルサンチマン、もう一つは憲法九条ルサンチマンというのがあり、少なくとも五十五年体制成立までは憲法九条ルサンチマンというのは存在せず、対米追従ルサンチマンだけでした。

共産党も含めて憲法九条を含む日本国憲法に反対する勢力までもが、朝鮮戦争などを経て、その前からアメリカの再軍備要求があるわけですが、アメリカのご都合主義的な要求、アメリカの起こした戦争で日本人が犠牲になったのでは適わない、だからアメリカのくれた憲法を逆手に取って、憲法九条を盾にして、再軍備要求をはねつけようと使ったわけです。そしてアメリカの言うなりにはならないようにしようじゃないかって事で安保条約を結ぼうという事になる。

五十年代を通じて、日本国憲法と安保条約のセットはアメリカの言うなりにならない為の道具だったわけです。白州次郎的な日本は戦争に負けたけれどアメリカの奴隷になったわけではないというのは常識というか大前提としてあった。

吉田茂スキームでは、社会党のような勢力までもが、アメリカとの交渉のリソースとして機能していたわけです。共産主義の脅威というのが切実だったので、あんまり無体な要求を突き付けると革命が起きるぞ、というアメリカへの恫喝に使えた。当然冷戦体制崩壊によって、そういう役割が左の勢力から消えるわけで、その後ピークを示ししぼんで行くのは当然なのです。

そもそも自民党というのは政策的にはずっと左派的なリベラルな再配分政策をしていたわけです。これは冷戦体制があったので、当時の西側諸国はニューディール政策的な要素が必要だったというのももちろんですが、当時の社会党なんかを利用して無前提にアメリカ依存をしなくても済むようなリソースの配置を整えてあった。社会党だってその役割をキッチリわかってやっていた。

それが段々変わって来ます。岸信介の安保改定あたりから、安保条約というのは日帝、日本のブルジョワジーがアメリカのブルジョワジーと手を携えてアジアを支配する帝国主義的図式なんだという話になって、それから段々、右と称する人間は憲法九条が自衛隊の桎梏になっている、自衛隊を外に出しさえすれば日本は一人前だっていうバカ右翼図式になり、左翼の方は憲法九条を守りさえすれば平和主義なんだというバカ左翼図式になる。本義本懐を忘れ去り、ネタがネタではなくなって、何の為の護憲なのか、何の為の安保なのか、目的を失って手段が目的化してしまう。70年代くらいまでは歴史的常識だったはずです。

国際常識的にはアメリカのケツをなめているかぎりは一人前の国であるわけがない。60年代、70年代前半くらいまでは、田中角栄政権くらいまでは、いかにして将来アメリカから自立するのか、その方法は色々あるだろうが、右も左も問わず本義本懐は同じだというのがあったはずです。それが消えてしまう。

右は右である事が目的化し、左は左である事が目的化する。自立が消えて、下らん足の引っ張り合いになってくる。

このアメリカ依存の思考停止ゲームに埋没しているのは、右も左もそうです。アメリカ依存が目的になっている。アメリカ依存の元で、アメリカに媚を売る為に軍隊を派遣し周辺諸国にでかいツラをして一人前面している。

自衛隊を出しさえすれば一人前だ?そんな風に思っている国はどこにも無い、アメリカの言うがまま奴隷としてお役に立つ事が国際貢献だとか、全然話にならない。恥さらしもいい所です。

もう一方はアメリカに軍事を全部依存しているという状況にしておけば、日本に軍隊はないという下らない論理も通せるし、アメリカ依存の元で、憲法9条を護持しているといういいわけになる。

こんなバカげた論理で、朝鮮戦争でぼろ儲けして、アメリカに基地を提供して、核の傘のもとで経済成長を遂げてきて何が平和主義だと言えるのか、こういうのは国際常識です。世界最凶の戦争国家に依存していてバカも休み休み言えって話です。

これは自立するという目的を失ってしまった事、どうせ無理に決まっているし、アメリカに依存していた方が楽じゃん、と奴隷である事を自ら望んで受け入れている事による帰結です。

アメリカから自立するという本来日本が独立国家であるというのなら当たり前に目指さなければならなかった、本義本懐を失ってしまい、アメリカの奴隷として権益の争奪戦を繰り返している今の有様は目も当てられません。とっくに三島由紀夫が自決する時に言っていた事、三島が言っていた通りになっています。

なぜ三島が自決したのか、前年の国際反戦デーで自衛隊の治安維持の為の出動をしなかった、本当は要求される可能性があった、治安出動を機に自衛隊がクーデターを起こす事によって、憲法九条も安保もアメリカの奴隷状態になっているので、奴隷状態の自衛隊から国軍になるんだ、というビジョンを掲げていたわけですが、実際治安出動がなくて落胆した三島が市ヶ谷で、アメリカの軍隊でいいのか永久に?アメリカ無しでは何も出来ない国になるぞ!と檄を飛ばしたのですが、報道のヘリに音をかき消されちゃったりもして、バカヤロー、うるさい、引っ込めと言われて、死んじゃった。

三島がやった事は確かに短絡的だったかもしれません。何も死ななくてもいいじゃねえかという風にも思う。だけど彼が感じていた絶望感は考えておく必要があります。

つまりアメリカ無しでは何も出来なくなるぞという事を言っても、それによってどんな帰結があるのかという事を想像させるのは難しく、別にいいじゃんそれでそこそこ幸せなんだしみたいな感覚が世間一般を支配していれば、死をかけて美学として無駄骨と知ってもやらないわけにはいかない状況に追い込まれてしまったわけです。

痛みや絶望があればアメリカの奴隷状態の末路は悲惨だぞという言い方にリアリティも感じるし、アメリカが悪とかそう言う事ではなくても、自立出来ない国がどういう袋小路に入ってしまうのかという事が共有出来ればいいのですが、別にそこそこ楽チンに生きられるわけで、すぐにどうこうって話ではないわけです。別にいいよ面倒くせえし、みたいな感覚を正し動機付けるにはあまりにも見通しが暗い。暗すぎる。

本当は死なないで泥まみれになっても抗い続けて生き続けてくれた方がよっぽど変わった可能性があったのは確かです。死んじゃえば単なるテロまがいの言われ方でレッテルを貼られ、何も反論が出来なくなっちゃう。

当時中曽根が防衛庁長官、佐藤栄作が首相をやっていたわけですが、キチガイがいたとか、戦後の平和と民主主義の本義をぶちこわしにする奴が出てきたとか、それぞれがそういう風に発言をしました。

しかしふざけるな、キチガイがやったという発言は余りにも欺瞞に満ちているではないかという議論を普通の人間がある程度できる状況がかろうじて残っていたわけです。当時は三島とは立場が違う新左翼なんかも、三島がアメリカや自衛隊に対して思っている思いを共有できるという前提を持っていた。

自衛隊を出さなくてはどうやって日本の国益を守ったらいいんだという風に簡単になってしまう。アメリカの要求だからしょうがないんだという風に簡単に流れて行ってしまう。

今の選択肢を考えれば他に手は無い、要求を受け入れなければ、どうにもならない状況になってしまっている事は確かです。

抗うリソースが無いし、政治家の無能ぶり、役人の劣化、国民の吹き上がりやすさ、メディアのどうしようもなさ、そういった事を考えれば今の時点だけを考えれば、受け入れざるを得ない所もある。

しかしなぜ自衛隊をアメリカの言うがままで出す以外に国益を守る選択肢が存在しないのか、要求を受け入れ続けなければならないのか、かつてはそうではなかった、そうでないような選択肢を呼び込もうとするのが保守本流の意味だった、ところが保守本流の意味も変わってしまい、小泉とか安倍とかが保守本流だとかって話になっちゃってたりする。どう考えても全く関係がありません。

エドモンド・バーグ流の保守でもないし、日本の伝統的な保守でもない。アメリカにしろ、天皇にしろ、手段が目的化して、その元での鍔迫り合いによってどうやって権益を握るかという草狩り場になっちゃっている。そして将来への展望も全然無い。

アメリカを追い出して自立しろとか言いたいわけではありません。追い出さなくとも自立は十分出来る。

つづく!!